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花桃




玄関の扉が閉まった。途端、そおっと絡められた指につい笑ってしまった。
「ねええなんで笑うの!」
「んん……かわいいなって……」
「もちたさんの方がかわいいよっ」
「みゅんたの方がかわいいよお……」
顔を赤くして怒る、あたしより背の低い年下の恋人。んがー!と勢い任せに抱きつかれて、背中をさすりながら笑った。真ん中で柔らかく分かれた、ゆるいウェーブのかかった長い前髪。重めのまぶた、下がった目尻。形のいい耳にヘリックス。綺麗に揃えられた爪。今のみゅんたにあたしの手が入っていないところはない。コツコツ手入れしてぴかぴかに磨き上げた、自慢の彼氏である。
こうなるまでの話をしようと思う。




こっちからは愛想のいい笑顔を送って、みゅんた、もといその時はまだ「みゆうくん」からは、ぎこちなさでコーティングされた目を逸らし気味の笑顔を、もらった。それが初対面。
某バンドのライブの、お手伝い。一応お金はもらってるし働く体ではいるけれど、雇用関係がしっかりしているわけじゃない。昔馴染みで勝手知ったるライブハウスなので、動けるあたしがいることにメンバーからは有り難がられた。明日が本番って時にようやく顔を出したのが彼だった。他より一つ小さい身長と、細い手首。重そうな前髪が目に被っていて、居心地悪そうに囲まれていた。
「あ!おつかれーす!」
「お疲れ様です。お友達?」
「や、俺らの曲作ってる奴です。作曲はみんなこいつ」
「みゆう、自己紹介」
「っじ、えっ」
「いいよいいよ。ごめんね、お友達とか言って」
「いやいやこいつが出てこないから」
「顔出しNGだもんな」
「そっか。なにか困ってることある?」
「あー、今は平気です!新曲こんな感じになったーって見せたら実際現場見たいって言うから連れてきただけで」
「あざす」
あまり邪魔しても悪いと思って、それじゃあ、と手を振って足を進めた。おどおどと目を泳がせて喋らない彼のことは気になったけれど、首を突っ込むことではないかな、って。

しばらくした後。
年下というだけで無条件に恋愛対象になるわけではないのでそのせいで覚えていたと思ってもらいたくはないのだがまあ覚えていて、顔も一緒に記憶に引っかかってはいて、会ったから思い出したという感じではあったけれど、とにかくあたしの方からはみゆうくんに呼びかけられるくらいの記憶があったわけだ。
以前会ったライブハウスの前だった。所在なさげに下を向いて立っているのを見て、あ、とつい声が出てしまったのに気づかれて、振り向かれたから名前を呼んだ。
「あ。みゆうくん」
「……?」
「あた、おれ、あの、こないだここで会って……まあいっか。どうしたの?今日クローズだよ」
「えっ」
「オーナーはいるけど。なんか用事?」
「……あ、いえ、なんにも、ないです」
一瞬浮かべた、見放されたみたいな顔。たったそれだけでこの子を放っておけなくなって、変な風に言葉を途切れさせながら目を逸らしたみゆうくんを呼び止めた。なんなら、服の袖を掴んでいた。困った目を向けられて、ごめん、と謝ってから口を開く。
「入らない?寒そうだし、飲み物くらいなら出せるよ。あたしオーナーに呼ばれて片付け手伝うことになってるから、行こう」
「えっ、あ、いえ」
「ほら!手冷たいよ、それともなにか外せない予定があるの?」
「な、ないですけど」
「じゃあ決まり、お酒飲める?コーヒーとかのがいいかな」
「あのそんなっ、そこまでお世話になるわけには、えっと」
「丸田さあん!」
重い扉を開けてオーナーを呼べば、目を丸くされた。誰?と聞かれて、こないだのバンドの作曲の子で、と説明しながら適当な飲み物を用意する。こっちかこっち、と缶と瓶を出せば、なにも指差してくれずにおろおろされたので、開けて注いで渡した。嫌がられてんぞ…と呆れた声で言われたが、でもこんな寂しそうな子ほっとくわけにはいかなくて。長い髪を一つにくくったオーナー、丸田さんが、話聞いてやるからお前は掃除しろよ、とあたしを押し退けようとしたので、渾身の力で抵抗した。力強いよお。同い年の女の子とは思えない。
