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不思議の国のアリス



彷徨い歩くこーちゃんのお腹が、ぐううと鳴りました。鬱蒼と茂る森の中、風で揺れる木々の木漏れ日に包まれながら、鳴き喚く腹の虫を必死に宥めながら、完全に迷子のこーちゃんは歩き回っていました。
当也くんと別れて扉を潜ると、目の前に広がるのは森でした。なんだこれはと振り向いた時には今来た扉は無く、道もはっきりしない木々の群れが立ちはだかるばかり。おろおろと進む内に、何処へ辿り着きたいんだか分からなくなってきてしまいました。歩き疲れて、お腹が空いてきて、喉が渇いてきて、迷子になった不安に苛まれて、可哀想なくらいに消耗しているこーちゃんに道を教えてくれる親切な登場人物はいません。本当に元の生活に戻れるんだろうな、とここにはいないさくちゃんと当也くんの顔を思い出しては疑いつつ歩いたこーちゃんは、ついに足を止めました。何故かって、さっきもこの道を通った気がします。この大きな穴が空いた木には見覚えがある、だからきっとさっき通ったはずの道に戻ってきてしまっている、と思った途端、進む気力が失せてしまったのです。深く溜息をついて木にもたれかかるように座り込んだこーちゃんの頭上を、がさがさと何かが駆け抜けました。びくっと跳ね上がって見上げたものの、さやさやと葉が揺れるだけで何も居ません。鳥や栗鼠のような小動物だったのでしょうか、それにしては重い音でしたが。確かに何かが通り過ぎた音がしたのに、と辺りを見回したこーちゃんは、ぞっと全身に鳥肌を立てました。
「だーれだっ」
「ひっ」
真後ろからにゅっと伸びてきて目を隠した冷たい手に悲鳴を上げて固まったこーちゃんに、ねえってば、だーれだっ、と声は重ねて問いかけます。絶対に聞き覚えのある声なのですが、恐怖に身を凍らせている今、そんなことを考える余裕はありません。無言のまま固まってしまったこーちゃんに、もお!と怒ったように手を離した背後の彼は、木を駆け上がってぶらりと目の前にぶら下がりました。
「だーれだ!って聞いてるでしょ!」
「……ふ、ふしみ」
「せいかーい」
ぱちぱちぱち、と気の抜けた拍手で祝われて、どっと息を吐きます。冷や汗とかいうレベルじゃなかった、死んでしまうかと思った。硬直から解き放たれたこーちゃんがそう細々と言うのに対して、ふうんへえそっかあ、と伏見くんは全く気にしていないようでした。なんて酷いやつでしょう。
ひょこりと頭から生えた三角の耳と、腰下からにょろりと伸びている太めの尻尾は、どちらもふかふかのふさふさです。同じくもこもこ素材の短いズボンは赤みがかった暗い紫色で、サスペンダーで止められていました。トレボットーニのボタンダウンシャツをかっちりと着込んでいるので、きちんとしているようでいて、どう見ても頭の付近と腰回りがおかしいあたり、さくちゃんと似ています。ズボンが短い分足を露出するつもりがあるのかと言われればそれは全く無いようで、肌は一分の隙もなくタイツで隠されていました。ズボンが葡萄色とするなら、タイツは黒紅梅で、シャツのボタンは葵色。同じ紫系統で揃えられているらしい全身を締める足元は、もこもこした折り返しのブーツです。サイドボタンで留めて折り返されているふわふわは、耳や尻尾と同じ黒でした。髪や目の色と同じ、黒曜石の色。にやにやと笑う伏見くんがくるんと木から飛び降りて、こーちゃんに近づきました。
「じゃーん。ここにチョコレートがあります」
「……食わねえぞ」
「お腹空いてるでしょ?」
「もー、お前そういうとこやだ」
「食べようよお、あーんしてあげるから」
「いらない」
「あーん」
「いらねってば!」
つまんない!と唇を尖らされても、こーちゃんにはそれを受け取れない理由がきちんとあるのです。出口は何処だとこーちゃんが伏見くんに尋ねれば、ぷいっとそっぽを向かれました。完全に拗ねています。こーちゃんが察するに恐らく彼のポジションはチェシャ猫で、突然現れてはにまにま笑ってアリスを撹乱するのが目的であって、それはそれで伏見くんにぴったりではあるのですけれども。伏見くんが自分にとびきり懐いてくれていることもこーちゃんは知っていますし、人見知りの激しい彼が心を開いてくれたことをとても嬉しく思っています。だからまあなんというか、要するに、こーちゃんは伏見くんに甘いのです。伏見くんに甘くない人間なんて滅多なことでは存在しないのですが、その中でもこーちゃんはぶっきらぼうなふりしてとびっきりに甘々なのです。その様たるや、幼馴染み二人が時折本気で気持ち悪がるくらいなのですから、相当のものでしょう。とにかく、さくちゃんの言うことに従ってしまったようなこーちゃんのしたことと言ったら、たった一つでした。すっかり拗ねてしまった、甘えたで意地っ張りな友人の、ご機嫌を取ることです。そっぽを向いた伏見くんは大変分かりやすくご機嫌を損ねているので、こういう時には彼が口を尖らせて吐く言葉に対して、ぺこぺこと下手に出て過剰なまでにおだてれば、すぐに持ち直すでしょう。付き合いの長い小野寺くんや、伏見くんの扱いに慣れている当也くんなら、きっとその方法を思いつきました。しかしながら、こーちゃんはこーちゃんなのです。そんな器用なこと、思いつくはずがありません。クソ真面目に、一応は穏やかな口調で、事のあらましの説明を試みました。
