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ふたりぼっち



「今日こそちゃんと寝る」
「えー」
「もう俺は限界なの、お前ももう無理だよ」
 あれから三日経って、結論からして俺もこいつもほとんど眠れていなかった。一度甘やかしてしまったのが悪かったのか、夜な夜な布団から俺を引きずり出してソファーに座らせ、嬉々としてゲームの電源を入れやがるのだ。いい加減疲れた、これじゃ体が持たない。
 睡眠薬の包みで頬を叩くと、あからさまにそっぽを向く。嫌なのは分かったし、その理由も知ってるけど、今日は残念ながら諦めてやれない。ここに来た時に比べたら格段に安定しているし会話も成立する、だからこの均衡を崩したくはないのは山々なんだけど。
「これ別に変な薬じゃないから。俺も飲んだことあるし」
「いやー……」
 睡眠薬で無理やり眠る時の感覚は確かに気分のいいものではないし、そうでなくても俺だって嫌がることを無理やりしたいわけじゃないんだけどな、と思いながら睡眠薬を取り出す。ぱきりと鳴った音は意外と響いて、それに反応した有馬が逃げ出そうとする。片手で首根っこを掴んで口の中に薬を突っ込めば、舌で押し出された。そんなに嫌か。
 床に引き倒して首を絞めるように抑え付ければ、結構本気で押し返されて、まだこんな力が残っていたのかと驚いた。口に薬を入れて、そのまま指先で喉奥まで置き去りにする。苦しげに嘔吐く様子に悪いとは思ったものの、首を絞めていた力を強くした。俺の手首に掛けられていた手の力はそれに呼応して強くなり、きっと後で見たら手形に痣が出来ているんだろうと他人事のように思う。声にならない音を喉の何処かから上げつつ暴れる有馬が落ち着いてきた、もとい意識を遠のかせてきたのを見計らって、首から手を離して抱き起すように喉を上向ける。息を吸い込むのに合わせて水を流し込めば、薬ごと飲み込むことが出来たのか喉が動いた。
 忙しなく噎せ込む様子に体を引けば、背中ががくんと揺れた。まずいと思って咄嗟に手のひらで口を覆い、仰向けになるよう力任せに押すと、案の定水も薬も吐き出しかけたのか水音交じりの咳が聞こえてきた。息もまともに出来ないようだし、押した時に後頭部もかなりの勢いで床に打ち付けてしまった、もっと上手にできたら良かったんだけど。いっそのことさっきのまま締め落としてしまった方が、苦しい思いをさせずに済んだかもしれない。そう思ったが最後、自分でもよく分からない内に手は首へと伸びていた。
 気管を塞いだら窒息死してしまうから、でもそれならどうしたらいいんだろう、加減なんて知らないし、でもとにかく大声を上げられたら困る、と迷いながら手に力を込めていく。生理的な涙が浮かんでいるのが目に映って、苦しいんだ、とようやく理解して、背筋に何かが走り抜けた。高揚と独占欲が混ざった汚いそれは、一度味わったら癖になりそうで。
 手首に掛かっていた有馬の手の力が抜けたのに気が付いて、手を離す。明日になったら今しがた絞めた首筋は俺の手の形に青くなるのだろう。息をしていることを確認して、軽くなった体を背負う。どうせ明日は休みだ、起きないように隣で見張っててやろう。悪い夢を見たならいつまででも慰めて宥めてやるし、フラッシュバックで飛び起きたら落ち着くまでまた首を絞めてあげよう。そうやって、ゆっくりと少しづつでもいいから、今までの事を全部忘れてくれたらいい。ここを出ていく必要なんてない、むしろ出ていくなんて選択肢は思いつきもしない位に、これからの生活で今までの思い出を塗り潰して、ずっと二人で過ごせるように。嫌なことも不自由なことも無くせるように、俺も頑張るから。
 すっかり癖になった笑顔を張り付けたまま、零したのは心からの告白だった。

