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めりーばっどえんど




冬が終わると、春が来る。暑くなって、また寒くなって、再び暖かい陽気が眠気を誘うようになった頃。航介は背が伸びて、まるで昔から村人の一員だったかのように、この場所に馴染んでいた。俺も獣の体に慣れて、喋れないことが普通になりつつあった。これはこれで、なんて思いつつもあった。それは、野生の生き物に有るまじき、油断だった。
村の人たちは、狼に対しての警戒意識が薄いらしく、旅の人が連れて来た大きめの犬、くらいにしか俺のことを捉えていなかった。確かにこの辺りには狼はいないし、被害も少ないのだろう。だから、寒くなった頃から夜になると、俺は航介が貸し与えられている部屋の中に入れてもらえて、そこで眠ることを許されていた。今日もそうだ。春先とは言え、夜は寒くて、ベッドで航介も丸くなってて、俺もふわふわのラグを敷いてもらった床で丸くなってた。目が覚めたのは、何かが擦れる物音のせいで、寝てるはずの航介が身じろいだのとは違う、何かを引きずるような。
「おはよ」
「……………」
「おはよう、ってば」
「お、おあ、よ、お」
飛び起きた先には、伏見がしゃがんでいた。目は赤くないし、角も羽根も生えてない、人間に見える格好で。催促された挨拶に、自分が喋れることに気づいて、あ、えぅ、ゔ、ってぱくぱく口を動かす。うまく喋れない、久し振りだから。自分の身体をべたべたと触って、どこにも狼が残っていないことを確認する。人間に戻ってる、なんで、許してくれたの。そう問いかけることも出来ず、伏見を見下ろせば、にっこりと微笑んで。
「ううん、飽きちゃった」
「ぁ……」
「航介起こして、下においで。全部答え合わせしよう」
ぱたり。扉が閉まって、伏見が階段を降りて、下に行くのが音で分かった。軋む首を捻って航介の方を向く。すうすうと寝息を立てる彼は、ちょっとやそっとじゃ起きそうにない。俺だけが先に下に降りて、様子を見て、話をして、もう少しだけ猶予をもらうことはできないだろうか。だって、きっと、お世話になった村の人たちに、さよならぐらいはしたいはずだ。あの箱庭に連れ戻されるにせよ、種子を発芽させられてやり直されられるにせよ、どちらにしろこの村からは出ていかなければならないのだから。あと一日、なんなら半日、それが駄目なら朝まででもいい。航介は頭がいいから、ただの執行猶予ならうまく逃げ果せようとするかもしれないけれど、例えば人質をとれば、あの子なら絶対に約束を守ることぐらい、伏見だって分かってるはずだ。その人質に、俺を使えばいい。待ってる間が暇なら、ちょっとぐらいいじめたって、俺は壊れたりしないから。
少しだけ開いている扉に誘われて、きっとあっちの思惑通りに、扉を押した。思い通りでないのは、一人で、というところだけだ。結局のところ、短い逃亡生活は、ずっとあの化け物たちの手のひらの中にあって、幸せな未来はいつだって握り潰される期限付きのものでしかなかったけれど、それでも航介が笑っていられたのはこの村の人たちのおかげだから。
「……、」
この村の人たちの、おかげ、だから。
散らかった部屋の中は、肉が腐った匂いが充満していた。散らかっているものは、骨と、肉片と、皮と、臓物と、粘ついた液体。恐らくはどれも、人間の一部だったのだろう。ぐちゃ、ぬちゃり、べしゃ、ぶちり。濡れた音を辿れば、何かを引きちぎっている誰かに行き着いた。まだ人間らしい形をしたそれから、何か探し物でもしているかのように、内臓を引っ張り出しては放り投げていた誰かが、扉が開いて差し込んだ光に、こっちを向く。暗かった部屋の中に灯りが入り、内臓が体からはみ出している人間だったなにかの顔も分かった。見覚えのあるその顔は、この家のお姉さんとそっくりだった。そっくりだ、と思わないと、同一人物だということになってしまう。それはあまりにも、あんまりなように思えた。どろりと濁ってなにも映さなくなった瞳と、投げ出された肢体。航介に、旅の人、と笑いかけては愛想よくしてくれた。狼の俺の頭を撫でてくれた。フラッシュバックする彼女の生きた記憶が、吐き気を催した。血は勿論のこと、なんだかよく分からない液体にも塗れた、一人と一つ。一人の方が、場にふさわしくない程、ぱっと笑顔を浮かべた。
「小野寺くん!久しぶり!」
「……………」
「人間に戻してもらえたんだ、良かったねえ」
血で滑る手を、転がっている死体から引き抜いた朔太郎が、こっちに近づいてきて、思わず下がる。なにしてるんだ、そんなことしたら、人間は、お姉さんは、死んじゃうんだぞ。お前とは違うんだ。やり直せる航介とだって違う。普通の人間は、呆気なく、簡単に、死ぬんだ。
「え、うん。そうだね」
