このサイトは1ヶ月 (30日) 以上ログインされていません。 サイト管理者の方はこちらからログインすると、この広告を消すことができます。

台詞


彼氏に振られた。
三つ年下の彼氏が、彼より四つ年下の女と浮気していた。もう笑うしかなかった。そんなんどうしようもないじゃん。仲の良い友だちに笑ってもらおうと思って伝えたら、ものすごく可哀想がられたのも嫌だった。そんなの私が一番そう思ってる。可哀想だし悔しいし悲しいし、でも私が悪いんだろうなって。そうじゃなきゃなんだっていうんだ。私が悪いんじゃなければ、世間が悪いとでも?それとも相手の女が悪い?年齢なんて引っくり返せないもの、どうしろっていうんだ。荒んだ気持ちのまま何ができるわけでもなく、一番最初にデートで来たところまで足を運んだ。地元の中で一番の、結構ちゃんとした高級ホテルのバー。別に泊まりに来たわけじゃなくて、ここのレストランで告白されたから、その後バーに移動してお酒飲んでる時に「じゃあ今が初デートってこと?」と彼が目を丸くしたのが可愛かったのを思い出したのだ。思い出しただけで、未練があるわけじゃない。本当はちゃんと未練たらたらだけど、そうやって口に出したら終わる気がして。
あからさまに飲んだくれて荒れている一人ぼっちの女に、ちょっかいをかけようとする人間は誰もいなかった。カウンター席の端だから、関わるのはせいぜいバーテンさんくらい。薄暗いそこで、ひくりと肩を揺らして、涙なんて出なかった。笑いの余韻なのかもしれない。一杯の値段だって馬鹿にならないのに、お会計が怖いくらいの数だけグラスを空けて、帰れと言われたら帰ろう、と淀んだ頭で考える。ぼおっと思い返すのは彼との思い出ばかりで、どれもこれも笑えた。いつから浮気されてたんだろ。私の方が付き合いだしたの後だったら面白いな。絶対キープだったんだろうな、好きだって伝えるたびに笑われてたんだろうな…
「おねーさん?」
「……………」
「おねーさん、大丈夫?おーい、聞こえてるー?」
「……は?」
「あ、聞こえてた。だいじょぶ?」
「……は……あ……?」
とんでもなく顔の整った男がこっちを見ていたものだから、まともな返事ができなかった。不格好なくらい大きくて丸い眼鏡が嫌味なほどに似合ってて、その下の綺麗な目を隠しているのが勿体無い。瞬きの度に睫毛からキラキラした粉でも飛び散ってるのかってくらい、顔全体が光を放っている。勿論現実そんな事はないし、ただこれだけ整っていると顔以外のところに目も行かないしなんの印象も残らないんだな、と他人事のように思った。心配そうに少し下げられた眉も、半開きの口も、一歩間違えたら間抜けな表情になるはずなのに、え?もしかして高名な絵画?とすら思わされる。見惚れない人間はいるのだろうか。現に、私の視界の隅に映るバーテンさんは男だけど、目を丸くしてこっちを見て固まっている。薄い色の前髪が一房、目元にかかったのを顔を振って払った彼が、たっぷり溜まった沈黙を割いて口を開いた。
「おねーさん飲み過ぎだよ。なんかあったの?」
「……………」
「いや別に話さんくてもいいけどね……あ!俺ナンパとかじゃないから!待ち合わせ時間に早く来すぎちゃって暇だな〜と思ってたらはちゃめちゃ酒飲んでぐでんぐでんになってるやばそうなおねーさんがいたから心配してるだけだからね!?彼女はいないけど!付き合う気持ちとかないから!今晩の予定あるし!」
「……………」
このお綺麗な面で誰のものでもないとかそんな奇跡起こりうるんだ…という衝撃と、やばそうなお姉さんって普通相手に直接言うか?という呆れと、「付き合うつもりはない」に対して「フラれた…!」というショックが混ざり合って、目の前がぐらぐらした。アルコールのせいかもしれないが。一番最後に関しては、普通の顔面の人間に言われたら単なる驕りであると腹を立てるパターンもあるだろうが、この顔に言われると、選ばれなかった悲しみや、この人のものになれない/この人を自分のものにできない絶望が上回るのだなと新しい感覚になる。今会ったばっかりなのに。勝手に話しかけてきてるのあっちなのに。
