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めりーばっどえんど



森を抜けた先には、白い墓石が神様のように崇め奉られている村がある。そこを拠点とするのは、やめた。伏見の残り香が色濃すぎるから。そこよりもっと更に田舎の方へ抜けた先へ、航介を担いで進む。どうして担いでいるかって、ついさっき陽が落ちるまでは航介も疲れ果てながら必死に足を動かしていたのだけれど、暗くなって周囲が見えなくなったところで、夜目が効かないことが完全に裏目に出たのだ。俺は見える、けど、人間の航介に同じように全てが見えていると思ったら大間違いだと、早く気がつくべきだった。降り積もって腐った落ち葉の塊を踏み抜いた航介が足を捻って、おかしな色になった足首を俺はどうすることもできなくて、俺にも魔法が使えたらこんなものどうにでもなるのに、そんなことは夢のまた夢で。だけどこんなところで真冬の一晩を越したら俺はともかく航介は凍りついて死んでしまうから、必死で村を目指している次第である。ふうふうと辛そうな荒い息が聞こえて、足を早める。すごく昔の記憶しかないけれど、確か、俺が覚えているまま村が残っているのなら、もうすぐ、あとほんの少しで着くはずだ。だからどうか、生きることを諦めないで。自分の着ていた上着で、冷え切って凍えて震えている航介の身体を包みなおして、遠く遠くに見えるぼんやりとした灯に向かって駆け出した。
「はあ、っはあっ、っ、は」
「……、」
「は、航介、俺はここにはいられないから、けど必ずすぐ戻ってくるから、様子を見にくるから、自分で助けを求めるんだ、村の人は優しいから、大丈夫だから」
「……ぅ、ん」
「お前を無理やり生かしてた奴等には、俺がきちんと言っておく。安心して、ここで暮らしていいからね」
「……そんなこと、したら」
「大丈夫大丈夫」
丈夫なことには自信がある、と笑ってみせた。航介は、伏見や朔太郎に逆らったことで俺が受ける罰を想像したのだろう。けど、ある意味ではこれも筋書き通りで、そこから外れたらあいつらは何としてでも食糧を取り返そうとするはずだから、要するにこの反逆は許されているのだ。航介の身体を、灯が一番多く付いている家の玄関の前に下ろして、ドアノッカーを思い切り鳴らした。不安そうに俺を見上げた彼に、手を振って屋根の上へ上がる。振り向かずに森の中へと逃げ込めば、突然現れた疲れ果てている旅人に、住人がざわつき、それでも中へと迎え入れてくれたのが声で分かった。これで、ひとまず安心だ。
「と思った?」
かくん、と視点が低くなって、体が捻じ曲げられるような激痛が走る。抵抗もなくべしゃりと伏せた俺を見下ろしながら、目の前にゆっくり歩いてきて、枯葉を踏みつけながらしゃがみこんだ伏見が、聖母みたいな笑顔で俺の頭をふわふわと撫でた。ぐるる、と獣みたいな苦しそうな唸り声が暗い森に響いて、ばきばきと体が作り変えられる感覚に、耳が垂れた。……やっと分かった。どうやら久しぶりに、満月でもないのに、狼に戻されたらしい。しかも無理やり、文字通りの力づくで。命を救ってくれた飼い主様にとって、俺を獣にするのも人型にするのも指先一つでちょいちょいってもんなわけだ。いっそ虚しい。
「一応、目に見える形の罰がないと、あの子は納得しないだろうから。疑われてもこの先泳がせにくいし、お前はしばらくこのままでいるといいよ。当分は慣れなくて身体中痛いかもしれないけど、命の恩人に逆らった罰としては軽度なぐらいだよな」
「……………」
「まさか、尾けられてるのに気づかなかった、なんて、人間みたいなこと言わないよね?」
気づいてた。ここまで近くに擦り寄られているとは思わなかったけれど。そう弁明することもできずに唸ると、脳みその中を勝手に読んだらしい伏見が、ちなみに航介の影の中にずっと朔太郎がいたことは知ってた?と片眉を跳ねあげた。知らないよ、そんなの。いくら鼻はきくとは言っても、影の中になんか隠れられたら、分かるわけない。今もいるのかどうかすらはっきりしない濁され方をして、吸血鬼である朔太郎とその食糧である航介の関係性とか、今まで繰り返されてきた食事の頻度とか、そういうのを考えたら、そりゃあ今も影の中にいるんだろうな、とは思うけれど、それを航介本人に伝える手段は、狼に戻されてしまった今の俺にはないのだ。きっと今晩だって吸血行為は行われる。そこに食糧の意識があるかどうかなんて、関係ないのだから。俺がぼんやりそんなことを考えてる間も、独り言のようにつらつらと話し続けた伏見が、ぱっと口を噤んで手を止めた。
「……ま、しばらく、あの村から出ないように見張っててくれたらいいから。なんとなく飽きたら、終わりにするわ」
なんとなく、飽きたら、か。そんなほんの一瞬の刹那的な気分で、彼の一世一代をかけた逃走劇は、小さな虫を意図せず踏み潰すように、終わってしまうわけだ。かりかりと眉間を優しく撫でられながら、ちょっとだけ泣きそうになった。



