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赤ずきんちゃん



迷い狼。逸れ狼。そう称される狼は、ほとんどの場合、幻か伝説じみた噂話、もしくは怖がる子どもを泣き止ませるための方便として使われてきました。狼の中にも人間を愛するものがいて、その狼は人間を守ってくれるの。そう母親に優しく教えられて涙を止め、安心して眠りにつく子どもが、この森の近隣村にはたくさんいることでしょう。ですが、そんなものはいないと、大人は知っていました。昔はその方便を信じた子どもも、成長するにつれて、狼の恐ろしさを知るにつれて、次第に忘れて行きました。誰が信じるでしょう、狼が食料である人間を愛するなんて。人間の中にだって、死んだ魚のことを愛する者などいません。人間の存在は、狼達にとってはどうしようもなく、食料以下でも以上でもありません。だからこその異端。お伽話でしかないのです。
この森には、たくさんの狼が住んでいます。その中の一匹、小野寺達紀は、もちろん狼です。耳も尻尾もついた紛れもない狼ですが、人間である伏見彰人のことを、愛しています。
彼は、異端でした。
「ん」
「ごちそうさまー」
「おつかれ」
小野寺くんは狼ですが、自分のためにいつまでも赤ずきんちゃんでいる伏見くんのことを、愛しく、大切に、絶対唯一の神様だと思っています。その存在はお伽話で、伝説で、子供を泣き止ませるための方便でした。逸れ狼が実在したとなれば、森の周辺に住む人間は狼に対する目を変えるでしょう。しかしながら、その愛は、人間にとっては至極残念なことに、たった一人にしか向いていませんでした。小野寺達紀が愛おしく守るのは、伏見彰人ただ一人。例え同じ赤ずきんだったとしても、伏見くんではないと分かった時点で、愛に満ちた逸れ狼はその人間を肉塊としか判別できませんでした。世の中、上手く行きません。
当也くんから貰ったサンドイッチをまぐまぐと齧っていた伏見くんは、ざくざく近づいてくる足音に目を上げました。幾度も見慣れた姿が血で汚れているのを見て、なまぐさい、と鼻をつまみます。
「ええっ、がんばって拭いたのに」
「ちなまぐひゃい」
「んん……ごめんねえ……結構暴れられちゃったから」
「なに?手こずったの、珍しい」
「んーん、首の骨折ったら動かなくなったよ」
「普通そうだろ……」
「伏見、シャツずたずたどうするの」
「貸して」
「うん!」
ぱんぱん、と手を叩いてパン屑を落とした伏見くんが立ち上がると、嬉々として小野寺くんも付いてきます。服に飛んだ血が、彼が何をしたのかをよくよく物語っていました。
それは所謂、一目惚れでした。お腹を空かせた狼として普通の行動、要するにその辺を歩いてる人間を適当に捕まえて齧る、を実行しようとしていた小野寺くんは、ばったり伏見くんに出会ってしまいました。出会ってしまった、は正しく適切な表現です。小野寺くんはその瞬間、狼として大きく逸脱したのですから。その時の伏見くんは赤ずきんちゃんではありませんでしたし、狼に出会ってしまったことに対して正常な反応を取りました。詳しく言えば、目の前に現れた狼に恐れ慄き、弓を構えることも出来ずへたへたとその場に座り込んで、凍り付いてしまいました。そんな人間を見て、小野寺くんの頭の中の常識は、即座に書き換わりました。これは人間ではない、かわいいなにかだ、こんなかわいいもの食べていいはずがない、と。自分の目の前で急に頭を地面に擦り付けて平伏し、俺をあなたの飼い犬にしてください、その為なら何でもします、なんならこの辺の狼何匹か今すぐに殺してきます、人間だってもう食べません、だから俺と仲良くしてください、とぎゃいんぎゃいん吼えた狼を見て、伏見くんは勿論瞬時に踵を返して逃げ出しましたが、あっさり捕まって家へお持ち帰られました。