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おはなし



 三つ上の兄が楽しげに語る弓道の話に、小学生の頃から憧れていた。すごく楽しいんだ、次は県の選抜に選ばれたんだ、と笑う兄を見て、中学生になったら自分もそうなるんだと漠然と思っていた。現実はそううまく進むものじゃないなんて、知らなかったから。
兄と同じ中学に入って、期待と自信に溢れた馬鹿な俺は何の疑いもなく弓道部に入った。そこでは、大会優勝は当然、選抜代表も当然、そんな兄の名前はまるで神様のように崇められていて、当たり前の結論として俺は単なる比較対象だった。才能の塊みたいなあの渚晴臣の弟なのだからさぞかし期待できるのだろうと、兄を知っている人はみんなそんな目で俺を見た。
特記すべき才能なんてない、至って平凡な結果しか残せない俺は、少しづつ部活に行かなくなった。弓に触れているのが嫌だった。兄と比べられるのが嫌だった。もしも兄のことを知っている人間がみんないなかったとしたら、兄の存在が最初から無かったことであったら、そもそも俺はここに足を踏み入れることすらしていないだろう。実際問題俺はきっと弓道が好きなのではなく、あんなものはただの、子どもの憧れでしかなかったんだと思った。
いつの間にか行かなくなった部活で使っていた道具は、気づかない内に俺の部屋からなくなっていた。兄が持って行ったのかもしれないし、見たくもないからといって俺が無意識にどこかにやってしまったのかもしれない。まあどうせもう使わないし、思い出さなくてもいい。
子どもの頃の夢をそのまま叶えられるかと問い掛けられれば決してそうではないように、いくら憧れを抱いたって自分がその通りになれるわけじゃない。そんな当然を何となく察しながら、今度こそ俺は兄の後ろを追い掛けるのをやめた。
「和葉あ」
「……ちぃ、まだ最初の一か月だよ、制服位ちゃんと着なよ」
「やだよ、堅っ苦しいから嫌い」
 高校にも無事合格して、入学して約一か月。幼馴染である和葉と一緒に適当に過ごす毎日は普通に楽しくて、脳裏にこびり付いたコンプレックスのことなんてすっかり忘れていた。サッカー部に入りたいから見学に行って来る、と仮入部期間中ずっと通い詰めている和葉を見送って、何とはなしに校内の見学でもしてやるかと思ってふらふらと歩いていた。
 別に、部活に入るつもりはさらさらなかった。どちらかというと、高校生になったらバイトが出来ることに気付いて、何の職種にするかを喜び勇んで考えていた。コンビニはやっといた方が良いとか聞くし、でも最低賃金ぎりぎりだったりするぐらい時給安いのはちょっと勘弁だし、普通に遊びにも行きたいからあんまり忙しいのも嫌だし。
だから、それは本当に偶然で。
「なぎさ?」
 何処かで聞いた覚えのある呼び方だな、と思った。つられて振り向けば、真っ白な弓道着に真っ黒な袴。同じく黒い髪を揺らして首を傾げ、記憶を探るようにほんの少しだけ目を細めてこっちを見る。一瞬した後、驚いたように丸くなった瞳がぱちぱちと瞬いて、それは確かに見たことのある顔だった。名前は、覚えていないけれど。
 ふらふらと行くあてもなく彷徨っている間に部室棟の方へと足が向いていたらしく、いつの間にやら俺は来たことも無い、むしろ来る予定もなかった校舎の裏手まで歩みを進めていたようで。ここにそれが建っていることは知っていたから、来たくなかったのに。
「……こんにちは」
「久しぶり、渚もここだったんだね」
 嬉しそうに笑うその人は、確か弓道部の先輩だったはずだ。綺麗に可愛く整った容姿がまず目を引いて、俺がまだ部活に行っていた頃にはみんなに持て囃されていつも輪の中心で楽しげだった。それだけかと思えば、にこにこと人当たりの良い笑顔を浮かべながら当たり前のように歓声と表彰状を掻っ攫っていく。そのくせ誰にでも優しくて頼られて、非の打ち所のないような、兄と同じタイプの人間だ。
けれどどこか引っかかる。こんな人ほんとに居たっけ、と頭のどこかで疑問が生まれて、まあでも別に俺には関係ないか、とそのまま流してしまった。目の前で笑っている顔は確かに見たことがあるし、何か結構大切なことを忘れているような気もするんだけど、どうせ入部するわけでもないから結局どうでもいい。
 特に用もないので、と立ち去ろうとすれば、呼び止める声がする。自分より少し低い位置にある瞳を見下ろせば、どこに行くんだと問い掛けられた。
