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不思議の国のアリス



「あ、っ」
塀だ。ぽつり、吐き出した声は、喉がからからなせいで酷く嗄れていました。木々の向こう側に、鉄格子の塀が見えます。ぱたぱたと駆け足になったこーちゃんは、逸る気持ちのまま、飛びつくように森を抜けました。誰かいないかと覗き込むため、がっしゃん、と割と大きめの音で格子を鳴らしました。そして、あれよあれよと言う間に。
「……えっ」
「これより、アリスの裁判を始める」
「王様のいない内に城に侵入しようとした刑である、故に罰は重く」
「ショコラ・クラシックの刑はどうだ?」
「生温い。グランマルニエにしよう」
「なに、おい」
「話すことは許可していないぞ、アリス!」
「パリブレストにしよう!」
「ダコワーズもいいぞ」
気づけばこーちゃんは、丸く囲われた木の枠の中にいました。周りでは、トランプ兵の格好をした裁判官と裁判員が、がやがやと話し合っています。どこかで聞いたことのあるような横文字に、なにをされるんだ、とじりじり下がろうにも、体の周りを囲む枠は小さく、すぐに腰が当たりました。城に侵入なんてしてない、やっと森を抜けられたかと思ったのに、もしなんか食わされたら帰れなくなる、時計兎の手掛かりも掴めていないのに!
かんかん、と裁判長らしきトランプ兵がガベルを鳴らしました。途端に静かになった兵士たちが、こーちゃんの方に向き直ります。判決を言い渡す、と響いた声といくつもの目に、びくりと体が強張りました。今すぐに木枠を飛び越えて逃げてしまおうか、と本気で思い、手に力を込めたこーちゃんの後ろで、扉が開く音。つかつかとこーちゃんの横をすり抜けた彼は、トランプ兵に向かって大声を上げました。
「こら!ばか!なにしてんだ!」
「国王陛下!」
「このアリスは悪いアリスです!」
「城に無断で立ち入りました!」
「遊びに来た友達を不法侵入で訴えるわけあるか!頭固いな!もう!」
また朔太郎の時計を勝手に使ったんだろ、突然状況が変わると人間は驚くんだって紙っぺらのお前らに俺は何度も教えたぞ、馬鹿に馬鹿って言われて恥ずかしくねえのか、俺も馬鹿だけどお前らのがもっとやばい、次やったら俺王様やめるからな、ほんとにやめちゃうんだからな!とあまり迫力無くトランプ兵たちを叱っている背中は、どうにも見覚えのあるものでした。王様、国王陛下、という呼び名に相応しいとは思えない、着古して草臥れた青いジャージを上下揃いで着て、明るい色の頭に、ぺったんこのスニーカー。どこが国王陛下でしょう。さっきまで勢揃いしてきた登場人物たちはみんな正装だったというのに、こいつだけどうしてこうなのでしょう。いくら自分の夢とはいえ、こーちゃんは何と無く可哀想な気持ちになりました。そんなことは露知らず、叱られているトランプ兵たちは、しおしおと萎れていきます。くしゃくしゃになってしまった彼らに、絶対だめなんだからな!ともう一度大きな声を上げた彼が、振り向きます。
「ごめんなー、びっくりさせて」
「……有馬……」
「アリス、じゃねえや、航介が来たら教えろっつったのにさあ、こいつら脳味噌が紙屑だから覚えてらんねえんだ」
「……お前、王様なのか」
「うん」
あまりにあっけらかんと、当たり前のように頷いた青の王様は、朔太郎ならこっちで待ってるよ、と歩き出しました。木枠を飛び越えたこーちゃんも、ついていきます。大好きな王様に叱られたトランプ兵たちは、しくしくと泣いていました。
朔太郎の時計を勝手に使った、とさっき有馬くんは言いました。現にここに彼がいるのなら、それは納得の理由です。先程こーちゃんは、気づいたら裁判所でトランプ兵たちに囲まれていたのです。それは、ふわふわのソファーと螺旋階段の部屋でさくちゃんが時計を使った時を思い起こさせる突拍子の無さでした。あんな大事な時計を他人に渡すな、と二度も弊害に遭っているこーちゃんは憤りを感じましたが、後の祭りです。
裁判所を出て、いかにもお城ですと言わんばかりのバルコニーを抜けて、真っ白な壁に囲まれた階段を降りた先は、庭園でした。様々な色や形の花々が咲き乱れるそこは、きちんと整備され、美しく纏められています。薔薇のアーチまで拵えられた小道を抜けて歩く中、何の気無しにどちらからともなく、二人は口を開きます。