手に持っていた、頭のてっぺんにポンポンのついた年齢にそぐわないちょっとダサい帽子をカウンターに置いた彼が、んで?どした?吐く?と頬杖をついたので、え…私の隣に座るんだ…この顔面の人間って…と思った。そんなことないと思ってた。毒気というか、生気を抜かれている気分だ。酔いもクソもない。なんかあったならお酒に逃げるんじゃなくて人に話したほうがいいよ、と重ねられて、いまいち頭に染み込むまでに時間がかかった。
「吐き出した方がね、いいんだって。抱え込んでると苦しいよー、おねーさんもだからそんなになっちゃってんでしょ?」
「……………」
「俺はほら、えーと、なに?……行きずりの男?なわけじゃん?別になに言われても気にしないしさ、時間あって暇だし人の話聞くの好きだし、おねーさんの気が向いたら話してよ」
「……………」
そう言ったきり、彼は黙って暇そうに自分の指の爪を見たりグラスを傾けたり、メニューを眺めたりしはじめた。人間、急にそっけなくされると、気になるものだ。例え相手はこの場で初対面、妙な啖呵を切られていたとしても、さっきまで喋っていた人間が黙ることで相手に与えるものは、恐怖か威圧感。あとは明確な相手への意識。ちらちらと窺う、どころか完全に彼の方に身体を向けてまじまじと「なんだこいつ」の目で見ていても全く意にも介されていない。変な人。沈黙は苦ではないが、この無言は私のせいかもしれないと思うと、申し訳なさと若干の怒りが湧いてくる。この人とはもう会うこともないんだし。そもそも自暴自棄になってここに来ているんだし。「話聞いてあげたんだからお金ちょうだい」とか言われても、もうこの顔面になら払ってしまえるし。言い訳というよりは責任逃れの壁をいくつも建てて、それからようやく口を開いた。
「……か……かれ、しに、……う、浮気されて、ふられたんです……」
「うん」
「え?」って言われると思ってた。だって聞く体勢じゃなかったから。私の声も酷く小さかったし、言い淀んで聞き取りにくかった。はっきりと「うん」と答えた彼がこっちを向いて、ばちりと目が合う。刃物で切り付けられたみたいだった。整っている、美しいというのは、ただそれだけで他人を圧倒する力がある。続けて?と歌うように囁かれて、勝手に口が動く。誑かされるようだった。
「……う、浮気……私と付き合ってたのに、もっと年下の彼女がいたんです。そっちのが大事だから、別れようって……そりゃあ、私より若くて可愛い子の方がいいでしょうし、私にもいけなかったところはあったのかも、」
「ストップ」
「はぇ」
「私よりも、なし。私が悪かった系もなし。だっておねーさん悪くないでしょ?悪いのはその浮気した彼氏、あ、元彼か、元彼なんだから。怒り狂ってよくない?」
「……ぇ、でも……」
「俺が代わりに怒ってあげよっか」
「……………」
「だって有り得なくない?俺この世で一番嫌いな言葉あんだけど。分かる?浮気。二股。あ、二個あったわごめん、でもどっちも同じクソってことは一緒だかんね。てゆかだったら最初から付き合わなきゃいいじゃん。相手のこと傷つけて、でも振った側の自分はもう一人の女の子とこれからもよろしくやるわけでしょ?なに自分だけちゃっかり逃げてんの?腹立つよねー。それってあちらさんにも迷惑だし、バレたら見限られるリスクがあるわけだよ。全部引っくるめて、周りにかける迷惑とか自分への信頼が落ちることとか、そういうの考えられないで欲に任せて動いてるとこ。気持ち悪いよねえ。考える頭ないのか?って思うよ、同じ男だけど。浮気は男の甲斐性とか昔は言ったらしいけどさ、そういう甲斐性ならいらないっての。ねえ?おねーさんそう思わない?」
「……………」
「少なくとも俺はそう思う派。だからおねーさんが元彼にマジで酷いことばっかしてて反省したいって懺悔ならもう言わないよ。でもおねーさんがなんもしてないのに振られたのが悲しいからって自分のせいにするぐらいだったら、俺が代わりに怒ってあげる」
