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赤ずきんちゃん



かたことと揺れる馬車の中で、ぐるぐるに縛られた航介くんは暢気に寝息を立てっぱなしでした。元来薬の効きやすい体質の彼は、遡ること数時間前、道に迷ったと困り顔で自宅の扉を叩いた来訪者に親切に地図を見せ、疲れ果てた様子にお茶を出し、相手に出しただけでは飲み辛かろうと自分の分も用意して、この道を通れば都市に出られるが恐らく貴方は此方を通ってきてしまった、この村は地図で言うとここだ、そして戻るにはこの道を通ると早い、と懇切丁寧に教え、涙を浮かべて感謝する来訪者に照れ笑いを見せ、照れがてらカップの中身を半分一気に空にして、その場でふにゃふにゃと崩折れました。その姿を見下ろす来訪者の顔を、航介くんは見ていません。彼が騙されやすく人を疑わない性格だったことは、来訪者、もとい人攫いにとっては確実にラッキーでした。簡単に気抜きやがってこのちょろすけ!知らない人にはついていかなあい!と朔太郎くんだったなら叫んでいるところです。実際ぐーすか眠っている彼は、自分が攫われたことすら、気がついていません。
積み荷の中に隠した人間は、随分と重たかったな、と人攫いは思い返します。快活明朗な男に見えたが、力仕事に向くかもしれない。暴れられないように何か仕込んでおいた方がこれからのためか、と男は馬の手綱を取りながら考えました。これから彼は、自分が根城としている都市に一度戻り、攫った男が売り物になるかどうか調べて競りに出す支度をしなければなりません。ふあふあと男は欠伸をして、突然足を止めた馬に、舌打ちをしました。
「おい、なんだよ?」
一向に足を進めない馬に、前に何かいるのか、と男は目を細めました。薄ら暗くなってきた道は不明瞭で、木々が揺れる音が響きます。さっきいた村では近くの森で狼がよく出ると聞いたが、この辺りでは熊の方が多いらしいし、この時期は熊は冬眠しているはず。恐れる獣害はなにもない、はずなのです。それなのに怯えるように足を竦ませる馬に、数度鞭を打って、再び彼は舌を打ちました。早くしないと夜になってしまいますし、後ろに積んだ男に目を覚まされても困ります。もう一度荒く声を上げかけた男の目に、暗がりからぼんやりと現れた人影が映りました。
「……赤ずきん……?」
ぼんやりと薄闇に浮かんだのは、赤と白。おろおろと、ふらふらと、木々の間から迷い出てきたのは噂に名高い赤ずきんでした。本物を見たのは初めてだ、と男は目を細めます。この近辺の村々に伝わる古い言い伝え、都会生まれ都会育ちで都市部から出てきた男からしたら、迷信とも言える存在です。真っ赤な頭巾は狼に狙われるから、被ってはいけない。大真面目に何を言っているのやら、そんなものちゃんちゃらおかしな話です。頭巾が赤かろうが青かろうが、被っていようがいなかろうが、何も変わらないのです。だって狼は人間のことを食料としてしか見ていません。食べ物がいくら着飾っていようが、はたまたボロ布を纏っていようが、関係ないんじゃないか、と男はその迷信を全く信じていませんでした。どうせ老婆か何かだろう、馬で蹴散らしてやる、と手綱を引いた男は目を丸くしました。
「……ぁ、あの、っ……」
その赤ずきんが、まるで人形のように可愛らしかったからです。ふるふると震えているのは、寒さからでしょうか、疲れからでしょうか。潤む瞳からは今にも真珠のような涙がぽろりと溢れそうで、戸惑いがちに開かれた唇はぷるりと果実のように瑞々しく光っています。白い肌に赤く染まった頰が、レースとフリルに囲まれて女の子らしく纏まった服にとても似合っていました。きっと長いこと歩いてきたのでしょう、茶色いブーツは土に汚れていました。ふらり、と木から手を離して、馬に乗る男の方へまた数歩近づき、ぱあっと微笑みを浮かべます。まるで安堵したようなその表情は、一人ぼっちで寂しかった、貴方に会えて本当に良かった、と言葉無しに訴えているようで。
