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ふたりぼっち


分岐1その後
蛇足とはまた別ルート


「はるかちゃん、どう?」
「んー……」
「はやくー!」
「分かったけど、難しいんだよ!」
 おとうさんみつあみして、とヘアゴムを持ってきた小さな手からそれを受け取ってから、もうゆうに十分は経っている。本当だったら買い物に行くためにとっくに外に出ているはずなのだけれど、幼稚園で友達になにやら言われたらしい凛は頑として俺の膝から動こうとしないまま、時間だけが過ぎていく。でも俺は三つ編みなんてしたことないし、何とか試行錯誤ながらにやっては見たものの、案の定どうにもならない。様子を見に来た千晶に途方に暮れた顔を向けると、絡まりかけた髪と凛の膨れっ面を見比べ、困ったように笑って説得に入ってくれた。
「お父さんねえ、手先ぶきっちょだから出来ないって」
「でもね、さなちゃんのおとうさんやってくれるんだよ、おだんごもするんだよ」
「はるかちゃんには一生かかっても無理だなー」
「練習すりゃあ出来るよ!」
「自分で見てごらん、お母さんが直したげるから」
 俺の言葉を無視して、千晶が手鏡を凛に渡す。鏡越しに俺と目があって、ぶきっちょ、とちっちゃい声で呟いた凛に、ごめんなと返す。練習して、次は出来るようにしておくから。
 てっきり千晶にやり直してもらうものだと思って、膝から凛を抱き上げて降ろすと、鏡を片手に持ったまま玄関の方へ走って行ってしまった。二人して顔を見合わせて名前を呼ぶと、リビングの扉からひょこりと顔を出して、なあに、なんて。
「髪の毛やり直してもらうんだろ?まだそっち行っちゃだめだよ」
「これでいいのー」
「いいの?」
「おとうさん、りんかわいい?」
「可愛い」
 うへへ、と喜んでいる時の千晶そっくりな変な笑い声を上げながら行ってしまった凛を見送って、振り返る。やだ顔が酷い、と千晶には笑われてしまったけれど、仕方ないじゃないか。一も二も無く可愛いって言い切れるくらいには可愛いんだから。
 やってもらったのが嬉しかったんだねえ、と一生懸命靴を履く凛を見ながら言う千晶に、今度三つ編みのやり方を教えてくれと頼む。すると、じゃああたしの髪の毛でやってもいいよ、と若干照れながら言うもんだから、それも可愛くて可愛くて。
「凛が大きくなってから、俺の事取り合ったりすんなよ」
「女の子がお父さんにくっついてるのなんて精々小学生までだよ」
 短い夢だねと憐れむ目で見られて、肩を落とす。そりゃあそうなんだけど、分かってはいるんだけど。かなたは父親とそこまで不仲ではないし、あの程度だったら耐え切れるとは思うけど、近寄らないでって言われたり、口さえ利いてもらえなかったりすんのかな。それはちょっと無理だ、頼むからそうはならないでほしい。
 いつの間にか自分だけでも上手に靴を履くようになった凛は、得意げに足元を見せびらかしながら、髪の毛をちょいちょい弄りつつ玄関口で待っていた。緩んだり零れたり引っかかったりで、我ながら酷い見た目の三つ編みだけれど、彼女はあれが気に入ったらしい。
 最近急に「かわいい?」が口癖になったし、女の子なんだなあと実感することが増えた。今だって鏡を片手に、千晶の真似なのかにこにこしながら自分を映している。ついこの間までは公園を泥まみれで駆けずり回ってはすっ転んでわあわあ泣いてたくせに、子どもの成長は早いもので。そんな凛も、そろそろお姉さんだ。
 外から見てもずいぶん大きくなったお腹に何となく目を向けた俺を、そんな顔しなくてもただ買い物に行くぐらい大丈夫だよ、と千晶は笑った。それでもやっぱり心配で、千晶と手を繋ごうとした凛に、お父さんとにしようか、なんて声を掛ける。
「心配性なんだから……」
「おとうさん、かたぐるま」
「エレベーターまででいい?」
「いい!」
 エレベーターまでって、数十メートルしかないんだけど。一回肩車したらなかなか降りてくれないんだよな、と思いながらしゃがみこんで、自力でよじ上る凛が落ちないようにバランスを取った。まあ、外の道に出たら降りなきゃいけないんだと本人も分かっているし、ちょっとくらいならいいだろう。髪の毛を割とがっつり力強く掴む凛に、お父さんの髪の毛をあんまり苛めないで、とだけ忠告して、立ち上がる。
「千晶、今日夜ご飯何にするの」
「はるかちゃんが手伝うと逆に手間かかるから教えません」
「りんねえ、たまごのはんばーぐがいい」
「お花の型抜きしよっか」





