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おはなし



↓有馬と弁当の場合
 教室の数が多い。この三日間で何より思うのがそれだ。何でこんなに多い上に分かりづらいんだよ、次の授業で使う教室はどこだか彷徨ってる内に余裕で休み時間が終わるじゃないか。
 チャイムまで残り二分、ぎりぎり辿り着いた四階の教室はもう既に人がたくさんいて、毎回凝りもせず扉を開ける度にちょっと面食らう。携帯を弄っている人、友達と話している人、新品の教科書を捲って眺めてる人。座ってそれぞれ授業開始を待っている人の中を通り抜けて、ちょうど空いていた席に座った。それとほぼ同時にチャイムが鳴って、廊下にいた人が教室内に流れ込んでくる。前の方の席に座りたくない気持ちは分かるけど、あれって教えてる側からしたら嫌なんだろうか、それとも慣れっこなのか。案外何とも思わないのかもしれない。
 入ってきたお爺さんが扉を閉めて前に立ったので、あれが先生かとようやく思い至る。講義中ずっと立ってるのに、あんまり年取ってるとこっちが不安になったり、ならなかったり。プリントが前から回ってきて、今期の授業計画を話し出した声を聞きながら、ふと欠伸が出た。
 一人暮らしを始めて、炊事洗濯掃除みんな自分だけでやるようになって、疲れていないと言えば嘘になる。けれど、心配しているのかこまめに電話がかかってくる母親からの電話の中で言われた、体壊す前に帰って来なさい、なんて言葉に、帰りたいとは特に思わないよ、と内心で考えてしまったことを思い出した。きっと今までが楽をし過ぎていたんだろう、くらいに考えるとこれが普通のように思えてくるから不思議だ。そろそろ生活にも慣れて来たし、欲を言うならもうちょっと広い家だったら良かったなあ、とは思うけれど。
 見渡す限りで、プリントに目を落としたり机の下で携帯弄ったり頬杖ついて居眠りしたりしてる同学年の中に勿論知り合いはいない。そろそろ同い年の誰かと関わり合いを持たないとまずいなあ、とぼんやり思う。地元の人間でもないし、サークルとかやってる暇もないし、難しいかもしれないけど。
「なあ、おい、ちょっと」
「……ん」
「教科書見して」
 とんとん、と隣の席に座っていた男が俺の肩を叩いて、手を合わせた。周りを見渡せばみんなのろのろと教科書を開いていて、話聞いてなかったから気付かなかったけど、あのお爺さんはそんなようなことを言ったらしい。忘れちゃった、と悪びれずにこっちを覗き込む様子に、いや初日くらいは忘れないだろう、と心の中で言った。
 ここの章は省きます、ここは詳しくやるので参考書も持ってくること、と説明が続く最中、ぺらぺらと俺の教科書を捲っていた男が、一番最後まで辿り着いて、口を開いた。薄い色に染められた髪と軽そうな態度に、どうせありがとうも言いやがらないんだろこういう奴は、と勝手に偏見を持ちかけていたところだったので、少し驚いた。
「名前これ?」
「それ」
「かっけえ、なんて読むの?あた、とう、や?」
「そうだけど」
「でも名前と合わせたら弁当だ」
 なんだこいつ。流石に声には出さなかったが、多分すごくぎりぎりだった。無理やり喉に収めたものの、なん、ぐらいまでは出てた気がする。
 べんとう、と言いながら、机の上に申し訳程度に広がっていたルーズリーフにもさもさとお弁当の絵を描き始めた男を見ながら、頭の上ではてなが躍る気分だった。不思議というか、なんというか、馬鹿なんだろうか。男を観察しているのは相当面白かったが、前では試験についての説明が始まっていたので、シャーペンを手に取る。ざっとメモを纏めながら話を聞いていれば、いつの間にかそれも覗いていた男が感心したような声で言った。
「お前の字綺麗だな」
「……どうも」
「弁当次授業どこ?」
「それ俺のこと?」
「うん」
「なんで?」
「え?だって名前長いし。呼びづらいし」
「あ、そう、ですか」
「俺有馬って言うの、敬語は嫌いだからやめろ」
「はあ、うん」
「だからお前次授業どこ?一緒かもしれないよ」
「えっ」
「その教科書俺も買ったもん、今日は家に忘れたけど」
 俺の鞄の中を指さして言う有馬に、嘘だろ、と思う。他人との関わり合いが欲しいとは思ったが、こんな頭の中が不思議な馬鹿でも良かったわけじゃない。こいつ、ただ見てるのは面白そうだけど、それとこれとは話が別だ。
 前で説明を続けているお爺さんには悪いけれど、時間割を出してお互い取った科目を月曜日から照らし合わせていけば、驚異の被り率だった。クラス制でもないのにどうしたらこうなるんだ、必須以外の単位は自由に選択できるんじゃなかったのか。
「おー、次もその次も明日も一緒じゃん」
「違う授業どれだよ……」 
「どの授業行っても弁当がいたら正解だろ?覚えやすくていいや」
 にいっと嬉しそうに笑った顔に、これ以外に知り合いを作ろう、と心に誓った。その間抜け面を嫌という程見る四年間になるだなんて、思ってもみなかった。