「え、いや、帰るんですけど」
「見学しに来てくれたんじゃないの?」
「別に、そういうわけじゃ」
「忙しい?」
「あー……」
 そうですね、と答えるより少し早く、名前も忘れた先輩が俺の制服の袖を掴んで笑った。
もし良かったら見に来てくれないかな、だって。俺が途中から部活行かなくなったこと、この人は知ってるはずなのに。仮入部の人数稼ぎだろうか、それとも見知った顔だから何となく声を掛けてみただけだろうか。どっちにしろどうだっていいや、ちょうど和葉を待ってる間の時間潰しくらいにはなりそうだし。
 了承の言葉を返して、後ろ手にメールを送る。弓道部の仮入部行ってくるから終わったら校門待ち合わせ、なんて和葉が見たらどう思うかな。驚き過ぎて死ぬかも。
 部室棟から程近い位置に建っている弓道場の鍵を開ける先輩の後ろで辺りを見回す。部活勧誘自体は入学式からやってたから弓道部があることは知ってたけど、部活紹介のオリエンテーションは俺ほとんど寝てたから、どこに道場があるのかまでは知らなかった。
「どうぞ」
「……どうも」
 道場の中に、俺たちの他に人はいない。ごめんね、まだ自主練時間なんだ、と困ったように笑う先輩に、部員数少ないんですか、と不躾に質問をぶつける。そんなことはないと返ってきた答えを食い気味に、でも自主練するほどやる気のある奴はいないんですね、と告げれば、弦を張っていた先輩が首を傾げた。
「やる気云々っていうか、自主練しなくても大丈夫だってみんな自己判断してるんだよ」
「でも練習しなきゃ上手にならないじゃないですか」
「そうだね」
「上手にならなきゃ、意味なくないですか」
「そうかなあ」
 自分は練習しないとみんなに追い付けないからしてるだけで、別に無理に上手くなろうとしなくても楽しかったらそれでいいんじゃないか、と俺に投げかけた先輩はこっちを見てすらいなくて、弦に向いた視線と意識に、つい咄嗟にどうしようもなく腹が立った。楽しければそれで良いだなんて、そんなわけないじゃないか。俺だって最初は楽しかったのに、上手に出来ないから、兄ちゃんより下手くそだから、誰も認めてくれないから、弓道が嫌いになった。
 上手じゃなければ楽しくない。楽しくやりたいなら上手くなるより他に無いのだ。自分が他人より出来るから言える言葉だとも知らずに、軽々と。
「渚は、部活もう選んだの?」
 いつの間にか握りしめていた手が、先輩の声にびくりと震えた。なにしてんだ、ただの暇潰しなのに。部活なんて入る気ないんだから、こんなのただの気紛れなんだから、本気になる必要なんてないだろう。
「選んでないです、部活入らないんで」
「そうなの?じゃあ迷惑だったかな」
「はい」
 俺の言葉に苦笑いした先輩は、弽を付けながら口を開く。するすると慣れた手付きで動く指先とは裏腹に、懐かしむように細められた目は真っ直ぐに俺を見ていた。
「渚は確か、引分けに癖があったよね。離れから残心までは、晴臣先輩に似て綺麗だった」
「……はい?」
「あれから一回も引いてないの?勿体ないよ、あそこだけ直せば一気に中り増えるのに」
「いや、あの、なに、引分け?」
「うん。忘れちゃった?」
忘れちゃった、わけではなく。射法八節なら一語一句きっちり覚えているし、自分の癖だって鮮明に思い出せる。引分けの際に肩が上下してしまうのだ、そのせいで射形が安定しなかった。というか、俺の癖がどうとか、そんな些細なことはほっといていい。問題は、何故この人がそんなことを覚えているのか、ということだ。
 恐らく相当おかしな顔をしていたのだろう俺を見て、先輩が噴き出した。不審がっていたのはばればれだったのか、俺が聞く前に答え始めた時には既に笑っていたけれど。
「元々見取り稽古が好きでね。それで、中学入って弓道始めた頃からずっと、色んな大会行ったり学校以外の道場行ったり、射形見て覚えて真似するのが自分なりの練習だったんだ」
「はあ……」
「だから渚の射形も覚えてる、言い方は悪いけど自分の練習のためだからね」
 こんな感じ、と矢を番えずに引いて見せられて、何となく納得する。あれじゃ上達しないはすだ、体の中心線はぐらぐらだし肩も上がってしまっている。