「んああああ」
「淵田お前腰が入ってないんだよ。相変わらず非力だな」
「丸田さんが力強いんでしょお!?」
「裏片付けてこいよ」
「嫌ですう!」
「で?お前はなんなんだ、辛気臭い顔して」
「えっ、あ、や、おれのことは、あの、ほっといてください……」
「ここに用事があったの?丸田さんまさか打ち合わせとか入ってたのに勝手に休みにしたんじゃないの」
「は?あたしがそんな適当なことするわけないだろ。お前あれだろ、佐倉のとこの」
「あっ、はいっ、そうです」
「解散するって聞いたけど」
「……そ……やっぱりそうなんですか……?」
「え?君、メンバーなんだろ?なんで知らないんだ」
「や、おれはその、メンバーじゃないんです、ちゃんとした」
「作曲してるって聞いてたけど」
「……や……おれ、佐倉とはSNSで声掛けられて曲提供してただけで、連絡とかほとんど取ってないですし……」
「はあ?」
意味がわからん、を顔に出した丸田さんのガラが悪いので、みゆうくんが縮こまっている。もうちょっと優しくしてよ。とりあえず飲んだらいいよ、と紙コップを渡したら、手をつけてくれなかった。めちゃくちゃ警戒されてる。頬杖ついてた丸田さんが、ぱちんと指を鳴らした。
「わかった、パシリ!」
「……だったんでしょうね……」
「なんてこと言うの!?」
「どう考えてもそうだろ。パシリ相手にわざわざこまめに連絡なんかとるか?あたしだったらしない。用のある時にだけ呼ぶ」
「この人のことは気にしなくていいからね。今日はなんでここに?」
「……えっ、と。佐倉に呼ばれたんです、二週間ぐらい前……打ち上げやりたいから今日ここで待ち合わせって」
「すっぽかされたのか。まあ解散話出てたら打ち上げもクソもないよな」
「ねええ丸田さん静かにして」
「はは。そもそもその話も聞いていなかったので、おれ」
「わはは」
「ねえー……」
「こっちからも、いまいち参加している実感はなかったので、いいんですけど……」
平坦に笑った丸田さんを横目で見ていると、ごめんなさい、優しいんですね、と眉を下げて困ったような笑顔を向けられた。優しいのはどっちだろう。こうやって、この笑顔でいろんなことを飲み込んできたのだろうなとなんとなく思った。都合のいいように使われる気持ちはなんとなく分かる。それに対する諦観も。ほんの少しの沈黙に、カップの中を見て気まずそうな目をしたみゆうくんが、いただきます、とそれを飲み干した。
「ありがとうございました。すみません、お邪魔して」
「おー。手伝ってく?」
「必要なら」
「いや嘘。また機会があったら顔出しな、あんたの曲好きだよ」
「……そうですか?」
嬉しそう、でもなかった。どちらかというと不思議そうな顔を浮かべられて、うん?と丸田さんの声も微妙な感じになる。特にそこに突っ込まなかった彼女は、一応聞いた話だけどあいつらはよくある方向性の違いってやつで喧嘩して解散するらしい、と付け足して片手を振り、奥に引っ込んでしまった。それを見送ったみゆうくんが、じゃあ、と立ち上がったので、つい追いかける。
「あっ、あの、またおいでよ、って言ってもあたしもここの人じゃないんだけど、曲作ったりするのってスタジオとか使ったりする?」
「えっ。いえ」
「そっか、そうだよね、うーん、あのー、やなことあったら話聞くから連絡して!アカウント教えて!」
「はい?」
「またメンバー、元メンバー?から連絡きてなんかやらされたりするかもしんないじゃない?佐倉くんたちならあたしも知ってるし、気まずいのにわざわざ巻き込まれに戻るのも面倒でしょ?なんか、仲介とか、できることあれば、話ぐらいは聞くから!」
「……はあ……」
「気をつけて帰るんだよ!風邪ひかないようにね!」
「はい」
「じゃあねー!……………」
「なに?好きんなっちゃった?」
「わああああ!」
