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ふたりぼっち


 それから数日が経って、例の退院祝いとやらも終えて、少し前の日常が戻ってきて。確かにいろいろあったけれど、結果的に俺は一人きりに戻ることが出来た。穏便な話し合いで事を収めることが出来て何よりだ。遥希にはまだ意味も分からない内に厄介を背負わせてしまったと思うし、芽衣子さんの事も傷付けてしまったと理解はしているけれど、俺以外の誰かとどこかで改めて幸せになってくれたら良いんじゃないかと思う。もとい、そもそも俺を選んだのが間違いだったと諦めてもらうしかない。
静かな家に鳴り響いたチャイムに、箸を置いて玄関へ向かう。鍋は弱火に緩めたままで火にかけっぱなしなので、手っ取り早く済むと良いのだけれど。いちいちインターホンで対応するのも面倒で、外に聞こえるよう適当な返事をしながら鍵を回して扉を開いた。
 少し前に帰ってきた時にはまだ曇り始めだった空は、気づかない間に小雨を降らせていた。家の中にいると案外分からないものだと雲を見上げながら、どこから歩いてきたんだか濡れた髪で顔を隠し気味に俯き立っている有馬に、中に入るよう声を掛けた。髪から水が滴っている訳でもないので、靴を脱がせてからタオルを数枚放って寄越し、着替えか風呂は、と聞く。黙ったまま首を振って、そのままずるずる座り込んでそれっきり動かない様子を見て、火を止めに台所へ戻った。
「煮物食べる?大目に作ったんだけど」
「……ん」
 玄関口の方に首を出しながら聞けば、肯定とも否定とも取れない、何とか絞り出した様な声が返ってきた。箸を手持無沙汰に振りながら突っ立っていると、正座を崩したようにべったりと床に腰から下を付けて座っていた有馬が、もぞもぞと動いて体育座りになる。その拍子に落ちたタオルを拾いに近づけば、髪を掻き回していた指先が小刻みに震えているのに気付いた。
 タオルを頭に被せ、後頭部を押さえつけるように俯かせて髪から水分を拭っていく。もう片方の手で腰辺りに放り出されていた鞄を逆さまにして床にぶちまけた。音を立てながら落ちてくる、入っていたのは病院で渡した本と小銭、恐らく有馬の家の物であろう鍵と、何かを包んでいる布だった。服やらタオルやらで二重か三重に巻かれているそれは手に取ってみれば重たくて、開ける気にはならなかった。それだけ鞄に戻すと、金属の触れ合う音が耳に残った。
 床に散らばる物を端に追いやって、鍵だけ拾ってポケットにしまう。いつか必要になるかもしれないし。すると、膝に顔を埋めていた有馬がぼそぼそと小声で何かを呟いたが、タオルを髪から外して首にかければ、また黙り込んでしまった。だんまり決め込まれても話にならない。
「ん、なに?」
「……………」
「別に、もう我慢しなくてもいいよ」
 結局濡れたままだし寒いんじゃないかとぐしゃぐしゃのタオルを掛けながら言えば、びくりと肩が揺れた。意図的でなく漏れた笑顔はきっとひどく歪んでいたけれど、見えていなければ問題はない。顔を上げた有馬がつられたように目を細めたのが、どうしようもなく滑稽で。
ようやく合った視線は、俺を突き抜けてどこか宙を見ているようで、酷く澱んでいた。
「どう、しよ。おれ、俺さあ」
「うん」
「なんで、ちが、やって、してないけど、俺のせいじゃなくて」
「……ん」
「覚えてねえの、俺なんにもしてないよな、なあ、おれ、俺が押し」
「有馬」
 がくがくと震える指先で髪を掻き回し、瞳を落ち着きなく彷徨わせる有馬の膝に手を置けば、大仰な程に反応して怯える。髪を引く手を外せば、恐ろしいほどに冷たかった。
