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パロディー



あるところに、ヘンゼルとグレーテルという兄弟がいました。実の兄弟ではありません。どころか、今この瞬間まで知り合いですらありませんでした。住んでいた貧しい村から口減らしのために運悪く選ばれてしまった幼い二人、というだけで、血の繋がりなんてありません。しかしながら、口減らしの儀式として、二人は兄弟であり、兄役には「ヘンゼル」、妹役には「グレーテル」という名前が与えられるのです。それは古くからの仕来りでした。だから、文句なんて言えるはずもないのです。
そう。妹役に選ばれてしまった彼には、文句なんて言えないのです。
「……………」
「やっぱ俺言ってきてあげるって。俺がグレーテルのが、ほら、なんていうか、ねえ?見映えが良いっていうか、かわいいし?」
「……でも決まったことだから……」
「見てて可哀想。貧相」
「……………」
「あんたがいいならいいけどさ。ねえ、じゃあ行こ?とりあえず1日目を終わらさないと」
「……………」
兄役だから、というよりは、妹役に選ばれてしまったばっかりに似合わない女装をする羽目になり抉りこむような深さで落ち込んでいるもう一人の贄を心配して、珍しくも優しく声をかけている「ヘンゼル」は、伏見彰人くんといいます。1日目の儀式に必要な、白い石をバスケットにたくさん持って、ほら立って、とグレーテルの服をつまんでいます。蹲ったまま石のように動かなかったグレーテルも、ようやく顔を上げて立ちました。ずび、と赤くなった鼻をすすって、目をこすっています。
「泣いたの?」
「ないてない」
「手ぇ繋いだげよっか。グレーテル」
「いい」
有り合わせのボロ布のパッチワークでも、儀式は儀式として大切にされているのか、意外としっかりしたエプロンドレスを着込んで、項垂れながらヘンゼルの後ろをついていく「グレーテル」。中原新くんといいます。幼い二人、と先述した通り、見た目年齢は12歳くらいの二人。チビコンビだから儀式の生贄に選ばれてしまったわけではありません。決して二人揃って背が小さいからというわけではありません。多分。
伏見くん、もといヘンゼルが自分で言う通り、グレーテルはヘンゼルに比べて骨っぽくて男の子の体をしていますし、ヘンゼルに比べたら顔も可愛くありません。そりゃまあ可愛いか可愛くないかと言われると可愛い寄りではありますが。今なんて、涙と鼻水で若干煤けて汚い始末です。けれど、真面目で誠実な節のあるグレーテルは、みんなのためにちゃんとやらなければならないと、恥ずかしくてたまらないはずのドレス姿で、とぼとぼと歩きます。ヘンゼルはそれを見て、自分だったらあの程度特に恥ずかしくもなければむしろ着こなしてランウェイを歩いてやるけれど、その代わり儀式なんかクソ食らえだと思ってばっくれるだろうから、グレーテルがこいつでよかった、と思いました。
「おい、グレーテル」
「……グレーテルじゃない……」
「だって俺、名前知らないし。いいじゃん、グレーテルで。とっとと終わらせて帰ろ」
「かえ、いや、帰れないだろ?口減らしの、村から追い出す儀式なんだから」
「森の中に家があるらしいよ?魔女が住んでんだって。それを追い出してそこに住めばいい」
「まじょ」
「そ。お菓子の家の魔女」
こわいねえ、と嘯きながら、ヘンゼルは白い小石を撒きます。口減らしの儀式、村から人を減らすための追い出しの仕来り。1日目は、バスケットいっぱいにつめた白い小石を撒きながら歩いて、夜になったらそれを辿って村まで戻ってくる。村でパンをもらって、2日目はパンを撒きながら歩いて、夜になったらそれを辿ってまた戻ってくる。しかし、パンは鳥が食べてしまうので、恐らく森から戻ってくることはできないだろう、という決まりです。誰がそれを決めたのか、それになんの意味があるのかは、誰ももう知りません。そして、もしも万が一森から村に戻ってきたとしても、兄弟役の二人の居場所はもうどこにもなく、村に入れてもらえないのです。ぱらぱらと白い石を通り道に落とすヘンゼルが、あんまり遠くに行くと夜が面倒だから、と適当なところでバスケットの石を全部捨てました。グレーテルは、全部無くなるまで行かなくちゃいけないんじゃあ、と言いましたが、減らず口ヘンゼルは、全部無くなったじゃん、とバスケットの中身を見せます。そりゃそうです。その辺に散らかしたんですから。
