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人魚姫



「……………」
「ヒレが生えてる間は口利けるんだから喋れば?」
「……知ってたの……」
「なにを」
「有馬の家のこと……」
「ああ、うん。あの辺じゃ有名な貴族様の家だよ、町の人にも優しいしね」
眠っている当也くんの夢の中にひょっこり現れた魔法使いは、ここでならゆっくり話せそうだからと指を鳴らしたかと思えば、海を作り当也くんを人魚に戻し、他人の夢の中でやりたい放題でした。夢の中とはいえ久しぶりの海の中は嬉しいもので、一頻り潜水して海面に戻ってくると、魔法使いは居心地の良さそうな雲にふわふわ乗って美味しそうなジュースを片手にケーキを食べていました。本当にやりたい放題です。明日の朝目覚めた当也くんが頭痛に悩まされたらどうしてくれるのでしょう。
溜息交じりに一旦沈んでぐったりと浮かび上がってきた彼の言葉通り、有馬の家は謂わば大豪邸でした。出迎えの人数にまず面食らった当也くんでしたが、よくぞ御無事で戻られました、と涙を流して有馬に縋る使用人の姿に更にきょとんとしたのも束の間、こいつ俺のこと助けてくれた命の恩人なんだけど物凄い世間知らずで街になんか来たこともないんだ、めいっぱいに持て成してやってくれ、と背中を押され、傅かれて慌てる暇も殆どないまま、気づいた時には服を剥かれて真っ白のバスタブにぶち込まれていました。恐らくは先んじて有馬が説明してくれたのでしょう、質問されることはなくただただお礼を言われるばかり。魔法使いが指先一つで作ってくれた服も勿論良いものだったのですが、お風呂上がりに用意されていた服は見ただけで仕立てが良いものであると分かるようなそれでした。海の中で纏っていた布がぼろ切れに見えます。髪の毛から水滴をぱたぱた垂らしながらひょっこり廊下に顔を出した当也くんはあっさりメイドに捕まり、熱い風の出る機械に当てられたり襟元に細い布を巻きつけて結ばれたりしました。全体的に黒っぽい服の中で、白いネクタイとボタン、それに当也くんの肌が透けるようです。一向に現れない有馬におろおろし始めた当也くんに、メイドの一人が枠に嵌ったレンズをかけてくれました。それを通して見ると世界が鮮明に見えて、きょろきょろとおっかなびっくり辺りを見回す彼が面白かったのか、くすくすとメイドが笑います。視力があまり良くないと聞きましたので急拵えでご用意致しました、と深々お辞儀をされて自分もお辞儀を返そうとすればレンズがずるりと落っこちかけました。これは眼鏡というものらしい、ということをメイドの話で知った当也くんの元に、ようやく待ち侘びた彼が訪れました。
真っ白のシャツに青い宝石のついたリボンタイ、金ボタンのベストに濃紺のタキシード。要所に金の糸で刺繍が入ったそれを纏って窮屈そうに顰めっ面をしている有馬を見て、当也くんは自分の格好と相手の格好を見比べました。なんだこいつは、人魚のお姫様が恋をしたとか昔話で伝えられてる王子様みたいな見た目しやがって、と目を丸くしている彼に、かつりと靴を鳴らした有馬が口を開きました。
「……俺、こういう格好好きじゃないんだよね」
「……………」
「でも会食を整えたからこれ着ろってみんなうるさいんだ。お前も疲れるだろ?」
飯食うんだからこれ取ろう、と当也くんが今さっき首に巻きつけられた白のネクタイを抜いて、自分のリボンタイも外しその辺にいた使用人にぽいっと持たせた有馬が、固い、動きづらい、と文句を言いながら歩き出しました。それの後ろをよろよろとついて行きつつ、慣れない靴を見下ろしました。濃い茶色のそれは魔法使いがくれたものですが、特に歩きやすくなる魔法とかをかけてくれなかった辺り最高に不親切だと思います。こちとら足が生えてから十日目とかなのに、と当也くんはぷんすか不満に思いました。だって、有馬についていくのが精一杯なのです。だいぶ慣れてきたとは言え、人間には程遠く及ばない歩き方でテーブルまで辿り着くと、寄ってきた使用人を目で制した有馬が辺りを見回しました。長いテーブルの端と端に、一つずつ椅子が置かれています。控えている使用人の隣に歩いて行った有馬が、よいしょ、なんて部屋の片隅に置いてあった円卓を持ってきました。
「何をなさってるんですか!」
「だって遠いんだもん、こっちで食いたい」
「会食を整えたと申したでしょう、規律嫌いもいい加減になさってください!」
「不慣れな相手が戸惑っているのに、こっちで飯が食えるか」
「……………」
「ほら、お前が怒鳴るから怖がってるじゃないか」
「……申し訳ございません」
「テラスで食べよう。あ、メニューはそのままでいい。円卓でセッティングを頼む」
「畏まりました」
喧嘩しないで、と服の裾を掴んだ当也くんの意思は少し違った形で受け取られましたが、有馬は使用人に笑顔でお礼を言って話をおしまいにしました。全くもう、とこっちを見た使用人の態度からして、本気で言い争っていたわけではないようです。場を整える間どっかに行ってなさいと部屋を追い出されて、苦笑した有馬がゆっくり歩き出します。今度は、当也くんが横に並べるスピードでした。
