このサイトは1ヶ月 (30日) 以上ログインされていません。 サイト管理者の方はこちらからログインすると、この広告を消すことができます。

台詞


高校生の時だった。
環生がなんか、親とうまく行ってないことは知ってた。母親に家を追い出されていること。金銭面や生活面での援助はされていても、「援助を受けているだけ」であって、家族としての関わりは切られていること。芸名に兄の名前を使っていること。その兄が他界していること。本人から聞いたこともあれば、話の端々から察してしまったこともあった。親がいない身の自分でも、変な家だなと思っていたし、それでもへらへらしている環生は変な奴だなと思った。それは今でもそう思う。ただ、その時はまだ認識が薄かったので、ぎょっとしたのだ。
今から思えばあれは環生の兄の、「立川侑哉」の、命日か何かだったのだろう。珍しく学校を休んだ環生が、夕方になって急に電話をかけてきた。俺はもう家にいた。なんなら半日授業の日だったから。でも電話の向こうの様子が、まあなんていうか、そう、あまりにもおかしかったので。
「もしもし?」
『よどお?』
「そうだけど……えっ?」
『あんさあ、夜ご飯食べようよ』
踏切の音だろうか。遠くから鳴り響くというより、至近距離で掻き鳴らされるそれに、眉を寄せながら思わず大声で聞き返す。音の割れている電話先は、至って普通の口調だった。それが翻って際立った異常と感じられるくらいに。今日まだ淀と喋ってないって思ったからさあ、と続けられた言葉に、環生学校休んだじゃん、と返した小さな声はきっと届いていない。
指定された駅は、高校に程近いはずの自宅最寄駅から、一時間半はかかるところだった。なんなら環生の家からも当然同じくらいの時間がかかる。何故そんなところまで呼び出されなきゃならない、と思いもしたが、それを上回ったのは、高校で初めてできた友達らしき相手に対する心配だった。何かに巻き込まれていやしないか。酷く弱っていて頭がおかしくなっているのではないか。自分一人が向かったところで何が好転するわけではないと分かっていても、とりあえず鞄に財布を突っ込んで、携帯とイヤホンをポケットに滑り込ませながら部屋の扉を開けた。鉢合わせたのは年若い先生で、ちょうどいいと口を開く。
「あ、先生」
「うん?淀くんどこか行くの?夜ご飯だよ」
「出かけてくる。えー、と、帰ってくるの何時になるか分からない」
「えっ?」
「絶対帰ってくる。鍵閉まるまでには」
「ちょ、ちょっと待って、今日春巻きだよ」
「いらない。全部みんなで分けっこしていいから」
「どこ行くの!?」
淀くん、と手を取られるより早く靴を突っかけて走り出していた。誰かが追いかけてくる様子はなかった。それはそうだ。だって、俺はこんなことしない。星川淀は夕方突然行き先も告げずに家を飛び出したりしないから。特に面倒見が良いわけでも、冷たすぎるわけでもないけれど、扱いやすい良い子なのだろうなという自覚はあった。周りに迷惑をかけることは苦手だった。たった今、今までのことをぶち壊しにしてしまったけれど。