適当なちょうどいい切株を見つけたヘンゼルとグレーテルは、そこに腰掛けて、夜を待つことにしました。膝を抱えてため息をついているグレーテルに、ヘンゼルが話しかけます。
「グレーテル、なんか悪いことしたの?だからこんなことに選ばれたんじゃないの」
「してない」
「ふーん。俺は立候補」
「立候補!?」
「そー。魔女の家の方が今の家より住みやすそうだなーって思って」
「……ヘンゼル、肝座ってるな……」
「うん。俺のこと止めてくれる人もいないし、ちょっと冒険してみたかったし」
「……俺は、よく分からないけど、なんかこういうことになってて」
「うん」
「でも、誰も止めてくれなくて、だから……まあ、いいのかなって」
「嫌じゃなかったの?」
「やだよ……こんな格好……」
「いや、そうじゃなくて。村から追い出されるのが」
「……なんで?」
「なんでって。森の奥まで行ったら危ないじゃん?狼とか熊とか。でも隣村までは森を抜けないと行かれないしさ」
「ああ、うん……うん、まあ、それはいい」
「死んじゃうよ」
「……ヘンゼルは死にたかったのか」
「いや全然。生き残る気満々」
「じゃあ、ついていくよ」
不思議なやつだなあ、とお互いに思いました。ついてないやつだなあ、とも、執着のないやつだなあ、とも思いました。口には出しませんでしたが。
だんだんと、日が暮れていきます。ヘンゼルとグレーテルはいろいろな話をして、グレーテルが少しずつ笑うようになりました。薄暗くなってきた頃、ヘンゼルのお腹が鳴って、グレーテルが困り顔をしました。食べるものなんか持ってない、と。
「あ、大丈夫。あるある」
「……あっちゃだめだろ、何も持ってきちゃいけないはずなんだから……」
「半分こしてあげる。俺がお兄さんだから」
「同い年だろ」
「でも俺はヘンゼルだし」
「……………」
不服そうな顔でしたが、ヘンゼルが隠し持っていたビスケットを、グレーテルは有難く受け取りました。硬くて湿気っていて、あんまり美味しくはありません。グレーテルはそれでも、もともと食べていたものよりはマシだ、とがふがふ頬張りましたが、ヘンゼルはどうも違うらしく、もっと美味いものが食いたい、と、不満げでした。悪巧みのヘンゼルと、泣き虫のグレーテル。石を辿って帰る途中、ヘンゼルがぽつりと言いました。
「お前が狼に齧られてたら俺は走って逃げるから、お前もそうしろ」
「……やだよ」
「なんでだよ。逃げてよ」
「俺、足遅いし」
「はー。じゃあお前囮な」
「うん……」
「うんじゃねーよ。どんくさグレーテル」

2日目。パンを千切って歩く道、ヘンゼルが声をあげました。
「グレーテル、お前さ」
「なに?」
「いじめられてたんだな」
「は」
「今生の別れだってのに、俺はまあみんな断ったからだけど、お前んとこにも誰も来なかったじゃん。家族いなかったわけじゃあるまいし」
「……母さんは、父さんについて街に行った。俺は親戚の人と暮らしてて、面倒見てもらってて」
「面倒見てもらってねーじゃん。嘘つき」
「う、嘘じゃない」
「あげる」
はい、と突き出されたパンに、だらりと涎を垂らしかけたグレーテルは、はっと我に返って頭を振りました。これは儀式に使うもの、だから食べちゃいけない。それに、いじめられてなんかいない。確かにちょっと怖かったり嫌だったりはしたけれど、お腹も空いてたけど、それは自分が言われた通りにできなかったからであって、仕方のないことなのだ。そう、何度も繰り返した自分への言い訳を頭の中で鳴り響かせたグレーテルは、悪い子のヘンゼルに、ちゃんとパンを撒かなきゃだめだ、と注意しようとしました。
「いらないならいいや」
「あああ!?なにっ、なにしてるんだ!」
「お前が食べないなら捨てる」
「食べるっ、じゃなくてっ、これはそう言うために使うものじゃなくって、」
