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不思議の国のアリス



むかしむかしあるところに、頭が金色で青い服を着た、通称アリスと呼ばれるこーちゃんがいました。こーちゃんというのもまた通称で、本名は江野浦航介といいます。頭の金色は人工ですし、青い服といってもあんなゴツい容姿でエプロンドレスなんて着られた日には外に出られなくなってしまうので動きやすさ重視のハーフパンツにギャルソンエプロンでしたが、まあ一応アリスでした。本名とは別の渾名的なやつがうっかり女子名の「アリス」になってしまったというだけで、マジで心の底から男でした。本人としても女の子の名前で呼ばれるのは最高に嫌だったので、他人からからかい交じりにアリスと呼ばれる度に怒っていました。
「おいアリス」
「殺されてえのかモブ顔」
「うぃっす」
こんな感じでした。殺されてえのか、の段階でモブ顔、もとい瀧川の顔面は平手打ちされています。真っ赤になった頬っぺたを押さえて涙目になっている様は同情に値しますが、自業自得の比率が高いことも事実です。鼓膜の一枚や二枚破けたって平気だろう、がこーちゃんの言い分でした。
さて、そんなアリスのこーちゃんですが、アリスなので当たり前に、世の断りに則って、穴に落ちました。別に自分からダイビングしたわけではありません。それには世界の存亡をかけた深い深い理由があるわけでも、ありません。酷く単純で簡単な、不運な事故でした。友達と過ごす時間は勿論大切ですが、一人の時間もとても大切にしているこーちゃん。彼の趣味は読書です。今日も今日とて、お気に入りの木陰に座って黙々と分厚い小説を読み進めていた彼は、こそこそと近づいてくる都築くんに気がつきませんでした。いよいよ事件も大詰め、フィクションの世界で生き生きと動く主人公は恋人か世界か友人、どれか一つを選ばなければいけない苦境に立たされてしまいます。一つを選べば他の全てを失う辛い選択を強いられた彼が苦悩するシーンを、物語の世界に没頭しているこーちゃんは、はらはらと読み進めます。彼を驚かせようと背後から手を伸ばす都築くんには全く気づかず。
後のインタビューで、都築くんはこう語りました。
「悪気?なかったですね。ほんの少しびっくりさせてやろう、ってくらいだったので……むしろ驚かされたのはこちらの方になってしまいましたが、はは。ええ、まさかあんなところに穴が開いているだなんて、思ってもみませんでした。心配ですか?いえ、特にしませんでした。彼のことを信じていましたからね、怪我なく無事に帰ってきてくれるのだろうと。底の見えない穴でしたが、彼なら落ちても平気だろうと、その時から心のどこかで思っていました。信じる、というのはそういうことですよ」
訳も分からないままに穴から遠くの地面まで自由落下させられているこーちゃんは、そんな都築くんのくだらない言い分は知りません。あまりに落下時間が長いので、走馬灯すら見えてこない始末です。あの馬鹿都築ふざけんな死んだら呪ってやる、と一頻り悪態をついた後、読み残した小説や続きを見損なったドラマと映画を遺して逝くことを悔やみ、父母への親不孝を詫び、来世こそはアリスとかいうクソみたいな渾名がつきませんように、と祈りました。それにしても随分地下深くまで落ちるのだな、と他人事のように思ったこーちゃんの視界が、ぱっと開けます。そこはまるで、御伽噺に出てくる大図書館でした。
「ぴぎゃっ」
潰れた悲鳴を上げたこーちゃんは、しばらく動けませんでしたが、運がいいことに彼はとても体が丈夫だったので、気合を入れて立ち上がれば動けないことはなかったし、一旦動き始めてしまえばそんなに辛くもありませんでした。運良くふわふわのソファーがあって助かった、とこーちゃんは一息つきます。エクスクラメーションマークが五万個くらい付与された荒っぽい着地でしたが、こーちゃんはぴんぴんしています。化け物です。
何メートル落下したかは分かりませんが、上を見上げても穴の始まりは見えません。どういうことだ、と周りを見回す彼の目に映るのは、見渡す限りの本棚と背表紙。自分がいるところを中心にして円形の部屋には、壁一面に本が並んでいます。壁沿いに設置された螺旋状に伸びる階段は、木造りの古めかしいものです。まるで童話のようなそれに彼の目は輝きましたが、未知の状況にほっぽり込まれた今、そんなことも言ってはいられません。おずおずとソファーから降りて、一通りぐるっと回って扉がないことを確認した彼は、階段を上った先に出口があるかもしれない、と天を見上げました。
「やっぴー!さくちゃんだよお!」
「ぎゃっ」
「時計うさぎのさくちゃんだよ!」
白い星と黒い星とが交互に引っ付いてそうな口調で、両手ピースで登場したのは、よく見知った顔でした。どこから出てきた、と面食らったこーちゃんでしたが、この幼馴染みについては登場方法を問う方が無意味です。気づいたらいる、がデフォルトなのですから。
真っ白なうさぎの耳に、これまた真っ白な蝶ネクタイ。ウィングカラーのシャツに、ダブルのベストも、手袋も、白で統一されています。燕の尾のように後ろが伸びたジャケットの前は開け放たれ、かっちりと着こなされているのが目に見えました。よく磨かれたオペラパンプスが光を反射して、かつりと音を鳴らします。ホワイトタイ、最上級の礼服と名高い、燕尾服を一ミリの乱れ無く着こなしたこーちゃんの幼馴染みは、ぱっと花の咲くような笑顔を浮かべて首を傾げました。
