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人魚姫



昔々あるところに、ほぼほぼ人間ではあるものの腰から下が魚のそれになっている、有り体にいえば人魚とかいう種族の男の子がいました。人魚の存在自体は別に大してそこまで珍しいものでもなかったのですが、恐らく人間にとって自分達は大層面白い存在なのだろうということは人魚達自身がよくよく理解していたために、一度捕まろうもんならそのまま手術台という名のまな板へレッツゴーだと分かっていて陸に興味を持つ者はいませんでした。そもそも前提として海の中が既に楽しかったので、陸上で足を生やして踊り狂いたいと思う人魚なんていやしませんでした。いつか海を出て広い世界を駆け回りたい!とか言う人もまあいたのかもしれませんが、それなりの距離感でぽつぽつとその辺に存在する魔法使いがそういう奴らは人間にしてくれるようなので、特に不自由もしていないようでした。人間にしてくれる代わりに対価として何かを差し出さなくてはいけないんだとか人魚にはもう二度と戻れないんだとか、色々な縛りがきつかった昔とは違って今の魔法は発展しているので、三日だけ人間になりたい?全然オッケー!みたいな軽さも持ち合わせています。技術の進歩は素晴らしいものですね。
人魚の男の子、固有名詞で言うのなら当也くん、はある日何の気なしに海上を覗きに行きました。ぶっちゃけ人間に年齢換算すると成人したところくらいなので男の子というのも微妙なのですが性別的には男なので、男の子です。海鳥の朔太郎くんとお話しでもしようかと顔を出したのですが、ちょうどその日の海は大荒れ。そういったことに疎い海の中の存在であるところの彼は、なんだか風も強いし今日は会えそうにないな、と残念そうな顔をしました。風が強いどころか暴風雨に雷鳴轟く大嵐なのですが、元々基本的に水の中で生きているので、水面から出した顔に多少雨が打ち付けたところで何がおかしいのか理解できないのです。
残念そうな顔、といってもデフォルトの顔からほんの少し眉を下げた程度のそれを浮かべたまま、仕方が無いから魔法使いのところにでも遊びに行くかと潜りかけた彼の目に、遠く揺れる船の影が見えました。あれに見つかっちゃまずいな、と距離を取りかけた当也くんでしたが、その船がぐらりぐらりと見たこともない揺れ方をしているのに気づいて動きを止めました。あまり視力の良くない彼が目を細めた先の船は、まるで子どもが遊び散らかした後のようにぼろぼろだったのです。雷に打たれたか、雨風にやられたか、定かではありません。恐らく冷たい海へと落ちてしまった船員も多々いるのでしょう、船の上には数える程にしか人間が残っていませんでした。沈没船になったらなったで、人間の使っていた道具などをまんまといただくことができることを当也くんは知っています。使い方も分からないそれらを魔法使いや海鳥と一緒に見るのが好きな彼は、とっとと沈んでしまえ、と内心で思いました。
水の中で息ができないなんておかしな話だなあ、と今にも沈みそうになりながら近づいてくるそれをぼんやり見ていた当也くんの目に、ロープにぶら下がって耐えている人間が映りました。水兵服を着た彼も、海へ落ちれば命も落としてしまうのでしょう。他人事のように、がんばれがんばれ、と波に紛れながら思っていると、ロープに捕まっている人間に手を伸ばす別の人間が見えました。ふらふらと風に流されて滑り落ちて行く手を掴んだ人間は、相手を船上へと押し上げる代わりに海へ真っ逆さま。あらら、とぼんやりした目を少し見開いた当也くんが見ていることにも気づかず、水柱を上げて浮かんできませんでした。
食料でもない、ましてや自分たち人魚と似た姿のものが目の前で死ぬところを見たくはない、ともやもやした当也くんは、船に返してあげることはできないけれど、と落ちた人間を追って潜りました。もう意識もないのか、微かな水泡を上げて沈んでいく男の体を引き寄せて、水面へと再び顔を出します。薄い色の、不思議な髪の男でした。先程海へ落ちそうになっていた人間とは違う服を着ています。水に揺らめいてきらきら光る髪や服の飾りが、当也くんには酷く綺麗に見えました。自分と同じくらいの体格の、火傷しそうに熱い体をどれだけ揺すっても、何の反応も返ってきません。辺りを見回して近くの岩まで運び、なんとか乗せて頬を叩くと、ごぷっと口から大量の水を吐き出して咳き込み始めました。勢いのある雨が、苦しげに息をする人間の体を容赦無く穿ちます。このままでは人間は助からないことを嗅ぎ取った彼は、友達の魔法使いから困った時に使えと渡されていた笛を吹きました。
一人の人間と一人の人魚の周りを金色に輝く膜が覆い、ドーム状に雨風がシャットアウトされていきます。困ってるからといってまずはその場から隔絶する魔法をかけなくても、と友達の魔法使いの過保護っぷりに多少辟易した当也くんでしたが、顔は広くとも友達の少ない彼のことです、自分のことを心底心配してくれているのでしょう。空間にファスナーのような切れ目が出来て、その中からにゅっと白くて柔らかそうな手が伸びてきました。真っ黒の長いローブを纏って、真っ黒な髪にこれまた真っ黒な大きい三角帽子を引っ掛けた魔法使いは、可憐な女の子と見まごう見た目をしていましたが、口を開けば我儘放題の自分が一番主義であることを当也くんはよく知っています。
