このサイトは1ヶ月 (30日) 以上ログインされていません。 サイト管理者の方はこちらからログインすると、この広告を消すことができます。

不思議の国のアリス



縛られた腕が解けた頃には、すっかりこーちゃんの手は痺れてしまっていました。帰り道を知っているらしい時計うさぎは、階段を駆け上がって何処かへ消えてしまいましたので、それを追いかけなければなりません。途方も無く長い螺旋階段でしたが、幸いなことにこーちゃんは体力には自信があるので、そんなに悲観しませんでした。
「……鍵」
螺旋階段をてっぺんまで上る途中、本棚の隙間に扉がありました。一応ノブを捻ってみたものの鍵がかかっているその扉には、木枠の掛け看板がついています。『一番下から五十六段目、緑の背表紙の純文学』と書いてあるそれを見て、しばらく固まったこーちゃんは、諦めたように溜息をつきます。今が何段目かなんて分かりませんし、段数を指定されてしまえば一番下に降りて数え直すしかありません。どこか見覚えのあるその字に既視感を覚えながらも、とたとたとせっかく登った階段を降りていきます。きっちり五十六段数えて登れば、緑の背表紙に金字でタイトルが印刷されている本が三冊ありました。純文学、と出されたヒントを手掛かりに、一冊を選び取ります。世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド。こーちゃんが持っているものは上下巻に分かれていましたが、ここにあるものはどうやら一冊で完結しているようです。ぱらりと表紙をめくれば、さっきと同じ字で次の行き先が書いてありました。
『百二十三段目のSF、海外作家』の文字に、百二十三段目へ向かいます。どうやらその棚はSFばかりが置いてあるようで、ずらっと星新一や筒井康隆が並んでいます。意地悪だな、と背表紙に目を走らせるこーちゃんは、片っ端から開きたい衝動に駆られましたが、海外作家の小説は一つしかありません。アンドロイドは電気羊の夢を見るか?不変の有名作であるそれの一ページ目にも、また同じ文字が綴られていました。もう、誰の字なのかはすっかり思い出してしまいました。
『二百五十八段目、恋愛小説。「沈む」んじゃなくて「潜る」。』これは読んだ後たしか散々薦められた、と思い返しながらこーちゃんは階段を上がります。明るく前向きなその話はこーちゃんの趣味ではありません。どちらかというと暗く救われない話が好きな自分と、正反対なもう一人の幼馴染み。これは珍しくあいつと意見が一致した、面白い本だ、とハードカバーのそれを引き出します。クジラの彼。潜水艦乗りの話に、いつか自分も待ち焦がれてくれる相手と恋ができたら、と女々しく重ねてしまったのは秘密です。表紙を開くと、また文字が。
上下に散々移動して、流石に疲れが見えてきた頃、この本棚に並べられた本達の系統がやっと掴めてきました。小説に限らず、料理本から漫画に自伝まで雑多に揃ったそこは恐らく、ヒントの文字を綴った彼が読んだ本を並べているのでしょう。自分も通った高校の教科書と、東京の大学の参考書が、並んで端にぽつんと立てかけられているのにこーちゃんは笑いました。成る程、夢なら夢で。いやにリアリティーがあって、上等。そう本気で思って、くつくつと笑いながら階段をまた上がります。夢には、こーちゃん以外の他の誰かが介入する要素はありません。彼が見ている夢は彼のものであって、それが覆ることはないのです。だから、自分の知り得る相手しか夢には出てこないし、自分の理解の範疇を超えたことは起こりません。そして、目が醒めるから、夢なのです。何を恐れることがあったのでしょうか。さっきの時計うさぎ、もとい、さくちゃんのことだって、ミステリーを好む自分であればあんな展開を心の何処かで望んでいても仕方のないことだ、とこーちゃんは自分を納得させます。ほんのちょっと本気で怖かったのは秘密なのです。猫の写真集の間に挟まっていた鍵を抜き出したこーちゃんは、面倒かけやがって、と恐らくは扉の向こうで待つ眼鏡野郎の顔を思い浮かべました。