「よく泥水を吸いそうなパンだ」
「あー!」
木の根っこの近くに溜まった泥水に、まだ長く残ったパンを近づけたヘンゼルに、グレーテルが悲鳴をあげます。咄嗟にそれをひったくったグレーテルは、足をドレスの裾に引っ掛けてごろごろとすっ転びました。パンだけは死守したグレーテルですが、膝が擦りむけて血が出ました。そういうことはしちゃいけないんだー!と叫んだグレーテルに、撒くぐらいならお前が食べたらいいのに、とヘンゼルは呆れ顔をしました。
「だ、だめだ。ちゃんとやらないと」
「誰も見てないよ?クソ真面目か」
「ちゃんとやるって約束したんだっ」
「誰に?お前のこといじめてた親戚?」
「いじめられてない!」
「うるさ。いいから食べなよ」
満足なもん食ってないからひょろひょろなんだよ!とヘンゼルに突き飛ばされたグレーテルは尻餅をつき、ちぎったパンを口に突っ込まれました。窒息の危険があるので、他のみんなは真似してはいけません。目を白黒させていたグレーテルは、それでもなんとか飲みくだし、自分の上にいるヘンゼルを押しました。びくともしませんでした。
「どけ、よお、ばか、へんぜる」
「うける。どかせないの?」
「重い!」
「あ?誰が重いんだよ」
見た目年齢は小学校6年生程度ですが、中身は恐らくそれなりの二人。そこに差異がある理由はまあ中原くんの女装の可否を鑑みてのことなのですがそれは置いといて、パンはとりあえず無事なところに避難させた二人は、取っ組みあっての喧嘩になりました。しかしまあヘンゼルが強いこと強いこと。ひっぱたかれ蹴っ飛ばされ弾き飛ばされ抓られた挙句に椅子のように下敷きに踏んづけられたグレーテルは、悲しいことに泣きながら謝る羽目になりました。
「お兄ちゃんのいうことを聞きますって言え」「ぉ、おに、おにいちゃんの、いうっ、いうこと、ききますゔっ」
「もう逆らうなよ」

当面の目標としては、魔女の家を探すこと。もしかしてもしかしたら、運良く隣町まで抜けられるかもしれないから、そうしたらそこに匿ってもらうこと。そう話し合った二人は、お腹をくるくる鳴らしながら、交代で少しずつ眠っては起きて、疲れた足でとぼとぼと、森の中をさまよい歩いていました。二人して寝込んでいたら、もしも野生の動物に襲われた時、相手を囮にすることすらできません。緊張と不安と疲労で、先にグレーテルがめそめそし始めました。それを揶揄して笑うヘンゼルも、顔をしかめて嫌な目をしているのは、確かで。
だから、二人がそれを見つけたのは僥倖と言えました。朽ちかけの馬車。積荷が空でもその中に隠れて休むことができる、と幌の中に潜り込んだ二人は、数秒後、がたがたと我先に飛び出してきました。
「ヘンゼル!ヘンゼル!」
「うるさい!わかってる!」
「だっ、だれっ、だれかいたっ」
「グレーテルうるさい!」
「ふぎゃあ!」
突き飛ばされたグレーテルは木に頭をぶつけて目を回しました。気持ちよく気絶して涎を垂らしたグレーテルを見たヘンゼルは、その辺から木の棒を拾ってきて、幌を開けました。この森の中で、あれだけ騒いで飛び出して来ないのならば、もう満足に動けるような状態ではないのだろう、と。暗い中を覗けば、案の定。そこにあったのは、白骨でした。食べられるものはなさそうだ、とざっと見回したヘンゼルは、幌を下ろしてグレーテルを引きずりその場を離れました。この場所に肉があると覚えた野生の動物に見つかることは得策ではないからです。土まみれになったグレーテルを足元に転がして顔を上げたヘンゼルは、動きを止めました。
「……うま……」
鞍付きの馬。恐らくは、あの馬車を引いていた馬なのでしょう。余程懐いていたのか、主人の死を知らないのか、もう繋がれてもいないのに遠目に馬車を見ている馬に、ヘンゼルは近づきました。人馴れしているようで、ヘンゼルが側に寄っても、馬は逃げたりしませんでした。毛並みはぼさぼさで、疲れているようでしたが、ヘンゼルが伸ばした手を唸ることもなく受け入れた馬は、頭を下げました。痛んだ手綱を引いたヘンゼルは、グレーテルの近くまで馬を連れて行きます。
「グレーテル、起きろ」