 専門書やネットで心理的な病気等については調べたけれど、所詮は素人目の判断だ。合っているかは分からないけれど、一応の判断として心的外傷後ストレス障害に近いものがあるのだと思う。改めて勉強してみれば精神の病気にもいろいろあって、他に近いものとして上げられるのは、解離性障害や統合失調病だろうか。まあただでさえ精神科は誤診率が高いと聞くし、俺個人の判断なんて全く当てにならないので、参考程度か理解のみに留めておくのが利口だろう。元々治してやろうなんて思っちゃいないし、これから起こるであろうことに対して少しでも予測が付けられたらいいと思って調べ始めたのだから、何の問題もない。
付きっ切りで過ごした事が無いので確証はないけれど、夜間の過覚醒が激しかった分睡眠薬か何かで他人がいる昼間に睡眠をとることが半強制されていたとか、事故の追体験を繰り返しているために憔悴しきっているのだと考えると辻褄は合う。心的外傷の原因への回避は、この間電話口で見られた通りだ。そこから他に現れる症状として考えられるのは、記憶の捏造と無意識かつ意図的な喪失、悪夢やフラッシュバック、幻聴と妄想、無言症もしくは辻褄の合わない言動等々、といったところか。もう既に出てきている症状もあるし、聞きかじりの知識が正しいならそんなものだろう。近隣に迷惑がかかるような事をされるとご近所さんに余計な詮索をされるから遠慮してほしいけれど、俺一人が背負い込めば何とかなる範囲内だったら、存分におかしくなってくれて構わない。どうぞご自由に、大歓迎だ。
一番心配している症状としては、自傷癖、もっと分かりやすく言ってしまえば後を追って死にたがること、なんかだけれど。当然ながら死なれたら困るし、病院沙汰の大きな怪我をされるのもまずい。まだ目立つほどの傷はないけれど、震える爪先は既にぼろぼろだし、髪を掻き回し引っ張り続けた頭皮もそろそろ痛いはずなのに一向に止めようとしなかった。今だって、俺が緩く握っている手を離せばすぐに頭を抱えて丸くなってしまうんだろう。
 視線をぐるぐると宙に迷わせながら譫言のように呟く有馬の手を引いて、立ち上がる。
「飯食おう、晩飯」
「な、え……」
「腹減ってるだろ?落ち着いてから話聞くから」
 嘘だ、話をきちんと聞いて治療してやろうなんて微塵も思っていない。タオルと服に包まっていた二つの金属が抑止力になる。壊れていようが欠けていようが、こいつは俺が求めて止まなかった、優しくて馬鹿で嘘もつけないお人よしの有馬だ。もう逃がしてやるものか。
 最初から間違っていたんだ、二人きりを守りたかったのなら初めから手放さなければ良かった。目につく場所で、手の届く範囲で、飼い殺しにするのが一番合理的だった。これでやっと振り出しに帰ってこられた。ここからようやく一歩踏み出すことが出来る。
 普段の、というより今まで俺が目にしてきた彼の様子からは考えられない程に、怯えと動揺を隠そうともせず、手を引かれるままに椅子に座る。有馬が今まで自宅にいたとして、そこには当然井生さんや凛ちゃんの私物があっただろうし、それは当然記憶の追体験や事故のフラッシュバックを引き起こす要因になる。重ねて、唯一頭に残っていたらしい俺の家まで来るまでに、トラウマとして脳内に恐怖をこびりつかせていてもおかしくない電車と一切関わらずにここまで辿り着くことは果たして可能だろうか。どんな手段を使ったのかは分からないし、電車に乗らなくても体力が取り柄のこいつなら恐らく数時間単位で歩き通せるだろうけれど、実際にそのものを目にするのは勿論、それを連想させるものは町中にいくらでも存在する。日常にあまりに馴染んでいるために、どうしようもなく不可避だ。それに、もしかしたら拒否反応が出るのは大きな音だったり車体の色だったりするかもしれないし、何がそうだとは俺には言い切れない。入院していた時より悪化している、もとい不安定な状態に陥っているのは、きっとそれらを重ねて蓄積し、尚且つ一人で抱え込んでいたせいだ。
