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おはなし



 ぺたぺたとサンダルを鳴らして、見慣れた道を歩く。どうせ家に帰っても誰もいないし、と無意識に思ってしまうので、あそこは家と言うよりは風呂入って寝るための場所だ。そういえば、飯だって最近家で食ってない。親や姉ちゃんにも会ってない、まあそれは昔からなんだけど。バイトだったり遊びに行ったりで俺が帰らないのは勿論、あの人達も仕事やら何やらで忙しいらしく、家でゆっくりしていることなんて滅多にない。ただ寝るだけじゃなくてだらだらしたい時は小野寺の家に逃げ込んでいる俺が言えた義理じゃないけど。
 夏といえど深夜帯は薄ら寒くて、眠い目を擦りながら角を曲がる。せっかくやった明日提出の課題、学校に持っていくの忘れないようにしないと。あと、弁当に借りた本も読み終わったから返して、昨日飲み行ってから財布の中身足してないからお金下ろして。
「……あ?」
 家の前に誰かいる、と思う。暗がりの中、遠くからじゃよく見えなくて少し歩みを緩めながら近づいた。不審者とかは勘弁してほしい、こっちは疲れてるんだからそんなの相手してられない。じりじりと寄っていけば、柵にもたれ掛って突っ立っていたのは知った顔だった。
 器用にも立ったまま寝ているのか、うとうと舟を漕いでいる小野寺の前で小さく手を振ってみる。なんでこいつこんなところにいるんだ。何か用があったなら先に連絡があってもおかしくはないけど、そんなものは無かった。まず第一にそもそも俺が今日バイトあるってことをこいつは知ってるはずなのに。
「おのでらー、起きろー」
「……ん」
「なにしてんのお前、もう日付変わってるよ」
 軽く頬を叩けばゆっくりと目が開いて、ぼんやりした表情のまま俺を認識したようだった。言い訳混じりの言葉は欠伸に掻き消されて聞こえなかったので、とりあえず入れば、と家の鍵を開ける。案の定家の中には誰もいなくて、それでもいつもの癖で、ただいま、と漏らせば何故か背後からもごもごとおかえりなさいが聞こえてきて、思わず笑った。自分の言ったただいまに返事をされるのなんて、酷く久しぶりだ。
「それで?なんであんなとこ立ってたの」
「あー……うん」
「うん?」
 温く澱んだ空気にエアコンをつけながら、カルガモみたいに延々後ろをついてくる小野寺に声を掛けた。何故だか知らないが歯切れ悪く躊躇う様子に、小野寺をソファーへ突き飛ばして座らせ自分は台所へ向かう。ちょっと、いや大分お腹が空いたけれどつまめる物は何も無さそうだ、こんなことなら帰ってくる時になにか買ってくれば良かった。
 適当にお茶を入れて渡せば、まだ眠いのかぼーっとしたままに、伏見今日はバイトだったんだよな、なんて確認されて頷く。もそもそと鞄を漁りだした小野寺に、課題でも見せてほしいのかと思い隣に腰掛けると、手を突き出された。
「な、に……」
「昨日は友達とご飯食べに行ったんだよな、知ってる」
 こっちに向けられた手の上には写真が表示された携帯が乗っていて、思わず覗き込んだことを後悔した。昨日の写真なのは間違いない。名前と性別、綽名や口調くらいしか覚えていないけれど、見覚えのある顔が写っている。ふわふわと巻いた髪を緩く二つに結んだ女の子と一緒に写っているのはどう見ても俺だし、写真を撮られた状況まできっちりと覚えている。
 ただ、なんというか、これはこいつにだけは見られたくなかったのに。
「帰ってくんのこんな時間だし、伏見も疲れてるだろ」
「……う、ん」
「だから、我慢しようと思ったんだけどさ」
 二人並んで写真を撮られたくらいなら、きっとまだ良かった。少し距離が近いくらいでも、酒の席だからと許されたかもしれなかった。けど、口と口がくっついてたら確実に許されはしないだろうってことくらい、俺にでも分かった。