「あ。よどお」
待ち合わせの駅に突っ立っていた環生は、普通だった。何故か制服姿だったが、ポケットに手を突っ込んで鞄を肩に掛け、もうお腹空いたよお、とまるで俺が遅れてきたかのようなことを宣ってきたので蹴っ飛ばした。それで近くまで行ったから、ふと気づいたのだ。
「……?」
「いって。なにがいい?ファミレスあったよ」
「あと30分で駅出て帰らないと家の鍵閉まるんだけど」
「えー。うどんにする?駅の中の」
「うん」
花みたいな匂いがする。とっとと食べて帰ろうと歩き出した環生の後ろをついていきながら、なんでこんな遠くまで呼び出したんだ、なにかあったんじゃないのか、とは素直に声をかけられないまま、食券を買ってすぐに出てきたうどんを食べ、急いで電車に乗った。だって鍵閉まるまでには帰るって言っちゃったし。ここからまた1時間半かかるわけだし。
電車内に人はまばらで、並んで席に腰掛けた。隣にいると、やっぱり花みたいな匂いがする。疲れた眠い、と肩に頭を預けられて、何度か揺り落とそうとしたけれど環生がしつこくて無理だった。仕方なしにそのままにしながら、環生が黙り込んでからしばらく経った頃。
「……淀なーんも言わないね」
「ん」
「構って欲しくて呼んでんのに。だから彼女できないんだよ」
「……なにが?」
「なんかあったの?って聞くんだよ、普通。こういう時。どした?話聞こか?ってすんの」
「はあ」
「遠くまで呼び出されて大人しくうどん食って黙って帰んなよお前さあ……」
「聞いて良いのか分かんなかったから」
「だったらもうちょい聞いて良いのか分かんなそうにしてよ。俺に興味ないのかと思った」
「分かんなそうにしてただろ」
「淀顔変わんないから分かんない」
ぼそぼそと話しかけてきた環生は、俺の肩に頭を預けたままなので、顔は見えなかった。いつもより小さく、掠れた声。耳を傾けていないと電車の走行音にかき消されるくらいの、声。また少し環生が黙って、こいつ話しながら寝たのか?と思っていたら、喋り出した。
「……花でぶん殴られた。母さんに」
「なんで」
「墓参り行った。侑哉の……兄貴の。来んなって言われてるから鉢合わせないように今までめっちゃ気をつけてたんだけどさあ、侑哉に報告したくてさあ?こないだオーディション受かったこと」
「うん」
「そんで俺が長居したから、母さんに俺が墓参りしてることがバレて、花束でぶん殴られてもう二度と来るなってさ。超キレてた。一周回ってウケちゃった」
「ふうん」
「みーんな、俺より侑哉がいいんだよ。侑哉が生きてたら良かったのにねー……」
同意を求めるでもなく途切れて消えた言葉に、相槌は打てなかった。またしばらく黙った環生が、駅に到着したアナウンスとほぼ同時に、小さく吐いた。
「淀は俺のこと置いていかないでね」
ずず、と鼻を啜る音に、こいつも傷つくことがあるのだなあ、とふと思った。



