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ウイルス性多重機能不全人格崩壊症候群




:ケース1
『このような事件は過去に類を見ていないことから、新たに発見された未知の病原菌による』
「……だってさ、航介」
ぷつんとテレビを消して、ベッドの方へ目を向ける。そこには、ぜえぜえと息を吐いて意識を喪失した、幼馴染みが横たわっている。目を覚まさなくなってからしばらく経つ。昏睡ってやつなんだと思うし、病院に行かないといけないんだとも思う。けれど、外には出られない。何時まで保つか分からないバリケードをわざわざ壊して外に出るなんて、自分からゾンビになりに行くなんて、正気じゃないし冗談じゃない。今テレビでやってたのだって、録画放送だから何度か見たやつだし。きっとあのアナウンサーももう死んでるんだ。
ぶっ壊れた世界の中で唯一正常に動いているのは、インターネットだった。そこから得た情報によれば、未知のウイルスは血液感染によって感染者を増やしているらしい。噛まれるとゾンビになる、っていうのはそういうことだ。人と関わることの少ない引き篭もりの方が有利、ってのも納得である。そして今日の夜、外国から爆撃機が飛んできて、俺たちは一斉に空から射殺される。航介がそれまでに目を覚ましたとしても、覚まさなかったとしても、それは変わらない。どうしようかねえ、と呟いて、汗ばんだ航介の額を拭えば、外からばきばきと何かを壊す音がした。ああ、そろそろここも保たないんだ。ごめんね、守ってあげられなくて。
頭を潰すとゾンビは死ぬらしい。武器らしい武器なんてないので、一番持ちやすかった掃除機を構えた。これで殴ったところでゾンビが死ぬ気がしないけど。せめて、俺の方に来てくれたら嬉しいなあ。航介が目の前で食われるとこなんて見たかないよ。
「……爆撃機が街を壊したら、富士山に、特効薬の研究所ができるんだって。そこに逃げたら匿ってもらえるらしいから、もしお前が目を覚まして、その時まだ元気に生きてたら、そこに逃げるんだよ」
分かった?と問いかけても、返事はない。あーあ、あの時猫を抱き上げるのを、もっと強く止めておけばよかった。そしたら彼だけでも逃がせたかもしれないし、もしかしてもしかしたら二人で逃げられたかもしれないのに。あーあ。溜息をいくら重ねたところで、後悔は先に立たない。ばきばき、軋んだ音を立てて、バリケードが壊れていく。生体反応をキャッチできる素敵なアンテナが無くとも、仲間を増やすことを目的としているウイルスに操られている死体たちは都合良く生きている人間を発見することができるのだ。きっとそれこそを、進化と呼ぶべきだろう。皮膚が爛れて血に濡れる死体が、扉をこじ開けるのを見ながら、そう思った。
「あ」
せめて1発くらいは殴ってやろう?運が良ければ掃除機だって殺せるかもしれない?馬鹿言っちゃいけない。そんなわけはない。バリケードを壊して飛びかかってきた顔のひしゃげている死体に、俺の頭は完全に固まっていた。どちゃり、と重い音と、ばたばた降りかかってくる腐り果てた肉片に、覆い被さられていることをようやく知る。特に走馬灯が流れるわけでもなしに、痛いのは嫌だな、と他人事に冷めた目を向けた。がぱりと開いた口の中には、もう既に誰かを齧った後なのか長い髪の毛が絡みついていて、おやおや経験者ですか、なら尚更痛くないようにお願いします、とかふざけたことを考える。
だから気が付かなかったのだ。ベッドに寝ていたはずの航介が、体を起こしていたことに。
「え、っ」
「……………」
俺から見て、覆い被さるゾンビの向こう側。見慣れた金髪がちらりと覗いた気がして、目を見開く。大きく開かれた口に引っ掛けるように、後ろから伸びてきた指先が、ゾンビの頭に添えられた。そのまま、ぐちゅりと力がかかって、眼窩に指が食い込んで、顎を外すように、口が裂けていく。死体だから皮膚が脆いのだろう、痛覚も存在しないのだろう。じたじたと手だけを動かして抵抗したものの、ぶつぶつ、皮と肉が千切られていく。仰け反らされたゾンビが、上顎と下顎に分かれて、動きを止めてどさりと横たわった。息も出来ずに見上げる俺を、見も知らぬ元人間の頭を片手にぶら下げながら見下ろしているのは、猫に噛まれて意識不明重体だった、幼馴染みの江野浦航介である。ぽいっと頭の欠片を投げ捨てた航介が、首を傾げて、鳴いた。
「にゃあお」