 全身が入るくらい遠くからこっそりと撮られた写真。この後みんなのところへ戻った時、からかうようにして見せられたことは記憶にある。あの時化けの皮剥がしてでも消させておけば良かった、なんて今更後の祭りでしかない。
 昨日の今日で、小野寺が誰からこの写真を貰ったかは知らないし、渡した人間は殺してやりたいが、入手経路を問い質すより先にまずしなければならないことが山のようにある。確かこの女、気分が悪いから外の空気が吸いたいとか言って俺のことを呼び付けて、店出た途端に盛ってきやがったんだ。俺だって予想外だったし良い気分ではなかったけれど、そこで断れるわけもなくそのままずるずると。
 そこまで思い出して、息が詰まった。恐る恐る顔を上げれば、時間帯のせいもあってか普段より少し細められた目が蛍光灯の光で茶色く透けていた。
「この後、どこ行ったの?」
「……家」
「誰の?」
「だれ、って、普通にここに帰って」
「怒ってないから正直に言えって」
 嘘を吐かれたら怒るかもしれないけど、とこの場に到底そぐわないのんびりした口調で付け足され、この子の家に行きました、と正直に告げる。緩く頷いて、そうだよな、それも知ってる、と続けられた言葉に何か言わないといけない気がして、口を開いた。
「おので、っ!」
「……うるせえなあ」
 ぱしん、と響いた音に遅れて、頬が熱くなる。衝撃に負けて右を向いた首を戻せずに目線だけ小野寺に向ければ、怒るでも悲しむでもなく、授業中寝るのを我慢している時と同じ顔をしていて。呆然としている俺を見て不思議そうな表情を浮かべ、俺を叩いたらしい右手を見下ろして、ああそっか、と呟いた。困ったように笑う顔も普段と何も変わらなくて、意味が分からなくて、無意識の内に首を左右に振っていた。だって、こんなの知らない。
「顔は目立つから、ってお前が言ったんだっけ」
「は、あ、ぐっう……っ!」
 腹に減り込んだ拳に、肺の中の空気がみんな抜けていくのを感じる。胃の中に吐き出せるものなんて何もないのに嘔吐感だけが込み上げてきて、咳き込みながらえずいた。自分でも知らない内に腹を抱えて丸くなっていたようで、体勢が崩れソファーから転げ落ちるように床に叩き付けられる。いつもだったら支えてくれるはずの手が、そっと背中を押してソファーから俺を落とすのが分かって、色んな場所の痛みによる生理的な涙に混じって何かが零れてしまったような気がした。
 ぜえぜえと荒い息を吐く俺を見下ろしていた小野寺が、不意に立ち上がって俺の背中を引っ掴んだ。服を持って引き摺られることになんとか抵抗しようとしたものの、さっきの腹への一撃があまりに重くて、せいぜい足をばたつかせたり、床に爪を立てることしか出来なかった。確実に痣になるであろう腹を庇いながら無理やり後ろへ首を向けると、服を掴んでいた手が肩へ移動し、思い切り振り回すように投げられた。
「っい、ゔあっ」
「もっかい言うけど、別に俺怒ってるわけじゃねえんだ」
「は、っはぁ、なに、いって」
「伏見がそういうことしてるの知ってたし、別に今までなんとも思わなかったし」
 ああ嘘吐いた、なんとも思わなかったわけじゃねえや、毎回嫉妬はしてたかな、と独り言のように呟き、俺の方に目を向けずそう付け足した小野寺がシャワーを手に取って、まさかそれで殴りやしないだろうなと体を固くする。冷たい床と頭上に掲げられたシャワーに、風呂場に連れてこられたらしいことをようやく理解して、何とか逃げ出そうと出口を探すものの、扉は小野寺の背にあって出られそうになかった。
 投げられた時に床に打ち付けた背中も痛いし、もう既に二発も殴られてるし、これで怒ってないわけがないだろうとぼんやり思う。しかし、例え今こいつが怒っていたとして、外見上はそれが全く感じられない。あんなに上手に感情を隠すことが小野寺に出来るとは到底考えられないので、やっぱりこいつは怒っていないんだろう。じゃあ何を考えているのか、それは分からないままだけれど。
「ただ、さあ」
「っ、な、やだっ」
「汚いから、綺麗にしないと」