「淵田の好みはほんっと分かりやすいなー」
ちゃんと聞いていたらしい。不思議そうなまま消えていったみゆうくんの背中が見えなくなったと同時、ひょっこり顔を出してにやにや笑った丸田さんに、ばたばたと手を振って弁解した。聞こえてたらどうするんだよ。
「いや分かりやすすぎるって。いっそ不審だよ」
「う……そ、そうだよね……」
「お前可愛くもなんともないんだから、もうちょっと上手くやれって」
「はい……」



「みゆうくん、あのね」
「あ。おれ、南太一です。それはあだ名」
「はえ……」
「淵田さん?」
「……あ、あんまり……見知らぬ人に本名とか明かしちゃ……ダメと思うぞ……?」
「知ってる人ですよ」
にっこりされて、はいぃ、と情けない声が漏れた。目を合わせていられなくてそっぽを向く。ごめん、めちゃくちゃ好き。めっちゃくちゃに好きになってしまった。惚れっぽいとみんなに言われるだけのことはある。
遡って。連絡が来たのは突然だった。用事があるといった感じでもなかったし、本当にただの友達相手みたいな文面。あのほんの少しの時間しか過ごしていない、尚且つあたしから無理やり繋がりを作っているのに、全くそんなこと感じさせないメッセージだ。距離の取り方が不思議。けれど嫌な感じはしなかった。もしかしたら、だから体よく使われてしまうのかもしれないけれど。
『お久しぶりです。僕のこと覚えてますか?』『もし宜しければ先日のお礼をしたいです。ライブをお手伝い頂いていたことも、その後寒さを凌がせて頂いたことも含めて』。教えてもらったアカウントから来た2つのメッセージに、とりあえずガッツポーズは出たけれど、握った拳をそのままよろよろと下ろした。そういやあの後バンドどうなったんだろ。どうせやるなら楽しい方がいい。今までの彼はどこからどう見ても、巻き込まれていたわけだし。そのことも聞きたくて、後はやっぱり年下の彼の世話も焼いてあげたくて、オッケーの返事をしたのだ。その時点では「かわいいなあ」ぐらいだった。丸田さんにはああ言われたが、あたしはそもそも他人の面倒を見るのが好きなのだ。それと恋愛感情が直結しているわけではない、多分、いや割と繋がってはいるけど。可愛がって面倒を見てやっているから好きになってしまうのか、好きになったから可愛がって面倒を見てやりたくなるのか、あたしにとってはどっちが先なのかは微妙なラインだ。恐らくは前者。だからこのまま行ったらみゆうくんのこともしっかり好きになってしまうなあと思った。
待ち合わせたのは、あのライブハウスからすぐのターミナル駅。ここなら食べ物のお店もたくさんあるし、少し歩けば個室の居酒屋とかもある。そもそもみゆうくんが何歳かとか、どのあたりが行動範囲なのかとか、そういうことを知らないわけだから。ていうかほぼ初対面だし。えっ、なに話そう。良い人そうだから、気を遣わせて疲れさせるのが一番嫌だ。作曲してたって言ったけど、それに突っ込んでいいのかすら分からない。考え込んでいる間に当日になり、とりあえず髪が伸び放題だったのだけ揃えて染め直した。自分を納得させるためである。
みゆうくんは待ち合わせの時間より早く来た。それよりも早くいたあたしに、ごめんなさいとぺこぺこ謝っていたけれど、そわそわしてものすごく早くついていたこっちが悪い。挨拶もひと段落して、手持ち無沙汰になる前にみゆうくんが口を開いた。
「あの、どこか行きたいところありますか」
「うん?ううん、決めてなかったよ」
「そしたらよく行くところでもいいですか?お刺身が美味しいんですけど」
「そこ以外に行きたいところなくなっちゃったね」
「あは」
嬉しそうに笑ったみゆうくんに、こっちです、と先導してもらってついていく。それで席に座って、口火を切ろうと思ったらあっさり本名を曝け出されたので、頭を抱えたのである。これがなかったら多少の距離があってまだ普通のお友達で済んだのに。にこにこしながらグラスを傾けたみゆうくん、もとい南くんに、一呼吸置いてから笑顔を向ける。
「南くん、」
「名前で呼んでください」