「おう」
「……早かったね」
「『バツイチ男二人』は分かりにくい」
「分かりにくくなかったらヒントにならない」
「あれは映画のキャッチコピーだ」
「見たでしょ?」
「見たけど」
「じゃあいいじゃん」
アイボリーのソファーに埋もれて、こっちを見ることもなく本を読み続けている彼が、あの文字の綴り主でした。読んでいる黄色い本は、悪の教典。えげつな、とこーちゃんは顰めっ面をしました。
グレーのシャツに白いリボンタイ、肩からは深緑のマントを引っ掛けています。頭に斜めに引っかかっている帽子には、触角のようなものが二つ飛び出ていました。伏せ気味の目とそれを隠す眼鏡は普段通り。幼馴染みその二、当也くんがそこにはいました。その二というか、その一というか。付き合いの長さの時系列で言えばこっちがその一です。じっと自分を見ているこーちゃんに気づいた当也くんが、ぱっと顔を上げました。
「なに?」
「朔太郎通らなかったか」
「通ったけど」
「どっち行った?」
「向こう」
「そうか、悪いな」
「あー、待って」
「あ?」
「行かないで」
「何でだよ」
「まだ時間じゃない」
「……はあ?」
まあ座れよ、と手ずから木の椅子を出してきた当也くんを訝しみながらも、こーちゃんも座ります。向こうに行ったと教えてくれたのだし、と思ったのです。嵐のように通り過ぎたさくちゃんに、「今から航介が来ると思うけど時間稼ぎしといて!」と当也くんが頼まれていることなんて知らないのですから、仕方ありません。部屋の中心には、当也くんが埋もれていたソファーと小さな木造りの机。それに対面する形で自分の椅子が置かれたために、なんだかこーちゃんはくすぐったい気分になりました。この幼馴染みとこうして二人で話すことなんてあまり無いものですから。耐えかねてぐるりと見回せば、この部屋にはある程度のものは揃っているようでした。棚の中にはティーセットが並んでいますし、その横には彼の好きそうな甘いお菓子もいくつか。ミニキッチンはピカピカに磨かれて、大きめのダウンライトが吊り下がっています。当也くんが座っているソファーにはふかふかのブランケットとクッションが鎮座ましましている辺り、眠くなったらそこで寝てしまえる仕様のようです。真面目くさった見た目してきちんとやってる風だけどこいつ案外適当だよな、とこーちゃんは内心で思いました。
ポケットから飴玉を取り出した当也くんは、それが薄水色だったことに少し不満気な顔をしました。そのままこーちゃんに、食べる?と差し出したものですから、うっかり受け取りかけたこーちゃんは手を即座に引っ込めます。こっちの世界で出された食べ物を口にしたら、帰れなくなる。先程さくちゃんから伝えられたその言葉が、頭を過ぎったのです。ソーダ味の飴玉を受け取ってもらえなかったことは特に何とも感じていないのか、食べないならいい、と差し出した包みを自分の手でぱりぱりと開け始めた当也くんに、こーちゃんはほっとしました。ころりころりと飴玉を口の中で転がしている当也くんは、災難だったね、なんて言いながらちらりとこーちゃんの方を見ました。
「なにが?」
「落っこちてきたんだろ。しかも勘違いで」
「ああ……でも、朔太郎は帰れるって言ってたし」
「まあね」
「お前もずっとここにいるの?」
「うーん……俺は、王様のお城とここと、いろいろ行ったり来たりしてる」
「王様って誰?」
「それは秘密」
「なんでだよ」
「名前を呼んじゃいけないんだ。怒られる」
本の背表紙でとんとんと肩を叩いた当也くんがおもむろに立ち上がり、棚からティーセットを出してきました。飲む?と聞かれて首を横に振れば、あっそ、なんて冷たい返事で切り捨てられました。一応体裁として聞いただけだろ!とこーちゃんは強く思いましたが、口には出しませんでした。大人になろうと思ったのです。