 ざあざあと風呂場に響き渡る音に合わせて、冷たい水が頭の上から降り注いで来る。出所は勿論小野寺の手にあるシャワーだ。思わず逃げようと一歩引くと、咎めるように爪先で蹴られて徐々に風呂場の隅へと追いやられる。
 何か一言でも口にしようとする度に、うるせえな、言い訳聞きたいわけじゃねえんだよ、ああ怒ってないから安心しろって、でも喋んな黙れ、と支離滅裂な上に死にそうなくらい弱々しい声と、全くもって無慈悲な蹴りが飛んでくる。そんな声で詰って自分を追いつめるくらいなら、いっそ俺のことなんて切り捨てて放っておいてくれたらいいのに。そう思うのは、俺の身勝手な勘違いなんだろうか。家には行ったけど最後までしてないしタクシーで帰ってきたから泊まってもいないんだよ、だってあの女香水と煙草の匂いがすごかったから、なんて説明をしたくても出来なくて、それでも反射的に自分を弁護する言葉が零れそうになる。
蹴られるままに壁際の隅まで逃げて来たのに、学習しない俺が口を開く回数に比例して更に裸足の爪先をごつごつと当てられるものだから、痛くないところがどこなのか、そもそもそんなものがまだ残っているのか、もう分からなくなってしまった。加えて冷水をぶちまけられ続けて、夏だっていうのに寒くて、声一つ掛けられないことも辛くて。じくじく痛む腹を抱え込むようにしゃがみ込みながら、当然いつものように俺が全部悪いんだろうな、と思うと泣きそうだった。だっただけで、一滴も泣けなかったけれど。
指先の震えは、いつの間にか全身に広がっていた。かたかたと奥歯が鳴っているのを噛み締めて抑えるついでに、吐き出したくて溜まっていく言葉も喉奥で殺す。謝ることも名前を呼ぶことも許されないなんて、初めてのことだった。俺が黙り込めば、小野寺だって犬が蹴られて鳴いてるみたいな悲壮感漂う声を出さずに、静かに水を掛けていられる。それが良いことなのか悪いことなのかなんて、知ったものじゃない。
かちりと聞こえてきた音と、水が当たらなくなった感覚に、のろのろと顔を上げる。びしゃびしゃに濡れた髪の隙間から泣きそうな顔をした小野寺が見えて、つい手を伸ばしてしまった。
「……さ、わんな」
「っ……」
 ああそうだった、また忘れてた。痛いともごめんなさいとも言えないのに、触るなんて以ての外だ。一番最初と同じ、ぱしりと頬を叩いた音がして、一瞬遅れて痛いんだか熱いんだか分からない感覚に襲われる。さっきとは逆側の頬だ、なんてぼんやり思いながら、顔も上げられないまま、目も合わせられないまま俯く。がらん、とシャワーが床に落とされた音が一際大きく響いて、狭い視界の中に転がってきた。口の中で少しだけ血の味がして、俯いたままだと垂らしてしまうかもしれないと思って、無意識の内に半開きになっていた唇を強く引き結んだ。
 ぱたりぱたりと髪や服から水が滴り落ちる音がして、それ以外にはお互いの呼吸音くらいしか聞こえない深夜の風呂場で、なにしてんだか。不意に笑ってしまいそうになって息を止めると、それを知ってか知らずか小野寺が口を開いた。
「服、脱いで」
「……え」
「脱げなかったら、切ろっか」
 吐息混じりに漏らした母音はお咎め無しだったようで、不穏な言葉を残した小野寺が風呂場を出て行った。切る、って、なにを。普通に考えて服なんだろうけど、なんで。確か綺麗にしないとって言ってたから、あいつ俺のこと風呂に入れたかったのかな。それだったら、そりゃあ服を脱がないといけないし、だから、切ろっか、なのかな。
 途切れ途切れの思考を無理やり繋ぎ合わせながらつらつらと考える。磨りガラス越しに、脱衣所で何かを探しているらしい小野寺が見えた。逃げ出すなら今かもしれないけれど、まずそんなに機敏に身体が動くとも思えないし、なによりきっとそれはしてはいけないことだ。自分が殴って蹴ったせいでボロ雑巾みたいになった相手を見て、泣きそうな表情浮かべて死にそうな声あげる奴なんだから、そんな奴をここまで追い詰めてしまったんだから、俺にはこうされる義務がある。だって、俺が全部悪いんだから、仕方ないんだ。