「ぐえ」
「足が見つかったぞ!」
一人乗りの鞍に、二人で無理やり収まって、安定感のないグレーテルを前に固定するような体勢でヘンゼルが手綱を引きます。走らせる程の技術も無ければ体力もありません。ただそれでも、自分たちで歩くよりはマシでした。
薄暗い森の中。日が暮れてしまう前に、土まみれで空腹で顔色の悪い二人は、古い大木の穴に潜り込みました。馬は木に一応繋いで、しかしグレーテルが結び目はわざと緩くしたので、ヘンゼルは鼻を鳴らしました。戻りたいかもしれない、無理に連れて来ちゃったのはこっちだ、と正論を言うグレーテルの顔には、本当ならやっと見つけた足を絶対に逃がしたくない、とくっきり書いてあります。
「いざとなったらバラして食うからな」
「……なんてひどいやつなんだ……」
「それが嫌ならついてくるな」
「……………」
そんなことできるわけがないだろう、とグレーテルが小さく小さく溢しました。それは、自分一人にされることへの不安と、ヘンゼルを一人にすることへの不安が、綯い交ぜになった言葉でした。

次の日の朝。空腹だからなのか疲れているからなのか元々なのか、寝汚いグレーテルを叩き起こしたヘンゼルは、彼を馬に乗せて再び森の中を彷徨い始めました。従順な馬は、勝手知ってると言った様子で、道のない森の中でも歩きやすい辺りを進んでいきます。しばらく行った先で、ヘンゼルが目を細めました。
「……グレーテル、鼻詰まってる?」
「……んあ……?」
「甘い匂いがする」
「……そんなんどこから……あ、ほんとだ」
「魔女の家かな」
「……………」
一瞬明るくなったグレーテルの顔が、ヘンゼルの溢した「魔女の家」の言葉に、ずんと重くなりました。人間とは違う種族である魔女と、共生できるならば、もっと昔から魔女と人間は和解しあって生きてきたでしょう。魔女は人間を実験動物扱いしたり煮たり焼いたりするので、数で上回る人間からは迫害されているのです。しかしヘンゼルは、魔女の家があったら魔女を追い出して自分が住まおうと画策しています。グレーテルには、そんなことできっこない、それこそ殺されてしまう、としか思えませんでした。今更だけどやっぱり魔女の家とか無謀なことは冗談だったんだよな?と努めて明るく問いかけたグレーテルは、ヘンゼルに睨み上げられて震えながら縮こまりました。椅子にされた恐怖が蘇ったようです。
「とりあえず行ってみよう」
「い、いやだ……魔女は人を食べるんだ……」
「俺だっていざとなればお前のことを食べる」
「ヒッ」
「最悪ね。最悪。ほんとに最終手段として」
そんな選択肢もなくはないよね、と悲しげに微笑まれて、グレーテルの背中は汗でびしょ濡れになりました。魔女に殺されるのと、目の前のヘンゼルに解体されて食べられるのと、どっちの方が恐ろしいのでしょう。今のところはヘンゼルのような気もしました。
空腹の勘と鼻を頼りに、腹ぺこでふらふらのグレーテルが乗った馬を連れたヘンゼルは、とうとう魔女の家を見つけ出しました。何故グレーテルは自分で歩かないのかって、グレーテルを歩かせた方が遅い上に、木の根っこに足を取られて思い切りこけたことが一度や二度ではないからです。はてさて、どうしてヘンゼルにはそこが魔女の家であると断言できるのか。それは至って簡単、現実には有り得ない材料で家が作られていたからでした。屋根の瓦のように見えるのは、艶やかなチョコレート。煉瓦仕立てに積み上がっているクッキー。淡い色に濁る窓は飴細工。ホイップクリームにマシュマロ、ウエハース、フルーツサンド、金平糖、ゼリービーンズ。鬱蒼と茂る木に囲まれた森の中とは思えないほど、そこはきらきらと輝いて、甘い匂いを辺り一面に撒き散らしていました。一定の距離をおいて、それ以上は近づきたくないとばかりに足を止めた馬に、ヘンゼルの確信は強まる一方でした。さあ、この家の主人をどうしたものか、と考えるヘンゼルを横目に、グレーテルが馬からするりと降りました。
「グレーテル?」
「……………」
「おい、グレーテル、ねえってば」
「……………」
