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赤ずきんちゃん



かちゃり、カップが鳴った音で、航介くんは目を覚ましました。ゆったりと覚醒してくる意識の中をしばらく漂い、頭がずきずきと痛む理由をぼんやりと探り、思い出します。
「おっ、おおかみ!」
「うわ」
「ひ、……伏見……?」
「びっくりさせないでよ」
がばり、と体を起こした自分に驚いたのか、どうやらティーカップを洗ってくれていたらしい友人が、溜息を吐きました。珍しく赤ずきんの格好をしていない彼は、何故か航介くんの服を着ています。訳が分からないなりに目の前の事実から整理しようと頭を働かせた彼は、それお前どうした、と固い声で聞きます。覚えてないの?なんて呆れ声に、がくがく頷きました。彼の記憶は、断片的です。気づいたら目の前に狼がいて、また気づいたら今、自宅のベッドの上で寝ていたのですから。狼狽えている航介くんの様子に、本当に覚えていないのか、と少し訝しんだものの、伏見くんはゆっくりと口を開きました。
「俺、今さっきお魚貰いに来たんだけど。その時点で航介べろんべろんに酔っぱらってたよ」
「えっ!?」
「どーしたのって俺が聞いたら、ひとりぼっちさびしいー、みたいなことふにゃんふにゃんになんながら言って」
「お、おう」
「わーって泣いて、俺に向かって思いっきりゲロって、そのままぶっ倒れて寝た。その時結構な勢いでテーブルに頭打って」
「……そうか……?」
「たんこぶできてるでしょ?あ、服借りた。シャワーも借りた」
「……そ、っか……」
「ベッドに運ぶのすっげえ大変だったんですけどお」
不貞腐れた顔で自分を睨む森向こうの村の友人は、悪戯好きの性悪で悪食ではありますが、悪い奴ではありません。そう言い切られてしまえば、航介くんからはそれを信じるより他なく、それは申し訳なかったな、と悔悟の念を覚えてすらいました。説明のあった通り確かに、頭にはたんこぶは出来ていますし、伏見くんは服を着替えていますし、航介くんのお腹はまだぐにゃぐにゃと御機嫌斜めを訴えています。二日酔い、の単語が頭の中でちかちかと光りました。では、あの狼は夢だったのでしょうか。念の為伏見くんに、自分が寝ている間狼騒ぎはなかったか、と聞いてみたところ、寂れていても一応は人里だぞ、こんなとこに降りてきた上村人の家の鍵をご丁寧に開けて侵入する馬鹿狼がいたらすぐ撃ち殺されてる、と鼻で笑われました。それもそうです。そもそも、珍しいことに甲斐甲斐しく看病をしてくれていたらしい彼が、航介くんの見た狼を知らないのですから、幻だったのでしょう。夢なら夢で、と割り切って一息ついた航介くんが、頭の後ろに手をやります。
「……ごめんな、迷惑かけて」
「ううん。別に」
「魚、取りに来たんだろ。好きなだけ持ってけよ、お礼も兼ねて」
「やった!」
頭の痛みを振り払いつつ、俺出来ないから切り身にして、とじゃれついてくる伏見くんの髪をがしゃがしゃと掻き回します。途端に文句が飛んできますが、航介くんからしたらこれも礼の一部です。やめろ、と口では言うものの満更でもない顔の伏見くんを、航介くんはからからと笑いました。
「でかくないか?」
「でかい。袖二回まくってる、航介のデブ」
「脱げ」
「いやあ!きゃああ!」
「うるっせ!」