:ケース2
「……富士山……」
「そこに行けば、助けてもらえる」
「……無理だよ」
「無理じゃない。目指す価値はある」
「もう、やだよ……」
「本当に駄目だったら、二人で諦めよう。まだ間に合う、助かりさえすれば、いつか必ず家に帰れるから」
携帯の充電が切れる間際最新ニュースとして飛び込んできたのは、爆撃が終わった後、安全なんたら協定とかいうやつを結んでいる国外のいろんな機関が協力して、富士山に研究所を立て未知の病原菌に対しての特効薬研究を急ピッチで進める、というものだった。生きている人間がもしいるのならそこに集まれ、と無茶振りを掛けられて、それでもそれに縋るしかない。そして幸いなことに、今俺たちがいるここは、富士樹海だった。コンパスすらも狂うと噂に名高い、自殺の名所である。
弁当が立てるようになるのを待って、血濡れの鉈と金属バットをぶら下げて、またふらふらと歩き出した。他愛もない話で、できる限り気を紛らわせて、無理にでも笑って、弁当が諦めてしまわないように。俺だってそりゃ、無理だと思うよ。けど、生きることを諦めたくはない。もっと我儘を言うなら、ここまで逃げてきたお前のことも、諦めたくはないのだ。
だから、当たり前と言えた。道半ばに停車していた軽トラの扉が開き、そこから死体が転がり落ちてきて、足の無いそれが這いずるようにこっちに近寄ってきた時、俺が弁当を庇うように前に立ったのは、当たり前なのだ。動きの遅いそれに向かい合うようにしながら、弁当を背中に庇って、金属バットを構えた。
「……大丈夫、早くない、俺が殴る方が早い」
「有馬、」
「そこにいて」
「違う、有馬」
「なに、」
「ごめん」
ごめんね、間に合わなかった、ごめんね。
ひゅーひゅーと穴の開いた喉から息を漏らす弁当の首筋には、頭の欠けた死体が食いついていた。彼の手にあったはずの鉈は、頭の欠片と一緒に、転がっている。きっと軽トラには、二体の死体が乗っていたのだ。突き飛ばすように弁当の首筋に齧り付く死体を剥がせば、倒れ伏したそれはもう動かなかった。だから「間に合わなかった」なのだ。ただ、少し遅かっただけ。弁当はきちんと対処していた、背後から飛びかかってきたそれに俺が襲われないよう、頭を撥ねようとした。少しだけ、遅かったけれど。
ふらりふらりとよろめきながら、足の無い死体に近づいた弁当は、それの頭を踏み抜いた。走り寄ろうとした俺に、扉が開きっぱなしの軽トラに積んであったクロスボウガンを向けて足を止めさせた弁当は、霞んだ焦点のまま唸った。ぱたぱたと血が垂れる。変色していく血管が浮き出て、彼が人ではなくなっていく。
「……富士山、まで、行って、ね」
「嫌だ、」
「ごめんね、ちゃんと、できなくて、ごめん」
「いやだ!」
「なら殺してよ」
せめて人間のままで死にたかった。そう呟いた彼が、ぱたりと涙を零した。矢のないクロスボウガンじゃ、牽制にもならない。がたがた震えながら、必死で血液に回るウイルスと戦っている弁当を、彼が理性を失うより早く殴り殺すことは、きっと可能だ。そしてその後で俺だけが富士山へ逃げればいい。それが恐らく、この場でできる最善の選択で、きっと弁当もそれを望んでいる。そうしてやることが、ここまで逃げた友達として、彼の人間性を尊重する行動なのだろう。そんなこと分かっている。そんなことは、頭では分かっているのだ。
「殺せるわけないだろ……」
「じゃあ、早く行って、はやく」
「……やだ……」
「うるっさいなあ!」
ひゅ、と耳元で風が鳴った。目で追えない、非力な彼からしたら有り得ない速さで投げつけられたクロスボウガンに、ぞっとする。生命活動の停止が始まっているのだろう、血が流れなくなった体で、弁当が俺を睨みつけた。焦点の定まらない瞳で、襲いかかろうとする足を僅かに残った理性で止めながら。
「殺されたくなかったら、行けっつってんの、分かんないのかなあ」
「だって、べんと」
「うるさい、うるさい、人の気持ちも知らない癖に!」
ぐちゃり、弁当が膝をついた先には、足の無い死体があった。それに目を向けた彼が、ぶちぶちと死体を引き千切り始める。ごきん、骨が折れる音。握り潰される臓器と、裂かれる筋肉繊維と、まるでおもちゃで遊んでいるみたいに。理性なんて無くしたみたいに。じゃり、と足音がして、自分が引いているのが分かった。やめろって力づくにでも止めてやるべきじゃないのか、だって友達だろ、二人で逃げようって言ったの、俺だろ?
顔を上げた弁当が、頰を返り血で赤く染めて、ついさっきの焼き直しみたいに、ふにゃふにゃと笑った。俺は、それに背中を向けて、走って逃げた。