「それで、俺は一体誰を爆殺したらいいの?」
「物騒だな……」
「だって急に困った時の笛が鳴るから。どうしたの」
「助けて欲しくて」
「焦って出てきちゃったから俺今この下全裸なんだけど、そんな俺でも平気かな」
「それわざわざ言わなくても良くない?」
「見たい?」
「全然」
だよね、と腕を組んだ魔法使いがふと目線を落とした先には、先程助けた人間がいました。どこで拾ったの、なんてまるで落し物を見つけた時のようにのんびり魔法使いに聞かれた当也くんが、ここに落っこちてきたから、と岩に上半身を預けて尾びれをぱたぱたさせれば、水面から少し浮いたままの魔法使いがすいすいと周りを回り始めました。品定めするような目線に、助けて欲しくてって言ったんだからね、なんて呟きながら何と無く人間を庇う位置に移動した当也くんに、魔法使いが笑いました。
「ここから陸まで届けたところで、衰弱して死んじゃうと思うよ」
「じゃあ伏見が先に魔法で治してから連れてってよ」
「ええー……」
「人間がこんなとこで死んでたら、他の人間が探しに来るでしょ。それは困るの」
「都合いい理由つけちゃってさ」
俺がお前のお願い断れるわけないでしょ、なんて肩を竦めながらがつんと人間を蹴っ飛ばした魔法使いが、ここからうちまで直通だから回復するまでは面倒見てあげる、と空間を割く切れ目を指しながら当也くんに告げました。蹴っ飛ばされた人間は意識のないままふよふよ浮いて、先に切れ目を潜った魔法使いについていきます。それっぽい動きも無しに蹴っ飛ばすことで魔法を使う魔法使いなんて魔法使いじゃない、と当也くんは思いました。恐らく道行く人魚に聞いたなら、その通りだと八割以上が頷くでしょう。なんて考えているうちに金色の膜が薄まっていくことに気づいた当也くんは、急いで近くまで寄って口を開きます。
「ねえっ、俺のこと人間にしてっ」
「……え。なんで」
「それ、俺が面倒見る。場所だけ貸して」
「いいけど、声出なくなるよ?」
「……元々そんな喋んないし」
「それもそっか」
ふよふよ浮いてる人間をほったらかした魔法使いは、一足先に切れ目に入りごそごそと何やら探って、小瓶を一つ持って戻ってきました。透けるような紫色をしたその薬は、声と引き換えに人間になれる魔法の薬。遥か昔に人魚姫が口にしたと言われる薬の改良版です。運命の人と結婚できなければ海の泡になるなんてこともなければ、それを回避するために相手を殺す剣も必要ありません。薬を作った魔法使いが取り決めた解除方法をきちんと用いれば、無事に声も戻ってきますし、人魚の体も返ってきます。ただ、人間で居る間に声が出せないルールだけは、どんな魔法を使っても破れませんでした。
そんな魔法の薬、もちろん飲むのは初めてです。しかしそこは流石に割と長いこと付き合いのある友達、疑う余地もありません。変な色だなあ、程度の感想で済ませた当也くんはぐいっと瓶を逆さにしました。ぞわぞわと走り抜ける自分が作り変えられる感覚に身を震わせたのも一瞬、今まで水の中を自由に動けたはずの体がどぷんと海中へ沈みました。咄嗟に呼吸が封じ込められ、肺の中の空気が全て吐き出されます。浮き上がろうともがく尾びれは、いつの間にやら足に変わっていました。ざぱりと魔法使いに引っ張り上げられた時、人間はどうして水の中で息ができないんだろう、不便だな、なんて他人事に思っていた自分を当也くんは深く深く反省しました。できないもんはできないのです。げほげほ咳き込みながら寒さに震えていると、面食らった顔の魔法使いが指先一つで暖炉に火をつけ、目の前まで運んでくれました。
「びっ、くりした……」
「……………」
「あんな勢い良く魔法にかかる奴初めて見たんだよ。そんな目で見ないでよね」
「……………」
「普通はもっとあるの!キラキラしたりとか!浮かんだりとか!そういうエフェクトが!」
いきなり足生えて沈んで溺れるんだもん、とまるで当也くんのせいかのように口を尖らせた魔法使いが、てきぱきとベッドを魔法で組み上げて人間を寝かせます。つい先程魔法使いにあるまじき魔法の使い方をしていた癖に、よくもまあ言ったものです。珍しく大きな杖を使って人間の頭上から足先までにかけて薄い布のような魔法をかけ、これまた珍しく呪文を唱えている魔法使いを当也くんがぼおっと見ていると、死にかけを生き返らせるんだから手順が必要なの、俺だって真面目な魔法も使えるんだから、と拗ねられてしまいました。確かに当也くんの覚えている限り魔法使いが普段使う魔法といったら、移動を面倒がるために空間を歪めて繋げていたりだとか、若い人魚を騙して遊ぶために人魚に化けたりだとか、今日は疲れてるからまた明日にしようと遊びを断った当也くんの意識を眠らせたまま自宅まで輸送したりだとか、あまり真面目なものはありませんでした。そんな彼が至極真っ当に真面目な魔法で人間を助けようとしてくれているのですから、自分も責任を持って手伝わなければならない、と思ったのです。
幸いなことに、魔法使い相手なら声が出なくとも何と無くで意思疎通ができます。魔法使いは肉体的には人間ですので、海の中に作られた家の中でも人間が生きていける環境も整っています。この人間が陸に帰るまでをきちんと見守りたい、と当也くんは何故だか思ってしまったのでした。

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