「おい」
「んむ……うあ!?ふぎゃんっ」
「起きろ」
「あっぶねえな!」
伏見くんが航介くんの家にいる間木の上でうとうとと彼の帰りを待っていた小野寺くんの鼻っ柱を掠ったのは、何を隠そう待ち人である伏見くん本人が投げた手のひらサイズの石でした。驚いたあまり木から転げ落ちた小野寺くんがわんわんと文句を吠えているのに、伏見くんは耳を塞ぎます。
「やかましい」
「俺待ってたのに!冷たい!ひどい!」
「魚もらった。急ぎでよろしく」
「なにをよろしく!?送れってこと!?」
そんなんならお断りだね!と小野寺くんがそっぽを向きます。待っていたにも関わらず石の投擲という目覚ましにしては荒っぽすぎる手段で起こされたことも勿論腹立たしく思っていましたが、そんなちっぽけなことよりも、離れることが寂しかったのです。今日はいつもよりたくさん一緒にいられて嬉しかった、でももうさよならなんて嫌だ、もう少しだけでもいいから一緒にいたい。そんなささやかな我儘、恥ずかしくて素直に口には出来ません。だから、伏見くんに、しょうがないなあ、と言って欲しかったのです。ぷいっと顔を背けたものの、尻尾をぶんぶん振り回してしまっていることに、小野寺くんは気づいていません。きっと振り向いたら伏見は、呆れたような顔をしながら、全くもう小野寺ったら、と言ってくれるに違いない。そしたらいっぱい甘えて、いっぱいよしよししてもらおう。うんうん、と一人頷きながらわざとしばらく間を置いて、そっと振り返った小野寺くんの視界の中には、伏見くんはいませんでした。
「しつけえっつってんだろオラア!」
「きゃああ!なにやってんの!」
「遅い!」
吠えるように叫んだ伏見くんに、こんなの理不尽だ、と思いながら小野寺くんは飛びかかった見知らぬ狼の頚骨をごきりとへし折りました。断末魔もなければ口説き文句すら聞く暇もありませんでしたが、御主人様に邪な目を向けた時点で誰であろうが関係はありません。可愛いとは言い難い顔でさっきまでぴんぴんしていた死体を睨めつけている伏見くんの手には、あと一歩で引き金を引かれるところだったデザートイーグルが握られていました。間一髪です。動かなくなった狼を足蹴にしながら、早くこっち!と伏見くんの手を引いて離れます。舌打ちをしながら、あの野郎クソしつこかったし涎が汚かった、と悪態を吐く伏見くんに向き直った小野寺くんは、ぷるぷる震えながら大きな声を上げました。
「なんでいなくなっちゃうの!」
「じめじめうざかったから」
「だって、」
「ご褒美!」
「ぇ、う……?」
「ご褒美、やるっつったろ」
こんな恰好で褒美も何もあるかよ、と両手を広げた伏見くんの恰好を、小野寺くんは見直します。黒のカーディガンに、灰色のVネックカットソーと、カーゴパンツ。らしくない恰好だ、と思うと同時に、普段は見えない首元がざっくりと開いていることに、小野寺くんは涙が出るほど興奮、もとい感動しました。今すぐにこの場で服を剥ぎ取って全身舐め回したい、という本心を隠し、とってもすっごく似合ってる、とぱちぱち拍手までして賞賛した小野寺くんに気を良くしたらしい伏見くんは、その場で一周回ってポーズまで決めてくれました。
いつものフリルとレースに彩られた赤ずきんちゃんの恰好は、先程までのあれやこれやで散々汚れた上に、小野寺くんの獣臭や人攫いの男の返り血と死臭その他諸々が混ざり合って控えめに言っても最低な仕上がりに出来上がっていたので、実は航介くんが目覚める前に着替えていたのです。あの服では、どう頑張っても嘘は通せません。狼騒ぎ?無かったよ?なんてしらばっくれたところで、いくら鈍い航介くんでも分かってしまいます。だから伏見くんは、航介くんのクローゼットから服を漁り、比較的マシなものを選んでコーディネートしてきたのです。勿論、服の持ち主である航介くんは、こんな着こなしをしたことがありません。ちなみに余談ですが、服を探す段階でうっかり朔太郎くんのクローゼットに手を伸ばした伏見くんは、あまりのクソダサっぷりに白目を剥きました。
きゃっきゃと喜んでいる小野寺くんの顔を、伏見くんがわざと覗き込んでやれば、あう、と赤くなりながら目を背けられました。ご褒美を意識していることがばればれです。その効果覿面加減ににんまりしながら、伏見くんは口を開きます。
「お前の好きなあれやこれを準備してきてやるからさ」
「あれやこれとは」
「そりゃあ、こんなところでは言えないようなこと、とか?」
「言えないような!?」
「俺の口から言うのはちょっと恥ずかしすぎること、とか?」
「恥ずかしすぎる!?」
「どうする?」
「お願いしまあす!」
「ぅひ、っ」
悲鳴を喉奥で押し殺した伏見くんは、自分を抱き上げて走り出した小野寺くんに咄嗟に縋りました。嬉しそうにわふわふしながら、とんでもない速さで流れる木に、目が疲れて瞼を閉じました。木が避けてる!が比喩じゃない素早さです、目を開けていたら乾いてしょうがありません。瞳を閉じて小野寺くんの顔が見えなくなったついでに、もそもそと引っ付いて、小声で喋りかけます。
「……なあ」
「なあに!」
「……ありがと、小野寺」
「んー、どういたしましてっ!」

あれ、今日もどっか行くの。当也くんのそんな声に、伏見くんは足を止めました。頷いた伏見くんは、ぱちんぱちんと薔薇の剪定をしていた彼に、その薔薇俺みたいに可愛いから俺にも一本ちょうだい、と訳の分からない論理で強請りました。当也くんは呆れ顔ながらも、一等綺麗な薔薇を一本渡してやりました。棘は嫌、と単刀直入にばっさり返されて、しょうがないからぷつぷつと棘を抜いてやります。
「なにしに行くの」
「散歩」
「……あの森を赤ずきんで散歩する奴なんか、お前以外見たことないよ……」
「俺以外にいたら困るんだよ」
「ふうん。はい」
「さーんきゅっ」
嬉しそうにふわりと白と赤のスカートを翻した伏見くんは、真っ黒な髪にそっと薔薇を差し込みます。かわいい?と問いかけられた当也くんは、はいはいかわいいよ、と等閑かつ適当に答えました。
「今日はとびっきり可愛くないとだめな日だからねっ」
「なにそれ」
「弁当には秘密」
「あっそう」
「なんでかって言うと」
「言うんじゃん」
「聞きたくないの?」
「別に」
「聞きたくないなら言わない」
つん、と横を向いてしまった伏見くんに溜息を吐いた当也くんは、仕方がないから教えてくれとお願いしようとして、身を竦めました。わおーん、なんて狼の声が、森から響いてきたからです。今日街から戻るはずの同居人を心配して眉を顰めた当也くんは、伏見くんが可笑しそうにくすくす笑ったのに、気付きませんでした。
「じゃあ、行ってきまーす」
「えっ、今鳴いてたよ」
「平気平気、俺にはこいつがいるからね」
ひらりと持ち上げられたスカートの中には、ちらりと愛しのハンドキャノンが見え隠れしています。そうだけどさあ、と独り言ちた当也くんは、森の方面へたったか消えた赤ずきんの違和感を、一人口にしました。
「……変な紐」
スカートの中に隠された変な紐が、何の為にあって、何に使われたかは、狼と赤ずきんだけの特別な秘密でした。


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