 がちゃん、と何かを取り落した音がして、唐突に電話の声が止む。遥希を膝の上で遊ばせながら、どうかしたの、と芽衣子さんの居る台所側へ問い掛ければ、返事は無かった。こっちからじゃ何があったかは全く見えないし、どう考えても様子がおかしいので、まだ歩けもしない遥希を抱き上げて立ち上がった。冷蔵庫の前でしゃがみこんでいた彼女の傍らには電話の子機が落ちていて、通話はもう既に切れていたけれど、拾い上げて聞く。
「どうしたの」
「とう、ちあき、千晶が」
「うん?」
 千晶が、凛ちゃんと、轢かれたって。
 過呼吸になりそうなくらいに息を詰まらせながら、何とかそう告げて泣き出した芽衣子さんの隣に、座り込む。身動きの取れない遥希がもぞもぞと一人で動いていて、子機に手を伸ばしながら腕の中から抜けて行った。おもちゃにされそうな電話を取り上げて、もう一度抱き上げて小さな手を取り遊んでやった。
「いつ」
「わ、かんな」
「怪我?」
 そうだったら、こんなに取り乱さないとは思うけれど。一応念のために聞けば、随分躊躇した挙句にゆっくりと首が横に振られた。何も思わない訳じゃない、悲しいとは感じているけれど、ああそっか、それで今日の晩御飯何にしようか、なんて気持ちの方が強くて。俺の指を握りながらきゃっきゃと笑う遥希に、笑顔を返した。
「何があったか聞いたの」
「駅、ホームから落ちて、それで」
「……二人だけ?有馬は?」
「めの、まえで」
 目の前、って。一緒に行ってて、ちょっと離れた間にって事か。それか、有馬もどこかしら怪我してるとか。まあ治る程度の物だから特に取り急いで言われなかったのだろう、死人が出てたらそっちに目が行くのは当然だ。
 泣く芽衣子さんの背に手を当てて外面の慰めを吐きながら、遥希に向けていたはずの笑みが顔から外れなくなっていることに気が付いた。高揚してるし、確かに嬉しい、不謹慎だけど。あの時に病院で殺した自分が、ゾンビよろしく蘇ってくるようで。そういうのって、大概自我なんて無くて、ただの殺戮兵器みたいになって、暴れるだけ暴れてまた殺される役割で。
 ぴったりだ。なんなら周りに異常を感染させてやってもいい。
「ね、芽衣子さん。遥希がびっくりしてるよ」
「え……」
 そんなの嘘っぱちだ、状況を分かっているはずがないんだから。さっきまで俺の指を掴んで遊びながら笑っていた遥希は、きょとんとした表情で芽衣子さんに抱かれ、声を上げて泣く彼女の頬を触っていた。その手に涙が触れて、何となくだけど、汚いな、って思う。
 経験がない事を想像したところでそれはただの机上の空論でしかないし、見当はずれな夢物語であることがほとんどだ。けれど、俺はあいつの事だけを何年も見てきたわけで、こういう時有馬だったらどうすんのかなって何となく考えて、それが俺にとって都合のいいものだったらそっちを信じたくなるのも仕方がないわけで。
 泣いている彼女の目がこっちに向いていないのを良いことに、口元を押さえて悲しんでいるふりをした。手の内でどんな表情をしているかなんて、知らなくていい。
 いらなくなったらすぐ言って、と一番始めに言ったのは彼女の方だ。だから俺は何も悪くない。遥希もいるけれど別に親権取ろうなんて思ってないし、共用の貯金は全額残して毎月仕送りもしてあげるから。だから、何にも心配なんてしなくていい。今のご時世、片親なんてざらにいるわけだし。
 安心して、捨てられてもらおう。

