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おはなし



風邪を引いた時には決まって、坂の上から大きな岩がごろごろ転がってくる夢を見る。俺はそれから必死で逃げるんだけどいつもべしゃっと押し潰されてしまって、そしたらまた坂の上から再スタート。後ろを振り向いたら岩、走り出しても逃げ切れずに、ちっちゃい頃はわあわあ泣きながら目が覚めた。そういう、疲れてたり体調が悪かったりすると決まって見る夢って、他の人にもあると思う。
例えば、今なんかそうだ。
「……あ」
足元にはアイスクリーム、手にはコーンしか残ってなくて。がやがやしてる周りを見回してもお母さんはどこにもいなくて、知らない人がたくさんで怖くて、小さい手でごしごし目を擦った。泣いちゃだめなんだ、男の子だから。こないだ転んだ時もがんばって泣かないで帰ったら、強い子だねってお母さんもお父さんも褒めてくれた。血が出てたとこを消毒したら結局泣いてしまったけど、そしたら抱っこしてもらえたんだ。だから、泣かないで教えなくちゃ。落っことしちゃった、どうしよう、って。
何歳だったか忘れてしまったけど、幼かった頃の思い出。
まだ、お父さんがいた時の夢。
「朔太郎」
「っおと、しゃ」
「ん?あれ。あー」
困ったみたいな顔で笑って、仕方ないねって俺の手からコーンを取って目を伏せる。ごそごそとポケットを探って取り出されたのは、飛行機のおもちゃだった。ほしかったやつ、やっぱりかっこいい。嬉しくて嬉しくて、飛び付こうとすれば困った顔で一歩引かれた。こっち来ちゃだめだよ、と柔らかく言われて首を傾げれば、差し出される飛行機。
「はい。お誕生日おめでとう」
「ありがとお!」
足元からなくなったアイス、いなくなった周りの人。だって夢だから、これでいいんだ。この思い出だってほんとにあったことなんだかさっぱり分からない。俺は、この人の顔も声も体温も、よく覚えていないままなんだから。だけど、それでも確かにあったのは、飛行機のおもちゃ。いつの間にか羽が取れて壊れちゃったけど、中学生の時に直した。まだ実家に大切にとってあるはずだ、どうしても捨てられなくて。
飛行機のおもちゃで遊びながらふいに横を見れば、にこにこしながら隣にしゃがんでこっちを見ていた。それからしばらく遊んで、お母さんの声が聞こえた気がしてぱっと顔を上げれば、また困ったみたいな、悲しそうな顔。なんでそんな顔するの、一緒に行こうよ。お父さんのパジャマ、まだしまってあるんだよ。俺が畳んだんだよ、ぐちゃぐちゃってして置いてあったから。だから行こうよ、一緒にお風呂入ろう。
「ううん」
「……さちえが待ってるよ」
「朔太郎は行っていいよ」
「泣いてた」
「そっか」
「泣かしちゃいけないんだよ」
そうだね、と頷かれて、むかついて手を上げればひょいっと軽々避けられた。だからそれ以上こっちに来ないの、と窘められて口を噤めば、ランドセル似合ってんじゃん、なんて話をすり替えられた。そうだよ、だってもう一年生だもん。お留守番だって出来るんだ、そりゃちょっと寂しいけどさ。
学校ではなにを習ったの、と聞かれて色んなことを話した。ひらがなも漢字もたくさん書けるようになったこと、九九を覚えたこと、リコーダーが楽しいこと、都道府県のパズルがなかなか覚えられないこと、同じモーターで作ってるはずの車が自分のだけとんでもなく早かったこと。運動会で一番になったこと、お祭りでクラスのみんなとお店を出したこと、ランドセルが壊れてしまったこと、六年生の卒業式で挨拶をしたこと、授業参観にさちえが来てくれたこと。たくさんいろんなことがあった、話しても話しきれないくらい。
「それで、中学は?楽しい?」
「……友達ができた」
「はは、今までだっていただろ」
「いたけどっ」
制服の袖はまだ長い。引っ越した先の中学には、お節介焼きの怒りんぼとつまんなさそうな眼鏡がいた。家に友達を呼んだのは初めてだった。誰かと一緒にゲームしたのも初めてで、誰かの家に行くのだって初めてで、全部初めてのことだらけで。小学校より前から一緒にいるくせにしょうもないことで喧嘩する二人を見て笑って、一年経った。
「ねえ」
「なあに」
「妹と、新しいお父さんができた」
「そっかそっか。朔太郎声変わりしたんだね」
「俺、忘れちゃうよ」
「うん?」
「……顔を、もうはっきり思い出せないんだよ、って言ってるの」
随分前から。見上げてたはずの顔はいつの間にか近くなって、それはきっと俺の身長が伸びたから。困ったみたいな笑顔も、ぼやけたままだ。ちゃんと見えなくなったのはいつからだろう。中学校に入った頃、いやもっと前だ、小学校を卒業するよりも、ランドセルが壊れるよりも、一人でさちえを待つのが怖くて泣いてた時よりも前だ。顔が見えなくて、声だってこれで合ってるのか分からなくて、写真見たって実感が湧かないまま、俺にとっての『お父さん』はいつまで経っても他人事だ。さちえに聞いた話と微かに残った思い出で構成された、酷くぼんやりした影でしかない。でも、そんな影みたいな存在でも、俺のお父さんは他の誰かじゃないはずでしょ。あんた以外にお父さんはいちゃだめなんじゃないの、とられちゃってもいいの。
「あー……そっかあ、困ったなあ」
「困るのはこっちだよっ」
「さちえはまだ泣いてる?」
「泣いてたって言っただろ!あんたがいないから、だから」
「今だよ。今もまだ、泣いてるのかな」
「……っそれは、わかんないけど」
じゃあいいや、と立ち上がったのを追いかけるように腰を上げれば、お前はまだ座ってなくちゃ、と言われて渋々元の場所に戻る。この人、俺に絶対触ろうとしないんだな。自分から触れるのは勿論、俺から手を伸ばすことすら許そうとしない。膝を抱えてじとりと睨めば、怖い顔だなあ、なんて言いながらけらけらと楽しそうに笑っていた。なにが楽しいんだよ、どうせなら一緒に笑える話をしてよ。そしたら今は見えない顔だって見えるかもしれないし、もう聞こえない声だって聞こえるかもしれないのに。
またね、なんて言いながら手を振って行ってしまったのを、なにも出来ないまま見送りながら、小声でぼそりと呟いた。
「……また、があんのかよ……」

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