自分より数回り小さなその体に、男は生唾を飲み込みました。これは、上玉だ。とんでもない拾い物をした。後ろに積み込んだ男が札束一つだとしたら、この女は札束五つでも足らないかもしれない。幼い見た目からして、まだ穢れてもいないだろう。女を侍らせることをステータスにしている下衆共にお嬢さんは大層人気が出るようで、と男なりの褒め言葉を用いて内心で讃えあげ、彼は馬を降りました。実を弾けさせてしまわぬ程度の味見くらい許されるだろう、と考えながら。
「ああ、どうしたんだ、レディ。こんな人気のないところで」
「あの、わたし」
「もし貴女が嫌でなければ、街までお連れしよう。私はしがない配達人でね、よく貴女のような迷い人を案内するのだよ」
「ああ……!」
わざと取って付けたような言い回しで配達人を演じて見せれば、赤ずきんは男の言葉を最も簡単に信じたようで、ほっと息を吐きました。馬車から降りて彼女に近づけば、嬉しそうに口元を押さえて泣き出しそうになっていました。なんて容易い、馬鹿な女。ざりざり土を踏む音、だくだく心臓が昂ぶる音、男にはその二つが反響して聞こえました。自らの興奮に気づかないままに、ふんわりとスカートを持ち上げ礼儀ただしく会釈し、目を伏せた彼女に覆いかぶさろうとします。だから気づかなかったのです。下半身に血が集まった彼は、気付けなかったのです。彼女は彼だということにも。人を人とも思わぬ冷血であることにも。
彼の太腿に隠されていたデザートイーグルが、抜かれたことも。
「ありがとう、親切な方!」

だあん、と鳴った銃声に、小野寺くんはひゃあと耳を押さえました。信じてくれて構わない、むしろ俺に彼奴の引導を渡させてほしい、と断言されたので、小野寺くんは伏見くんの心配をしていません。自分が暗がりから飛びかかって喰い殺したほうが余程早くて彼の安全は保たれると分かっていますが、小野寺くんは愛しの御主人様を心から信じていました。今のは彼の愛武器が火を噴いた音だ、とうきうきする始末です。
小野寺くんに任されたのは、馬車が止まったらこっそりと荷台に侵入し、航介くんの無事を確かめることでした。うず高く積まれた荷物を退かしていくと、人口の金色がちらりと垣間見えます。これだ、と探し当てた彼と、先程覚えた匂いが一致することをしっかり確認した小野寺くんは、一人満足そうに息を吐きました。息もしているし、目だって合った。死んだ人間とは視線が絡むわけが、
「えっ?」
「……………」
「……あの……」
「……お、おおかみ」
「あっ」
ぽかん、と口を開いて自分のことを見上げている航介くんは、唖然、といった様子でした。当たり前です。村を走り出た時にはまだ被せられていた真っ赤な頭巾は、先程伏見くんに返してしまいました。自分なんかが人間に見つかったらてっきり悲鳴を上げられるものだと思っていた小野寺くんは、あまりに静かに驚く彼に、ざっと顔を青くします。何故あの人攫いの男はこんなにぐるぐると身体中を念入りに縛り付けた癖して目隠しや猿轡はしていないのだ、ともう既にこの世からおさらばしている男に怒りすら覚えました。いよいよ現実に頭が戻ってきたらしい航介くんが、不自由な体を捩って、じりじりと下がり、大きく息を吸って声を上げようとするので、小野寺くんはもうどうしようもなくなって。
「う、うわあああ!」
「ぎゃふんっ」
手近にあった木の板で、航介くんの頭をぶん殴りました。恐らくは木箱の蓋だったらしいその板は、航介くんの頭に当たって真っ二つにぶち折れました。航介くん本体はといえば、無駄に頑丈なのが取り柄の一つでもあるため、幸いなことに無事でした。ただ、頭蓋に与えられた突発的なショックにより、気絶はしましたが。ぜはー、と息を吐いた小野寺くんはまるで犯行現場を隠すかのように、航介くんの周りを元あったように戻し、荷台を出ます。物音がほとんどしない外の様子がいい加減に気になって、ふしみ、ふしみ、と歌うように呼びながら小野寺くんが馬車を回り込みました。幼い子どものような声が、ぴたりと止みます。そこには、凄惨な血だまりが広がっていました。