泣き喚いて嫌がった伏見くんでしたが、狼に敵うはずもなく、抵抗を物ともせず普通に監禁されました。それからしばらく、とてもあっさりと同族殺しを実行し、お腹空いて耐え切れないからこいつら食うことにしよう、なんてあっけらかんと共食いを決めた小野寺くんに、伏見くんは監禁されました。最初は怯え続けていましたが、怯え疲れてきたので途中から怖がるのをサボり、自分も腹が減ったから果物でも取って来いと小野寺くんをパシリに使い、狼の肉も焼いたら食べられるのではないかと謎の雑食性を見せ、次第に仲良くなって行きました。家に帰ったらもう来てくれないでしょう、としょぼくれる小野寺くんに、着替えたいから一旦帰らしてよ、と欠伸混じりに言った伏見くんの一言で、監禁生活は終わりました。次に来る時は、見つけやすいように『赤ずきんちゃん』になってあげる。そんな約束をして、二人は別れたのです。再会は三日後でした。離れている時間が短すぎる、とお互い思いましたが、安心した小野寺くんが泣きながら飛びついてきたので伏見くんはどうでも良くなりました。
それからというもの。伏見くんは、赤ずきんちゃんの格好をして、森の中に入ります。用事なんて、あってもなくてもいいのです。今日は本当に隣町の航介くんのところを訪れようと決めていましたが、小野寺くんのところに行こうとしている日には特に誰にも言わずに森へ入るのです。なんの恐怖もなく、まるで家の周りを散歩するかのように、うろうろと歩き回ります。地図があっても迷うような森です。隣町への出口も小野寺くんの住処も、分かるわけがありません。伏見くんが歩いていることに気づいた小野寺くんが抱きついてくるのが早いか、他の狼に見つかって小野寺くんがその狼を嬲り殺しにするのが早いか、どっこいどっこいといったところでしょうか。最近は小野寺のやつわざと俺のこと尾け回して見てやがったりする、と伏見くんは苛々していますが、まあ、それはそれとして。ちなみに何故小野寺くんが伏見くんをストーキングしているかというと、なかなか助けに来ない小野寺くんに切れた伏見くんが弱々しくぶりっ子するのをやめ、自分を食おうとしてる狼のドタマ打ち抜いてオーバーキル気味に風穴開けまくってストレス解消しているところを以前目にしたからです。俺の飼い主様は強いんだぞ!と主張したいのです、犬なので。
「さっきの、うまかった?」
「げろまず」
「筋張ってそうだったもん」
「もっと美味しそうな肉に狙われてよお」
「狼のこと肉扱いすんなよ」
「手と目しか食べれなかった。硬くて」
「腹は?モツ系なら柔らかいんじゃないの」
「むかついたからお腹の中引き摺り出したんだけどね、落っことして踏んじゃって、食べれなくなった」
「馬鹿だなあ……」
「いいの!俺怒ってたの!食べる為に捕まえたんじゃないの!」
「はいはい」
二人の会話はまるでその辺を歩いている人間同士のようですが、一匹は狼ですし、人間はその一匹に横抱きにされています。お前歩くの早くてついてくの疲れんだけど、といつだか伏見くんが言ったことを律儀に覚えている小野寺くんは、降ろせと言われない限り伏見くんを横抱きにして移動します。抱っこして小野寺くんが走った方が、確かに断然早いのです。ショートカットのために木の上を渡り歩く小野寺くんの腕の中で、ふあふあと伏見くんは眠たげに欠伸をしました。
「あっ、りんご」
「ん?」
「林檎のコンポート食べたい」
「こんぽーと?」
「煮るんだよ」
「にる?」
「煮るっていうのは……ええと、火の上に水と材料の入った入れ物を置いておくと、できる」
「そっかあ、伏見は物知りだね」
「お前ら獣が火を使わないだけだろ」