↓弁当と伏見、ついでに小野寺の場合
「ねえ、これ」
 さっきの教室に忘れてた、と渡された定期入れを受け取り、笑顔を作って礼を言う。授業間の休み時間ということもあり人の往来が多い廊下なので、ひょいっと首を竦めて他人を避けるように、間違ってないならいいんだけど、と返されて、定期を確認するふりして相手を見る。
 いくつかの授業で見たことがある、弁財天くんだっけ。名前順だと割と近いし珍しい苗字だから何となく覚えてる、身長の割に細っこくて眼鏡かけてて真面目な感じ。その程度の認識しかないし、喋ってるところなんて今初めて見たくらい。ていうか、あっちも俺のこと知ってたんだ、って方が驚きだ。授業終わりに教室に落ちてた定期入れ見つけたって、顔写真が付いてる訳でもないんだから、落とし物置き場とかに届けるのが普通だと思うんだけど。
 それじゃあこれで用事は終わったので、と言わんばかりに踵を返して、次の授業へ向かって行った背中を追い掛ける。先週同じ教室にいたのを見た覚えがあるし、きっと今から向かう先も同じだろう。
「ねえ」
「うっわ、なに」
「そんなに驚く?酷いなあ」
「え、ごめん、なんか」
「俺、多分次も同じだと思うんだけど。一緒に行こう?」
 驚いた声を上げた割に、外見上はほとんどびっくりなんてしていなさそうな様子のまま歩きながら、別にいいけど、と漏らした彼は階段を通り過ぎようとしていて、次の授業は三階じゃないのかな、と聞けばちょっと足を止めて静かに戻ってきた。どうやらまだ大学の中がよく分かっていないらしい。こいつ頭良さそうだし、恩を売っといても損はないか。
 教室を移動する間、あっちから特に喋ろうとしないので必然的にこっちから話題を振る羽目になる。しかもこいつ、返しが一言二言だから話自体も全然進まない。もっと会話に協力的になれよ、と内心で思いながら教室の扉を開く。にこにこしながら、先どうぞ、と扉を押さえれば、どうやらこれがデフォルトらしいぼーっとした顔のまま、ぺこりと頭を下げて。
「……ふしみ、だっけ」
「俺のこと?名前覚えててくれたんだ、うれ」
「こないだスーパーの前のちっちゃい公園で、男の人足蹴にしてなかった?」
 びしり、と体が硬直した気がした。あの茶髪で体格の良い人、確か次の授業で見たことある顔なんだけど、でも名前は知らない、通りかかった時に見えてあれ伏見じゃないかなあって思って、でもその時もう結構暗い時間だったからよく分かんなくて、今日喋ってみたらなんかイメージ違って、だから人違いだったらごめん、とのろのろぽつりぽつりと零しながら教室に入ろうとするのを、腕を掴んで止めた。
それは確実に俺だし心当たりもばっちりなんだけど、なんで知ってる。この辺にもともと住んでる奴なのか、いやそれにしちゃ見たことが無い、最近引っ越してきたのか。それでもこちとらずっとこの辺一帯の人間相手に、誰にも本性見られないように、そうと知られないように猫被って、六年間くらい生きてきてるんだから、そんな簡単に割れてたまるか。
ずるずると廊下に引き摺りだし、隅っこの暗がりで逃がさないよう追い詰めて、がっしりと腕を掴む。さっきまでは飄々としていた顔が若干苦笑い混じりの微妙な表情に変わっていて、あっやべえ怯えられてる、と思った。
「そんなとこ見られてたなんて恥ずかしいなあ」
「いた、あの、腕痛いんですけど」
「ちょっとあの時はテンション上がっちゃって、今思うと酷いことしたなって」
「あっ、あの人じゃないの、こないだの人」
 指さされた先には目を向けたくなくて、とにかくそんなこと忘れてよ、恥ずかしいよお、と必死で笑いながら取り繕って言葉を掛ける。ぺたぺたと近づいてくる足音にはうっかり舌打ちをかましかけて我慢したのに、それから数秒もせずに、なんでこんなとこいんのこの人誰なのねえ伏見教室入んないのねえねえどうしたのこいつ誰なの伏見早く行かないと席無くなっちゃうよ、とぐるぐる周りを回りながらしつこい声がして、ついに切れた。目の前の眼鏡にばれるとかそういうの一切抜きに、もう久しぶりに純粋に切れた。
「うっせえな、いま大事な話してんの!俺が!こんなだってばれるかどうかの瀬戸際なの!」
「えっ、ばれたの?初めてじゃん」
「たった今な!お前のせいだからほんっとふざけんな耳の穴全部腐って死ね」
「あの、別に俺そういうの気にしないっていうか、腕そろそろ痛いって言うか痺れて」
「ちょっと黙ってろ、じゃねえ、じゃないや、黙っててほしいな?あ?もういいや何でも」
「あっはい」
 俺小野寺って言います、ああ俺弁財天って言います、なにそれ超面白いんだけど、人の名前を笑うな、と頭の上で言い合っている声を聞きながら蹲った。もう小野寺なんて大嫌いだ。


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