「いっつもやだって言うのにさ、あの形が最高の持て成しなんだって。頭固いよな」
「……………」
「この服も、俺あんまり好きじゃないんだ。お前は似合ってるけど」
「?」
「別にお世辞とかじゃねえよ?」
大きな扉を押し開けた有馬が首を傾げました。似合ってる、と言われるのは嬉しいことです。確かに有馬は、拾った時も魔法使いに服を拵えてもらう時も、もっと動きやすそうな服装を好んでいたように思います。催しがある時に自分を飾り立てなければいけないのは、人魚も人間も変わらないようでした。
開かれた扉の向こうは、どうやら有馬の自室のようでした。いつもは外にいるから寝る時くらいしか使わない、という割にはごちゃごちゃといろいろなものが雑多に置かれているそこを、うろうろと歩きます。方位磁石と大きな地図、古びたタイプライターの隣には黒い球体が置いてありました。みんなみんな、当也くんの見たことのないものばかり。興味に目を輝かせながら、触れていいものかと戸惑っている彼の後ろから、小さく笑った有馬が手を伸ばしました。
「これは、こう使うの」
「!」
「外に出なくても星が見られるんだって。こんなのなくても、外に見に行けばいいのにな」
ぱちり、下のスイッチを傾けた有馬が当也くんを一歩後ろへ引っ張ると、部屋の中がきらきらと細かな光に包まれました。星空に囲まれているような錯覚。瞬くそれらを目で追いかけていると、少し気まずそうな顔になった有馬が、ごめんな、そういえばお前はあの魔法使いの部屋から外に出たことがないんだったっけ、と呟きました。そんなことは全くないのですが、人魚であったことを伝える術もなければ、それを伝える利もありません。作り物の星空に囲まれたまま、二人の間に無言が流れました。
出される食事は美味しいし、使用人の人達も口の利けない世間知らずの当也くんに親切にしてくれます。当也くんは、有馬に案内してもらった図書館で一生懸命に字の勉強もしました。二人で木陰に横たわって昼寝したり、街に連れ出してもらったり、知らない物事に囲まれる毎日は新鮮で楽しくて、自分がここにいるべきものではないことを忘れさせてくれました。くるくると表情の変わる有馬と過ごす時間が、この先ずっと続けばいいとすら当也くんは思いました。
「……じゃあずっとそっちにいる?」
「……………」
「いいんだよ。住むために必要な、親とか家とか?そういうのは誤魔化してあげるし」
「……ううん。帰る」
「なんで」
「俺、いつか邪魔になると思うから」
ぼそりとそう告げた当也くんに、魔法使いは何も言いませんでした。髪の毛からぱたりと雫が落ちます。帰ってくるなら、そうやってきちんと伝えないといけないね。魔法使いがゆっくり紡いだ言葉に、当也くんはこくんと頷きました。
夢から覚めた当也くんは、自分の頬が湿っていることに気づきます。ふとサイドテーブルに目を向ければ、魔法使いが使っていた羽根ペンと、真っさらな羊皮紙。字の勉強をした意味が、そこにはありました。
「……………」
「ん?あ、くれるの?ありがと」
震える手で本と睨めっこしながら書いた不器用で下手くそな手紙を、何度も読み返した有馬はにっこり笑って頷きました。明日、魔法使いのところに帰ります。そんな内容の素っ気ないそれを大切そうに折り畳んでポケットにしまった有馬は、当也くんを連れて部屋へ戻りました。
「これと、これも。これやるよ、こっちも読んでた?」
「!」
「俺使わないもん、お前が持ってた方が絶対いいから」
ぶんぶん首を横に振る当也くんの手に、部屋の中で星が見られるあの機械や分厚い本、ふわふわの羽根ペンが乗せられて行きます。みんなみんな、ここで当也くんが使ったものばかり。こんなの貰えない、と押し返そうとする手をいとも簡単に避け切った有馬が、じゃあ貸すってことにしよう、と代案を出しました。貸すんなら結局は俺のものだしお前は返しに来なくちゃいけないし、と指折り数えた有馬がぱっと笑います。
「だから、もう一回来いよ。な?」
「……………」
「そしたら、っど、なんっ、なんで泣くんだよ!あっ、ごめ、なんもない!」
ぱたぱたと零れた涙を服の袖で拭った有馬が、そんなにやだったかな、ごめんな、とおろおろ謝るので当也くんはどうしようもなくなってただしゃくりあげました。また来ることを許されていることが、人魚の彼にとって何よりも幸せだったなんて、人間の彼には知る余地もありません。ぐすぐすと涙を無理やり拭った当也くんが、頬を撫でる有馬の手のひらを取って、ゆっくりと人差し指で字を書きました。
いつか、きっと、ぜったいに、また来るから。そう綴られた言葉に嬉しそうな笑顔を返されて、くしゃくしゃのまま人魚と人間は笑いました。

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