「変な顔。なにしてんの」
「……いや、お前も、落ちたのか」
「落ちた?いやいや、俺は元からここに住んでるよ、アリス」
「その呼び方やめろよ」
「アリスのことをアリスと呼んで、何がいけないの?」
「ん?」
「んん?」
なにかがおかしい。そうこーちゃんが気付くまでに、さほど時間はかかりませんでした。だって、朔太郎は俺のことをアリスなんて、呼ばない。こんな風に呼ばれた試しはないし、こいつは当たり前のように俺の名前をアリスだと思っている。誰だお前、と喉の奥から搾り出すように問いかけたこーちゃんの全身、頭のてっぺんからずうっと降りて足先まで、白いシャツに灰色のベストと紺色の幅広なハーフパンツや青色のギャルソンエプロンと白ラインの入ったスニーカーを、余すところなくじろじろと不躾に見定めた幼馴染みの顔をした時計うさぎは、成る程!と手を打ちました。
「アリス、男の子だったんだね!」
「……はあ……?」
「ごめんごめん、君には今までいた世界が有ったろ。手違いだ、申し訳ない。ということは、俺のことも君の知り合いのように見えているはずだね?」
「……朔太郎じゃ、ないのか」
「さくたろう!そうだよ、俺は時計うさぎのさくちゃんだよ。でもね、アリス。君の知ってる彼ではないことは確かさ」
「……帰る」
「どうやって?」
「どうにかして」
「帰り方は教えてあげるよ。間違いでこっちに来てしまった人間に冷たくする道理はない」
「……信用ならねえ」
「君の名前を教えてくれる?アリスじゃないんだろ、真名を教えてくれよ」
「教えたらどうなる」
「どうにもならない。君の呼び名が、この世界の中で更新されるよ。アリスから、本当の名前に」
「……………」
「疑ってる。いいことだね」
ふむふむ、と頷く彼はどこからどう見たって、幼馴染みの辻朔太郎です。頭に異様なものが生えていることを除けば。少しくらいは人を疑えと散々こーちゃんに言い続けてきたのだって、母でも父でもなく、茶色い頭をした幼馴染みでした。こーちゃんは考えます。都築に驚かされて奇妙な穴に落ちたところまでは間違いなく自分の記憶にあり、それを疑う術もありません。けれど問題はそこから先、穴から落ちて彼に出会ったところまで、要するに今現在は、本当に現実なのでしょうか。それを証明することは、こーちゃんには出来ません。ぴこぴこと動く兎耳と、にこにこ笑う幼馴染みに、彼の疑念はついに晴れませんでした。それでも、幼馴染みの顔をした兎を、信用してみようとは思ったのです。だって、この見た目であの声の、頭以外は幼馴染みそのものの男に嘘をつくことは、どうしたって出来ないのですから。
「……航介。アリスとは呼んでほしくない」
「アリスなんて呼ばないよ、だってお前は航介だろ?」
言葉尻と同時にぱっと手を差し伸べられて、いつか遥か昔、自分がアリス呼ばわりをされることに耐えきれずに木の上でいじけていた頃に、全く同じ台詞を吐かれたことを思い出して、こーちゃんはぞっとしました。似通っていることと、同一人物であることは、別なのです。本能的な恐怖でした。まるで、鏡のような。
手を取ることは無く、帰り方を教えろ、と硬い口調で吐き捨てたこーちゃんに、さくちゃんは肩を竦めました。そんなに警戒されてもなあ、と他人事みたいに呆れられて、初対面な赤の他人に開けるほど俺の心は広くない、と内心でこーちゃんは思います。ぱちん、と胸元から出した懐中時計を見たさくちゃんが、面白いことを思い付いたとばかりににんまり笑いました。
「航介、俺は時計うさぎなんだけどね」
「……おう」
「今から王様のところに庭弄りに行かなきゃならない」
「はあ!?」
「だから後を追いかけてきてほしい!」
「なんでだよ!いいからお前、教えてけよ」
「嫌だね!約束に遅刻するなんて時計うさぎの名折れだ!」
「そんなもん折れさせとけ!」
「くそお」
お前なんかこうだぞ!と子どものように叫んださくちゃんは、じゃらりと鎖の長い懐中時計を取り出しました。それに目をやったこーちゃんは、瞬きして、次の瞬間動かなくなった両手に目を剥きます。
「なんっ、なんだよ!?」
「お前の時間を止めて腕を縛った」
「はああっ!?」
「時計うさぎの時計を舐めるなよ、すごいんだぞ」
「な……」
「ここを押すと、時間が止まる。俺は動ける。もっかい押すと、時間が動き出す。止まってる間に縛った」
「解けよ」
「どうしようかなあ」
「おい!解けよ!」
「あっ!誤解してもらっちゃ困るけど、俺はこの時計を悪用したことなんかないからね!えっちなことにも使ってない!」
「聞いてねえよ!」
「じゃ、先に行ってるから」
「ふざけんなっ、おい朔太郎てめえ!」
「そうだそうだ。一つ忘れてた」
あっちの世界に戻りたかったら、ここの世界で出されたものは口に入れちゃだめだよ。そう淡々と言い放たれて、こーちゃんは動きを止めました。名前を呼ばれる、たったそれだけで、幼馴染みに似た異物は彼の中で幼馴染みに成り代わりかけていたのです。背筋を寒気が通り抜けました。これは夢現だということを忘れてはいけない。そう自分に深く言い聞かせながら、こーちゃんは再び後手に縛られた手をなんとか解こうと悪戦苦闘し始めました。

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