 どのくらい食べられるかも分からないため適当によそって、食べきれなかったら残してもいいと言い置いてもう一度廊下に出る。さっき放り出した鞄を開け、中身を改めて確認する。すると外から触って予想した通り、日曜大工用だったであろう小さめの金槌と、普通に家で使っていたらしき包丁が入っていて、息を吐く。これで血でも付いていたら処理が大変だった。流石に犯罪者をいつまでも匿っておけるほど世間は甘くない。投げ出してあった本も纏めて鞄に突っ込み、とりあえず洗面台の下の収納スペースに押し込んでおいた。これも見える位置にあると面倒だ、あいつには極力過去の事を思い出さない生活を送ってほしい。
 小銭入れだけ持って戻り、もそもそと箸を動かしていた有馬に放って寄越せば、多少落ち着いたのかそれを見て、いらないと言わんばかりにそっぽを向いてから。
「……おかわり、とか、していい?」
 声につられて見れば茶碗はもう既に空っぽで、思わず吹き出す。何で笑うんだよ、とこっちに向き直りながら告げる声に、俺だってまだ食ってないのに、と腹を抱えながら返した。
 窓の外で降り続く雨は、室内でも音が分かるくらいに強くなっていた。

「じゃあ俺、行ってくるから」
「おー、いってら」
「昼飯はこれ、もしかしたら夜遅くなるかもしれないけど、適当に待ってて」
「どこ行くの?買い物?」
「仕事です」
 しごと、とおうむ返しにして阿呆面を浮かべている辺り、まだ本調子ではないのだろう。本人に聞いてもいまいち要領を得ない答えしか返ってこなかったので、保険とばかりに有馬の家族に連絡してみたところ、一応は休職、病気休暇の状態らしい。まあ確かに、言っちゃ悪いがこんな状態のやつに戻ってこられても困る。現実逃避の一環なのか、それとも実は頭でも打っていたのか、昨日の夜からしょっちゅう記憶が曖昧に飛んでいる様子が見受けられたのだ。話が通用しなくなるほど大きなものから、ただちょっと言葉が出てこなかっただけで済ませられるものまで。けれど本人は至ってあっけらかんとしているし、放っておいても良い気もする。
居場所が分かって良かったと安心したように電話先で息を吐いた家族に、まあこちらとしてはもう二度と離してやらないと思っていますけれども、なんて言えるわけもなく、ちょうど俺も独り身になったところだしある程度の面倒は見ます、と重ねて安心させるような言葉を吐いておいた。薬も何もかも全部置いて行ってしまったから近いうちに渡したい、なんて有馬の妹の言葉を受けて、今日帰り際に受け取りに行くと告げた。
「この部屋から出んなよ」
「……俺何してたら良いの?」
「別に、その辺の本とか、テレビの下にゲームあるよ」
 指差しながら鞄を持てば、ごろごろとソファーに転がっていた有馬が上半身だけ上げて、ひらひらと手を振った。薬は今晩受け取るつもりだから最低でも昨日の夜から飲んでいないことになるけれど、昨晩より今朝の方が安定している感じがする。精神安定剤とかを予想していたのだけれど、そういうんじゃないんだろうか。
 仕事をしながらも、この先どうしていくのが一番最善策なのかを考える方向に頭はフル回転していた。最善策と言っても、治療法を考えるわけではない。有馬が今までの事を極力思い出さないように、出来たら他人との接触を最小限まで抑える形を取りつつ、成人した男一人を匿い暮らし続ける方法だ。他人との関わりを一切絶った状態で過ごすなんて、山奥なんかじゃまだしもここじゃ無理だし、連絡が付かなくなったら家族や知り合いは当然心配するだろう。消息不明なんて以ての外だが、俺が面倒を見続けると言うのも筋が通らない。言い切ってしまえばただの他人だ、血の繋がりがある訳でもない、そうしなければならない特別な理由もない。
