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おはなし



 なんかちょっと、機嫌悪い。新しく入部してきた一年生に向かって懇切丁寧に用語を教えている背中を振り返りながら、何となく思った。
新入部員を半分に分けて基礎知識から教えることになったんだけど、何が悪かったのかあっちのグループに伏見と崎原、桐沢という偏った三人が纏まってしまった。当然こっちには俺と六島と西前、という部内公認の馬鹿が残ってしまい、本当に申し訳ない。女子は今日に限って近くの弓道場に遠征練習の日だし、二年に頼るのもどうにも恰好がつかないし。ええっと、と配ったプリントを見ながら目を細めていると、ふわふわと欠伸をした西前が口を開いた。
「小野寺には無理だよお、伏見呼んでくる」
「いやいやいや!大丈夫だって、俺出来るって」
「美鈴ちゃんだっけ?かわいーね、彼氏いんの?」
「えっ、えっと」
「離れろ馬鹿!ごめんね、美鈴ちゃん」
 気を抜くとすぐ余計なことをする六島を端に追いやって、困った顔を浮かべている一年生に謝る。西前が伏見を呼んでくると言った時に女の子達の顔が輝いたのは一目見て分かるレベルだし、けれど残念ながらあいつは弓道以外の事にかまける部員を異常なまでに執拗に嫌うのでむしろ逆効果というか、ていうかまずあいつ俺のだし、なんつーか可哀想な限りだ。
 ただでさえやる気皆無の西前に、態度は軽いわ常にちゃらけてるわで何しやがるか分からない六島を抱えて、みんなが言う通り基本的に馬鹿な俺が果たしてきちんと教えられるのかは微妙なところだけど、頑張ってみるしかないのだ。引退と受験を控えて、もうこれ以上置いて行かれる訳にはいかない。ちらりと振り返れば、やっぱりどことなく機嫌が悪そうな伏見が笑顔で話をしていて、前を向く。今日金曜だから、後できちんと時間をかけて聞くことにしよう。
 部活終わりの挨拶が号令としてかかれば、張り詰めていた道場内の空気は一気に抜けて、みんなふらふらと部室へ向かう。その間を縫って歩き、矢立ての横で弽をつけていた伏見の顔を覗き込むと、一瞬驚いたように目を丸くして、どうかしたの?だって。すぐに落とされた視線は弽に向いていて、今から自主練しますと言外に知らしめるそれは普段通りで当たり前の光景なんだけど、逆に当たり前すぎて気持ちが悪い。相手から目を逸らして笑うのは腹が立っている時の癖だとか、そんなのはいい加減に覚えた。それに、今更驚いたふりしたって無駄だ。だってお前昨日の放課後、古文読解の参考書に死んだ目向けながら、この土日は何もしない、だから二日間泊めろ、って俺の脛蹴りまくってきたじゃないか。
「俺、今日全然引けてないから。もうちょっと練習して帰るよ」
「じゃあ待ってる」
「着替えてきたら?袴汚れたら困るでしょ」
「座って待ってるから大丈夫」
「……着替えてきなって、ついでに俺の荷物も持ってきてよ」
「やだ」
 そう言い捨てて道場の隅、畳張りのスペースに横たわって肘をつくと、あからさまに舌打ちしやがった。自主練する物好きに気を遣うのと早く帰りたいのが重なって、号令の後はいつもあっという間に道場には人がいなくなる。しかも金曜の放課後だ、とっとと帰りたい気持ちもよく分かる。だからこそこいつはいきなりこんな態度なんだろうけれど、後輩にそんなん見られてみろ、幻滅もいいところだ。ついこの間の部活紹介オリエンテーション、新入生の前で引いたのが伏見じゃなかったら新入部員数はこんなにならなかったって桐沢も言ってたし。
「邪魔、目障り、先帰ってて」
「伏見先輩の射形をお手本にしたいんですう」
「うざいし気持ち悪い」
