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おはなし




 猫だ、と声を漏らした弁当が足を止める。その目線の先には茶色と白の斑がある猫がいて、尻尾をぱたりと揺らしながらこっちを見ていた。
 何だか得体のしれないでかいキャンバスとイーゼルみたいなの貰ったから運ぶの手伝え、と伏見に言われて駆り出されたその帰り道。あまり通らない、というかぶっちゃけ初めての道を迷いながらふらふら歩いていれば、買い物帰りの弁当に会った。両手にぶら下げてた袋を片方受け取って、迷って帰り道よく分かんなくなったなんて恥ずかしくて言えないので自分の帰り道をはっきりさせるためという目的は黙っておいたまま、家まで手伝うと言えば、別にそんなことしなくてもいいよだの、有馬だって早く帰りたいんじゃないのだの、一頻り口をもごもごと動かした後、ありがとう、だって。伏見に足りないのはこれだ。あいつ俺がでかい木の枠背負ってぜえぜえ言ってても、手伝いもしなかったし、気遣いもしなかったし、最終的にお礼もなんかお座なりだった。
 スーパーの袋をがさがさ鳴らしながら弁当が見つけた猫に近づくと、ぴゃっと逃げ出されてしまった。少し離れたところでいつでも走り出せる体勢のままこっちを見ている猫に目を向けた弁当が、溜息を吐きながら俺を横目で見る。
「……動物に好かれない奴は引っ込んでろよ」
「好かれるよ!今のはこれがうるさかっただけ!」
「おいで」
「聞いてる!ねえ弁当!」
「聞いてる。おいで」
 膝を折ってしゃがみ込み、猫に目線を合わせる弁当の後ろで一歩踏み出せば、動くな、と怒られてしまった。しばらくして、じっと様子を窺っていた猫に伸ばされた弁当の手は、噛みつかれもせず引っ掻かれもせず甘んじて受け入れられていて、ちょっと羨ましい。俺も撫でたいんだけど、動物とかすげえ好きなんだけど。
「なあ、ずるい」
「お前は構いすぎるから駄目、逃げちゃう」
「弁当だって撫でてんじゃん」
「猫がいいよって顔してるからいいの」
「ちょっと動物と触れ合えるからっていい気になんなよ!」
「はあ?」
 こいつ実家に犬もいるし、自然に囲まれて育ったから、都会育ちの俺よりも動物慣れしてるんだ、。きっとそれだけだ。だって俺も結構動物好きだし、ていうかめっちゃ可愛がるし。かなたが飼ってたハムスターには、お兄ちゃんが触るとストレス掛かって可哀想、なんて言われて一度も触らせてもらえたことないけど。
 いつの間にかごろごろと心を許したような声を喉奥から上げている猫と、それを撫ででいる弁当を睨みつけながら、さっき預かった袋を漁る。なんかあげられるものないかな、そしたら俺もあの輪の中に入っても良い気がする。それ俺の今日の晩飯と明日の朝飯と、と声を上げている弁当は無視した。あげちゃったらちゃんと後で買い直してやるから、我慢しろ。
 正直な話、野良猫とか撫でようとしても、一人の時は大概すごい速さで逃げられるか、酷いと引っかかれたり噛み付かれたりした挙句に結局逃げられる。だから今日はちょっとチャンスだと思う、だって俺も猫とか撫でたいし、ほんとに心の底から撫でたいし。
「どれなら食べるの?猫って」
「だからそれ俺の飯」
「肉とか食うかな」
「やめろ」
「じゃあ何なら食べるの、あっ、魚あるじゃん」
「鰹節入ってない?それならあげてもいいよ」
「けちくさ」
「妙なもん食わせてお腹壊す方が可哀想だろ」
 鰹節の袋を開けて手に出すと、それまで大人しく弁当に撫でられていた猫が、ぴくりとこっちを向いた。そのままじりじりと近づいていけば、こちらの様子を窺いながら座ったままで、逃げはしなかったものの自分から寄って来てはくれなかった。けれど鰹節の乗った手を差し出せば顔を近づけてきて、思わずばしばしと弁当の背中を叩いてしまった。ごめん、あまりに嬉しかったもんだから。
「いっ、て、なに、もう」
「食べるかな、食えよほら」
「だからお前動物全般に嫌われてるから無理だって。はい」
「あっずる、なんだお前それ!ずるいだろ!」
 弁当の指が鰹節を摘まんでひょいっと猫の前に持って行ってしまった。俺の手の上にはまだたくさん乗ってるんだからそんなちょっとだけ食べなくてもいいのに、こっちをじっと見たまま鰹節を食べ始める猫に、つい恨みがましい目を向ける。そんなに見んなら俺の手の方から食えよ。何で俺には動物が寄り付かないんだ、こんなに好きなのに理不尽極まりない。
「食えよお……」
「もっとちゃんと下げんの、猫はこんなとこまで飛び上がれないだろ」
「えっ、わっ、ちょっ」
 手の甲をアスファルトに擦り付ける勢いで引っ張られて、体勢を崩す。前のめりに転びかけて、猫が潰れちゃうだろなにしやがる、と噛み付こうとしたところで、黙って下を見る弁当に釣られて視線を下げた。
 手の上に乗ってた鰹節がばらばらと周りに零れたのを拾うように舐めながら、俺の指を踏みつけて歩く猫が、手のひらから鰹節をがつがつ食っているところだった。
「っ」
「分かったから黙って、驚かせたら逃げるよ」
「ね、ねこ、手から食ってるっ」
「見れば分かるよ」
「俺こんなん初めてなんだけど、え?なに?他の人は日常茶飯事なの?」
「知らない。良かったね、食べてもらえて」
 その後、手から直接食べ物を得たことで警戒心が薄れたのか、撫でたくらいじゃ逃げなくなった。ただ、構いすぎるなと弁当が散々言っているのも聞かずにべたべた触りまくってたら、いつも通りにがぶりと噛まれてしまったけど、別にいい。猫が俺の手に爪を立てているのを見て、痛くないのそれ、と何とも言えない顔を浮かべた弁当に聞かれて、そうでもないと答えた。ものすごく痛いわけじゃないし、後で洗えば問題ないし。
「抱っこしたいな」
「流石に無理だよ」
「いいなあ猫、弁当お前この猫飼えよ。そしたら俺すげえ面倒見に行くから」
「嫌だ、自分だけで精一杯なのに」
「じゃあこの猫が腹空かせてもいいっていうのかよ、薄情な奴」
「そいつ多分どっかの家の猫か、野良だけど人間に餌貰いまくってる猫だよ」
「えっ、なんで」
「だってなんか慣れてるし痩せてないし。普通は逃げるんじゃないの、人が来た時点で」
「いつもはそうだけど、弁当があんだけ言うから、俺個人が動物に嫌われてるのかなって」
「それもあるけど」
「お前……」
 まだ鰹節の匂いがするのか、俺の手のひらをべろべろ舐めてた猫が、小さく鳴いた。いつの間にか弁当は猫を撫でなくなっていて、ああこいつ俺に気遣ってんのかなって何となく思ったけど、深く突っ込むのはやめた。だってもしかしたらただ飽きただけかもしれないし、俺のこと憐れんで譲ってくれたのかもしれないし、自分が撫でるより見てる方がいいって思ったからかもしれないし。俺にはどうだか分からないから、とりあえず考えるのをやめて、ごろごろと喉を鳴らす猫をまた撫でた。




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