:ケース1
「……にゃあん?」
「……………」
「にゃーお」
「……………」
「返事しろよ」
「……………」
ぐしぐしと、まるで猫のように手で顔を擦っている航介に、溜息をつく。猫語なんて分かんねえよ。ようやっと立て直したバリケードに背中を預けて、座り込んだ。
どうやらこいつは、既に例のウイルスに感染しているらしい。ただし、感染源は、猫である。あの血塗れの猫が、保菌者だったのだ。何故俺のことを齧ろうとしないのかは分からないけれど、さっきから無言のまま、顔を擦ったり、手の甲を舐めたり、人の膝の上で丸くなろうとしたりしてくる。ほんの数分前にゾンビ引き千切って殺してる癖に、そんなことを欠片も感じさせてくれない。現実がキャパシティーを超えてる、もうついていけない。試しに顎の下を撫でてみたら、くたんと体の力を抜いて寝転がりやがった。猫かよ、ああそうだよ、俺の幼馴染みは猫になりました!
「……そろそろ爆撃の時間だってのにさあ、笑わせないでよ」
今生最後を惜しむことすらお前は許してくれないのか。最後まで面白おかしくいろってか。分かったよ。動かない死体の横で、猫になった幼馴染みを抱えて、時計の針が進むのをただ眺めた。もうすぐ、22時だ。
外から、サイレンの音がする。びくりと身を起こしてきょろきょろし始めた航介の背中を撫でながら、立て直したバリケードの隙間から覗くと、道路をぞろぞろと、ゾンビたちが歩いていくのが見えた。音がする方に向かっているらしい。成る程、一箇所に集めてまとめて撃ち殺すつもりか。ウイルスがそうさせているのか、一応もそもそと外に出たがっている航介を撫でて押さえながら、もうすぐ死ぬのかあ、とぼんやり思って。
「……ん?」
生きて逃げられるのではないか?と嫌に冷静な打算を組み上げる。サイレンの音の方へゾンビたちが集まっているのなら、この辺りは今ほど危険ではなくなる。航介がこうなる前に調べた情報が確かなら、ゾンビ化すると筋力や体力が脳のセーブから外れるので、ある程度の肉体強化が得られるらしい。外の音に反応したところからして、航介もその例外ではないはずだ。だって、さっき当たり前みたいに死体千切ってたし。そうだとしたら。その仮説が、真実なのだとしたら。
外の危険はいくらか減少する。感染者であるはずの航介は何故か俺を齧ろうとせず、その上仲間であるはずのゾンビを殺した。キーが刺さったまま放置されている車はいくらでも転がっている。富士山まで逃げ切れば、研究所がある。事実と、仮定と、目の前にいる幼馴染みが撫でられてごろごろと喉を鳴らしているのを見る限り、強ち不可能ではないように思えてきた。サイレンの音につられて、ゾンビたちはどんどん数を減らしていく。目標は、あの扉が開いたワゴン車だ。鍵刺さってんの見えるし、あそこまで航介をどうにか連れて行けば、逃げられる。抱っこやおんぶは無理だ、自分より重くて身長のある男は流石に持ち上げられない。さて、この猫をどう連れて行こうか、と思案しつつ部屋を見回して、いいものを見つけた。
「うにゃう」
「これについてくるんだよ、いいね」
「みゃう」
いつかどこかの誰かにお土産にもらった、ふわふわしたキーホルダーで、航介の気を存分に引く。たしたし、と猫パンチを繰り出している彼の体と自分の体を紐で繋いで、リード代わり。ふんふんと目を輝かせておもちゃに夢中になっている航介に、これ以上噛まれないようにと着込ませて、自分も同じく準備を整える。探したらバールがあったので、ベルトに挿して持っていくことにした。そんなこんなしている内に、鳴り響き続けるサイレンにゾンビたちは集まって、見える範囲には二体しかいなくなった。これなら抜けられる。車にさえ乗り込めば、轢き殺して仕舞えばいい。
「……治してあげるからね」
「にゃっ」
「あいった、ねえ、聞いてんの」
ばし、と頭に猫パンチが飛んできて、頬を抓った。てめえ、噛まないからって何してもいいわけじゃねえぞ。少しだけ笑って、バリケードを崩して、走り出た。揺れるキーホルダーに、獲物が動いた錯覚を受けた航介が、にゃごにゃごとついてくる。動くものに反応して、ゾンビが走り寄ってくる。航介を押し込んで、車の扉を閉めて、キーを回してエンジンを、
「うっわ!」
「ふしゃっ」
かけようとしたところでゾンビに追いつかれて扉をこじ開けられた。しかしながら、残念なことに航介の愛しのおもちゃであったキーホルダーをそのゾンビが引き千切ってしまったので、頭にきたらしい猫はゾンビの頭蓋を破壊した。飛び降りて止めを刺そうとする航介を無理やり押しとどめて、発車。法定速度なんて守ってられるか。獣丸出しの顔で窓の外を睨んで、尖った歯を剥き出しにしている航介を見て、引いた笑いが浮かんだ。俺、こいつに食われんの、マジ怖い。踏み込んでアクセル全開にしながら、片手で恐る恐る航介を撫でると、くたんと膝の上に伏せられた。少しは落ち着いたらしい、すりすりと手のひらに頭を押し付けられて、震える声で応えた。
「よ、よしよし……」



収拾つかないのでオチないです

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