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台詞


暑い日だった。会社の先輩に誘われた、数合わせの合コン。断れず仕方なしに参加したのがよく分かったのだろう、男の人たちは私に向かって積極的に話しかけようとはしなかった。私はただ俯いて、時間が過ぎ去るのを待つだけ。解散になったら、角が立たないように、先輩の顔を潰さないように、お別れする。化粧っ気も薄くて、明るくも社交的でもない私でも、解散となると「この後飲み直さない?」と誘われてしまうのだから、不思議だ。きっと誰でもいいんだろう。誰かしらを持ち帰ったという実績が欲しいのだと思う。今日もいつもと同じようにそっと帰ろうと、声をかけてくれた男の人に遠慮しながら駅へ向かう。そもそも男の人と二人きりでいる時間自体が苦痛だ。このまま駅に着くと同じ電車に乗られてしまったり、最寄駅で一緒に降りられてしまったりして、以前困ったことがあった。その前に撒かないと、と姑息なことを考えたからかもしれない。咽せ返るような湿気と暑さの中、飲食店の室外機から出る熱風に吹かれて、いつの間にか細い路地にまで入り込んでしまっていた。一人だったら絶対に来ない。まあ一応は男の人がいるから平気か、と他人事のように考えながら行く当てもなく歩き、「この辺詳しいの?」「美味しいお店ある?」なんて言葉に、詳しくないんです、ごめんなさい、と単調に返した。今日の人はしつこい。こんなこと思うのも失礼かもしれないけれど、早く諦めてほしかった。必死なのが透けて見える。嫌なところばかり目につくようになって、暑さで当然汗ばむ身体すら嫌悪の対象になった頃。
「あ。お待たせ」
「、へ」
「ごめん。連絡気づかなくて……」
だから、暗闇からそう聞こえた時、つい立ち止まってそっちを見てしまった。皺のないシャツに、まっさらなスラックス。綺麗に磨き抜かれた革靴と鞄は、およそ暗がりの路地裏で見るものじゃなかった。低く小さい声でもう一度、ごめんね、と謝りながらスマホを持った手を振る男は、私に言い寄っている男より背が高くて、足が長かった。腰の位置が違う。赤茶色の丸っこい髪型に、ばちりと人を刺す強い視線。通った鼻筋、筋の浮いた首。周りとは一線を画していて、暗い夜道のはずなのにそこだけ彩度が違った。今気づきました、という顔をした男が、ふっと口元を緩める。
「……誰?友だち?」
「えっ?、あ、……」
「あー、俺と待ち合わせしてるのに、男連れてくんだ……」
笑っている口元と正反対に、悲しみがこれでもかってほど詰まった語尾。ぱたり、と振られていた手が落ちて、力無く太ももに当たった。ぐ、とつらそうに歪められた眉と、背けられた瞳。その雰囲気に押されて、ずっと付いてきていた男は「知り合い?」「ごめん、知らなくて」「待ち合わせ?」「帰るね」と矢継ぎ早に支離滅裂な順序で吐いた後に、いなくなってしまった。助かる。けど。ばたばたと走り去る音が遠かった頃、ぱっと顔を上げた男は大きな手で前髪を掻き上げて、さらっとした表情をしていた。
「駅まで送ろうか」
「……えっ、え、だ。誰ですか」
「俺?困ってたんだろ?他人のこと気にするより先に礼言ったら」
「ぁ、ありがとう、ございます……」
「可愛い女の子一人は危ない」
にっこりと、貼り付けたような笑顔を浮かべられて、手を取られる。指輪をなぞるように指を絡めて、こっちを見ずに歩き出してしまった謎の男から、目が離せなかった。
恋に落ちる音が聞こえたなら、その時だった。