でも、そういうものじゃない。
ちょっとだけ眉を下げて、困ったように朔太郎は言った。上手く言葉にできずに、回らない舌で無理やり口にした俺に、なにを今更そんなこと言ってるの、って分からせるみたいに。これと俺たちは違うでしょう、って確認するみたいに。すとんと、腹の奥になにかが落とされた気分だった。そうだった。俺は、俺たちは、この人たちとはいられない。食糧と捕食者だから。言葉を失った俺に、朔太郎がまた死体に向き直って、あったあった、と腹に手を突っ込んだ。引っ張り出された手の先には、血でぐちゃぐちゃになった如雨露があって、鈍く銀に輝いていた。それを振って汚れを飛ばした朔太郎が、失敗を隠して照れるような顔で、如雨露をこっちに見せた。
「当也がこの村を作った時にさ、航介の花を咲かす用の如雨露をどっかに落としたって言ってて。良かったあ、見つかって」
「……な、ど、……どう、いう」
「小野寺?」
村を作った、の台詞を問い質そうと口を開いた俺を遮るように、背後から声がした。寝ているはずの、航介の声だった。凍りついた俺の身体をどかすように、お姉さん?と中に入ろうとする航介を、通せんぼする。きっと、扉が薄くしか開いていなかったから、中でなにが起こってるか分からないんだ。俺が誰と話してたかも、はっきりとは聞こえていなかったんだ。それならそれで、知らない方がいい。背中に航介を庇ったまま扉を閉めて追い出そうとすると、なんなんだよ!と怒鳴られた。異常には気づいているらしい航介に、どかどか背中を力任せに殴られるけれど、退くわけにはいかない。無理やりに押し出そうとして、がくんと膝が折れた。
「ねえ、そこ邪魔」
「あ″、ぃっ……!」
いつの間にか部屋の奥にいた伏見に真っ直ぐ指差されて、じりじりと焼け付くような痛みに襲われる。ぐるぐる唸るように鳴り出した喉と、意思に反した動きのせいで軋む骨の音に、強制的に伏せさせられたことを知る。そんなとこに突っ立ってたら後ろの人が見えないでしょお、と伏見が当たり前みたいに言い放った。そりゃそうだ、そうなんだけど、俺が伏せれば、背中に隠してた航介は、部屋の中が見えてしまう。まずい、と思った時にはもう遅くて、首の骨がごきりとまずい音を立てるのも構わず無理やり振り向いた俺の目の先で、半笑いの航介が、ぱちりと瞬いたのが見えた。
「……ぇ、……」
理解できない、という顔だった。血濡れの朔太郎と、ぐちゃぐちゃのお姉さんと、全て関係ないように座っている伏見の、どれを見ているのかは、俺からじゃ分からない。浅い呼吸をなんとか続けている航介が、なにかを言おうとしてやめて、またなにかを言おうとして、やめた。口がぱくぱくして、死にかけの魚みたいだ、と思う。しばらくして、航介は目線を下げて、もう二度と動かなくなったお姉さんの指先をじっと見て、魂が抜けたようにぴくりともしなくなった。見なくていい、早く逃げないと巻き戻される、って言いたいのに、無理やり服従させられている身体は言うことを聞かなくて、がりがりと爪が床を掻いた。音の無くなった部屋の中で、伏見が、はあーあ、と溜息をついた。
「そんな落ち込まなくてもいいじゃん。どうせこの村の人たち、みんな最初から死んでたんだから」
そもそも、この村を作ったのは弁当で、大昔に有馬が大暴れしてぶっ潰した村の死体たちを再利用したんだという。それが、「この村を作った」の真実だった。言葉通り、そのまんま。捕食者と食糧ですらなかったのだ。俺が最初に気づいた、肉の腐ったような匂いは、間違いじゃなかった。だって、死体だから。みんな最初から、死んでいるから。死んでいるのに、弁当の意思で、動いているから。優しくしてくれたお姉さんも、天真爛漫な子どもたちも、生きる術を教えてくれたお兄さんも、飼われていた家畜たちでさえ、みんな死んでいた。巻き戻しされてやり直す、何度も生きる航介とは違って、最初から終わっている。だからね、と伏見がお姉さんの頭をこつこつと爪先で叩いた。
「ここまでしたって、動けるの。ね、弁当」
返事はなかった。けれど、ばらばらのぐちゃぐちゃになったお姉さんの身体が、引き摺るように、足掻くように、動き出した。ごちゅ、どちゃ、と鈍い音がして、捥げて無くなった手や足の先を動かそうとするように、お姉さんの身体がもがく。這いずって体勢を変え、潰れた右目と無事な左目で航介のことを認識した彼女が、にっこりと口角を釣り上げた。優しい声の原型を留めない、抉れた喉で、たびのひと、たびのひと、どうしたんだい、こんなよふけに、とお姉さんが歌うように話しかける。べしゃべしゃと、肉片を跳ね散らかしながら近づいてきたお姉さんに、身を震わせた航介が、吐いた。膝をついてえづいてる航介に、朔太郎が困ったみたいな口振りで言った。
「えっ、あれ?楽しかったんじゃないの?」