 俺が言わなくても、眠れない時は自主的に薬を飲むようになった。それに応じて、悪夢に魘される回数が減った。家にいるだけじゃつまらないからと、不慣れながらに一生懸命家事をするようになった。けれど、外に出たいと言い出したことは今まで一度もない。突然何かのきっかけで追体験に襲われて、茫然自失の状態になることがなくなった。誰もいない所に向かって笑い掛けたり話しかけたりすることもほとんどない、つまり幻聴を聞いたり妄想と現実の区別が付かなくなることもなくなった。無理やり薬を飲ませた日からしばらくの間、自傷に俺を利用しようとする傾向があったけれど、それを上回って余りある程に締め落とされるのは苦しかったのか、いつの間にか髪を搔き毟ることも自らに傷をつけることも無くなり、ぼろぼろだった指先もすっかり元通りになった。話だって通じる、会話には支障が無い。くだらないことを言って笑える余裕もあるくらいだ、回復したと言い切っても差し支えはないだろう。
 だから、もうそろそろ頃合いだと思った。全て無かったことにして一歩踏み出すのには、どうしてもこれが必要だった。縛られ続けているのは最早有馬本人ではなく俺だけだ。
「……おにぎり握るのも下手なの」
「ちっげ、こういう形なんだよ、こういうおにぎり」
「中身なに、割っていい?」
「駄目、出てくる。流れ出るタイプのやつ」
「何入れたんだよ……」
 珍しく俺より早く起きたらしい有馬が、自分の分だけではなく俺の分までおにぎりを作ってくれていた。まあそれはすごく嬉しいんだけど、中身が何なのか全く予測が付かない。当の本人は秘密とか言って教えてくれないし、形が歪なのはまだしも流れ出るってどういうことだ。
普段通りに朝のニュースを付けて流し見ながら、取り合えず食えないわけではないだろうとおにぎりを頬張る。中身は至って普通だけど、これ、流れ出るというか零れ出てくるというか。ご飯に対して具が多すぎるせいだ、馬鹿。悪戦苦闘している俺を見て笑いながら、マグカップ片手に椅子を引いた有馬が、テーブルを見下ろして首を傾げた。
「なにそれ。写真?」
「ああ、うん。昨日出て来たんだ、お前も映ってるからさ」
「うわ、ほんとだ。いつの写真だよ、五年か六年くらい前?もっと?」
 ぱらぱらと数枚の写真を見ながら、マグカップを傾ける。紙に向けられる瞳は至って普段通り、きちんと焦点も定まっているし懐かしげに細められてすらいる。お前無愛想にも程があるよ、と一枚の写真を見せられ、指差されて眉を顰める。突然写真を撮られたら誰だってこういう顔になるだろう。四六時中にこにこ愛想良くしてろって方が無理難題だ。
 伸びた髪をうっとおしそうに掻き上げる様子に、今度切ってやろうかと持ちかけると、ついでに染めて、なんて言葉が返ってきて、溜息を吐く。写真を見てそう思ったのかもしれないけど、これ大学生の時の写真だし、まあ似合うとは思うけど、なんというか。取りあえずは、確かに上の方は真っ黒だからこの機に染め直すのも良いかもしれないね、なんて曖昧な返事をしておくに留めた。就職してから暗めの色にしたはずなのに今更この年になってあの色に戻すのはどうも気が引けるように思えるけれど、良く考えたらこいつもう外なんて出ないし、構わないっちゃ構わない、のか。眉間に皺を寄せたまま考えていると、黒に戻して大人の色気を出しちゃう、とかまた馬鹿なことを言い出したので、黒髪に戻すことだけはないなと思った。
「あ、行く?シャンプー買ってきて」
「無かったっけ、買い置きとか。棚見た?」
「見たけどもう無い。あと卵」
「卵は忘れないだろうけど……後でもう一回メールして」
「りょーかいー」
 がたがたと慌ただしく準備をして靴を履く。写真を片手に見送りに来た有馬に、それもう俺はいらないから、と告げれば、短く問い返してすぐ何の躊躇いもなく破いた。四等分にされた紙を更に重ねて細かくしようとする手に、捨てるのかと聞く。
 こくりと不思議そうに頷いて、だってお前と俺ぐらいしか映ってないし、お前がいらないなら俺も特にいらないし、と至極全うな意見を返す口に、その写真何人映ってた、と聞く。
「え?俺と、お前と、あと知らない女の子が二人くらい?」
「……そう」
「あれ何の写真だったの?俺ぜんっぜん覚えてねえんだけど」
「よく分かんない。俺も忘れちゃって、だからいらないんだって」
 行ってきます、と話を切り上げれば、ひらひらと手を振って見送る。その手のひらで握り潰された今はもうどこにもいない彼女に、やっと追いつけたと思いながら、玄関の扉を閉じる。
 記憶の捏造、意図的な喪失。無意識に辛い現実から逃避することが原因であるそれを、俺はずっと待っていた。そのために、ぬるま湯みたいな甘やかし方で逃げ場を作って、忘れたい事象の要因とそれに関わることが懸念されるものから引き剥がして生活させて、あの雨の日から後の記憶で頭が一杯になるように一生懸命考えて。そこまでしてやっと、彼女は彼の中からいなくなったのだ。もう奪われる心配も、足元が崩れるようなあの不安も、味わわずに済む。
 こんなに頑張っても、ようやくスタートラインから一歩目だ。この先どうしたら良いのかなんて分からない、欲に任せて言ってしまえば現状維持なんてもう懲り懲りだし、けれども勢い任せに今までの努力を不意にするのは馬鹿のやることだ。もっとたくさん考えて、必要な手段は全て使って、どんな手を尽くしてでも、二人で幸せにならなくちゃ。そうなるに値する資格が、俺達にはあると思う。もういい加減、何もかも捨てて報われることが許されて然るべきだ。
 ずっとずっと好きだった、これからもその気持ちは変わらない。だからもう絶対に逃がさないし離さない。ここから先は二人以外にもうなにもいらない。存在の必要性すら認めない。いつまでかかってもいい、お前がこっちを向いてくれるまで、隣はもう誰にも譲らないから。

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