ぼんやりと虚ろな目をしたグレーテルは、浮いた足取りのままお菓子の家に寄って行き、壁にくっついていたクッキーを剥がしてさくさく食べ始めました。ヘンゼルが呼び止めても反応はなく、服を引っ張っても、腕を引っ張っても、頭を叩いても、何も言わずにもそもそと頬張り続けています。成る程、とヘンゼルは納得しました。この家は紛れもなく餌であって、引っかかったかわいそうな獲物を魔女がおいしくいただくまでの時間稼ぎをする罠が当然張られているわけで、グレーテルはその罠にまんまとかかっている、と。いくらお腹が空いていても、グレーテルの性格として、怯えてヘンゼルの背中に隠れることはあっても、自分から馬を降りて無言で貪り続けることは有り得ないでしょう。恐らくこの罠は一人用で、グレーテルが引っかかってくれたからヘンゼルは助かっているだけで、本当に生き延びたいのならば、ここにグレーテルを一人置きざりにしてまっすぐ逃げればいいのだと、聡い彼には分かっていました。けれど。
「……家、欲しすぎるよな……」
グレーテルを残して自分だけ逃げるなんて、という綺麗事はさておき、雨風を凌げて野生動物からも身を守れる家が、ヘンゼルにとっては喉から手が出るほど必要でした。ここでグレーテルを上手く使ってどうにかやって、魔女をブチ殺せば、もしくは魔女を自分の言いなりにさせられれば、この先の展開は安泰であることが確約できます。それがいい、そうしよう。一呼吸でそれを決めたヘンゼルは、一応罠にかかったふりをしておこうと、グレーテルの隣に座りました。かわいそうになあ、と誰に聞かせるでもなく零したヘンゼルは、もしもグレーテルも一緒に無事でこの家を手に入れられるならそれはそれで幸せな結末というやつなのだろう、とぼんやり思います。虚ろな目で、えづいて吐きそうになりながら必死に口にクッキーを詰め込んでいる、彼を救ってくれる人間がついに現れなかったこの世界では。
グレーテルが三回は吐き戻しながらそれでもクッキーやチョコを頬張り続けて、しばらくした頃。家の扉が静かに開きました。まるで自分の意思のない動きで、べたべたと四つ這いになって扉に近づいたグレーテルが、べしゃりと潰れました。背中が動いているから呼吸はある、ということを確認したヘンゼルは、一番武器になりそうなスティックキャンディーを構えて、壁に張り付きました。グレーテルが倒れているのは、扉の外側。家の中に引きずり込みたいのなら、まだ何かしらのアクションがあるはず。予想通りにグレーテルへと伸ばされた手に、ヘンゼルはキャンディーを振りかぶりました。
「っい、ったあ!なに!誰!」
「死ね!」
「痛い!痛い痛い痛い!めっちゃ物理!待って待って!待ってって言ってるでしょ!」
「!」
崩れ去って粉になったキャンディーに、ヘンゼルはグレーテルを引きずって逃げ出そうとしました。武器が無いのでは勝てるわけもありません。ばらばらと湧いてきたボール状のチョコレートを蹴り飛ばして踏み潰し無理やりに出て行こうとするヘンゼルに、魔女であろう人影はわあわあと騒がしく文句を言いました。
「やめてよ!中原くんを連れて行かないで!やっと見つけたんだから!」
「っ」
「じゃあ自分だけでも助かろうと即座に判断すんなや!最後まで協力しろ!」
邪魔なグレーテルを放り出して扉まではあと一歩、というところで、水飴のようなものに足を絡め取られたヘンゼルは動きを止めざるを得ませんでした。整った顔面の真顔は得てして恐怖を感じさせるもので、ヘンゼルの射殺す視線に魔女はしどろもどろしました。
「うわ怖……なんなの……俺の知らない人に俺の夢で睨みつけられてる……」
「……夢?」
「そうだよお、中原くんが似合わない女装してる写真と中原くんのお母さんからもらった中原くんの乳歯を枕の下に入れて、2ヶ月ぐらい試してようやく望み通りの夢が見れたのに。君だれ?」
「ナカハラって誰?」
「え?」
「えっ?」
閑話休題。休戦中、お互いに説明を述べて。
「じゃあここはお前の夢で、現実じゃないってこと」
「そう。寝る前に中原くんにグリム童話集も読み聞かせちゃったから、ちょっと引きずられてヘンゼルとグレーテル仕立てになっちゃったみたい」
「……………」