「でも俺、ひ、付けられる!」
「最初尻尾燃してたけどな」
「あっちくて死んじゃうかと思った」
「小野寺って、一人でも火使うの?」
「こないだねえ、食べきれなかった分、なんだっけ、もや、もやす?」
「燃やしたの」
「うん。もやす、やった」
「燃やせば腐んないもんな」
「土の下に隠すと、狼のやつらにばれちゃうんだ。鼻がいいから」
「お前も狼だろ」
「でも俺、狼は嫌いだ」
「……後で撫でてやろうか」
「ん!」
「今じゃない」
「ちぇっ」

小野寺くんは伏見くんを横抱きにしたまま、自分の住処へと連れ帰りました。そこで、自分が持っている中で一等真っ白で綺麗なシャツを貸し、着せてあげました。身長も幅も大きく違うためにぶかぶかな上、デザインも全く異なるシャツでしたが、伏見くんはまあ満足そうにそれを羽織って、身なりを整え始めます。胸元のボタンが弾け飛び裂けたシャツでは、航介くんに会った時驚きと心配で彼が死んでしまいます。それはあってはなりません。伏見くんの生着替えを運良く目にすることができた小野寺くんは、きゃっきゃと喜び、襲いかかろうとして素気無く断られ、しかしまだ衰えぬ嬉しさのあまり舞い踊りながら外に出て行き、ついでに近くの小川で血の匂いを落としてきました。頭を濡らしたまま戻ってきた小野寺くんに、伏見くんは呆れ顔を向けました。お前は何故外に行ったのか忘れたのか、と問いかければ、伏見くんの着替えに悦び勇んで飛び出したことを忘れていたらしい小野寺くんは大層ショックを受けました。当たり前です、戻ってきた頃にはすっかり着替えなんて終わってしまっていたのですから。
それから少しだけ二人でお茶を飲んで、伏見くんのポケットに忍ばせてあった当也くん特製のクッキーを小野寺くんに齧らせてみるなどしました。ちなみにこのクッキーは頂き物などではなく、紛れも無い窃盗品です。伏見くんは基本的には手癖の宜しくない悪食でした。森に向かう前立ち寄った際に、パンを取りに家の奥へ引っ込んだ当也くんの目を盗んで、冷ましてあったクッキーを勝手に適当な袋に詰め、ポケットに押し込んできたのです。当也くんにばれたら怒られますが、未知のくっきーなるものに目を白黒させている小野寺くんが見られたので、伏見くんは満足でした。なんだこれ、かたい、こなこなする、とクッキーの欠片をベロの上に乗せてひーひーしていた小野寺くんですが、美味しいから大丈夫だよ、と大好きな伏見くんがぱくついているのを見て、成る程、美味しいらしい、ともごもご口を動かしました。あまい!と目を輝かせた小野寺くんを伏見くんは笑いました。根本的に、種族の違う二人です。同じ時間を過ごして、美味しいとか楽しいとか嬉しいとかむかつくとか、そういうことを共感できるのが二人にとってはとても幸せなことでした。
「じゃあ俺、ここで待ってるね」
「おー」
さっきまでと同じように抱っこされて森の出口まで連れてきてもらった伏見くんは、ぱんぱんと服を払ってバスケットを持ち直しました。まるで忠犬のような態度で木に腰掛けてにこにこしている小野寺くんを置いて、伏見くんは村外れにある航介くんの家へと向かいました。自分の住んでいる村は割合家同士の間が近く往来がありますが、こっちの村は住人が少ないこともあってか家々の感覚が離れています。その中でも一番森に近い家が、航介くんと朔太郎くんの家でした。こっちの村では、大きい都市との流通が滞りないことが利点の自分たちの村に比べて、魚介類が盛んにやり取りされる長所があります。食べ物の選り好みが激しい伏見くんにとって、美味しい魚を格安の友達料金で分けてくれる航介くんは最高でした。
