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不思議の国のアリス


チェシャ猫の森を、ハートの王様の城方面に向けた先。木漏れ日の隙間に、その場所はありました。帽子屋のお茶会。参加自由、時間自由、飲み食いに制限無し。ただホストである帽子屋がお仕舞いを宣言した時にだけ場の幕が降ろされる、実に緩やかなお茶会です。ぴちちと鳴く鳥たちから、今からここに可愛いチェシャが来るよ、貴方の愛しの猫がここに来るよ、と知らされた帽子屋は、まったりと飲んでいたお茶を勢い良く放り出して、眠りねずみと三月うさぎを追い出しました。曲がっていた帽子を直し、緩んでいたネクタイを締め、まだ木の隙間からどうしたんだと覗いている二匹をしっしと追い払います。食べかけのスコーンも、割れたクッキーも、飲みさしの紅茶も、みんなみんな可愛い猫に見られるわけにはいきません。気紛れで我儘な猫に呆れられないよう、帽子屋はいつでもいつまでも、必死なのです。
うきうきと支度を整えた帽子屋は、今か今かと大好きなチェシャ猫が現れる時を待っていました。今日は新しいフレーバーティーを用意しましたし、あの子の好きな真ん丸くて満月みたいなクッキーもたくさん焼きました。カップケーキには星のようなアラザンを乗せて、焼きたてのスコーンの隣にはクロテッドクリームと果物のジャムをいくつも並べて、チェシャ猫がいつ来ても笑顔で迎え入れられる準備は、完璧に整えられています。いつでも大歓迎、どんな我儘でも聞き入れるだけの準備ができました。
それなのに。
「……………」
「……あの、なんか、わる」
「航介何も悪いことしてなくない」
「かっ、」
「だから謝らなくても良くない」
「早えよ!真顔怖えんだよ!」
「別に俺が一人で舞い上がってただけだし航介が一緒ならしょうがないなんて分かってるし」
「わああ」
らしくもない真顔と早口で自分に言い聞かせている小野寺くんに、こーちゃんは耳を塞ぎました。そもそもの発端である伏見くんは、真ん丸のクッキーを叩き割ってもぐもぐしています。どうにかしろと目で助けを求めたものの、知らんぷりされました。薄情者です。
わくわくそわそわしながら大好きな猫を待っていた帽子屋、小野寺くんの目に飛び込んできたのは、森を抜け二人連れ立って歩いてくるこーちゃんと伏見くんの姿でした。自分が隣を歩こうものなら、伏見くんは一人ですたすたと先に行ってしまうか、もしくは突然道を逸れる彼を追うので小野寺くんは必死だというのに、あのいちゃつきようはなんだと言うのでしょう。腕まで組んで、これが寝取られか、全然興奮しないではないか、話が違うぞ。混乱のあまり訳の分からない方向へ飛んでいく小野寺くんの思考を止められる相手はいませんでした。そんな小野寺くんの心境に、現実問題こーちゃんが伏見くんをどう思っているか等は関係ありません。どちらかというとこーちゃんは伏見くんにまとわりつかれることで精神的に疲弊していくばかりなのですが、そんなことを小野寺くんは知りませんので、意味も無く。ぴこぴこと尻尾を揺らして歩いてきた可愛い伏見くんが、おのでらあ、と手を振ったのにも反応できないくらい、小野寺くんは打ちのめされ、悄気ていました。俺といる時の五億倍は楽しそう、と嫌味でもお世辞でも僻みでもなく、素直にそう思った小野寺くんは、しゅんと肩を落として二人に適当な挨拶をしました。その様子に首を傾げたのはこーちゃんだけで、伏見くんは目の前に山積みにされた出来立てのお茶菓子に諸手を挙げて飛びつきます。そして以下略、現在に至るのです。
「……俺、もう行くから」
「なんで。どこ行くの」
「いや、だって」
「航介が行ったら伏見も着いてくんでしょ、二人はそんくらい仲良しなんでしょ」
ぷん、と小野寺くんはそっぽを向きます。こーちゃんは途方に暮れました。さくちゃんの行き先を知りたくてここまで来たのに、相手がこれではそんな話出来そうにありません。機嫌が直るまでしばらく様子を見るしかないか、と椅子に腰掛けたこーちゃんは、長居することに決めました。とはいえ、伏見くんは粉砂糖のかかったクッキーをぱきぱきと食べ続けていますし、小野寺くんは拗ねたままです。どうしたらこの状況を打破できるだろうか、と首を捻ったこーちゃんの口元に、ずいっと何かが差し出されました。
「ん」
「……いや、食えねえけど……」
「あーん」
「……………」
「ちぇっ」
無言で首を横に振ったこーちゃんに差し出したクッキーの欠片を、伏見くんは不満そうに引っ込めました。あーん、なんて目の前で見せ付けられたら小野寺くんは憤死してしまうかもしれませんし、そもそもこーちゃんはここでは何も食べられません。さっきもそう言ったじゃないかと溜息をついたこーちゃんのことを無視した伏見くんは、行き場の無くなったクッキーの欠片を彷徨わせて、ふいっと小野寺くんの方へ向けました。