 俺の家に有馬を匿い続けるのではなく、反対に俺が有馬の家に隠れ住むという手段もあるけれど、そのためには井生さんと凛ちゃんを思い出させる物は処分する必要がある。それには時間がかかるだろうし、突然は無理だ。当分は何とか口先八寸で切り抜けながらやり過ごすしかないだろう。まあ自分で言うのもなんだれど、今まで長年善良な一市民の顔してあいつのお友達やってたわけだし、余程の下手を打たなければ疑われることも無い。
 なにかあったら電話しろと言ってはおいたものの、携帯に着信は無いまま、普段と同じくらいの時間に帰ることが出来た。家に着く前に有馬の妹から薬やら服やらを受け取って、お兄ちゃんの意志に任せるけど出来たら帰ってきてほしい、なんて言葉を聞いて、そうなるよう説得しておくと嘘の塊を投げ返しておいた。まず今のところは何も疑われていないし、親切なお友達に取り合えずお世話になる方向で話を進めてくれているのは好都合だ。
 がちゃがちゃと鍵を回して玄関口に上がる。嫌に静かなリビングを覗き込んで、絶句した。
「な……お前、これ」
「あ、おかえり」
 至って普通に返事をした有馬の手には何故かリモコンと金槌、部屋の中は強盗にでも這入られたのかってくらいにぐちゃぐちゃで、机の上には俺が朝出て行った時のまま食事が用意されていた。ということは、昼飯食ってないのか、こいつ。
 どういうことだと首を傾げながら、こっちの混乱を知りもせずクローゼットの中身を引っ張り出している手を掴んで、そのままリビングの中央へ連れて行く。ここに居させれば何も開けられないし何も出せないだろうと思ったんだけど、本人は全く理解していないようで、能天気にきょろきょろしている。取り上げた金槌は昨日俺が隠したもので、まさかと思い洗面所を確認しに行って、溜息。引き出しどころか、お風呂場の中まで何故か散らかり倒している。猫でもここまで悪戯しないだろう、なにがあったらこうなるんだ。
 何が何だか分からないと言いたげな顔で大人しく立っている有馬に、同じく意味が分からない顔をしてやった。服が変わってる訳でもない、風呂場が濡れてるわけでもない、だからシャワーを浴びたっていうのは無いだろう。テレビは消えてるけどゲームは出しっぱなし、寝室は被害を免れたようだけれどリビングの引き出しという引き出しから床に物が引っ張り出されている始末、現状を確認してみたところでこの惨状の原因が全く分からない。
「……なに、これ。探し物でもしてたとか?」
「あ、それ、そうだったかも」
「かも?」
 自分でもよく分かんなくなっちゃった、と首を傾げている有馬に、俺が行ってから何してたの、と問い掛ける。話を聞く片手間に散らかった物を元の場所へ戻していると、手伝っているつもりなのかせっかく片付けた引き出しに手を掛け引こうとしたので、静かに背中を押して椅子に座らせておいた。ついでに冷めた飯を台所へ引っ込める。これは後で俺が食うとして、夕ご飯を食べさせないと薬が飲めないか。
「あっ」
「なに?」
「スプーン」
「……ほしいの?」
 そうじゃなくて、と首を振る有馬の目が向いているのは俺が今持ってきた皿で、中には食べてもらう予定だった昼食が入っていて。しばらく考えて、手を打つ。何となく事情は分かった。
要するにこいつの探し物はスプーンで、飯を食おうとしたもののそれが無い事に気付いて、でもどこにあるかも分からず適当に色々な所を探している内に、元々の目的であった探すという本題を忘れて、物を引っ張り出す方に主軸を移してしまったのだろう。そういえば昨日の夜も、眠れないとぼやきながら布団被ってふらふらしていたから、眠くなるまでテレビ見ててもいいよ、とだけ声を掛けてリモコンを渡したところ、何故か朝まで必死で目を擦って画面と向き合っていた。眠るのが嫌なのかと納得していたけれど、理由はそれだけではなかったようだ。
「あー……なんか、ごめんな」