一方の小野寺くんは、遠ざかって村の方へ消えた伏見くんの背中に飽きずに手を振った後、にまにまと一人笑っていました。かわいいなあ、なんであんなにかわいいんだろう、あんなにかわいくて彼の村の人間達はまともな生活が送れているのだろうか。彼を食べようとする狼の目も大概腐り果てていると小野寺くんは常々思っていますが、彼と同じ空気を四六時中吸い吐きして同じ村で生活を行う人間のことも不思議に感じていました。かわいくてかわいい伏見を、何の護衛もなく森に送り出すなんて、人間って変なの。そう思って疑いません。盲信と呼んでも差し支えないくらいには、心酔しているのです。くるる、とお腹の虫が鳴き、小野寺くんはもそもそと服の上から腹を押さえました。伏見くんのことを考えている時の小野寺くんは、いつもお腹がぺこぺこです。何故だか本人も分からないのですが、彼のことを考えているといつもぐるぐるとお腹が鳴るのです。食べるなんて烏滸がましい、と思っているのに。さっきの狼をもっと齧ってくれば良かった、これからまた伏見を家の方まで送り届けるのにお腹が鳴ってたらかっこ悪い、と小野寺くんは後悔しましたが、後の祭りです。一応は、かっこつけていたいのです。小野寺くんは伏見くんの王子様でありたいし、番犬でありたいし、家族でありたいし、恋人でありたいし、友達でもありたいのですから。
今晩はたくさん食べよう、と一人決めて頷いていた小野寺くんの目に、血相変えて走ってくる伏見くんが見えました。まだ遠いそれが近づくよりも自分が駆けた方が早いことは明白です。考えるよりも早く当然のように、たん、と木を蹴って一気に跳躍した小野寺くんが、ぜはぜはしながらこっちに走ってくる伏見くんを浚う様に掬い上げ、土煙だけを残して森へと引っ込みました。伏見くんからしたら、突然地面が無くなり自分は宙に浮いている状態です。可愛らしい悲鳴、とは言い難い声が喉から漏れました。
「うおお!?」
「どうしたの」
「どっ、びっ、びっくりした!」
「なにかあったんじゃないの」
伏見くんを小脇に抱えたまま獣の目つきで遠くに目をやる小野寺くんの腕をびしびし叩いて、離せ、説明する、と伏見くんが騒ぎます。俺にはなにもない!と手を伸ばした伏見くんに尻尾を思いっきり引っ張られ、子犬みたいな悲鳴をあげた小野寺くんは危うく木から落ちるところでした。
木の上に座らされた伏見くんの手からは、バスケットが消えていました。念のためぺらりとストールを捲って確認しましたが、小振の矢と弓はきちんとそこに収まっています。スカートの中のデザートイーグルに手を伸ばしかけた小野寺くんは、伏見くんがじとりと睨みつけていることに気づいて、やめました。
「航介の家に行ってきた」
「うん」
「誰もいなかった」
「おでかけ?」
「家の中は荒らされてた」
「……うん?」
「お前の鼻を借りたい」
人攫いかもしれない。そう伏見くんに言われた小野寺くんは、ひとさらい、と鸚鵡返しにして首を傾げます。その説明は特にするつもりがないらしい伏見くんが、自分の頭から赤い頭巾を取って小野寺くんに被せました。それに続けて腰に巻かれたギンガムチェックの大判のナフキンは、バスケットに敷かれていたものです。なあに、とされるがままになっていた小野寺くんは、次に発された伏見くんの言葉に目を剥きました。
「今から村に出るぞ」
「うえ!?」
「航介の家に行って、お前の鼻で行き先の手掛かりを探す」
「おっ、おれ、狼だよ!?猟師さんに殺されちゃうよ!」
「俺といれば大丈夫。これで隠してあるし」
「えっ、え、えー……」
突拍子も無いことを言いだす奴だ、と小野寺くんは久方振りに伏見くんに呆れました。こんな気持ちになったのは「お前の食ってるその肉、焼いたら俺も食べれそうじゃない?」とか血迷ったことを言い出した時以来です。狼の肉ですけど、と小野寺くんが進言したところで伏見くんはほとんど聞く耳持たず、焼けばそれなり、と結局もぐもぐしました。そういうところがあるのです、彼には。