「あのな」
「知らない。馬鹿。聞こえない。航介なんか帰れなくなればいい」
「なんてこと言うんだ」
「だって、俺を置いて帰るなんて、ひどい。来るの待ってたのに、お菓子我慢して」
「それは、でも、帰れないと困るんだよ」
「やだ」
「なんで」
「航介すぐ他の人のところ行くもん。俺が一緒にいたい時に一緒にいてくれない」
「……そりゃ、お前だって俺以外に友達いるだろ?」
「いるけど、航介といたいなあって時に航介は俺といてくれないでしょっつってんの!」
「我儘だなあ!」
「そんな世界には帰るな!ここにいて未来永劫俺と暮らすんだ!」
「そんなことしたら俺死んじゃうだろ!寝っぱなしじゃ生きてけねえよ!」
「それはやだー!」
「なにがしたいんだ!」
「いや、なにしたいって程なんかあるわけじゃないけどさ……」
取り敢えずこの森からはただじゃ出さねえ!と言い切られて、こーちゃんは疲れが倍増した気になりました。既にお腹は減っているのです。余分に体力を使いたくはありません。
「なあ、出口教えてくれよ」
「やだです」
「こっちがやだよ」
「自分で行けばいいじゃん、俺のことそんなに置いて行きたいならさっ」
「分かった」
「えっ」
「自分で探す」
手を煩わせてすまなかったとご丁寧に謝ったこーちゃんは、座り込んでいた木から離れて立ち上がります。突然の彼の行動に目を丸くして、えっ、えっ、と驚きの声を上げながら自分の後ろをちょこちょことついてくる伏見くんを無視するこーちゃんは、こっちか、あっちは行ったことがないな、と足を進めます。迷わせるためのチェシャ猫の森です、土地勘も無ければ疲れで当て感も働かないこーちゃんに、抜けられるわけがありません。伏見くんにはそんなことが分かっていたから、さっきからやりたい放題に我儘を言っていたのです。まさかこーちゃんがそんな手に出るとは思わず、最後には自分に頼ってくるのだろうと思って。
「ねえ、そっちじゃないよ」
「伏見の言うことは信じない」
「な、なんで」
「だってお前、俺にここにいて欲しいんだろ」
そんな奴の言うことは信じられないと言い切って木の枝を掻き分けるこーちゃんに、伏見くんはがつんと頭を殴られた気になりました。ショック、なんてもんじゃありません。崖から突き落とされるよりもっと怖くて、冷水を頭の上からぶちまけられるよりもっと凍えそうな、どうしようもない気分になったのです。黙ってしまった伏見くんに、流石に言いすぎたかな、と罪悪感を感じ、そっと振り返ったこーちゃんは、ぎょっと目を剥きました。細いままですが。
「うええ」
「なっ、どっ、泣くなよ!」
「えっ、ぐ、ぅ、ぅっ、ふぐっ」
「泣くなって、ほら、もう」
「ひっ、ひっく」
顔を手で覆ってしくしくと泣き出した伏見くんに、顔を青くしたこーちゃんは駆け寄って慰めました。まさかそんなに傷つくとは思ってもみなかったのです。焦っているこーちゃんは、伏見くんの尻尾がぴんと垂直に立っていることに気がつきませんでした。それに気がついたとしても、尻尾がどうしてそうなっているのかの意味なんて、彼が知り得るはずもありません。猫の尻尾が垂直に立っている時、猫は喜んでいるのです。とどのつまり、伏見くんは泣いてなんかいませんでした。騙し欺き迷わせることが責務のチェシャ猫の、本気の嘘泣きを見破れる程にこーちゃんが卓越していたのなら、こんなことにはなっていません。はらはらと嘘の涙を流す伏見くんは、顔見せろ、まさか痛いとこがあるのか、と心配するこーちゃんに、首を横に振ります。手の中で、唇は三日月のようににんまりと上がっていました。伏見くんを泣かせてしまったことに対してこーちゃんがとてつもない罪悪感を覚えているであろうことは、まったくもって猫の狭い掌の上。踊り狂わされていることに、優しいこーちゃんは気づいていません。
「悪かった、悪かったよ!だから泣くなよ!」
「うええん」
「ほら!撫でてやるから!」
「ぴぎゃっ、いっ、いたいよお」
「うわ、悪い!じゃあ、ほら、ええと、しばらく一緒にいてやるから!な?」
「しばらくってどのくらい?」
「えっ」
「どのくらい?三日?五日?一年?」
「えっ、えっと、一時間くらいかな……」
「うええええ」
「駄目か!?二時間ならどうだ!?」
「……ええん……」
「だ、駄目かあ……」
「……次のとこまで俺もついてく……」
「えっ?道案内してくれんのか?」
「……………」
「なあ」
「……ついてく」
「案内してくれんのはありがたいけど」
「おぶって」
「やだよ。重い」
「重くない」
「どっちだ?こっちか」
「違いますう、航介のおばかちん」
けろっと泣き止んで、この先同行することで納得してくれたらしい伏見くんに、こーちゃんは首を傾げながらついていきました。ぴよぴよとゆっくり揺れる尻尾は、伏見くんが機嫌良く安心している証拠でしょう。


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