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観察日記



彼が自動販売機の前で悩んでいる。小銭を探しているらしい。もしもなにか買うなら、今日にしよう。なにも買わずに去って行くなら、また次の機会にしよう。ポケットの中に突っ込んだ携帯スタンガンを握り締めながら、じっと彼を見つめる。どっちに転んでもいい。これだって観察の一部だ。しばらくポケットをがさごそしていた彼は、いくらか小銭を取り出して、がっくり肩を落とした。足りなかったらしい。じゃあまたの機会に、と思った途端、彼は今までにない行動を取り始めた。どうやら相当諦めきれなかったらしい。反対側のポケットから財布を取り出して、足りない分の小銭を取り出し始めた。ちゃりちゃり、自動販売機に、百円玉と十円玉が、転がって入って行く。後ろから人が近づいていることに彼は気がついていない。迷うことなく一番上の右から三番目のボタンに指を伸ばした彼の首筋に、黒い塊を押し付けて、スイッチを入れた。
ばっちん、とすごい音がして、彼の体が傾ぐ。俯せで横たわった彼の身体に、ほんとにこんなんで人間って倒れちゃうもんなんだ、と感心する。通販で買える防犯用のスタンガンでこんなことできちゃうなんて、世も末。横にしゃがみ込んで、さてここからどう家の中に運ぼうか、と思案していると、彼の指先が地面を擦った。どうやら、完全に意識を飛ばすことはできないらしい。今ここで逃げられるのが一番困る。家の中に運び入れて、目隠しと猿轡をして、手足を雁字搦めに縛って車に乗せて、早いところ秘密基地に運び込まなければならない。しかしながらもう一回スタンガンを使うのも気が進まない。出来得る限り、元気な彼を観察していきたい。弱ったところも見たいと思っている以上、スタートから死にかけでは、目的が達成できない。朦朧とする中でも何とか逃げなければということは分かるらしい彼が、這いずってじわじわと進む。それを踏んで止めながら思案して、いいことを思い出した。確か昔、親父が大好きだったプロレスで見たんだ。爪先で彼の体を仰向けに転がして、胸倉を掴み引っ張り上げる。土のついた顔で、何が起こっているか分からないくせに、それでも気丈にこっちを睨みつけたりするもんだから、ちょっと嬉しくなった。彼に自分は認識されている。もう、窓の中の存在ではないのだ。
がつん。拳を振り抜いて、顎を殴った。綺麗に入ると気持ちよく気絶するんだって、テレビでプロレスラーが言ってた。駄目だったらもっかいやれば良い話だ。かくん、と後ろに折れた首に、少しばかり不安になって、襟を引っ張っていた手を離して脈と呼吸を確認する。ちゃんと息してるし、心臓も動いている。良かった。まだ壊れられたら困る。見様見真似でやったけれど、上手くいったみたい。遠くで見ていた時より、体付きがしっかりしていることが分かる。彼を攫うことを頭の隅で考え出してから、鍛えておいたのが、功を奏した。弛緩した身体を背負い上げて、家に帰ろうと思って、おっと、忘れ物。彼のお金だから、自分が預かっておかないと。さっき自動販売機に入れられた小銭を返却レバーで回収して、落とした財布も拾った。
さあ、今日から、記録をつけないとならない。