「疑わしいって顔に書いてある……」
でも本当だよ、と魔女、男ですがまあ名称としてお菓子の魔女、は腕を組みました。夢の中でぐらいロリショタエディションの恋人を楽しんだって良くない?だの、なにを間違えたら君みたいな合理的かつ他人を蹴落とすことを物ともしない悪魔まで召喚しちゃうわけ?だのとうるさかったのですが、ヘンゼルは黙って無視しました。ここがお菓子の魔女の夢の中だったとしても、ヘンゼルにもグレーテルにも生きてきた過去があるのは事実で、村に帰れないことは同じで、解決策の鍵はお菓子の魔女が握っていることは変わらないのです。なので、ヘンゼルの行動の方向性としては揺らぐものはありませんでした。
「別にグレーテルがどうなろうと俺には関係ないんだけど」
「……中原くんかわいそう……俺の夢の中でもよう知らん人の撒き餌にされてる……」
「家が欲しいの。こいつあげるから、ここちょうだい」
「いいよー」
でも、もう一芝居付き合ってくれない?そうウインクしたお菓子の魔女に、ヘンゼルは嫌そうな顔で了承の意を示しました。

「は」
グレーテルが目を覚ますと、ふかふかのベッドにあたたかな布団、もふもふで手触りの良いクッションに囲まれて、甘い匂いがしました。飛び起きたグレーテルは、隣にヘンゼルがいないことを知ると、顔を青くして震え出しました。魔女の家を見つけてから、その後の記憶がないのです。へんぜる、と小声で呼んだグレーテルは、自分が服を着替えさせられていることに気づいて悲鳴をあげました。ついでにちょっと涙も出ました。ボロボロで土汚れだらけのちゃちなワンピースではなく、真っ白なシャツに濃紺のリボンを襟元に巻かれ、腰にもリボン、前開きでパニエ入りの膝上丈のワンピース、中にはフリル付きのショートパンツにレースと編み上げリボンで飾られたニーハイソックス、とさっきまでとは比べ物にならない格好をしていました。むしろこの格好では森になど出られません。5秒で引っかかって布が切り裂けて終わりです。
おろおろしながら涙目を拭って、グレーテルは恐る恐るベッドを降りました。部屋を出ると、長い廊下。突き当たりは開けていて、そこに行くまでも扉はたくさんありましたが、グレーテルはまず真っ直ぐ進んでみることにしました。壁にひっつくようにして、亀のような歩みで廊下の先をようやく覗き込んだグレーテルは、かけられた声に飛び上がって驚き、しゃがみ込んで丸くなりました。
「おい」
「うあああごめんなさい食べないでください!ひっ、い、痛いのは嫌です助けてください!」
「……俺なんだけど」
「……へっ、ヘンゼル……?」
「そうだよ。お前のせいでこのザマだよ、助けろ」
「えっ、ヘンゼル、どこにいるの……」
「右。まっすぐ、下。格子があるだろ」
ていうかなにその格好?と笑ったヘンゼルの声は、グレーテルの膝あたりから聞こえました。低い格子には鍵がかかっていて、しゃがみ込まないと覗き込めない高さでした。中は暗く、腹が減った、と呟いたヘンゼルの声は反響して聞こえました。涙声で、どうしようどうしようと唱え続けるグレーテルに、ヘンゼルは呆れたように言いました。
「俺から食べるってさ」
「……へ……」
「俺の方がお前よりもおいしそうだから、俺から食べるって。魔女が言ってた」
「……食べ……」
「そのために俺を太らせたいらしいから、お前はそれまで家事労働に使われる。俺が終わったらお前。分かった?」
「わ、わか、わかんない、へんぜるっ」
「分かれよ。こうなってるんだから」
がしゃがしゃと格子を揺らしたグレーテルに、ヘンゼルはうんざりした顔で応えました。そしてついには泣き出したグレーテルに、ヘンゼルは溜息をつきました。こうなることを知っていて、格子の隅にキャンディーの目玉がついていることも、チョコレートの耳が付いていることも、隠れて盗み聞いているお菓子の魔女の顔まで想像して、全てに嫌気が指しましたが、とりあえず従っておかないと今の快適な状況を手放すことに繋がりかねないので、罵声は飲み込みました。言うことを聞いておけばなんとかなるのだから、と。
「グレーテル」
「ひっ、ひぐ、ぅ、うぅ」