「なんで?お前俺になんかした?」
「いや、うん、晩飯何が良い?」
「ハンバーグ」
「……時間かかるよ」
「手伝ってやろっか」
「いいです」
 座っていろと肩を押して、粗方片付いた部屋を見回す。昨日からの様子からして言われたことには大人しく従う辺り、きちんと教えておけばもう今日のようなことは起こらないとは思う。
 晩飯の支度をしながら、極力リビングからは出ないでほしい事、散らかされると片付けが大変だから分からないことや困ったことがあったら些細なことでも連絡してほしい事、食事と睡眠はきちんととってほしい事なんかを告げれば、分かった、と頷きが返ってきて。
「あと、痛い事はしない。俺の見てない所で怪我をしない」
「部屋の中にいるのに怪我も何もないだろ」
「有馬、手え出して」
 はい、と差し出された手を裏返して、袖を捲る。手首から肘までにかけてついた引っ掻き傷に、なにこれ痛そう、と他人事のような感想を持つ彼の傷口を指先で弾いた。金槌の上部、ほんの少し尖った螺子部分の色が違ったから、どこかしらに引っ掛けたんだろうと思って手を出させたんだけど、この様子だと無意識か単なる事故らしい。覚えていないという線も消し切れないけれど、記憶が無いんじゃ問い詰めるだけ無駄だ。
 隠してあった二つの金属を自分で探し出せることが分かった以上、壁とか家具ならまだしも万が一何かの拍子に自分を切り付けたとか殴ったとか、その上骨折だとか内臓出血だとか出血多量で救急車だとか。とにかく大事になる怪我をされるのが一番困る。少しの出血程度だったら俺でも何とか出来るかもしれないけれど、病院沙汰はまず言い逃れができない。せっかくここまで御膳立てしたのにぶち壊されてたまるか。
「いって」
「でかい怪我されても治療できないから、こういうのには気を付けること。分かった?」
「明日っからもう一日中寝てようかな……」
「それでもいいよ」
 寝てようかな、なんて無理な癖に、良く言う。本人に自覚は無いのかもしれないが、さっき受け取った薬を確認した限り睡眠薬は処方されていた。つまり自主的には睡眠を取ることができない、もしくはしたくないということだ。今だって、飯を食った後にそのまま大人しく薬を飲んでくれるかどうかだって分からない。飲むことを強制するつもりはさらさら無いけど、あまり支障を来すようなら睡眠薬だけでも飲んでもらった方がいいかもしれないと思う。自分の意思に関係なく、寝れない、っていうのは案外辛いもんだし。
 要望通りにハンバーグを作ってやって、一緒にご飯を食べて、取り合えず様子見に薬を袋ごと渡して放っておく。先に俺が風呂に入って、有馬と入れ替わりにリビングへ戻ると、隠しもせずに薬の袋がゴミ箱に突っ込まれていた。堂々としてないでちょっとは取り繕えよ、逃避の方法が雑すぎるだろ。なんて呆れながら袋を取り出し、ばれないように台所の戸棚に隠す。それから思い直して、睡眠薬以外の薬をゴミ箱に戻した。捨てたものが全部無くなっていることに気付いたら不信感を抱くだろうし、なによりこっちは必要ない。
 風呂から上がってきた有馬に、今日はベット使って良いよ、と声を掛けて自分はリビングに布団を持ってくる。有無を言わさずそこで布団を被ると、数分おろおろしていたものの意外とあっさり寝室へ入って行った。これですんなり寝てたら睡眠薬すら必要なくなると考えつつ様子を窺って、そのうちに睡魔に襲われてうっかり寝てしまった。
「……っ、ん?」
 ふっと目が覚めたのは日付が変わる直前、がたがたと響いた物音でだった。結構な時間寝てしまっていたことに内心で舌打ちしながら、そっと起き上がる。案の定だけど、寝てないようだ。眠れたとしても浅眠だろう、何の拍子に目が覚めたとしてもおかしくない。
