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赤ずきんちゃん



むかしむかし、あるところに。
濡れ羽のように艶やかな黒い髪、黒曜石の瞳、林檎色に染まる頰と潤めいた唇。まるで真っさらな雪原のような肌は傷を知らず、影が出来る程に長い睫毛を伏せれば、まるで西洋人形のように麗しい、男の子がいました。
男の子が、いました。
「おはよおー、べんとおー」
「……おはよう。今日は早いね」
「航介んとこ行こうかなって」
「ああ。朔太郎もしばらく出てるしね」
「そお」
「なんか持ってく?」
「パンちょうだい」
ぱあ、と笑ってバスケット片手に話す彼は、赤ずきんちゃん、と言います。本名、伏見彰人。正真正銘の男の子です。黒い髪の上から被る、真っ赤な頭巾が渾名の由来でした。そのまんまですが、仲の良い身内は彼のことを『赤ずきんちゃん』なんて不躾に呼ばないので、そんなに気にしてはいませんでした。
真っ赤な頭巾をくくる、項の真っ白なレースリボン。太陽の光によって虹色に光るオーガンジーのストールに、くるみボタンが三つの赤いオーバーオールスカート。手首のボタンで締まっている長袖シャツと、膝丈のスカートの下から覗くフリルレースのペチコートは、白。薄くアーガイルチェックの透けるオーバーニーソックスも真っ白。見えないですが、ガーターベルトも白の総レースです。伏見くんのほぼ全身は赤と白で構成されています。ただ一つだけ茶色いのが、足元を飾るごついエンジニアブーツでした。いっそ不釣り合いな程仰々しいそれは、可愛らしいアンクルストラップの靴を履いていた頃に盛大にすっ転んだ自分を背負って家まで連れ帰ってくれた大好きな友達がプレゼントしてくれたものなので、本人的には一番大切な代物でした。今日は、可愛らしい木のバスケットを持って、絶好のお散歩日和です。
「狼には気をつけなよ」
「大丈夫だって。これも、これもあるし」
「うーん……」
心配そうに眉を顰めた伏見くんの友達、当也くんは、木苺を摘む手を止めて考え込みました。隣町の端に住む自分の幼馴染みである航介くんの所に行くには、鬱蒼と茂る森を抜けなければいけません。森には危険な狼が住んでいます。暴力沙汰が自分より得意な伏見くんといえど、群れで掛かってこられたら一溜まりも無いでしょう。しかも面倒がりな彼のことです、下手をしたら一匹相手でもぼけっとしてるうちに取り返しのつかないことになるかもしれません。森を抜けて航介くんの家まで辿り着いて仕舞えば安心なのですが、行く道がどうしたって心配でたまらないのです。これもこれも、と見せられた、スカートの中のデザートイーグルと、ストールの下に隠された小振りの弓矢は、確かに彼が扱いに長けた護身用の武器ではありました。それでも、と不安に思うのは致し方無いことでしょう。森の中に住まう狼の群れは、それだけ恐るべきものなのですから。
本当なら、自分が同居している猟師の有馬くんを連れて行かせるべきだ、と当也くんは思います。けれど彼は今、航介くんの住む村とは反対側の都市に買い物に出ていて、今日の夕方まで帰ってきません。それを待つことは、伏見くんはしないでしょう。だって、伏見くんから有馬くんに頼るなんて、考えられません。しかしながら、自分が付いていったところで何の足しにもならないことは分かっています。そもそも当也くんは有馬くんと、森には入らない、と約束をしていました。その約束は、それだけ猟師の彼も狼に警戒しているということの表れでもあります。当也くんには、大切な相手と交わしたその約束は絶対に破れません。だからこそ、伏見くんに一人で行かせるのは尚更心苦しいものがあって。
「……気をつけてね」
「止めねえんだ、ふふ」
「だって、止めても行くじゃん……」
「うん。大丈夫大丈夫、パンと交換に美味しいお魚貰ってきてあげるから」
「ほんとに、気をつけて。走って行って」
「やだよ」
「伏見」
「信用ないなあ」
平気だって、と目を細めた伏見くんには、秘密がありました。赤ずきんちゃんにはあってはならない、秘密が。