 戻ってきた小野寺が片手にぶら下げていたのは、髪を切るための鋏だった。確か姉ちゃんが使ってたやつの、梳き鋏じゃない方。俺の目の前にしゃがんで、首元に刃を差し入れて、そのまま握った。じゃくん、と繊維が切れる音がする。一回、二回三回とそれがしばらく続いて、冷たい刃が肌に直接当たる感覚にも慣れた頃、さっきまで服だった布はみんな床に散らばっていた。これお前と一緒に買いに行ったやつだよ、似合う似合うって喜んでくれたのすっげえ嬉しかったんだけど覚えてないかな、だからちょっと気に入ってたんだけど、なあ。
「……下は、後でいっか」
「……っ、くしっ」
「寒い?ごめんな、今洗ったげるから」
 がしゃがしゃとスポンジを泡立てた小野寺に、痛いくらいに擦られて、されるがままに洗われた。きっと後で赤くなるんだろうなって容易に予想できる程に強い力で体中にスポンジが当てられて、白い泡で肌が覆い隠されていく。上半身がもこもこになった頃、鋏を拾い上げながら俺のベルトに手を掛けて迷っていた小野寺が、ぽつりと口を開いた。
「髪の毛を、さあ。散切りにしたら、お前外出なくなる?」
「……………」
「……ああ、ごめんな、喋っていいよ」
「……た、ぶん。なんない」
「そっか」
 あっけらかんとした声とは裏腹に、鋏を持っていない方の手が握り拳となって腹に思いきり入って、濁点に塗れた汚い悲鳴が喉から漏れた。咳き込むたびにさっき切れた口内から血を吐き出して、上手く息が吸えずにしゃくり上げれば同時に吐き気が込み上げてきて、何も入っていない胃から液体だけ撒き散らした。苦しいし痛い、けど視界の外で殴った本人がどんな顔してるかって考えたらそっちのが辛い。どうせまたあの捨て犬みたいな顔で俺のこと見下ろしてるんだ、そんな顔するなら最初からやるなっていうのに。
 正座を崩した様な体勢で床に顔をつけて喉を慄かせている俺の髪を引っ張り上げて強制的に持ち上げた小野寺は、想像通り酷い顔をしていて、予想外にぼろぼろと泣いていた。だから、そんなんなるなら、こんなことするなって。俺に愛想尽かしちゃえばいいじゃんって。また殴られるのも覚悟でそう言ってやりたいのに、寒さと痛みで息も絶え絶えな身体じゃ口一つ満足に動かせそうになかった。
「外出んなよ、もうお前これから一生家の中にいろよ。嫌なんだよ、なんかもうすげえ嫌なんだって、伏見が他の人間と一緒にいるのがもう嫌なんだ、なあ?分かってよ、約束してくれたら全部謝るから、俺のこと怒っていいから、だから」
「おの、でら」
 やっと、呼べた。回らない舌で絞り出した名前に、びくりと大仰なくらいに反応して俺に焦点を合わせる。泣きながら鋏片手に震えてる小野寺の服の裾を、泡だらけの手のままぎりぎりの力で緩く掴みながら、無理やり笑った。
「無理だよ」
 じゃきん、と頭の上で音がして、支えを失った身体がそのまま倒れた。小野寺の腹に頭が当たるような形で前のめりに倒れたから、太腿と頬がちょうどぶつかって暖かい。じゃきじゃきと鋏で切る音と、目の前に降ってくる髪の束に、ぼんやりと霞んでいた意識が歪む。首筋に落ちてくる水滴はきっと鼻鳴らしてる小野寺の涙なんだろうなあと思いながら、目を閉じた。
「髪の毛切ったら足の方も洗ったげるから、下も濡れてて脱げないから切るしかないよな?ベルトは無理かな、ちゃんと外すよ。ああそうだ、そしたら髪の毛だけじゃなくて他のとこの毛もついでに全部剃っとこう、そんでちょっと引かれるような場所にピアスとかも開けよう、そうしような、伏見。だって無理なんだろ、そしたらせめて外で服なんか脱げないようにしてあげるから、そしたらお前だって真っ直ぐ俺のとこに戻ってきてくれると思うんだ、そうだろ?なあ、返事しろよ、馬鹿じゃねえのって笑えよ、ほんとにやるぞ」

「……止めないお前が、悪いんだからな」



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