頭だけ赤ずきんちゃんになった小野寺くんは、そわそわしながら森を出ました。人間の伏見くんが一緒にいるからって、そんなに安心はできません。人間にとって狼は脅威であることなんで、お馬鹿の小野寺くんでも流石に重々承知です。耳が頭巾の中でぴこぴこ動かないように、腰に巻いた布の下で尻尾を振らないように、必死でした。そんなことを知らない伏見くんはずんずん進んでいきます。彼は彼で切羽詰まっているのです、なんたって大切な友達が行方不明なのですから。
「ここなんだけど」
「……俺、人間の家、入ったの初めてだ」
「これからもねえよ」
村の端にある航介くんの家までは、誰にも会わずに通り抜けることが出来ました。それにまず一安心した小野寺くんは、ひくりと鼻を動かします。確かに家の中は荒らされていて、しっちゃかめっちゃかでした。引き出しは引き抜かれて中身が飛び出しているし、戸棚の扉は全開だし、何か粗探しした形跡があります。小野寺くんの邪魔にならないようにと入り口で腕組みをして立っている伏見くんが、多分金目のものを探したんだろう、と補足しました。小野寺くんはそれに頷いて、ふんふんと鼻をひくつかせながらベッドへ向かいます。そこが一番航介くんの匂いが残っている、と勘を働かせたのでしょう。
伏見くんは考えます。まだ断定は出来ないものの九割方決定事項として扱い、これが航介を狙った人攫いの犯行だったと仮定しよう。彼を狙った、というよりはこの辺の過疎地域に住む人間を狙った、と言った方が正確か。何人もが纏まって突然居なくなったら、こんな辺鄙な村でも一騒動になる。だから、まず一人、といったところだろう。彼の不幸は、同居人の朔太郎が長期間の外出をしていて今現在家にいないということ。それと、一番村の外れに住んでいたということだ。あの家は一番森に近い、きっと狼のせいだ、と誰かが言い出したら、誰も助けに行きたがらない。航介がここに住むことを買って出たのは、万が一森から狼が出てきても、自分なら周りに知らせて立ち向かうことができると思ったからだ。彼は優しい。俺みたいな奴にも勿論、子どもの狼が自分の家の裏に迷い出てしまった時こっそりそれを森に返してやる程度に、全方位に優しさを撒き散らかしている。そんな彼を狙うなど、死んで償ってもらったって足りやしない。
ぶつぶつ呪詛を吐きながら瞬きもせずに突っ立っている伏見くんをぱっと見た小野寺くんは、見てはいけないものを見た、と目を逸らしました。人間を食う立場にある狼の彼ですが、ただの人間の伏見くんを本能的に、怖い、と感じたのです。元から、というよりはお互いがお互いに影響しあった結果なのかもしれませんが、小野寺くんの精神は人間に近く、伏見くんの精神は狼に近く、ぼんやりと緩く混ざりあっています。好奇心旺盛で喜怒哀楽の移り変わりがまるで人間のような小野寺くんと、『自分と友達』『それ以外』をばっさりと分けて『それ以外』がどんな目にあっていようが何も感じない伏見くん。どっちが狼か微妙な場面が増えていることに、二人は気がついていません。
ふんふんとベッドの匂いを嗅ぎ、布団を被っていた小野寺くんが顔を上げました。それに呼応するように、伏見くんも目を上げます。
「覚えた!」
「よし」
「あとね、伏見、これ」
「……紅茶?」
「変な匂いがするよ。紅茶じゃない」
「飲んでみろ」
「おいしくなさそう」
「いいから」
ぐいぐい、小野寺くんは伏見くんに押されて、カップの中の冷めきった何かをそっと口に含みました。じっと見てくる目に耐えきれずに口に入れたはいいものの、飲み込むことがどうしてもできずに、ぶええ!と吐き出します。ぺっぺっと念入りに口の中の違和感と戦う小野寺くんを見て、伏見くんは頷きました。