 畳の上で座っていた俺を手招きした先輩が、一旦やってごらん、と零す。素引きを一度するくらいだけなら確かにこのままだって出来るけど、そういう問題じゃない。だって俺まず弓自体一年以上は触ってないし、そもそも部活に入る気なんてないんだって。
「じゃあ見取り稽古に付き合うと思って、協力してよ」
「えー……引分けられるすらか微妙っすよ……」
「大丈夫、後ろで支えてるから」
 半ば無理やり押し切られるようにして立った俺に弓を渡して、背中側に先輩が回った。肩の力抜いて、息吐いて、とかかる声に、無意識に従う。
 今更、思い出した。部活をやめてしまう直前、兄ちゃんの名前ばかりが飛び交う道場で、さっきと同じように目を細めて俺の射形を観察して、自分だって一生懸命な癖にそれでも真っ直ぐ向き合って教えようとしてくれたのは、確かこの人だ。
「……先輩」
「喋らない」
「……はい」
 遮られた言葉に、全く変わっていないのだなと可笑しくなる。なんで忘れていたんだろう。俺個人のことをきちんと見ようとしてくれていた唯一の人だった、それがどうしても信じられなくて俺は先輩を嫌いになってしまったけれど、先輩は俺のことを覚えてくれていた。踏み台だろうがなんだろうが、俺を渚晴臣の弟として以外の面で必要としてくれていたことだって、今初めて知った。もっと早くそれに気付けて、道場から出て行こうと決めてしまう前に少しでも打ち明けられていたとしたら、俺は弓道を辞めずに済んだのかな。
忘れていた引っ掛かりはどうやらこれのようだった。肩に置かれた手と、背中からかかる声は、中学の時と全く同じで。引き切った状態で静止した時、背中に走り抜けた感覚も覚えがあるもので、忘れようもなくて。
そっと離れた手に、弓を戻す。自分で思っていたよりも、俺は弓道が好きなのかもしれない。嫌いになりたかった、嫌いでいれば傷付かないから、だから見て見ぬふりをしていたんだと。
それが、一番しっくりきた。
「せん、ぱい」
「重かった?ごめん、無理にやらせて」
「入部届ください」
「……うん?」
「伏見先輩、入部届くださいっ」
 きっと俺はただ、必要とされたいだけで、安心していたいだけで、誰かの後を追い掛けたいだけだ。その矛先が兄から離れて、今度は何も知らない優しい先輩へと変わってしまった、たったそれだけ。でも思い出した、今の一瞬で味わった鳥肌ものの感覚が、俺は好きで好きでたまらなかった。今だってそうだ、過去形じゃなく、好きでたまらない。嫌いだと偽った後も未練がましく覚えていた、引き切った後の高揚感。下手くそだっていいんだとはまだ思えないけれど、また途中でやめてしまうかもしれないけれど、それでももう一度やり直すことが許されるなら、この人と同じ射場に立たせてほしいと。そう、強く思った。
急に態度を翻した俺に、若干訝しみながら、いやもうちょっと考えたらどうなの、と正論を小声で吐いた伏見先輩に詰め寄るようにして弓を突っ返す。思い立ったらすぐ行動しないと気が済まない性質なのだ、これはもう仕方ないことだから諦めてほしい。ついでだから全部聞いてしまえと更に寄れば、いつもは凛としていた瞳が右往左往しているのが見える。
「俺今からもっかいやっても間に合いますか、試合とか出れますか、兄ちゃんみたいになれますか、むしろあれより出来るようにとかなりますかっ」
「えっ、いや、それは無理、最後のだけは今のところ無理」
 とりあえず落ち着くように促され、畳へと座らされる。ほんとにいいの、さっきと言ってることが百八十度逆だよ、と心配そうに聞いてくる先輩に、焦れったいこと言ってないでもう入部届ください、さっきまでのことは忘れていいです、と捲し立てれば、分かった分かったと若干呆れたような顔を浮かべて先輩が踵を返す。弓道場の壁に上手く紛れ込ませて設置してある隠れた扉をからからと開けて、そこに居ること、と言い置いて入って行ってしまった。中学の時はあの小部屋の中で着替えてる人とかいたけど、どうやらここでは荷物置き場になっているらしかった。恐らく他に部室があるのだろう、部員数が少ないわけじゃないっていうのは強ち嘘でもなさそうだった。
 すぐに出てきて、そのままこっちに来るかと思えば端に置いてあるホワイトボードに何やら走り書きをしていた。連絡用と、中り数を書き込む用を兼ねているみたいだ。
 というかよく考えたら先輩まだ二年だし、くださいくださいって俺が言ったせいで三年になんか言われたりしたら嫌だな。そしたら、俺が先輩のことをちゃんと庇ってあげないと。伏見先輩優しいし、年功序列とかそれなりに大事にしてたから、逆らったり出来ないだろうし。