「おはよ」
間借りしているらしい家から大きな籠を抱えて出てきた航介に走り寄れば、洗濯物がたくさん積まれた籠を下ろした彼は、俺の背を柔らかく撫でた。今から干しに行くんだ、一緒に来るだろ、と問いかけられて、一声吠える。返事が伝わっていたらいいな、と思いながら。
この村に彼が拾われて、もうしばらく経っている。伏見はまだ飽きていないらしく、影も形も見せやしない。朔太郎とは何度か会ってる。というか、顔を見ている。航介が部屋の中に俺を上げて寝た時に、案の定といえば案の定、にまにましながら顔を出した朔太郎が、しーっ、てやって、あとは美味しいディナータイム。そんな感じで、数回顔を合わせてはいる。俺がこんな状態だから、話はしていないけれど。
俺が狼に戻されてすぐ、木の陰から村の様子を伺っていたら、不安そうな顔の航介が、家の一番てっぺんの窓を開けて顔を出して、どうやらあそこを貸し与えられているらしい、と分かった。あの、灯が一番たくさんついていた家だ。とにかくぼろぼろのくたくただった身体を全快させることが一番だろうと、数日間は窓の下から隠れて見上げていた。だって、狼が来たって射殺されたらたまんないし。それからちょっとして、足首を白い布でぐるぐる巻いた航介が、杖をつきながら家から出て来て、不安そうな顔できょろきょろして、森の方へ向かって来た。恐らく俺を探しているのだろうと思って、木陰から走り出て擦り寄れば、人型じゃない俺に酷く驚いた航介は、何度も何度も確認して、俺が喋れないことも認識して、心底申し訳なさそうに半泣きで、謝ってきた。いいんだよ、それより早くここからも逃げたほうがいい、まだ見張られているよ、自由なんかじゃないんだ、と吠える俺の声を一生懸命聞いた航介は、不安でいっぱいの目で、「な、なに、言ってるか分かんない、おのでら……」って膝を抱えた。そりゃそうだ、と気付いたのはそこでだった。伝わらないのに吠えて、何か言いたいことがあるらしいってことだけ伝わって、余計に不安がらせるぐらいなら、そんな情報ないほうがいい。だからそれから俺は、無駄吠えをやめた。航介の影には朔太郎がいるし、伏見が飽きたら連れ戻されちゃう。けどそれを正確に伝えることができないなら、それに対してどう対抗策をとるかが考えられないなら、そんなの伝えないほうが、航介は安心してここでの生活を営める。だったらそっちの方がいいじゃないか。これが正しい選択かはわからないけれど、そう思ったからそうしてみるしか、今の俺にできることはない。
ばさばさとシーツを振って皺を伸ばしている航介に、おーい、と村人が話しかけた。今彼が居候している、灯りがたくさんついていた家のお姉さんだ。大きなバスケットを片手に、届け物に行くらしい彼女が、ぱたぱたとこっちに走り寄ってくる。
「旅の人、すまないね。手伝いばかり任せて」
「あ、いや、いいんです」
「仲良しのわんころともまた会えて、良かったねえ」
無理はなさらずに、と航介の身を案じながら、俺の頭をふわふわと柔らかく撫でた彼女は、目的地だったらしい数件隣の家をノックして、入って行った。そんなに大きくない村なので、幾日か彷徨いただけの俺でも、あの家に誰が住まっているか分かる。確かあの家には子どももいたはずだ。くうん、と鼻を鳴らして、なんとなくわだかまった違和感を無視した。……なんとなく、俺はあんまり人間と関わったことがないから、気のせいかもしれないんだけど、腐った肉みたいな匂いがする、気がする。ここに来てすぐ、兎の肉なんて初めて食べた、って航介が驚いてたけど、あっちじゃ精々鶏を絞めるぐらいだから、食文化の違いだろうか。長く生きてるからって、見たことのある世界が広いわけじゃない。航介には気にならないらしいし、獣の体に戻されたせいで嗅覚が異様に働いてしまっているのかもしれない。お姉さん、いい人そうだし。
「昨日は、パン焼きを手伝ったんだ。はじめてやったけど、うまく出来た、と思う」
元気になって、人間の暮らしのことがよく分かって、ここの人に恩返しが充分にできたら、また森を抜けて遠くへ逃げるつもりなのだと、航介は言った。そうしたら俺もついて行くよ、の意を込めて尾を振れば、喜びの感情は伝わったのか、彼は嬉しそうにはにかんだ。このまま、人間らしい生活を、人間の中で営めたら、それでいいのに。ずっとずっと縛られて来たんだから、少しぐらいの安寧を、今世だけでも楽しませてあげられたらいいのに。山積みの洗濯物を干し切って、まだ痛むらしい足を庇いながら、ごろんと草の上に寝転がった航介が、楽しそうに言った。
「もっと広い世界が見たいんだ。俺は、ただの食糧なんかじゃないって、思えるように」

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