◯月□日。続き。
意識を失った彼を車に運び込んで、誰にも見つからない場所に隠す。秘密基地、と呼ぶのが相応しいそこは、必要最低限の生活設備が揃った古くて狭苦しい部屋だ。どこにあるとかどんな部屋とか、そういうことを詳細に描くと万が一この日記が外に出てしまった場合この場所がばれてしまうので、黙秘権。ごろりと床に転がした彼はすっかり気を何処かに遣ったまま動かないので、不慣れなりに拘束しなおしておくことにした。殴って車に積み込んだ時点で目隠しをして逃げられないように縛っておいたけれど、緩んだりしたら困る。荒い縄で両足を一纏めにして、腕も後手に縛り上げた後、目隠しは外して猿轡だけにした。聴覚だけじゃ、なにがあったかの把握は難しいだろうと思って。壁に設置しておいた数台のビデオカメラがきちんと作動しているか、パソコンの前で確認していると、ごそりと衣擦れの音がした。
「……ふ、」
おはよう、起きた?痛いところはない?
そう問いかけると、目を薄く開けた彼は、体を起こそうとして、自由のきかないことに気づいて、こっちの存在に焦点を合わせて、ざっと顔を青くした。こもった声で、んん、んぐ、となにやら言っているけれど、よく分からない。縛られた足を無理やり動かして必死に遠ざかろうとするのが面白くて、しばらく見ていた。虫みたい。こっちが何もしないことでどうしていいのか分からなくなったらしい彼は、ぶるぶる震えながら身を起こそうとして、途中まで起き上がったけど失敗してぺしゃりと俯せに潰れた。顔痛かったでしょう、受身取れないから。
「ふ、っ、ゔ、ぐぅ、っ!」
首根っこを持ち上げて目を合わせる。今にも泣き出しそう。汗だらだらになって、呼吸も不安定になって、今まさに恐怖の絶頂って感じ。かわいそうに。噛ませた布の端から染み込みきらなかった涎が垂れて、顎を伝った。動物じみた目で、ふーふー息を漏らして、毛を逆立てて精一杯の威嚇をしてくる彼に、ルール説明をしてあげることにした。こっちしか理解してないんじゃ、フェアじゃないから。
ルールは簡単、たった一つだ。君はペット、以上。飼われているのだからその自覚を持って、君の生殺与奪権はこちらにあることを意識した上で、行動してもらいたい。それがどういう意味か分からないほど子どもではないだろう。逆らえば飼い主の機嫌は悪くなり、君の扱いは劣悪なものとなる。反対に良い子にしていればどうなるか、考えてみよう。しかし今の君には考えるなんて到底難しそうなので、思いつかないならば教えてあげるけれど、まず拘束を外してあげるし、食べたいもののリクエストにだって答えてあげるし、不用意に君を脅えさせるような真似だってなくなる。外部との連絡を取ることは許さないという一点を抜かせば、自由の身だ。今説明したルールが理解できたら、首を縦に一つ振ってほしい。
「っ、!」
むずがるように逃げ出そうとした彼のこめかみを殴った。今の説明を聞いて逆らうなんて、君はお馬鹿さんだ。くたりと抜けた身体の力に、おい、意識を飛ばせとは言ってないぞ、と頰を張る。きっと痛かったのだろう、ぼろぼろ涙を流しながら縮こまる彼の体を無理やり起こさせて、それでも言うことを聞いてくれなかったので台所からキッチンバサミを持ってきた。刃を開いて首筋に当てれば、蹲ると刺さることなんて以ての外で、彼は飛び起きるように背筋を伸ばした。うん、そう、良い子。浅くて不明瞭な呼吸に、口が塞がっていて息がしにくいのだろうか、とぼんやり思う。これじゃ過呼吸になってしまう。話が終わって良い子にできたら、猿轡を外してあげよう。震えているせいで、肌と刃が擦れて、じわりと血が滲んだ。彼の血は赤い。記録に付け加えておこう。
説明の続きをさせてもらうと、自分は君の観察をしたいだけなので、わざわざ敢えて痛めつけたり怯えさせたりする必要はない。ただ、観察の一環として、もしかしたら君が嫌がることをするかもしれない。「人間は」骨を折られたら痛いとか首を絞められたら苦しいとか、そんなことは知っているのだけれど、人間の中でも唯一、「君が」どんな反応をして、どんな風に感じて、どうやって苦痛を表現するのか、それを自分は知りたいのだ。怖い時、苦しい時、どんな顔をするんだろう。反対に、楽しい時や嬉しい時のことも知りたい。安心しきった君のことをどん底まで突き落として絶望の淵に立たせたいし、それを掬い上げてあげたい。命を奪うことはしないけれど、尊厳を弄ぶことはする、とここに明言しておこう。君は飼われている身なのでこちら側に逆らうことはできない。それが絶対のルールだ。殺されないと高を括りたいならそれはそれでいいけれど、辛い思いをするのはきっと君の方だから、自分で考えて、どうするか決めてほしい。今だってそうだ。大人しく良い子に飼われることを了承してくれるなら、首を縦に振ってほしい。こちらからは、それをお願いしている。強制ではない、お願いだ。
「っ、ぇ、ぐっ」
がくがく頷いた彼は、首筋に擦れる鋏の刃のことなんて忘れてしまっているようだった。涙と鼻水と汗と涎だらけのどろどろの顔。キッチンバサミを置いて、べしゃべしゃの猿轡の結び目を外してやれば、強張った身体から力が抜けないようで、噛んで歯を食い縛ったまま離してくれなかった。顎を開けてやると、かぱりと口が開いて。
あ、痛い。
「ぁぐ、ぅ、っ!」
顎を開いてやった指をがぶりと齧ってきた彼の首を絞め上げながら、極力優しく語りかける。こら、駄目でしょう。お腹が空いていたならご飯をあげるから、指は食べ物じゃないよ。ほんのついさっきまで良い子にできたのに、どうしてそんな悲しいことをするの。いじめられたいなら、それでいいけれど。
ひゅ、ひゅ、と浅い呼吸が途切れて、彼の体が痙攣する。舌が口からはみ出して、齧られていた指はとっくに解放されているけど、まだ彼はどっちの立場がどう上なのか分かっていないようなので、分からせてあげないといけないと思って。歯型のついた指を硬く握って、頰に当たるように振り抜く。二発目くらいで、ぱたぱたと血が垂れた。けど、続けた。酸素が足りないのか、くたんとしてしまった彼の首から手を離して、横たわらせるように頭を蹴る。使い古しのぬいぐるみみたいにずるずる滑って吹っ飛んだ彼の腹を踏みつけて、何度かそれを繰り返したら吐いた。吐瀉物の中にはいくらか血も混じっていて、きっと口の中が切れてしまったんだろうな。
「ぇふ、っぐ、んゔ、い″ぁ……!」
ここが痛いの。血が出ているもんね。彼の胸板に座り込んで、口の中に親指を突っ込んで、ぱっくり裂けて血が溢れている傷口を広げた。噛みたいなら、今だって噛んでいいよ。そう告げれば、がくがく首を横に振られた。予想通り、馬鹿じゃない。ただ、自分は絶対に助かる、ここから逃げられる、と信じているところだけ、現実が見えていなくて残念だ。ぐりぐり、咥内の傷口を広げていると、悲鳴じみた唸り声を上げていた彼が、回らない舌で何か言い始めた。
「ぇ、らひゃ、ご、ぇんな、しゃ、っ」
ごめんなさい、か。ちゃんと謝れる子は良い子だと思うよ。口の中から指を抜いたら、糸を引く涎と血液が繋がってきたので、彼の服で拭いた。
そうだ、君の呼び名を決めなきゃ。財布の中に入っていた身分証明書で本名は勿論知っているけれど、ペットにはペットらしい呼び名があるでしょう。そう告げれば、泣きながらこくこく頷かれた。嬉しい。例えば、そうだな、としばらく考えて、自分にはネーミングセンスがないので良いものが思いつかなかった。ポチとかでいいかな、これから君のことはポチって呼ぶことにするよ。分かったら犬の鳴き真似で返事をしてね、ポチ。
「わ、ぅ、ぇぐ、っゔ、わんっ」

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