「薬かな」
「まっず!おええ!」
「お前がそんだけ吐くってことは、人間が作った薬かも。即効性の睡眠薬とか」
「なにそれえ……」
「飲んだら眠くなるんだ。眠くないのに」
「怖!」
「怖いだろ。しかもそれで寝るとちょっとやそっとじゃ起きなくなる」
「ひい……人間怖い……」
「眠くなった?」
「なんない!全然なんない!」
「飲んでねえだろ馬鹿」
どっちか分かるか、と素っ気なく聞かれて、分かる、と自信満々に頷いた小野寺くんが、一瞬家を出ることを躊躇しました。自分の鼻は信用に足るものです。だって今までも、離れたところにいる伏見くんの匂いを、何度も嗅ぎ分けてきたのですから。その鼻が示す、覚えたての匂いの方向は、村を突っ切って真っ直ぐ。どう頑張っても、村人の住む中を通らなければなりません。自分は狼で、人間の敵。そんなこと分かっているのです。森の中に住んでいる以上、猟師なんかよりも余程多い回数、被害に遭った人間を見てきました。悲鳴を聞いたことだって、ほんの数分前まで生きていたはずのそれを足元に見たことだって、食後ですと言わんばかりにぐちゃぐちゃの血だまりを踏み越えたことだって、ありました。可哀想だと思えるほど彼は人間じみていませんでしたが、村に出たら狼を憎む人間を目の当たりにしてしまうことは、恐怖でしかありません。じり、と扉の前で動きを止めた小野寺くんのことをじいっと見ていた伏見くんは、ぱっと手を伸ばしました。
「手」
「……て?」
「繋いでてやる。人間と狼は手なんか繋がないから、疑われにくい」
「うん……」
「……お願い、小野寺」
助けて。そう、ぽつりと呟かれた言葉に、いつの間にか俯いていた小野寺くんは、弱々しく頷きました。もしも耳と尻尾が見えていたら両方ともくたんと垂れてしまっているであろうしょぼくれた様子に、伏見くんがさっき出した手を更に上へ伸ばして、背伸びをします。結構な身長差に、伏見くんはよろけてぽてんと寄り掛かるような体勢にはなりましたが、目的は達成できました。伏見くんの手のひらは、小野寺くんの頭の上にあったのです。
「よしよし」
「……ふしみ」
「大丈夫だって。殺されやしねえよ、俺がいるだろ」
「うん……」
「俺が隣を歩いてて、お前に目が行くことなんて無い」
「そ、か。そっか」
「航介を見つけて連れ帰って来れたら、そうだな、お前に御褒美をやろうか」
「ごほーび?」
「そう。どうせ考えるなら、楽しいことのがいいだろ?」
「なに?ごほーび、なに?」
「それは、……」
ぽそぽそぽそ、と小声で伝えられたご褒美に耳を近づけるために屈んだ小野寺くんは、次の瞬間窓硝子をぶち割る勢いで伏見くんを引っ張って家を飛び出しました。クソ単純野郎、と伏見くんの声だけが居残って、すぐにまた家の中は静かになります。朔太郎くんが万が一今すぐに戻ってきたら悲鳴をあげる惨状はそのまま、むしろ小野寺くんがごそごそした分散らかる有様でしたが、まだ帰ってこないので誰も気にしません。問題はありませんでした。
後日、風のような速さで村を駆け抜けて行った二人のことが噂になりました。森の向こうの村に住む赤ずきんちゃんが何故か頭巾を被っておらず、代わりに見知らぬ男が赤ずきんちゃんの頭巾を被っていて、二人は手を繋いでいて、赤ずきんちゃんはほぼほぼ引き摺られている状態だった、なんて話です。目撃者の都築くんは、今度村対抗でやる運動会には借り物競争を入れてもいいかもって思った、と朗らかに全く見当違いのことを言っていました。


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