側頭部を撃ち抜かれた男が息を引き取り地に伏す横で、真っ白なシャツに数滴だけ返り血を浴びた赤ずきんが、冷たい目で立っています。泣きもせず笑いもせず、無表情で死体を見下ろす彼が、死体の頭の端からじわじわと広がる血液に、まるで汚いものを見たかのような顔で眉を顰めました。感情の変化は、そこでしか読み取れませんでした。自分のことを見ている飼い犬に気がついて言葉を発しようと、ぱかりと開いた唇は、潤めいて艶やかなまま。月明かりの下に薄らぼんやりと浮かび上がる愛しの御主人様に、魂を抜かれるような思いで、馬鹿な狼は近づきます。
「……ずるいよ」
「……あ?」
「ずるい。俺のこと、殺してくれたことないのに、こんな奴を先にして。ずるいよ、伏見」
「そうかな」
「うらやましい。俺もしてほしい」
「今度な」
「絶対だよ」
「お前が死ぬ時には、死ぬ間際に自分の首かっ切って、溺れるほど生き血飲ましてやるよ」
「……絶対だよ?」
三日月に細められた目は、嘘をついていませんでした。小野寺くんの背中を、電流が走り抜けます。俺の愛する人間は、俺が死ぬ時、一緒に死んでくれるのだ。それも、最後の御馳走に、彼の身体の一部だなんて!それを幸せと呼ばずして、何と呼ぶだろう!きっとうっかり息を吹き返すくらいに美味しいだろう伏見くんの血液を想像して、小野寺くんははにかみました。地に広がる死体と脳漿と血液は、もう彼の目には見えません。もし万が一、人間を食べる狼である以上有り得ないわけじゃない可能性として、小野寺がこの男を見て腹が減ったと言い出したらどうしようか、と内心で考えていた伏見くんは、そこでようやく安心しました。それこそ、ずるい、のです。自分のことは一目見て食料の枠から外してしまった彼が、その他の人間を見て腹を減らしたとしたなら、それは酷く腹立たしいことだと思っていました。俺のことは食べようとしないくせして、他人を食べようだなんて、烏滸がましい。死の間際を想像してふわふわと幸せそうに笑っている小野寺くんを見て、伏見くんも満足そうな表情を浮かべました。
「航介になにかあったら、こいつの死体を辱めてやろうと思ってた」
「なにするの?」
「一番最初の赤ずきんを丸呑みにした狼はね、猟師に腹を割かれて、胃袋の中の赤ずきんとその祖母を取り除かれて、代わりに石を詰め込まれて、腹を縫い合わされたんだ」
「痛そうだね」
「うん。その狼は、重い腹を引きずって渇いた喉を潤しに井戸へ向かって、そのまま落ちた。溺死したんだよ」
「へええ、知らなかった」
「それから、どうしようもないろくでなしが人様に迷惑をかけて死に至った時には、『狼』っていう刑罰が死後実行されることになった。腹を割いて、石を詰め、水に落とす。死体への冒涜云々なんていい子ぶった話よりも、自分たちの命を脅かす低脳な獣と同じ目に遭わされる、ってことの方が、人間にとっては恐怖でね。狼の刑罰が実行される死刑者からは、家族すら縁を切ったし、友人と呼べる人はいなくなる。人間としての生を否定されるんだ。お前は獣だ、ってね」
それをしてやろうと思ったけど、着替えが無いからやめとく。照れたように笑った伏見くんを見て、小野寺くんも笑いました。難しいことは分かりませんが、彼が怒っていたことは分かります。怒っていた彼が今は笑っていることが、嬉しかったのです。
「帰ろ、伏見」
「うん。お腹空いたな」
「そうだねえ」

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