「……えっ?」
「名前。太一で呼んでください」
「……いやちょっ、……ちょっと……」
「苗字で呼ばれるの好きじゃなくて。ダメですか?」
「だっ……ダメじゃないけどお……」
「ね。淵田さんは苗字で平気ですか?名前のが良いですか?」
「今のままで!ぜひ!」
「そうですかあ……」
少し残念そうな顔の後、それじゃ、と頬杖をついてこっちを見ている南くん……太一くん、の目には、わくわく、って書いてあった。これを断って悲しそうな顔をさせるのは嫌だし、あたしの理性がしっかりしてれば良い話なんだし、もう好きな以上あとは我慢することといえば軽率な告白だけだ。名前呼びになったからって関係性が近いわけじゃない。そう自分に言い聞かせながら、口を開いた。
「た、いちくん」
「はい!」
「……………」
眩しすぎる。あたしが好きになっていい人じゃない。嬉しそうに紅潮した頬につられて笑いながら、早く離れないとダメだ、と心の底から思った。

と思ったのだが。想像以上にあたしは懐かれていたらしく、またご飯食べに行きましょう、お暇な時でいいので、と服の裾を握られて別れ、割とすぐにメッセージが来て、2回目に会った時に「直接連絡するのってご迷惑ですか?」と悲しげな顔で言われたのに折れて、SNSのアカウント伝いにダイレクトメッセージでやりとりするのをやめて既読が分かるタイプのやり取りに変えた。要望に応えると分かりやすく頬を緩めて嬉しそうにするものだから、できることならそうしてやりたいのだ。どうしてこんなに懐かれているのかは分からないが、一人ぼっちにされた寂しさとか悲しさは分かるので、その隙間に付け込んでしまったのかもしれない。溝を埋めてくれるなら、きっとあたしじゃなくても良かった。ちょうどばったり運良く優しくしてあげてしまっただけだ。
それで今回は数回目。太一くんが店を選んでくれるのがお決まりなので、完全に任せている。お会計はこっちが持つが、それはものすごく嫌がられる。前回はついに剥き出しのお札をポケットに捩じ込まれたけどなんとか逃げ延びた。あたしの方がいくつも大人なんだから、そのぐらいさせてよ。顔を立てると思って。お腹もいっぱいになって、そういえばと思い出したから聞いてみた。
「太一くんって、こないだのより前にバンドやってたわけじゃないんだよね」
「はい。曲作ってって言われたからやっただけですね」
「作曲は趣味なの?」
「んー……高校生の時に興味あって、始めたんですけど」
「えー、音楽好きなんだね」
「そうですかね。あんまり自分ではそんな気しなくって」
「ふうん?」
「惰性でやってただけなのかもなって、最近は思います。好きな音楽とかジャンルとか、そういうのないなって気づいちゃって。いいねって言われても理由が分かんないんですよ。だからあれから曲作ってないんです」
ごめんなさいこんな話、と眉を下げて誤魔化すように笑った太一くんに、ああまた謝らせてしまったな、とぼんやり思う。それと同時に、じゃあなんで尚更あたしと会うんだろう、と不思議になった。今の問いかけの終着点としてイメージしていたのは、好きな音楽とかを聞いて、いつもご飯食べに行ってるからじゃあ次はライブに行ったりとかそういう風なお出かけもできたら楽しいかもねって、そう話を持っていくつもりだったのだけれど。まあ仕方がない。もったいないね、と何の気なしにこぼすと、首を傾げられた。
「え。だって、太一くんの曲、良かったよ。作詞はメンバーでやってたって聞いたけど」
「そ……そう、ですね」
「また聞きたいなって思っただけ。あ!別に無理強いしたいわけじゃないからね、やだったらごめん」
「……いえ……」
あれ。これも、思ってた反応と違う。前に丸田さんに同じようなこと言われた時にはきょとんとしてたから、曲を褒められることに対してあまり良い気持ちを持たないのかと思って、先んじて申し訳なくなったのだけれど。声を小さくして耳まで真っ赤になった太一くんが、机の隅を見つめて口をもごもごさせている。え?照れてる?なんで?