「あー……あのさ、お前は、なんなの?」
「……なに?哲学?」
「いや、ええと、なんて言うか、立ち位置?俺はアリスで、朔太郎は時計うさぎだけど」
「ああ。俺は芋虫。お前にとやかくいろいろ言わなきゃいけない」
「そんな役割だったっけ」
「アリスに身長の操作の仕方を教えてあげるのは芋虫だよ。お前は飴を食べなかったから、その必要はないけど」
しれっと言い放つ当也くんに、物語の中で与えられた役割には忠実だな、とこーちゃんは思いました。アリスの名前をつけられた以上、それこそ内容を覚え切ってしまう程、こーちゃんは不思議の国のアリスを読みました。自分の記憶が間違いでなければ、出てくる順番や話の流れこそ違いますが、役割的には正解です。俺の頭はあくまでも俺にアリスをやらせたいらしい、友達の顔まで使ってなんて御丁寧な、とこーちゃんは呆れます。
「……水煙草は?芋虫は煙草を吸ってる」
「航介煙草嫌いじゃん。俺も好きじゃないし、わざわざ吸わない」
「ふうん……」
「大丈夫だよ、安心しなって。この世界はお前に都合良く出来てる」
「……俺の頭の中だから?」
「そう。お前の頭の中だから」
「明晰夢みたいなもんか」
「まあ、そうなんじゃない」
「朔太郎は元からここに住んでるって言ってたけど」
「元っていうのは、夢を見始めたお前がこの世界を作った時からってことかもね」
「じゃあ、帰れるっていうのは、目が醒めるってことなのか」
「そこまで分かってるなら、もう二度とお前はあっちの世界に帰れないってことがどんな意味を指すのかも、分かるんじゃない?」
「……ぞっとしないな」
「だから、大人しく帰って欲しいんだよ。俺たちとしても」
「んー、もうとにかく、この世界は俺の夢ってことなんだろ?」
「夢の中の登場人物にそれ聞く?」
「夢って潜在意識の塊って言うじゃん。俺って心のどっかでアリス扱いされたかったのか?」
「ぶふーっ」
「きったねえ!」
「っく、ごめっ、ふっ、んぐっ、ふふっ」
言わなきゃよかった、とこーちゃんは笑い転げる幼馴染みを見ながら思いました。確証を得た事実はいくつもありましたが、最後の最後に大笑いされるのはいい気分ではありません。芋虫の名に忠実に、ぞんざいな口調で様々なことを話してくれたことだけは感謝しますが、やっぱりこいつむかつく、とこーちゃんは歯噛みしました。自分が言ったことが可笑しかった自覚はありましたが、そこまで笑わなくたっていいじゃないかとも思ったのです。珍しくも震える程笑っている当也くんを何度か足蹴にしたこーちゃんは、もう行っていいだろうと吼えるように聞きます。危うく紅茶を吹き出しかけた当也くんは、息も絶え絶えになりながら、ちょっと待って、聞いてあげるから、とポケットを探りました。出てきたのは、四角くて薄っぺらい電子機器。
「スマホかよ!」
「……スマホだよ」
「情緒がねえなあ!」
「それ、ブーメランだけど。お前の頭に言ってよ」
「ぐう……」
「あ、もしもし?朔太郎、うん。航介が、もう行きたいって。今どこ?」
端的な言葉で会話している当也くんがさっきまで持っていた本をぱらぱら捲ったりしている内に、電話は終わりました。もう行っていいってさ、と手から本を抜き取られて、後ろを指差されます。そこにはさっきまで存在しなかった扉が確かにあり、あれって次はどこに繋がっているんだ、と聞こうとしたこーちゃんは絶句しました。黙々と本のページを捲り始めた当也くんが、全く聞こえていませんとばかりに全無視しやがったからです。おい、てめえ、あそこでいいのか、聞いてんのか、と何度か声を荒げたものの、一定のペースでぺらりとページを捲る音が聞こえるだけで当也くんは一向に反応しません。大声で捨て台詞を吐いたこーちゃんは、勢いよく次の扉を潜りました。
「当也のばーか!」

2/6ページ