 嫌悪の二文字を隠しもせず思いっきり表情に浮かべて矢と弓を取る伏見を目で追いながら、態度と口が悪いながらも外面の笑顔が無くなったことに、取り合えずは一安心。本当に酷い時は、目の前にいるのが俺だけだろうが何だろうが、延々ずっとにこにこしてるから。
 まあ、かっこいい、よな。とは思う。お手本通り、基本に忠実。的前で一礼、摺り足で射位に入って静かに弓を上げ、矢を番えて。瞼を伏せるように下げられた視線はどうにも捉まえられなくて、自然と射形に目が行く。微かな音を立てて引き分けられたそれはちょうどきっかり二年前に見た光景と変わらなくて、思わず息を呑む。恐らく細かい調整はされているのだろうけれど、きっと基礎基本が元からしっかりしていたから、傍目からでは分からないのだ。
そういえばこいつが引いてるのをちゃんと見るの、久しぶりだ。敵わないな、なんて漠然と理解しながら、矢が的を貫いた音を聞いた。
「……なに」
「ん、え?いや、別に」
「暇なら射形ちゃんと見て、そこからでいい」
 今だって充分ちゃんと見てたつもりなんだけど、何が不満だったんだか全く分からない。他の奴相手ならまだしも、俺が必死で観察したところで伏見の射形に色々言えるわけないじゃん、と思いつつ、体を起こす。とりあえず今までの癖からして、違和感があったのは離れの開き方だろうと当たりをつけて胡坐をかくと、確認するようにちらりと視線をこっちに向けた伏見が緩く口の端を持ち上げて、そのまま目を的に向けて、ああもう、どうしろっていうんだ。
「あっ、見てろっつったのに」
「駄目、嫌、ちょっと無理、無理だった」
「なんだよ、変なの」
 思わず顔を背けてしまったのは決して俺の責任ではない、断じて違う。恐らく他人に見せられたもんじゃないくらい緩んでいる顔面を手で覆って、深呼吸がてら溜息を吐いた。
 とめどなく機嫌が悪そうだったのはいつの間にか解消されたのか、それとも元々俺の思い違いだったのか、いつもの人を馬鹿にした笑いを浮かべて三本目を番えた伏見に、溜息。見惚れるっていうか、こっちが照れるっていうか、これじゃ騒ぐ後輩を窘められないな、なんて思いながら真っ暗な視界の中で呻いた。いい加減慣れろよ、こいつの顔は場合によっちゃ凶器だ。
 俺には分からない何かが引っかかっているらしい伏見がいつの間にやら四本引き終わり、続けて練習矢を矢立てから持ってくるのを見て、矢取りと看的行ってこようか、と声をかける。だって邪魔って言うし、俺も暇だし、ここにいても特に役に立てないし。
 すると返ってきたのは、いいから座ってろ、なんて言葉で、中途半端に浮かせかけた腰を下ろす。聞き間違いかと思ってもう一度立ち上がろうとすれば舌打ちが聞こえたので、やめた。
「伏見、俺」
「耳障り」
「はい」
 無駄吠えするなと吐き捨てられつつ大人しく座りながら、まだ怒られるような事はしていないから恐らくあれは上機嫌の時の仏頂面と暴言だろうと一人で納得する。ものすごく好意的に解釈するなら今の一連の流れは、俺の事見ててほしいし矢取りも一緒に行きたいからそこに座って待っててほしいな、とかそんな感じだろうか。なんて面倒な奴だ、嫌いじゃないけど。
 見取り稽古半分、目の保養という名の惚気半分に、射位に立つ伏見のことをぼうっと眺めていると、ようやく満足したのかごきごきと音を立てながら首を鳴らして弽を外していた。小さく手招きされて玄関に向かう途中でふと安土に目を向ければ、第二射場の大前が剣山みたいになっていて、ちょっと顔が引きつった。特に止めずに、というかあれに気づきもせずに見惚れてた俺も俺だけど、あれだけの数引き続けるこいつもこいつだ。
「小野寺お前そろそろ弦切れるよ」
「あー……替えてないからな、替え弦あったっけ」
