このサイトは1ヶ月 (30日) 以上ログインされていません。 サイト管理者の方はこちらからログインすると、この広告を消すことができます。

おはなし



さくちゃん、さくちゃん、って呼ぶ声がして目を開けた。びたんびたんと容赦無く頬を叩く手を掴めば、海が顔を覗き込んでいるのがぼんやり見えて、片手で眼鏡を探す。あれ、どこ行った、ていうか俺いつの間に寝てたんだ。さっき帰ってきて、着替えて、ソファーに座って、その後の記憶がない。ようやく眼鏡を見つけて時計を見れば、帰ってきたはずの時間からぐるっと二周針が回っていて、呆然。え、嘘でしょ、起こしてよ。
「こーちゃん、さくちゃんおきたあ」
「おー」
「さくちゃんなんでないてたの?こわい?おばけ?」
「え?あ、えっ?」
ほら、と手を掲げられてよく見れば海の手のひらは濡れていて、それはさっきまで俺の頬をびたんびたんしていたからで。確認のために自分の頬を拭えば、確かに濡れていた。あれ、ほんとだ、泣いてる。なんでだっけ、なんか目に入ったりしたのかな、覚えてないけど。
海風呂入れてくるから、お前の分の晩飯こっちに分けてある、と航介が海を持ち上げながら俺に言う。それに頷いている間に海は一人できゃっきゃしながらお風呂場まで駆けて行ってしまって、それを追いかける航介の背中を咄嗟に掴んだ。
「うわっ、なに」
「あ、した」
「あ?」
「明日、父さんのとこ行こう」
「……いいけど」
なんで、とは聞かれなかった。聞かれても、いや何となく、としか答えられなかっただろうから別にいいんだけど。俺の目元を親指で拭った航介がぺたぺたとお風呂場の方へ消えて行くのを見ながら、お前俺のこと今子ども扱いしたろ、と思わなくもなかったけど言わなかった。

「どこいくのー」
「朔太郎の、お父さんとこ」
「海のおじいちゃんだよ」
「おじいちゃん?しわしわ?」
「どうかなあ。さくちゃんが海くらいの時にいなくなっちゃったんだ」
「いないの?なんで?」
「なんでかなー。俺も知りたいや」
車置いて、石の間を歩く。海はここに来るの初めてじゃないんだけど、不思議そうにきょろきょろしながら歩いてた。航介に手を引かれながら首をいろんなとこに向けて、危ないなあと思っていたら案の定、途中出っ張った岩に蹴躓いてすっ転んでぎゃんぎゃん大泣きしたりしながら、ようやくついた。久しぶりに来る、見慣れた風景。
今更、よくあるドラマとかみたいに墓石の前でわんわん泣くとかそういうわけでもないし、お線香あげたりお花やったりした後は、ぼんやり目の前に座って眺める。会話できたらなって思ったこともあったけど、話せたら話せたでどうなんだろう。寂しくはならないかもしれないけど、縛られてしまうんだろうな。だからこの距離が丁度いいんだろう、いなくなった人とはもう二度と会えなくていい。
ふと思い立ったので、海の両脇に手を差し入れて持ち上げ、見せつけてみた。海が生まれてから来たことないわけじゃないけど、なんとなく。ほれ、見ろ、うちの子だ。俺が父親だぞ、こんなにでかくなったんだ、いいだろ。持ち上げられたことが楽しいのかぐにゃぐにゃしながら笑ってる海に、見てごらん、と目の前の石を示す。
「さくちゃんのおとーさん」
「そうだよ。お名前言っとけば」
「つじうみです!くじらぐみです!」
「よく出来ました」
海を下ろせば、こーちゃんもほめてほめてと航介に擦り寄っていた。複雑そうな顔をしている航介に、悪いけど今回はお前が思い悩むような事情は一切無い、とざっくり告げれば溜息が返ってきて。なんだよ、ほんとのことだ。仕事休みだしせっかくだから来ただけなんだから、そんな微妙そうな顔されても、航介好みっぽい悲しい感じのあれやそれにはならない。
「さくちゃん、だっこ」
「はいはい」
「もういいのかよ」
「うん。来たくなったら来るし」
さっき来たばかりの道を、海を抱っこして戻る。最近海のやつ重たくなっただろ、このままどっかの誰かみたいにころころになったらどうしようね、なんだとてめえ殴るぞ、なんて航介と笑っていれば、首に手を回していた海が突然ぱっと片手を離して、大きく振った。
「ばいばいっ」
「……う、み?」
「あそこにね、さくちゃんみたいなひとがいた」
息が、詰まって。海の言葉に体ごと振り返った途端、真っ正面から風が吹いてきて目を瞑る。でも痛い、絶対なんか入った。よりによってなんでこのタイミングで、とぼろぼろ溢れる涙を拭いながら無理矢理目を開けても、なにも見えなかった。海の手が、さくちゃんおめめだいじょうぶ、と頬を撫でる。大丈夫だよ、俺は大丈夫だけど、お前には何が見えたの。俺の忘れちゃった顔が、海には見えてたの?
「いっ、たあ……」
「今の風すごかったな、急に」
「はっぱついてるー」
「ほんとだ。朔太郎、海一旦もらおうか」
「んー……もう、平気」
瞬きして目を開けば、心配そうな航介の顔と、俺の頭から取ったらしい葉っぱを誇らしげに見せてくる海が見えた。きっと、まだこっちを見てろってことなんだろうな。振り向いたから風が吹いたんだ、俺が見ようとしたから。まだ早いって言ってるのに!なんて焦った声が聞こえた気がして、ちょっと笑った。
「それに、またって言ってたしさ」
「……何が?」
「んー、俺も忘れちゃったけど」
「おなかすいたー」
「なんか食べて帰ろっか。海、なにがいい?」
「はた!はたついてるやつ!ぜりーも!」
「なにそれ」
「お子様セットとかじゃねえの、多分」
「俺ラーメン食べたいんだけど」
「じゃあなんで海に聞いたんだよ」
「子どもは麺が好きじゃん。海、ラーメンはどうよ」
「……しかたないからいいよ……」
「おい、めっちゃ嫌そうだけど」
「じゃあファミレスにする?両方あるし」
「おう、どこにあったかな」
「ふぁみれすってなにー」
「すげえやばいとこだよ。海にはまだ早いかな、泣いちゃうかも」
「うええ、やだあああ」
「嘘つくな」
「大丈夫だよ。さくちゃんがいるからね」
海を抱っこしたまましばらく歩いたら、手が痺れた。あの人も、俺のお父さんも、俺のことこうやって抱いて手が痺れたのかなって思ったら、なんか泣きそうだったからやめた。


14/69ページ