「はい、これ」
「ありがとございますっ」
「こら、今書かないの」
「ええ……」
「ちゃんと家族と相談して決めなさい、部費だってかかるんだから」
 相変わらず人の話を聞かない、と困ったように笑われて、そこでふと思い至る。最初からあった違和感、というか、俺が先輩に気付けなかった理由はこれだ。
「伏見先輩、声変わり遅かったんですか?」
「……はっ?」
「だって、俺が部活行ってた頃と声違いますもん」
 先輩が二年で俺が一年の終わりくらいまでしか知りませんけど、と付け足せば、ちょっと待って、と額に手を当てて考える素振りを見せた。ああ、もしかしてこれ聞いちゃいけないことだったのかな、先輩ちっちゃいからそういうのみんな遅かったんだろうな。
 俺が部活行かなくなってから声変わりしたなら、見覚えはあるけど知らない奴だとさっきまでの俺が判断していたのも頷ける。なんせ俺はそんなに記憶力も良くないし、重ねて視力も良くないし、何より部活動をやっていた期間、中学一年の間の出来事を根こそぎ忘れられたらいいのにと思いながら今日まで過ごしてきたのだ。あそこまで近づかないと分からなかったっていうのは、流石に俺にも問題があるけれど。
 ていうか、言ってもいいかな、怒んねえかな、これ。
「あの」
「あ、待って、いい、分かった」
「俺、伏見先輩のこと女の子だと思っ」
「分かったってば!わざわざ言うなよっ」
 だって中一の最初の頃は道場にもほとんど入れてもらえなかったし、実際に引いてるところが見れてたら胸当て付けてるかどうかで女子男子の区別も出来たかもしれなかったけどそれもあまり無かったし、道場内で教えてもらってる時は先輩声高かったしちっちぇえし細えし、その後すぐに俺は部活を辞めてしまったから記憶がおぼろげだし。
 三年前ならまだしも今はそんなに女の子っぽくないだの、確かに声変わりとかはみんなより遅くってちょっとやだったけどだの、なにやらもごもご言っている先輩に、俺は小六で声変わりしましたけど、と一応教えてみるときっと睨まれた。が、驚くほど怖くない。長らく勘違いしていた俺も馬鹿だが、これは少なからず先輩にも非があるのではなかろうか。
 入部届は一旦持ち帰って印鑑を必ずもらってくること、そしたらまず担任に提出してチェックを貰い、それが戻ってきたら道場に出しに来ること、と事細かに説明してもらって、とりあえず頷いておく。オリエンテーションは終始寝てたし、何でそんなに面倒な手間踏まなきゃいけないのか全く分からないから、明日には全部忘れてそうだ。けど、ここまでされてこのまま提出に来たら伏見先輩怒るんだろうな。恐らく怒ったところで猫の威嚇程度の物なので、怒られること自体になんの恐怖も感じないのだけれど。
 今日これから普通に練習あるけど見学していく?と問い掛けられ、少し考える。せっかくだから見ていこうかと思い言葉にしかけて、やめた。
 赤旗が出たことに気付いて、どうぞー、と大声を上げた先輩が安土の方を向く。すると、ふらりと髪の短い男が顔を出して、練習的を外し新しい的を片手にぶら下げながら、こっち側を振り返って口を開いた。
「伏見ー!今日的いくつー!」
「五個ずつー」
「えー?なにー?」
「ごー!小野寺、五個ー!」
「……二年の先輩すか」
「うん。小野寺、高校から始めたにしちゃ上手いよ。まずはあいつ抜くのが渚の目標かな」
「ふうん……」
「で、見ていく?他にも仮入部の子ならいるし」
「やっぱいいです」
「えっ」
「とっとと入部して、あいつから抜きます」
 銀の棒ぶん回しながら的付けてる背中を指差しながら言うと、伏見先輩は笑いたいんだか驚きたいんだか微妙な顔をしていた。なんだよ、どうせブランクあるから俺なんか下手くそだって思ってるんだ。見てろよ、速攻抜いて先輩にすぐ並んで、置いてきぼりにしてやるからな。
 からからと道場の扉が開いて、見たことのない顔が入ってくる。部長の水無瀬先輩と副部長の倉科先輩、と指し示しながら教えてくれる伏見先輩を背中に、立ち上がって言った。
「渚千景、三年前まで弓道やってたけど辞めました、入部希望れ、っ」
「……れ?」
 まあ、なんというか、入部希望です。



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