「おい。俺を殺したいのか」
「ゔ、っやだあぁっ」
「じゃあちゃんと言うこと聞け。あのお菓子の魔女は目が悪い。俺がなんか上手くやって騙しとくから、お前はその間に鍵を探せ。そしたら逃げるぞ」
「か、かぎ」
「骨みたいじゃ食う気も失せるだろ。細いふりして時間稼ぎしといてやるよ」
「お、俺が代わりにそこに入って、」
「だから鍵かかってるっつってんじゃん、鍵」
お前が頑張るしかないんだよ、と格子の隙間から伸びてきたヘンゼルの指を、グレーテルは握りました。自分が彼を助けなくちゃならない。森でたくさん救ってもらったように。泣いてなんかいられない。ぐしぐしと目を擦ったグレーテルを、ヘンゼルが笑いました。
「お前、そういう格好似合わねえなあ」

グレーテルは、お菓子の魔女の召使いになりました。お菓子の魔女は、腰の曲がったしゃがれ声の老婆でした。グレーテルはお菓子の魔女のために、掃除をして、料理をして、汚れた服は言われた通りに着替えて、薬草を煎じるお手伝いをして、ヘンゼルに食べさせるための大量の煮炊きをして、文句ひとつ言わず従いました。その合間合間に、必死になって格子の鍵を探しました。ヘンゼルの言う通り、お菓子の魔女は目が悪く、ヘンゼルが格子の隙間から差し出す棒切れや食べ残しの骨を触っては、グレーテルにもっとたくさんの料理を作るように言いました。ヘンゼルはそれを全て食べているふりをして、お菓子の魔女を騙し続けました。ヘンゼルが閉じ込められている格子の鍵は淡い青色で、飴細工で出来ているようでした。グレーテルは部屋の中の至る所を探しましたが、一向に見つかりません。あとは、お菓子の魔女が持っているとしか考えられません。しかし、本人を探る勇気はどうしてもグレーテルにはありませんでした。
「早く出せ、狭いんだぞ」
「で、でも、ヘンゼル、どこにも鍵がなくて」
「もう魔女が持ってんだよ、絶対。がんばれグレーテル」
「無理、無理無理っ」
「がんばー」
能天気なヘンゼルは、グレーテルが作った大量のポトフを嫌そうにつつきながら、ひらひらと手を振りました。めそめそしているグレーテルの耳に、魔女が自分を呼ぶ声が聞こえます。今日は何をさせられるのでしょう。昨日は、鶏を解体させられました。一昨日は、煎じ薬に使うからと毛虫を集めさせられました。涙ながらに必死のグレーテルは、自分が辛そうな様子を最高に興奮しながら楽しんでいる誰かさんに気づいていません。どころか、嫌だ嫌だと言いながらもやるしかないので、生き抜く力的にはスキルアップしていることにも気づいていませんでした。そこにもし気づいていたならば、この家を飛び出して森で生き抜こうとするはずなのですが、いかんせん残念なことに、グレーテルは視野の狭いタイプの人間でした。
毎日毎日、魔女の手伝いをして、ヘンゼルに大量のご飯を持って行って、彼が吐く嘘がばれませんように祈って、隙を見て鍵を探しては見つからずに無駄骨を折って。いつ魔女の気が変わって、もうヘンゼルを食べてしまおうとその手が伸ばされることか、戦々恐々とする日々に、グレーテルはじわじわと追い詰められて行きました。いつしか、彼は涙をこぼさなくなり、いやに従順になり、ヘンゼルの言葉にもこくりこくりと頷くだけで、言葉を失いました。がんばれ、といつも通りに声をかけて、魔女の言いつけ通り木の実を集めに向かったグレーテルの背中を見送ったヘンゼルは、鼻で息を鳴らしました。体を反転させて、グレーテルからは見えない側の壁を横に引いて、四つ這いになって潜れる程度の扉を抜ければ。
「どうするの、あれ」
「んー、そろそろネタバラシしてあげよっかなあ」
「どう見てもギリギリでしょ。鍵の手がかりぐらいあげたらいいのに」
「錠前はつけたけど鍵の方はもう食べちゃったからなあ」