 音のする方へ歩いて、暗い部屋の電気を点ける。こっちを振り向いた瞳はいまいち焦点が定まっていなくて、そこに映る俺はこの場に明らかに不釣り合いなほど笑顔だった。相手を安心させる為、にしてはやりすぎなくらいに。
 ぺたりと裸足で踏み出す音がして、有馬が体ごと俺の方を向く。一歩近寄って、同時に言葉を掛けようとしたものの、声に遮られた。
「三つ編み、お前出来る?」
「な、ん……できる、と思うけど。なんで?」
「やり方教えてくんねえ?俺、下手くそでさ」
「はあ……」
 そうは言われても、俺もこいつもそんなに髪が長いわけでもないし、どうしたものかと部屋の中を見回す。しかし寝室にちょうどいい紐なんてあるはずもなく、ちょっと待ってろと言い置いて台所へビニールテープを取りに行くと、ぺたぺたと後をついてくる足音。ついてきたならそれはそれで構わないけれど、振り返るまでもなくふらついているのが気になる。恐らく深刻な寝不足なんだろう、浅くでもいいから眠ってくれたらいいのに。
 適当な長さに切って結んだ三本の紐を持たせて、出来るだけゆっくり三つ編みにする。解説をするようなものでもないので、二人して無言のまま編んでいく。終わりごろまで来た時、不意に正面に座っていた有馬が口を開いた。
「練習して、上手になったら、もう一回やってやるんだ」
「……誰に?」
「だれ、って」
 もうそんな相手いないだろうと告げてしまいそうになって、首を振る。余計なことはしなくても、このまま風化させてしまえたら一番いい。編み上げた紐を解いて、明日からこれの練習したら、と出来るだけ明るく声を掛けた。それに返事はなく、声の代わりにぱたりと音を立てて落ちた滴を服の袖で拭ってやって、握りしめすぎて爪が刺さっている手のひらを開いた。くっきりと残った爪の痕をなぞって、服の袖を捲る。
「血が出ない方が痛いんだよ」
「……ごめ」
「どうせ寝れないんだろ?」
 謝る言葉は遮って、一人で勝手にソファーへ向かう。さっき抜け出した時のままだった布団を被ってテレビをつけると、足音が躊躇いがちに寝室へと向かった。らしくないというかなんというか、こいつをこうしてしまったのは、今までのこいつを連れ去ってしまったのは、どうしようもなく追いつけなかった彼女で、それは酷く腹立たしくて憎かった。
 もぞもぞとベットに乗り上げていた有馬の襟首を掴んで引き摺り、ソファーに投げた。認めたくないけど、とても軽くなった。細くなったとか痩せたとかそんな詭弁を使ってやるつもりもない、単にやつれただけだ。目を白黒させているのも気にせず布団を被せて、眠くなったらそこで寝ろと言い捨てた。
「え?え、なに、寝ないの」
「寝ない。ゲームする」
「は?」
「お前今日やったのどれ、これか」
「明日仕事ないの?」
「あるよ。あ、有馬お前、データ消したな」
「うん、なんか消えた。ごめん」
 別に、そんなことは構わなくて。ただ、今目の前にいるのは俺なのに、もういない奴の事で頭を一杯にしているのが気に入らなかっただけで。だからと言って自分を見てほしいわけじゃない、後ろを振り向かれるのがどうしようもなく嫌だ。
 二人でコントローラー回しながら朝になるまでゲームして、日が昇る頃には床に空の皿と袋とカップが転がっていて、俺は途中からところどころ意識が無いけれど、有馬は恐らく延々起きていたんだろう。頭痛と眠気を堪えながら着替えて朝飯用意している間、へらへらと上機嫌そうに笑う割には隈は酷かったし視点も定まっていなかったから。
「じゃあ行ってくるから、昨日言ったこと忘れないでよ」
「おー、平気、いいこにしてる」
「ほんとかよ……」
「ほんとだよ」
 もうしない、と手のひらと腕を見せられて、渋々頷く。外に出れば日の光が眩しくて、立ちくらみを起こしそうだった。

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