どっちがいい、と言外に聞かれて、言葉を詰まらせた。この人が一緒に怒ってくれたら、私は自分を正当化できるだろうか。私は正しかったのだと、間違っていなかったと、彼が悪いと怒っていいのだろうか。数回、口を開いたり閉じたりして、じわじわと背中に汗をかいた。それが言えたらどんなに楽だろう。絶対にそう思いたくなかったのに。馬鹿みたいに積もった未練とか、まだ相手を信じていたい気持ちとか、物分かりのいい女でいたい自分とか、全部、全部。
「……っそ、そう、ありっ、有り得ないですよね、私がいるのに、私がいたのに!」
「そうだよ、おねーさんがいるのに浮気するとか有り得ない。この世界で一番好きだから付き合うんでしょ?それが二人に増えちゃったらもうそれは一番じゃないよ。嘘ついてる、そういう人の言う好きは信じられないな」
「私、私は一番好きだったのに、私だけのこうくんだったのに、う、裏切った」
「おねーさんはさ?その、こうくん?のこと、大好きだったわけでしょ?だから許してあげたかったんだよね。優しいね、信じたいよね。でも怒っていいんだよ、いっぱい怒ってすっきりしてから考えようよ」
「す、……好き、だったのに……」
「好きは好きでいいんだよ。捨てられたから嫌いにならなきゃいけないわけじゃない。おねーさんは優しい人だね、誰のことも嫌いになりたくなかったから、自分が悪いと思いたかったんだよね……」

精神をぐちゃぐちゃにされた。彼は、大声を出したりカウンターに水たまりができるまで泣いたり髪を掻きむしったりと忙しない私を完璧に受け止め、絶対に否定せず寄り添い励ました上で、「あ。待ち合わせ相手来ちゃった。ごめんねおねーさん、またお話今度聞くから!」とタオル…らしきものを私に渡してさっさと何処かへ行ってしまった。ぼんやりした頭のまま目で追った彼は、確かに待ち合わせ相手らしい壮年の男性の腕に絡むようにじゃれながら、一度だけ振り返って大きく手を振った。そのまま気絶するように眠ってしまい、次に目を開けた時には申し訳なさそうな顔のバーテンさんに揺り起こされ、目が飛び出そうな金額を覚悟して目を瞑ったまま支払い、満身創痍でなんとか家に帰った。鞄に突っ込まれたタオル、手拭い?を発見したのは次の日のことである。
「……………」
夢かと思っていたのに。夢じゃなかったなら、返さなくちゃいけないと思ったから。お店の名前と場所が印刷されていたから。もう一度会いたかったから、ではなくて。住所を調べたら随分と辺鄙な場所にあったので、来るまでに時間がかかってしまった。いや辺鄙って、私が住んでいるところも働いているところも十分田舎だとは思うのだけれど。でもそれより、新幹線が止まる駅からローカル線に乗り継ぎ、時間単位で移動して、更にその駅からも歩くよりは車、というような距離であったから、流石にその扱いしてもいいかな、と。
書いてある通りの場所に、書いてある通りの店があった。小料理屋、みたいな感じだろうか。ばくばくと鳴る心臓の音に、扉を開けようとする手が震える。中からは薄らと喧騒が聞こえてきた。きっと賑わっているのだろう。もしかしたら彼だってここにいないかもしれない。ここでもらった粗品を私に渡しただけで、この店とは何の関係もない人なのかも。いっそそうであって欲しい。だくだくと汗をかきながら、時計は見ていないけど恐らく相当な時間、扉の前で逡巡した。
ええい、ままよ、と覚悟と共に開けた扉。そう広くない、どちらかというと狭い店内に、お客さんはぎっしりだった。どうしよう、と固まった私に、空いたジョッキをいくつも持った店員さんが立ち止まる。
「ああごめんなさい今満席で、……?」
「……あっ、あ、ぇ……すみません……」
「……あ!」
おねーさん!と上がった大きな声と、丸く見開かれた目。ざっと店内の視線がこっちを向いたのがわかって、身体中の血が地面に落ちたみたいだった。

3/13ページ