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聞き齧り



人を食べたら人じゃなくなるから。俺は人でいたいから。自分は人間なんだと思っていたいから。そのためならなにに頼ることも辛くないから。死ぬことだって怖くないから。そう思っていたんだ。
思って、いたんだ。

幼い頃からずっと鎮静剤が傍らにあった。それを打ってさえいれば食欲は抑えられるから、肘の内側が注射の跡だらけになることなんて気にならなかった。ただ、薬に頼り続けて生きて行くことは出来なくて、いつか人を食べなければならないことは中学生の時に親に聞かされていた。そんなの当たり前だ、だってどう足掻いたって俺は人間じゃないんだから。人を食べたことがないからあの禍々しい捕食器官が生まれていないだけで、人間の振りをしていられるだけで。
もしも鎮静剤を打ち続けて生きて行こうとするなら、いつか必ず薬より飢えが勝って、狂ってしまうんだと聞いた。飢えに負けて人を手にかけてしまったら、きっともう元には戻れない。だったら死んでしまってもいいんじゃないかと思った。そういう運命なんだろうなって受け入れちゃったら、それはそれでいいんじゃないの。そんなことを妹に告げれば、同じように薬を使いながらも自分の体に向き合って少しずつ人を食っている彼女は泣いていたけれど。だって、人殺しになってまで生きていたくなんかないよ。それなら相手が死んでりゃ食ってもいいんじゃないのとか、そういう話でもないんだよ。なんだって俺は人じゃないわけ。俺だって友達と一緒に飯食って、夜まで騒いで、食われる側の立場として怯えてたかったよ。薬が切れそうな瞬間に、周りの全てが御馳走に見える感覚なんて、知りたくなかったんだ。
「有馬?」
「……ん、ごめ、なに?」
「ううん。顔色悪いかなって」
「そっかなあ」
「最近ああいうニュース多いよね」
隣で心配そうに俺の顔を覗き込んだ弁当が指差した先には、俺の同族が人間を食い散らかしたニュース。この辺も治安が悪くなってきたのかな、早く機関の人が対処してくれるといいね、と目を伏せる弁当は一人暮らしで、あまりセキュリティのしっかりしてない家に住んでるから、不安もあるんだろう。すぐ隣で頬杖ついてる俺だって、鎮静剤が切れたらきっと真っ先に弱っちそうなお前のことを食うんだろうよ。なんてことをぼんやり当たり前のように考える自分が、恐い。薬はさっき打ったばっかりだけど、今日は効きが悪いのかな。
それとも、もうそろそろ、薬じゃ抑えられなくなってきてるのかな。
「大丈夫だろ、この辺は共喰いとか縄張り争いとかも昔からあんまりないしさ」
「有馬は喰種に会ったことあるの?」
「……んー」
「見た目にはただの人と変わりないんでしょ。俺の実家の方にはいなかったから」
「変わんねえよ、だから怖いんだろ」
「……ただ食べるものが違うだけなのにね」
ぼそりと零された言葉に、涙が出そうだった。うん、って言っちゃいたかった。お前ら人間しか食べられないだけで、喰種にだって家族はいるし生活はあるし、笑っていたい、幸せになりたい。なのに、どうしてどうしようもなく別物なんだろう。ここと比べたらはるかに田舎から出てきたばかりの弁当はきっとまだ喰種の恐ろしさを知らない、だからこんなこと言えるんだ、って思うけど、それでも嬉しくて。
これまで何度も、友達や恋人に自分がなんなのかを教えてしまいたくなることはあった。でも言えないんだ、自分のことを食うような種族と仲良くしていられるわけがない、俺はまだここにいたい。鎮静剤が効かなくなるその日まで、人として生きて死にたい。いくら人と同じ食べ物が食べられなくて一緒に飯食いに行く度にこっそりトイレで全部吐き戻してても、年を重ねるごとに鎮静剤を打つ頻度が増えても、体が持たないからって半非合法のサプリに手を出してても、それでもまだ。諦めが悪いと罵り詰られようが構わないから、人から見ても喰種から見ても歪んだ立場に立っているんだと分かっているから。
このままでいたい、なんて些細な理を捻じ曲げる願いをこの日まで受け入れてくれた世界に感謝すべきなんだろう。それでも、いざその瞬間が巡ってくれば吐き出したくなるのは呪いばかりで。

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