「サラちゃん」
「あ、あっ、あきくん、……」
「まだ恥ずかしい?」
「うん、ごめっ、ごめんなさい、ごめん……」
「ううん。かわいいね」
する、と髪を撫でた手に、かっと首から上が熱くなる。あきくんは優しい。男の人と付き合うことに慣れていない私のことを知ると、「じゃあ頑張ったんだ」と、まず私を褒めてくれた。えらいね、少しずつでいいから、って。手を繋ぐのもいっぱいいっぱいでガチガチに緊張してしまう私を、待ってくれる。優しい。好き。あきくんも、好きだよって言ってくれる。
助けてくれたことに対してお礼を言ったら、さらりと「困ってそうだったから」と言ったくせに、私が繋がれた手を離そうとしなかったのを見るやいなや、目を細めてすぐ「じゃあ今度お礼して。また会いたいんだろ?」と重ねるような人だった。最初のうちは言葉遣いも少し高圧的で乱暴だったのに、私がいつまでも慣れないでかちこちになるから、優しくて甘ったるい話し方にいつのまにか変わった。頭がいいんだと思う。人を見るアンテナがすごくたくさん張られていて、きっとあきくんのこの顔は私にだけ向けられているもの。使い分けが上手い、というか。気づくとどこか後ろ暗い目でこっちを見ているのも、どきどきしてかっこよかった。突然手を上げられても、許してしまうかもしれない。そんなことはしないんだろうけど、それを夢想させるような、そういう仄暗さも彼の魅力だった。
あきくんはいつもぴしっとしていてかっこいいから、隣を歩くならせめてそれに見合うようになりたくて、メイクを変えたりヘアケアにお金をかけたり、下着だって全部新調して、着ているものも持つものも、みんなハイブランドのもので揃えた。先輩や同僚には目を丸くされたけれど、かわいいとか、似合ってるとか、見違えたってびっくりされて、嬉しかった。きちんとこだわってメイクして、しっかり髪を巻いて、そうやって鏡越しに見た自分は、今までの自分とは別人だったから。かわいいって、はじめて自信が持てた。それも、あきくんのおかげ。あきくんがあの時助けてくれなかったら、声をかけてくれなかったら、私は野暮ったくて暗い女のままだった。

なのになんで?
「っはぁ、はーっ、はぁ……っ、」
「……いっ……て……」
足ががくがく震えていた。私の手には鞄が下がっていて、あきくんの顔のどこかに当たったそれが彼の皮膚を切り裂いたようで、ぱたりと血が落ちた。前髪の隙間から見えた目。綺麗な鼻筋を血が通り抜けて、思わず後ずさった。
「だっ。だって、だってあきくんがいけないんでしょ!?サラだけって言ったのに!サラだけって!」
「……言ってない言ってない……」
「言った!好きだって、かわいいって、大事だって、大切にするって言った!なんで、なにあの女!わたしっ、私の方がかわいいし、私の方があきくんのこと好きだし、」
「好きだとか可愛いとかは言ったかもしれないけど、お前だけだとは言ったことねえよ……」
「……は……」
言われたことある。嘘だ。そうやって言われたこと、ある、あるよね?多分、でも、なかったかもしれない。ううん絶対ある、サラちゃんだけだよって、あきくんは絶対言った。言ったよね?言った。垂れ落ちる血を辿って指を額まで登らせたあきくんが、深くため息をついた。
「あーこれやばいやつ……切れるもん振り回すなよ……」
「あの女誰!」
「彼女だよ。サラちゃんと一緒。分かる?俺の彼女。お前みたいに、デートして、お望みならちまちま口説いて、セックスするの。分かった?俺病院行くわ」
「か、かのっ、さ、サラだけじゃないの?」
「サラだけじゃないよ」
顔が可愛くてとろくさそうだからヤれるかなと思って声かけたのに、初心だから口説くのゲームみたいでめんどくさくて面白かった。そんな悪魔みたいな言葉を最後に、サラの天使は病院に行った。残されたのは彼のために買った何にも入らないくらい小さなピンクの鞄と、チャームについた彼の血。涙も出なかった。
「……は。あは、あははっ……」

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