それから数年後。十数年後?そんなに経ってないかも。
環生のマネージャーから連絡が来た。そういえば随分昔に連絡先を交換させられたかもしれない。俺の親友!とか環生が寝ぼけたこと言うから、多分マネージャーさんも嫌だったのに乗り気の感じで連絡先を教えてくれた。
『連絡がつかない』『お家にも伺ったけど出てくれない』『仕事は問題ないけど心配』『何か知りませんか』。眠い頭で開いたメッセージにはそんなようなことが並んでいて、一回スマホをベッドに落としてしばらく目を閉じてから、もう一回読み直した。俺も別に毎日連絡取るわけじゃないけど。最後に環生とやりとりしたのいつだっけ、と探せば、10日程前だった。お前のマネージャーから俺に連絡来たけど、って端的に事実を伝えれば、すぐに既読はついた。それから半日経っても返事はなかった。まあ、これはおかしい。環生は人と連絡を取るのが好きなタイプなので、スタンプだけでも返してくる。なんなら仕事じゃない限り即レスが当たり前だ。マネージャーのこの感じを見るに仕事ではない。家にいるかどうかすら分からないが、どうすべきか。
次の日。自分の気分転換がてら行ってみることにした。「飯買って行く?外で食べる?」と送って家を出る支度をしている間に、そもそも家にいるかどうかの確認をするのを忘れたな、と思う。それならそうと言ってくれるだろう。支度が終わると、既読はついていた。返事はないままだった。車に乗り込んで、地図を見なくても覚えている道を走る。とりあえず環生が好きなパン屋に寄っておいた。もし家にいなかったら持って帰って一人で食べるからいい。
「……………」
部屋番号を呼び出したら、返事はなかったけど鍵は開いた。家にいるんじゃねえか。その元気があるならマネージャーに返事をしてやってほしい。エレベーターを上がって、一番奥。最近一回引っ越したんだっけ。前よりも部屋が広くなったと喜んでいたけれど、環生はあまり物を持たないのになにを喜ぶ必要があるのだと不思議だった。服は買うけど、着なくなったらすぐ俺に回ってきたり売ったり捨てたりしてる。最低限の家具しかない殺風景な部屋に、観葉植物の一つでも置いたらどうかとアドバイスしたら、絶対に枯らすと真顔で首を横に振られた。
「……………」
チャイムを押しても反応はなかった。鍵が開いていたので、入れということなのだろうと判断して勝手に入った。リビングには誰もいない。とりあえずテーブルにパンの入った紙袋を置いて、手当たり次第に扉を開けていく。すぐ隣の小さい和室は無人。トレーニング用品が置いてある部屋もいない。あと残りは広めのウォークインクローゼットかトイレか脱衣所や風呂場になってくるので、じゃあここだろう、と当たりをつけて寝室の扉を開いた。
「……たま、猫飼い始めたの」
「……………」
丸くなった布団の上に、見知らぬ猫がいた。ぶち模様の猫。目を丸くして耳を立て、警戒しているらしい猫が、俺が部屋に踏み入ったことで勢いよくベッドから飛び降りて下の隙間に潜り込んだ。撫でたかったのに。なにしてるんだ、と布団を剥がそうとしたのだけれど、無駄に強い力で抵抗されて、布団まんじゅうはぴくりともしなかった。じゃあもういい。お腹が空いていることを思い出したので、リビングから自分の分のパンを持ってきてベッドの端に腰掛ける。寝室で物を食うなとかそういうことを言いたいなら布団から出てきてほしい。たらこバターのやつ。美味しそうだから楽しみにしてたんだ。
「……ん。なに」
「……………」
半分ぐらいまで食べ終わった時、布団まんじゅうの隙間から手が伸びてきた。あげないけど…とパンを遠ざければ、服を掴んでぐいぐい引っ張られる。やめてほしい。落としちゃったら困るし、この家に猫がいるなんて知らないで来たから、これが万が一猫の口に入った時悪影響かどうかとかまで知らない。やめろ、って振り払ってパンを食べていると、ぼそぼそと布団まんじゅうが喋った。何を言っているかは分からない。ので、無視して文句を言うことにした。
「環生、マネージャーさんに迷惑かけんのやめなよ。良い年してみっともない」
「……………」
「なんかあったんならそうやって言えば良いじゃん。お休み、とか?できるんじゃないの。多分」
「……………」
「仕事の都合つけてくれてるらしいけど。俺から連絡すんのとか絶対嫌だからね」
「……淀は俺のこと心配してないの……」
「なんにも言わない人を心配するほど余裕ない」
「……………」
ようやくまともに喋ったと思ったらそれか。呆れた。しばらくして布団から出てきた環生は、服はよれよれ、髪はぼさぼさ、顔はぼろぼろで酷いものだった。お腹が膨れたら眠くなってきたので、服を緩めて勝手にベッドに上がり込めば、入れ替わりに出ていった。それに猫がついていく足音がする。がたがた、がさがさ、遠く響いていた音が静かになって、足音が戻ってくる。
「よど」
「……………」
「よどお」
「……………」
「無視んないでよお……」
ふにゃふにゃの声。まず迷惑かけてごめんなさいだろうが、と思わなくもないが、こいつは俺に謝らないのでもう期待はしていない。寝たふりしようと思っていたけれど、実際眠いので気を抜いたら意識が飛んでしまう。ただでさえ曲作りが佳境で自分の生活を適当にしていたところにここまで来てやったんだから、寝て帰るぐらい許してほしい。環生の匂いがする布団に頭を擦り付けて黙っていたら、重みが勝手に乗り上げてきた。手が熱い。
「だっ、だってさあ、さみしいんだもん、いなくなっちゃった、ぶちちゃんだけ俺に預けて」
「……………」
「なんで環生の大事なものはみんな俺のこと置いてどっか行っちゃうんだろ、ねえ、淀、なにがあったのって聞いてよお」
「……………」
「いじわる、ばかあ、」
堰を切ったように泣き出したので、面倒で放っておいた。支離滅裂な泣き声に混じる言葉に、ああいつものやつか、とぼんやり思う。いつもの、環生の手にはあまる程の範囲外から突然刺されて外面を保てなくなるほど深い傷を負う、やつ。
「よど、よどは、おれのこと、おいていかないよね」

1/13ページ