「ハートの女王様の方行かなくてよかったな、航介」
「ん?」
「あっちの兵隊は俺んとこみたいに紙屑ばっかりじゃないから、強いし怖いんだって」
「へえ」
「ていうか、ハートの兵士の落ちこぼれをここで雇ってやってるだけなんだけど」
「まあ、上がお前じゃあな……」
「なんだと」
「でも真面目で上司思いじゃん。俺のこと不審者だと思ったから捕まえたわけだし?」
「そうだけどさ。やだったろ」
「びっくりはしたけど、なんともなかったからいいよ」
「……航介って変なとこ心広いよな」
「変?」
「なんでもない。あれ、いなくなってる」
「なにが」
「朔太郎。さっきまでここにいたんだけどな」
ジャーマンアイリスの花壇の前でしゃがみ込んだ有馬くんは、きょろきょろと辺りを見回しました。確かに土は濡れていて、誰かがいた形跡があります。つられて見回したこーちゃんは、この庭園に四季がないことに気がつきました。桜の木が花弁を舞わせている隣で向日葵が咲き誇り、金木犀のいい匂いがしてくる中に大輪の椿がいくつか見えます。他の花の名前は分からないけれど、と思いつつもよくよく目を凝らせば、綺麗とは言えないけれど乱雑過ぎるわけでもなく、かといって何故だか読みにくくもない字で、立て札がついているのが分かりました。いやに見覚えのあるそれが誰の字かって、行方不明の時計うさぎの字です。わすれなぐさ、りなりあ、すのーどろっぷ、と平仮名で書かれたそれを追いながら庭園を歩いて行くと、有馬くんが足を止めました。
「ん」
「うおっ」
「いたいた。朔太郎」
「あっぶねえな、急に止まんな」
「あー、有馬くん、航介」
「ぶわっ」
「つめってえ!」
振り向いたさくちゃんが持っていたホースから発射される水で簡易シャワーを浴びせられた二人は、突然びたびたに濡らされたことに対して驚いて、取り敢えずばたばたと暴れました。さくちゃんは無責任にも大笑いしました。酷いうさぎです。
ぐっしょりになったこーちゃんは、まあ不愉快なことこの上ありませんでしたが、先に用事を片付けることにしました。追いかけて来いと言われたからここまで来たのです。目的は、時計うさぎに会うことではなく、家に帰ること。ここまで来てやったんだからきちんと教えろ、とにじり寄れば、髪から水を滴らせているこーちゃんから、引き攣り笑いのさくちゃんは一歩引きました。お前のせいでこうなったんだよ!と怒鳴りたい気持ちでしたが、こーちゃんは大人なので堪えました。
「えー、帰るの?」
「もうちょっといろよお」
「ねー」
「帰るよ!こっちは早く帰りたくてここまで来てんだよ!」
「楽しかった?」
「早く帰って寝たい」
「はいはい、つまんない脳味噌。航介は楽しくなかったんですってよ、有馬くん」
「楽しくなかったのか……」
「……別に、楽しくなかったわけじゃなかったよ……」
「そう?じゃあまだ居なよ」
「帰るっつってんだろ!」
「ちぇっ」
有馬くんとさくちゃんは二人して口を尖らせましたが、こーちゃんは特に罪悪感を感じませんでした。こんな終盤でごねるんじゃない、といっそ諭したいくらいに思いましたが、もうとにかく家のベッドが恋しくて恋しくて堪らなかったので、黙っていました。自宅って素晴らしいとこんなにも思ったことはありません。
そうだそうだと花壇の方を向いたさくちゃんはすぐにこーちゃんへと居直り、真っ白な花を差し出しました。花弁にたくさんの細かな切り込みが入った、小さな花です。
「じゃあこれあげるね」
「……これだけ渡されても」
「いいからいいから。鷺草って花だよ、白鷺が飛んでるみたいでかわいいでしょ」
「俺は帰り方を聞いてるんだけど」
「また来いよな!」
「だから!」
「まったねー」
帰り方を聞いてるんだって、と言いかけたこーちゃんの言葉は途切れました。とん、とさくちゃんに軽く突き飛ばされた先は、深い深い穴だったのです。有馬くんがぶんぶん手を振っているのが見えます。どんどん遠ざかるそれは小さくなって、やがて、ぷつんと。


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