「ぅゔ、ぇ、っ、ぐ、……っ」
「航介がせっかく独り立ちしようとして、頑張ってるから、場所を整えてあげたのに。嫌だったのかな」
「死体と暮らしてたのが嫌なんじゃない」
「そっかあ。でも、気づかなかったでしょ?当也が組んだ術式なんだよ、すごいよね」
「……ん、で……っ、なんで、そういう……」
「……なんでって。だから、航介のためだったんだよ。全部、心から、君が1人で生活することを楽しめるように、セッティングしたんだ」
なのにこんなことになっちゃって、と朔太郎は少し残念そうだった。伏見はこうなることを狙っていたようけれど、朔太郎にはそのつもりはなかったらしい。愕然とした顔で、壊れたように「たびのひと」と繰り返しては歪んだ笑みを絶やさないお姉さんを見つめた航介が、首を横に振った。そんなこと求めていないと、言いたかったのだろう。けれど、今更それを言ったところで、当也が作り上げた死体しかいない村でぬくぬく過ごしていたことは変わらないし、お姉さんが肉塊になってしまったことも取り返しはつかないし、もし彼女が人の形を取り戻すことができるのだとしても、航介の記憶から今この瞬間が消えることはないのだ。巻き戻って、やり直さない限り、この記憶は無くならない。だから、何も言えない。かたかたと震えていた航介の目の前で、笑顔のお姉さんの頭が、踏み潰された。よいしょっと、なんて軽い掛け声とともに。
「……ぁ、」
「さてと。もうこれもいらないし、帰ろっか」
「ぃ、やだ、嫌だ、っ嫌だ!」
「何が嫌なの。これ以上嫌なことなんてないでしょ」
ああ、あるか。伏見が独り言ちて、伏せている俺の方を見た。みしみしと引き攣る身体を無理やり動かして、なにを言うつもりだと抵抗したら、骨が砕ける音がした。ひゅうひゅうとうるさい喉からは、言葉なんて出やしない。酷く可笑しそうに笑った伏見が、髪をかきむしって耳を押さえている航介に、睦言のように囁いた。
「ずうっと、小野寺は知ってたよ。俺たちが後ろにいることも、お前を逃がすつもりなんかないってことも、全部知ってて、航介のこと、見張ってたんだってさ」
大事な糸が、切れてしまったように。軋む首を捻って俺の方を見下ろした航介が、音も無く涙を零した。そんなことはない、なんて嘘、言えるわけもない。村が作られたものであったことも、今日全てがおしまいになることも、知らなかったけれど、それ以外は確かに知っていた。危険を伝えようとして、諦めた。不安を煽るくらいならと、目の前の幸せを重視した。そのツケがこれだ。日和見してたから、野生を怠ったから、こうなった。太陽の下で嬉しそうに笑った彼の生活を、ぶち壊した。そうなのかと問いかけることも、裏切ったと激昂することも、航介はしなかった。ぽたりと涙が床に落ちて、少しだけ目を伏せて。小さな、小さな声で、呟いた。
「……そ、か。ありがとう」
「うんうん、まあ全部忘れちゃうんだけどね」
こつん、と、存在を思い出させるように、朔太郎が航介の頭を如雨露で小突いた。緩くそれを見上げた航介は、ああ、と、あーあ、の隙間みたいな吐息を漏らして、俯いた。
「……楽しかったのにな」



「なんで今日にしたかって、別に深い理由はないんだけどさ」
人間たちは、イースターってお祭りをするんだって。復活祭、なんて、この子にぴったりじゃない?って思ってさ。そう、幼くなった航介の髪を梳きながら、朔太郎が笑った。膝の上に頭を乗せてむにゃむにゃと夢の中にいる彼は、巻き戻りたてほやほやの、子どもだ。
あの後。死体たちは、みんなで村の全てを無かったことにして、片付けを完璧に終わらせ、自分たちで土の中へと帰っていった。弁当が、そういうプログラムを組んだらしい。最後、村人たちがまるで当たり前のように土に埋まって行く時、有馬がぼんやりとそれを見送って、手を合わせていた。自分が壊した村が、例え仮初めでも、航介の助けになったことは、彼にとっては救いになったらしかった。見慣れた掘っ建て小屋に帰る途中、久しぶりに仕事して疲れた、と弁当が肩を回していた。ずっと会わなかっただけで、村人たちを絶えず操作していた弁当からは、俺たちの行動は全部見えていたのだろうな、とその時思った。
結局、全部作り物で、誰も救われなくて、全て忘れた航介はまた食べられるためだけに生かされてこの先の日々を過ごしていくことに、なにも変わりはなかった。俺にはやっぱりなにも手を貸すことはできなくて、最後に最悪の形で絶望に叩き落とすことしかできなくて、惨めだなあ、と思う。薄く目を開けた航介が、ふあ、と欠伸をして、体を起こした。暖かい春の陽射しを浴びて、気持ちよさそうに目を細めて、何も言えずにただ竦む俺を見て、笑った。
「おはよう」

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