「どうせ無いだろ、今日作ってけば?」
「待っててくれんの?珍しっ」
「俺あと一時間は引くし」
 それは俺に時間潰しさせたいだけなんじゃないのか、正直に言ってみろ。矢を抜いて拭くのをいっそ清々しいまでに俺に任せた伏見は、王様然とした態度で腕組みをしながらこっちを見ていて、手伝えと思わざるを得ない。まあ伏見が自主的に自分でやっていたところで、俺の事だしどうせ代わろうかとか声を掛けるんだろうとは思うけど、最初っから投げられるのと代わってやるのは気分的に違うというか、別にいいんだけどさ。
 その後言葉通りに一時間以上俺に見向きもせずほぼ無言で練習に励みやがった伏見が、そろそろ帰ると言い出したのは最終下校時刻ぎりぎりだった。途中何度か、隣で俺も引いてようかなんて思いもしたけど、何となくやめた。余計なことして邪魔したくない、それとただ単純に見ていたいってのもある。欲目も贔屓も抜きにして、見れば見るほど嫌味なくらいに綺麗な射形だし、目を引かれたという方が正しいかもしれない。要するに俺は一時間丸々間抜け面で伏見を眺めていたと言うことなんだけど、これはこれで有意義な時間だった、ような。
「シャッターお前ね」
「はいはい」
 がらがらとシャッターを閉めるのは俺の役目、何故かというと伏見には手が届かないからだ。本人からそうだと聞いたこともないから俺の想像だけど、閉めてるの見たことないし、多分当たっている。まあ確かに弓が当たらないように天井は高いし、棒引っ掛けて下げるの意外と大変だし、出来るやつがやるべきだと思うけど。モップ片手に道場内をぐるぐる回ってる伏見がこっちの生温い視線も知らずに欠伸してるのを見ながら、最後のシャッターを閉じた。
「今日このまんま行ってもいい?」
「え、帰んないの」
「だって金曜は姉ちゃんしかいないし、帰るのやだ」
「服は?伏見俺の着れないじゃん、肩落ちちゃうじゃん」
「そんなでもない」
 確かに肩が落ちるなんてのは誇張表現かもしれないけれど、ぶかぶかだから嫌だって前言ってたのに。ぶすくれた顔で道場の鍵を閉めるのを覗き込みながら、服ぐらい取りに帰ればと促せば無視された。こいつほんとお姉さんと仲悪いな、そんなに会いたくないのか。
 職員室に寄って顧問に鍵を返して、次からもうちょっと早く来いなんて小言を伏見が上手く躱して、部室に戻って制服に着替える。一旦帰るかどうか考えているのか、渋い顔でもそもそと足袋を脱ぎ袴の紐を緩めている背中に、そういえば、と投げかけた。
「さっき何で機嫌悪かったの」
「は?なに」
「部活ん時、妙ににこにこしてたから。なんかあった?」
「あー……なん、気づい、うん」
「ん?」
 珍しく言いよどんだ様子に体ごと振り向けば、中途半端に脱げた袴を腰元に引っ掛けていた伏見とタイミング良く目が合ってしまったので、反射的にもう半回転して後ろを向いた。別に悪い事してるわけじゃないんだけど、そういう気にさせられるというか、さっき散々見惚れておいてその直後に見るようなものではないことだけは確かだ。
その場でいきなり一周回った俺に訝しげな声をかけてくる伏見に、何でもないので続きをどうぞと返しながら、ハンガーにかけてあった制服を手に取った。振り向きづらいな、この後。
「別になんでもないんだけど」
「俺なんかしたっけか」
「なにその嗅覚、怖い」
「え、ほんとに俺?」
 心当たりはないけれど、気づかない内に何かやらかしてしまったんだろうか。ボタンを留めながら思い返していると、ぺたぺたとこっちに寄って来る足音がして、足元にしゃがみ込まれた感覚。鞄を漁っているらしい伏見を見下ろしながら、何かしてしまったなら教えてほしいと聞いた。あとついでに、着替え途中でうろうろしないでほしいとも。