どうしよっかなあ、とチョコレートで出来たミニチュアのお菓子の魔女が、かたかたと揺れて喋ります。ぱちぱちと暖かな火を揺らす暖炉に肘掛付きのふかふかソファー、二人並んで横になれるサイズのベッドに、ずらりと本が並んだ棚。マシュマロの浮いたココア、抱き心地のいいクッション、淡く音楽を流す蓄音機。ヘンゼルは、グレーテルに嘘をついていました。狭いだの暗いだのと文句を言っていたのは、グレーテルに発破をかけるため。魔女に協力する交換条件として、ヘンゼルはこの場所を与えられていたのです。グレーテルが万が一にも気がつかないよう、鉄格子がある部屋にグレーテルが入ってきたら、ちりちりとベルが鳴って知らせる親切仕様。うんうんと唸りながら机の上をうろうろしているチョコレートを摘み上げたヘンゼルは、なんでもいいから早く自分をこの茶番から解放してくれ、と心底思いました。
「分かった分かった、じゃあそろそろネタバラシにしよう」
「あとは二人で仲良くやりなよ」
「そうする!」

お菓子の魔女は、グレーテルの泣き顔を見ることが大好きでした。それは自分にしか見せて欲しくないものであって、自分以外のことで感情を揺さぶってほしくなくて、だからグレーテルを絶望に突き落とすのは自分こそがやるべきだと心の底から思っています。その後に掬い上げて甘やかすことまで含めて、全部。
その日は、いい天気でした。老婆はグレーテルに薪割りを言いつけ、自分は研究室に篭っています。汗を流し薪を割ったグレーテルは、太陽の高さを見て、そろそろ昼飯の準備をしないとヘンゼルがお腹を空かせる、と家の中へ戻ったのです。台所に向かおうとしたグレーテルは、視界の端に映った老婆の引きずるローブの裾を見て、足を止めました。彼女の向かった先は、ヘンゼルがいる鉄格子のある部屋。足音を立てないように後を追ったグレーテルは、壁に隠れて聞き耳を立てました。
「ヘンゼル。指をお出し」
「はい」
「……いつまで経っても肥えない子だ。食事が悪いのか?」
「体質じゃない?」
「もういい。待ちきれない、食べてしまおう」
「え?」
「!」
いつも通りに減らず口を叩いたヘンゼルの、呆気にとられた声。魔女の唱えた呪文で、格子は竃に変わりました。囂々と炎が燃える音と、溶けて落ちた飴の錠前。弾かれるように壁から出たグレーテルは、魔女を突き飛ばして、閉じかけた竃の扉に一直線に飛び込みました。
「ヘンゼル!」



「なーんちゃってー!ドッキリだーいせーいこーう!」
「……あれ?」
「……ん?中原くん?」
「グレーテル?」
てってれー、と間の抜けた効果音と共に隣の部屋から出てきたお菓子の魔女とヘンゼルの目の前に広がるのは、突き飛ばされて砕けたクッキーで出来た老婆の残骸と少しだけ開いている竃の扉、だけでした。お菓子の魔女が期待していた、悲しみに打ちひしがれて泣くグレーテルの姿は、そこにはありません。驚かせようと隣の部屋に隠れていた二人は、この部屋で何が起こったのかを実際に見てはいませんでした。笑顔が残る顔のまま、きょと、と周りを見回したお菓子の魔女に、ヘンゼルが溜息をつきました。この魔女は、グレーテルからヘンゼルへの依存の重さに、思い至らなかったのだろう、と。たった一人虐げられてきて、村から追い出され爪弾きの生贄にされた、かわいそうなグレーテルと一緒に歩いてきたのは、今生ではヘンゼルであったのに。なにがあっても自分が一番に選んでもらえると、自分以外のものに対して依存することなどないのだと、この魔女は思っていたのだろうなあ。ヘンゼルはそう思い至って、少しずつ現実を咀嚼する男を見上げていました。しばらく呆然と、竃を見つめていたお菓子の魔女は、小さく小さく、呟きました。
「……もう一回、やり直そう。中原くんが、今度こそ、幸せになれるように……」



何度目の改変になるか、もう彼は覚えていませんでした。現実では自分を認識できなくなってしまった、かわいそうで愛しい恋人のために。せめて自分の夢の中でくらいは、在りし日の笑顔で笑って、幸せに暮らしてもらうために。知らない人間が何度も介入してきては、自分の理想を壊し、踏み躙って去って行ったとしても。ただ、夢でもいいから、愛する人の幸せを願って、彼は世界を繰り返しました。
いつかまた、二人で笑い合える日が来るのだと信じて。願わくばそれが、永遠のさようならの前に訪れることを。



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