 有馬が入院している病院を訪れることが出来たのは、それから程無くした頃だった。病室の扉を開けて中に入り、いくつか並んだベットの中から目的の場所のカーテンを開ける。
当人に会うのに何も知りませんでしたじゃあ話にならないので、一応事のあらましをざっと聞いてはおいた。井生さんと凛ちゃんがホームから転落したのは自発的な行動ではなく、ちょうど居合わせた見知らぬ他人に押されての事だったようで、廻り合わせの悪い不幸な事故だったとしか言いようがない。その誰かがアルコールや薬物の重度中毒者だったらしい、怨恨の線はほぼ皆無なので通り魔的犯行らしい、なんて話も一緒になって付いてきたけれど、それは単なる不確かな噂話であって、そもそも俺には関係ない。原因がどうであれ結果は一緒だ。
有馬の怪我は打撲その他、予想した通り安静に入院してれば治るものだった。電車との接触によるものではなく、突き飛ばされた井生さんに手を引かれていた凛ちゃんが電車に接触、その体が跳ね飛ばされて勢いづき、受け止めると言うより巻き込まれて怪我、というのが正しいようで。目の前で、の意味がようやく理解できた。
「あり、ま」
 寝てる、かな。元通りにカーテンを閉めて椅子に座り、久しぶりに顔を見る。頬に若干擦り傷が残ってはいるものの、見えている部分にこれといった異常は見られない。流石に寝ている相手の掛布団を引っぺがすわけにはいかないので、体幹は確認できないけれど。
 打撲痕は多少残ったとしても、体の傷はいずれ治る。問題は精神的な面で、聞いた限りでは入院当初、必要最低限の会話すら儘ならなかったらしい。まあ当然と言えば当然だ。二人、お腹の中にいた子も含めれば三人、いっぺんに喪った衝撃は受け止めきれなかったのだろう。それで責められる義理は無い、反応的には正常の範囲内だ。だから今日来ても今まで通りの会話が出来るとは思っていなかったけれど、寝ているとは。体力が取り柄の癖に、と他人事に思う。
 どうせ暇だろうと適当に見繕って持ってきた本は、ナースステーションにでも預けておくことにしよう。有馬は寝起きが良い方なので、無理に起こしてしまうくらいなら声を掛けない方がいいかと一瞬思ったけれど、何も言わずに帰るのもどうにも無駄足感が強い。本に短い書置きを挟んで、椅子を立った。
「……困ったことあったら、いつでもおいで」
 どうせ家には俺一人になるし、元の家に戻って自分を追いつめるくらいならしばらくいてくれてもいい。当然そんなものは上っ面で、自分の欲に忠実に吐いた言葉なのだけれど。そう遠くない未来の予想が外れていないことを願って、口角が上がった。
 出来る事なら俺も毎日お見舞いに行ってやりたいところだったのだけれど、こっちにだって仕事があるためそうそう病院に行けた物でもなく、時間を作って行ったところで薬が効いているんだか単なる現実逃避の一環なんだか、本人は基本的に寝ていて話はほとんど出来ず仕舞いだった。その代わりと言ってはなんだけれど、気休め程度になればと思って公衆電話用の小銭と電話番号のメモを渡したのが少し前の事。最優先で出るから、と告げれば寝起きのぼうっとした顔で頷いて、実際に電話がかかってきたのは今から数日前だ。ほんとに出た、と掠れた声で笑った電話口に、もう病室から出てもいいのかと聞けば、返ってきたのはあまり噛み合わない答えで、無意識に頭を掻いた。脳裏にこびり付いたのは、どうしようもなく嫉妬だった。
 電話を重ねる内、何の変哲もない中身空っぽの会話ならいくらでも今まで通りに続けられることに気が付いた。例えばそれは昨日見たテレビの話だったり、病院食の話だったり、持って行った本の話だったり。ちょっとした実験のつもりで井生さんと凛ちゃんの話を数回ちらつかせたところ、ずれた答えか無言、最悪の時は電話先でもこれはまずいと分かるくらい呼吸がおかしくなったりなんかして、後々聞いたところ過呼吸気味と錯乱未遂が重なってベットに送り返されたそうで、流石に少し反省した。謝ったところで、へらへら笑いながら不思議そうに首を傾げられるだけなんだけど。
 それでも俺との電話は気晴らしにはなっているようで、退院日も案外あっさりと決まり、最初の頃に比べたら病院でも普通に過ごせるようになり、回復は順調のようだった。精神的にもっと参っているかと思ったけどそうでもないみたい、とお見舞いに行ったときばったり会った有馬の妹が言っていたけれど、笑顔を返すだけに留めておいた。
だって、もう布石は打ってある。あいつは確かに馬鹿だけれど、必死で考えることくらいは出来る。弱っていようと、口が動けば嘘は吐ける。確かに今まで通りの笑顔を浮かべているふりは出来ている、辛い現実と向き合い乗り越えたのだと認識されているだろう。俺以外にはきっと誰にも気づかれていない、だから俺だけがきちんと分かってあげられる。嘘を吐く、というより、自分を偽るのが短期間で随分上手になったけれど、こっちは何年も何年も追いかけ続けているんだから、感情と行動の予測にある程度の自信だって付く。それを現実にするための予防線だって張ってある、後は布石が無駄にならないことを祈るしかない。
精神科医に掛かられたら異常には気が付かれるだろうとは思っていたけれど、当の有馬は電話先で楽しそうに退院日を告げているので、どうも免れたらしい。ところどころ話が大幅に食い違うことはまだあるけれど、それを医者や家族の前で一切出さなかったのはいっそ見事だ。退院祝いに味の濃いものが食べたい、とぼやく声に笑って、何でも作ってやると返した。


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