「うわ、けだもの」
「違う、風邪引くから」
「変態、色欲魔、捕まれ」
「うるっせ」
 ペットボトル傾けながらにやつく伏見を軽く蹴っ飛ばしながら、袴と弓道着を壁際にかける。置いて行ってやろうかと荷物を持てば、俺のもよろしくなんて任されて、自分でも分かるくらい嫌な顔を浮かべてしまった。そんな俺を見ながら引っ掛けていたシャツの前を留めて、聞きたいなら教えてあげるけど、と半笑いで首を傾げた様子に、やっぱりいいですと零しかける。嫌な予感しかしない、俺のせいじゃないことまで擦り付けられてる気しかしない。
 もたもたしてると校門が閉められかねないので、伏見の鞄も肩にかけたまま小走りで廊下を抜ける。後ろから俺より少し歩幅の狭い足音が付いてくるのを聞きながら角を曲がると、さっきの話、なんて声が届いてほんの少し速度を緩めた。俺に向かって話しかけている癖に隣に並ぼうとはしないまま、斜め後ろから声が聞こえてくる。
「こっちの方ちらちら窺っといてそのくせ一人でがんばっててすごいでしょアピールしてくるとことか、後輩に妙に優しくしちゃうとことか、誰でも気軽に名前呼んじゃうとことか、結局最終的に勢いで上手くやって俺の事なんて全然いらないとことか、そういうお前すごい嫌い」
「え、あ、ごめん、なさい?」
「謝るとこじゃないのに何となく俺のご機嫌取りで謝っちゃうとこも嫌い」
「はあ!?どうしろってんだよ!」
「こういう時ちょっと立ち止まって話聞いたりしようとすることも出来ないとこも嫌い」
「鍵閉まるっつの!ちゃんと話したいんなら後にしろよ!」
 そんなこと分かり切っているはずなのにどうしたんだと振り返れば、伏見は半目気味の仏頂面で、てっきり不機嫌な笑顔を浮かべていると思ったので面食らう。止まりかけた足を無理やり進めるように背中を押され、やっと着いた下駄箱で靴を履き替えながら、見間違えかと顔を覗き込めばそんなことは無くて、俺の事を甚振って遊んでいるのかと疑ってしまうほどで。
 校門の近くに誰かが立っているのが目に入って、咄嗟に伏見の手を引いて走った。一旦閉められたら出入記録がどうたらって理由付けられて、出るのが面倒になる。閉められる直前にぎりぎり滑りこめたようで、職員室でさっきも見た愛想笑いを浮かべて上手く謝る伏見の隣を歩きながら、息を切らした。学校の前の交差点の信号は運悪く赤で、俺に鞄を持たせっぱなしだということに気付いているのかいないのか、立ち止まった伏見がまた口を開く。
「あと」
「なに、まだ、あんの」
「一人になりたい気分だからどっか行けって遠回しに言ってるのに空気読まないで居座るとことか、黙ってこっちじーっと見てるかと思ったら急に真っ赤になる気持ち悪いとことか、俺のこと甘やかして勝手に一人で優越感感じてるとことか、変なとこで気遣うとことかは、好き」
「分かったよ!治すよ!これから気をつけ、え」
 俺の手から鞄を取って一歩先を歩いて行ってしまった伏見の襟首を咄嗟に掴むと、突然喉が絞まったのか思いっきり噎せていて、とりあえず平謝り。確かに今のは俺が悪かった、掴むなら服の裾とかにしたらよかった。
「ごめん、ごめ、でもお前だって今、俺悪くなくない」
「そう思うなら死んで」
「すいませんでした!」
 褒められている気は最初から最後までしなかったけれど、でも今のはちゃんと俺聞いてたから、聞き間違いじゃないから、絶対。めんどくさい奴だなあとふと零せば、学ランの首元を開けながら睨まれて、苦笑いを浮かべておく。緩んだ顔は当分戻りそうにないから、家まではきっとこのままだ。


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