実にあっけらかんと、まるでそれが当たり前のように、ただの気まぐれで、食べる?とクッキーを差し出された小野寺くんの喜びようと言ったら、言葉では言い表せない程のものでした。影から見守っていた野次馬な小鳥たちが、あいつやっぱり頭が傷んでる、と捨て台詞を吐いて飛び立ってしまったくらいです。そりゃチェシャはみんなが認める素敵な猫だけれど、あんなに首ったけになっちゃいけない。あれじゃどっちが飼い主か分かったものじゃない、猫に飼われる帽子屋なんて聞いたことがない。そうぶつくさ揶揄されていることも知らずに、ちっちゃな欠片を後生大切そうにちまちま食べる小野寺くんの機嫌は、回復の兆しを見せました。
「お茶」
「ん!」
「手抜きするなよ」
口に入れたクッキーをもごもごさせながら、伏見くんに顎で使われる小野寺くんはかたかたとカップの用意を始めました。小さなやかんに水を汲んで、ことことと沸かします。お茶会って言うからにはちゃんとした紅茶を出すんだな、と感心したこーちゃんは、三月うさぎや眠りねずみしかいない時のお茶会で「今日これでもいい?」とペットボトルの紅茶が割と高頻度で使われていることを知りません。それすらない時は、下手したら炭酸飲料です。雰囲気なんてあったもんじゃありません。知らぬが仏、という言葉もあるくらいです。知らない方がいいことも、この世にはあります。
「そういえばさ」
「んー?」
「なんで俺って、ここで飲み食いしちゃいけないんだ?」
小野寺くんが機嫌を取り戻したことを察したこーちゃんは、ずっと疑問に思っていたことをぶつけてみました。夢の中で物を食べたら帰れなくなるからとか、そういう散々言われた分かりきった理由ではなく、そのもう一つ前。どうして帰れないのか、が気になったのです。これまでその疑問に答えてくれる人はいませんでしたが、伏見くんなら知っているかもしれません。ついでに小野寺くんには、時計をぶん回して消えた兎の行き先も聞きたいのですが、まだ幸せの絶頂から帰ってこないので、伏見くんへの質問を先んじることにしたのでした。
「食べてもいいんだよ。別に」
「へっ」
「な、小野寺」
「うん。食べちゃいけないわけじゃないよ」
「でも、帰れなくなるって」
「食べたら帰れなくなるんだから、帰りたくなかったら食べてもいいんだ」
「……そういうこと」
「それで、なんで帰れなくなるのか知りたいんだろ?」
「食べたら俺死ぬの?」
「いや、別に」
「死んじゃいそうなくらい、ものすごく美味しいんだよ」
だってここはアリスの世界。夢の中の世界。きっと食べ物や飲み物はみんなたまらなく美味しく、貴方のために拵えられている。貴方の一番の好みの味に、貴方の一番好みの匂いに。もう目なんて覚ましたくなくなってしまうくらい、魅力的で美味しい御馳走。そんな言葉に、こーちゃんはふと思いました。確かにそういえば、ここに来てから魅力的でなかったものなんてないのです。壁に沿って山積みにされた本、不可思議な時計、薄水色の飴玉、心地良く柔らかな木漏れ日。どれを取っても、こーちゃんが嫌う筈のないものばかりでした。魅力的、の一言に彼は納得します。この世界はどうやら自分のことを手放したくないらしい、と。
その納得と同時に、こーちゃんは思いました。どう足掻いてもこれは夢、自分の頭の中で起こっていることなのだとしたら、道に迷うことはおかしいのではないか。だって、知っていることしか起こらないのだ。未知のことは有り得ない。だとしたら、この森だって、知った道のはず。そうぼんやり思っていると、カップを温めて、沸騰したお湯をポットに注いでいた小野寺くんが、ぱっと顔を上げました。
「そろそろ、道が分かった?」
「……ん?」
「どっちに進むのが正解かなんて、俺は知らないんだ」
知っているのは航介だよ。そう告げられて、こーちゃんはふらりと椅子を立ちます。確たる証拠も無ければ、絶対の確信もありません。それでも、幼馴染みの姿をした時計兎がいるのは、こっちのような気がするのです。酷く曖昧でふわふわした、気の所為と言って仕舞えばそれまでの感覚に任せて足を進める彼を、猫と帽子屋が見送りました。
「迷子になったら帰っておいで」
「待ってるねー」

どれだけ歩き続けたことでしょう。時間の感覚がないということが、これだけ疲弊を誘発するだなんて、こーちゃんは知りませんでした。ふらふらと当て所なく森の中を歩く中、帽子屋と猫のお茶会へ何度引き返そうと思ったことか。それでも足を進められるのは偏に、これは自分の夢の中、未知のことは起こらない、という希望のおかげでした。鳥の囀りに急き立てられるように、さっきも見たような道を、木の葉や枝を払いのけながら歩きます。彼が気づかない間に、木々の隙間はどんどん細くなり、道ならぬものへとなっていました。それでも足を進めます。その道の先は、幸か不幸か、青の王様のお城でした。

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