「さて」
当也くんから焼きたてのパンを預かった伏見くんは、躊躇なく森の中へ踏み入っていきます。航介にあげてもいいし伏見が食べてもいい、と貰ったおまけのサンドイッチは、道中食べてしまう気満々でいました。バスケットからはいい匂いがします。本当なら温かいうちに航介くんにも食べてもらいたいのですが、それはどうやら叶わないようでした。
森の狼は、夜になると活発化します。昔の方がもっと酷かった、と伏見くんも耳にしたことがありますが、今だって月に一度くらいは森で行方不明になってしまった住人の話が噂になるくらいです。とても僅かな確率ではありますが、怪我を負いながら何とか人里に逃げ帰ることができる幸運な者もいます。しかしほとんどは、帰らぬ人となるのです。血に濡れた服や髪留めなどの遺留品を見つけるのは大概の場合、猟師でした。それを見ているからこそ、有馬くんは当也くんに、絶対に森に入るな、と禁じているのであって、その言葉の重みを分かっているからこそ、当也くんも伏見くんを引き止めようとしたのです。実際問題、引き止める言葉は一言も吐きませんでしたが。当也くんはそういう人です。そんな当也くんが、伏見くんは好きでした。
ふんふんと上機嫌に鼻歌まで漏らしながら、伏見くんは歩いていきます。道なんて有るようで無い、大木ばかりが茂る森ですが、伏見くんはなんとなくの勘で歩いています。完全に迷子まっしぐらのコースですが、彼には確たる勝算がありました。どうやっても日が暮れるまでには航介の家に着けるだろう、という自信です。エンジニアブーツの爪先で石ころを蹴り飛ばしながら歩く伏見くんが、足を止めました。
「ちょっと、どいてよ」
「やあ!赤ずきんちゃん!すばらしいね!よく僕に気づいたね!さあ、こんなところに何の用だい?」
「お届け物。どいて」
「それは出来ない相談だな!なんたって僕はお腹がぺこぺこでね!」
「うん」
「君が気づかなかったら食べちゃうつもりだったんだけど、気付かれてしまったから、どうしようかなあ!」
「はあ」
にゅっと木の陰から出てきたのは、顔に白い紙を貼り付けた狼でした。狼の多くは、猟師に顔を覚えられないよう、顔を隠しています。満面の笑みを浮かべた絵が書いてある紙の下でどんな顔をしているか、分かったものではありません。人間の真似事をして嫌に饒舌な狼をあからさまに面倒そうな目で見た伏見くんは、仕方がないから別の道を通ろうと踵を返しました。満面の笑みの狼は、ちょっとちょっと!つれないなあ!とけらけら笑いながらついてきます。先日食べた人間がそんな喋り方をしていたのでしょうか。不愉快極まりない、と内心で伏見くんは唾を吐きました。
『赤ずきんちゃん』は、狼たちの間で、美味しいご飯の代名詞でした。森の中でも目立つ赤い頭巾を被っている人間は、狙いやすいことこの上ないのです。だから、赤い頭巾をわざわざ森につけてくる奴なんていません。いたとするなら、猟師が狼を釣り上げるためか、相当の自信家か、変わり者か、家族を助けるために自分が狼に身を捧げる約束でもした訳ありか、そのどれかでしょう。伏見くんは、まあ言うなれば訳ありでした。彼が森に赤い頭巾を被ってくるのには、理由がありました。
軽薄な皮を被って付いてくる狼を何処で撒こうかと考えながら、伏見くんは一応背中に手をやって弓矢を外しました。ざくざく、と草を踏み分ける音で、後ろにいるのは丸分かりです。遠目から狙う為の弓矢なので、撒かないと使いようがありません。困った困った、と然程困っていなさそうな顔で独り言ちた伏見くんは、ふと音が遠くなったのに気づいて振り返りました。狼がいません。諦めたのかな、それとも、と前を向いた彼の目の前には、
「ばあ」
「わぶっ」
「あははは!おもしろいね!おいかけっこおもしろいね!僕の勝ちだね!」
「いって」
「ごめんね!転ばせちゃったね!あっ!いけない!血が出てるよ!」
「ちっ」
「わあ!あぶなーい!」
目の前に立っていた狼にぶつかって転んだ伏見くんは、苛立ち紛れの咄嗟に手に持っていた矢を振ったのですが、ぴょんと避けられた挙句、払い除けられてしまいました。飛んで行って遠くに落ちた矢を見ながらからから笑う狼は、喉を鳴らしています。木の枝で擦り剥いた頰を擦った伏見くんは、痛い、と不満を零します。至極普通のそれに、狼は首を傾げました。
「きゃああって言わないの?すごいね!赤ずきんちゃん!死にに来たの?」
「そんな高い声出ねえよ、喉痛い」
「食べていい?」
「よくない。どいて」
「お腹がぺこぺこだよ!食べるね?」
「やだって言ってるでしょ」
尻餅をついたまま、スカートの中に手を突っ込んだ伏見くんは、デザートイーグルを抜きました。そのまま撃ったはいいものの、照準は空高く。ぱん、と威勢のいい銃声だけが鳴り響きます。手首を掴まれて、吊り上げられるように上向かされた銃口に、狼が目を向けます。下から見上げる伏見くんからは、紙の隙間に覗く顔が見えました。お腹がぺこぺこだと言うのはきっと嘘ではないのでしょう。酷く、血走った目でした。当也くんの心配通り、逃げることに対して然程やる気を発揮しなかった伏見くんは、今にも食べられそうな大ピンチです。彼が見ていたなら、だから言ったじゃないか、と頭を抱えたに違いありません。見ていないので、伏見くんに何か言える人はいませんでしたが。
とす、と背中を地面に付けられて、要は押し倒されても、伏見くんは平然としていました。まるで、自分が食べられるなど有り得ない、とでも言いたげに。護身用の武器をみんな跳ね飛ばされて、両手首を掴まれて、簡単に首を絞められる位置に狼の指がかかっていても、迷惑そうな目をやめませんでした。ぶつぶつと襟からボタンを弾かれ、美味しそうな首筋と鎖骨がご開帳されたところで、ようやく伏見くんは口を開きました。
「ねえ、聞きたいことがあるんだけど」
「なんだい?命乞いかい?」
「人間のことを好きになった、可哀想な狼の話だよ。知ってる?」
「好きになる?君達食料を?なに言ってるんだい、君は頭がおかしな赤ずきんちゃんなのかなあ」
「知らないなら、良いんだけど。他の狼にも教えてあげたほうがいいよ」
「は?」
「もし、貴方が生きてたらなんだけど」
せせら笑おうとした狼は、次の瞬間伏見くんの上にはいませんでした。風のように通り抜けて自分の上にいた不埒な狼だけを掻っ攫い、見えない場所で処理してくれているらしい相手の顔を思い浮かべて、次に自分の服を見下ろしました。土が付き、シャツは裂けています。転がっていたバスケットの中身が無事なことを確認して、デザートイーグルを太腿に戻した伏見くんは、空に向かって大声を上げました。
「ぶち殺していいよー」
応えるように吼えたのは、狼の声でした。


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