このサイトは1ヶ月 (30日) 以上ログインされていません。 サイト管理者の方はこちらからログインすると、この広告を消すことができます。

ウイルス性多重機能不全人格崩壊症候群




:ケース1
「猫だ」
航介の声に振り向けば、自動販売機の下の暗がりに、猫が一匹横たわっていた。黒っぽいそれは、目だけが爛々と光っている。こっちを見ている割に動かないその猫に、野良だから手なんて出しても無駄だよ、と口を出したけれど、こんな見た目で存外子どもと動物が好きな幼馴染みは俺の言葉を取り合うわけもなく。出てこい出てこい、と指で釣ろうとする様が、ちょっとおかしかった。食べ物じゃないんだから、来ないでしょう。
「来た」
「ええ?」
「……怪我してる」
「どこ……うわ……」
「痛かったろうにな」
覗き込んで見れば、喧嘩したのか車にでもぶつかってしまったのか、背中側の皮膚がざっくりと抉れ、血が固まっている猫が、ゆっくりと自販機の下から出てきた。自分のことでもないのに悲しげな顔をした航介は、特に何も厭わず当たり前のように猫を抱き上げて、動物病院に行けばいいのか、とこっちに問いかけてきた。飼い猫とか野良とか、その言うのほんと心底関係ないんだよね、この人。そうじゃないの、と俺は答えて、少しだけ呆れる。これを優しいと見るか、お節介と見るか、周りを見捨てられない弱い人と見るかは、お任せする。丸く見開かれた目の割に大人しく腕に収まっている猫が、航介の顔を見上げて、にゃあお、と鳴いた。大きく口を開いたその黒い猫は、まるで既に死んでいるように首を仰け反らせて、おもちゃみたいな速さで噛み付いた。剥き出しだった、航介の腕に。
「あいって!」
「あっ、馬鹿!」
「いっ、だ、だいじょぶ」
「大丈夫じゃないでしょ!どっか行け!」
「ねこ」
「猫より自分の心配してよ!」
「……でも」
あの猫、怪我してたのに。俺が追い払った猫の走り去った先を見た航介の腕には、くっきりと猫の噛み跡がついていた。じわじわと血を流すそこにティッシュを当てて、なんか変な病気貰ったらどうすんだとか、お人よしも大概にしろとか、俺はぐだぐだ文句を言った。しゅんとしている航介は、また同じ状況にあったなら、今と全く変わりなく行動するんだろうけど。そういう奴だ。言い聞かせ甲斐がない。
その日の晩、世界は一変した。平凡ほのぼのゆるふわ系日常ものから、残虐描写満載のスプラッタホラーへと。



:ケース2
『昨晩より、国内で相次ぐ暴力事件について、特集です』『自らが傷を負うことも厭わず、目に映った相手に襲いかかっている、ということでしょうか?』『ていうかゾンビだよ、あれ。ゾンビ。車に轢かれてもビルから落ちても追っかけてくるんだから』『政府の迅速な対応が求められています』『身の危険を感じたら、直ちに警察への連絡、もしくはこちらの番号へお問い合わせください。その際、現在地をGPS追跡させていただきますので、置かれている状況などの詳しい説明は人員到着後になります』『国内は安全ではないという事実については、全くの無根でございます』『頭を潰したら動かなくなるらしいけど』『警察もやばい、あいつらもとっくにゾンビだし』『一部内容を変更してお送りしております』『人が人を襲う、自爆テロのようなものなのでしょうか?』『テレ東でアニメやってないから、もうだめだ、終わった』『一部内容を変更してお送りして』『一部内容を』『しばらくお待ちください』
どうやら、この世界は終わったらしい。
「はあっ、はっ、あ″ー、もう、くっそ……」
「……っ」
かたかたと震えている弁当の指先を、必死になって握りしめた。酷く冷たくて、嫌になる。けれど、一人じゃなくて、二人だということだけが、今の心の支えなのだ。弁当とここまで逃げてこられたという事実が、足を止めずに動かすとができる唯一の糧になっている。
ここまで逃げる間に、何人も死んでいるのを見た。何人も食われているのを見た。何度も襲われかけたから、何人も殺した。拾った鉄パイプが折れるくらい、殺した。涙なんか枯れたし、悲鳴を上げたら死体たちが集まってくるのだと知ったから、声すら出なくなった。充電の切れそうな携帯電話は、もう有益な情報なんて流しちゃくれない。テレビもラジオも、機能してない。何故かって簡単、作り手側が死んだから。フル稼働で動いて情報を提供しているのは、ネットの掲示板だけだ。
「……なあ、これ、見ろよ」
俺たち、見捨てられたみたいだ。無理やり笑いながら弁当に向けた携帯の画面には、顔くらいは見たことがある外国の偉い人が、厳しい顔で会見を開いている。下に表示された字幕には、本日22時、都市部を中心に爆撃を開始、この放送が伝わっている者は直ちに離れることを推奨、と書いてあった。そう、ゾンビはこんなの見れないから、焼き払っちまえってこと。まだ生きて、必死で逃げてる俺たちが、万一巻き込まれても、しょうがないってこと。そりゃそうだ。百を救うためには一の犠牲くらい仕方がないのだ、社会はそう出来ている。それを今更宣告されたところで、悲しくもなんともない。なんとも、ないのだ。
ウイルス性多重機能不全人格崩壊症候群、とかいう馬鹿みたいに長い名前の付けられたこの病気は、分かりやすく言えば、動く死体に噛まれたら貴方も動く死体になります、レッツハッピーゾンビライフ、以上。ってことだ。突然流行が始まったこの病は、瞬く間に国土全体に広がって、どこへ行ってもゾンビだらけ、感染者続出、逃げ場も打つ手もありません、というパンデミックを瞬く間に引き起こした。何の情報もないまま狂乱の中に叩き込まれた俺たちは、襲いかかってくる死体から必死になって逃げて、殺して、逃げて、殺して、今に至る。ここが何処だかは知らないけれど、なんか、どっかの山奥だ。人気のない方へと逃げればいいんじゃないかと、俺に襲いかかってきたゾンビの首を撥ねて殺した弁当が、散々嘔吐して焼けた喉で提案してきたから、ここまで来た。そしてその見立ては、間違っていなかったのだ。街中では、どこ見ても唸り声を上げて徘徊する人影に怯えなければならなかったのに、ここまで来る間閑散とした道中にはそんな奴いなかった。いても一人か二人、それなら二人掛かりなら殴り殺せた。
ここにも爆撃が来るのかな、と真っ白な顔で呟いた弁当が、座り込んで膝に顔を埋めた。もう疲れたよな、俺も疲れた、こんなことならここまで逃げなければよかった。一人で逃げるのが嫌だったから二人で必死に逃げたけれど、それなら二人で大人しく噛まれておけば良かったんだ。奴等は、空想の中に生きている。過去に囚われて生きている。日々のルーチンワークを忘れられないから、頭から血を流して皮膚を腐らせて内臓を露出していても、徘徊しながら呟くのは、日常生活と全く同じ言葉なのだ。そうなってしまった方が幸せだったのかもしれない。血に塗れた服は、嫌な匂いがした。
「……腹減ったよな」
「……そ、だね」
「帰ったらさあ、シチュー食おうぜ。弁当なに食いたい?」
「シュークリーム」
「ははは、甘っ」
「白いご飯と、お味噌汁と、厚揚げ」
「肉じゃがとかな」
「……帰りたい」
そうだなあ、と零した。帰る場所なんてもうないのに。らしくもなくふにゃふにゃと笑った弁当はもう震えていなかった。今ここで殴り殺してやった方がハッピーエンドなように思えて、仕方がなかった。

1/2ページ