太一くんと親しくなったと思う。会ってご飯を食べた回数が片手で収まらなくなった頃、自分でもそう感じた。本屋さんで働いていて、一人暮らしなんだけど隣の人が夜うるさいのに困っていて、視力があまりよくないから眼鏡の日とコンタクトの日があって、割と話が出てくるから両親とは仲が良さそうで、「おれ」のイントネーションが「お」にあって、頼まれるとそれが例え通りすがりの人でもノーと言えないからしょっちゅうキャッチとかアンケートに引っかかって、近くに行くとうっすらいい匂いがして、笑った顔が可愛くて、でも拗ねた顔も可愛い。それはみんなあたしだけのものではないのだけれど、待ち合わせ場所であたしを見つけると目を大きくして嬉しそうに笑うのを見ていると、どんどん自惚れてしまうのだ。箸の使い方が綺麗だな、と今日も新しい発見をしたところで、太一くんがぱっとこっちを見たので、見つめていたことがバレないように自分は皿に目を向けた。
「淵田さん」
「んー?」
「水族館とかお好きですか?職場の人が、二人分チケットがあるから譲ろうかって言われて」
「……水族館……」
「はい。もしお休みが合えば、来月とかにどうでしょう」
行きたい。絶対楽しい。けど、それをしてしまったら最後、あたしは彼に好きだと言って、この関係が終わる。そんなに我慢強い方じゃないし、好きだと伝えてその後も今まで通りに戻れたことが今まで一度もない。太一くんが相手だからとかじゃなくて、それはあたしの問題なのだ。おれエイが好きなんです、あとサンマ、と見る魚と食べ物をなぜか同列に並べた太一くんに、あー、って小さく漏らす。
「行けないかも……ごめん、来月ちょっと忙しくて」
「そうですか?分かりました」
声のトーンは同じだったけど、眉が下がったので、残念を隠しきれていない。案外表情豊かで分かりやすいのだ、太一くんは。また今度ね、と思ってもいない弁解を吐くと、唇をきゅっとつぐんで嬉しそうにしたので、もう潮時だ、と思う。
本当に離れないと。



彼女がいる男には絶対告白したりしない。もっと言えば、女の子と親しげにしてたら絶対あたしはショックを受ける。なんなら一晩泣くぐらいの大ショックを受けることができたら、踏ん切りもつくだろう。だから太一くんと女の子をくっつけようと思ったのだ。全ては自分のためである。別に恋愛感情が伴わなくても、一晩明かすぐらいするでしょ。そういうふうに持っていってくれそうな知り合い、の中でも、ちゃらついてない真面目で純朴な年下が好きな女の子に声をかけまくった。上手く誤魔化しながら説得するのは骨が折れたが、それでとりあえず一回会ってくれることになって、太一くんに、今度会ってほしい人がいて、と連絡した。夜になって既読がついて、返事が来た。『知らない人と二人は緊張します』。汗が飛んでいる猫と一緒にそう送られてきて、あたしも同席するよ、と追撃して安心を買った。1軒目ぐらい一緒にいて良いでしょ。なんとなく良い感じになったらそっといなくなればいい。上手くやって、太一くんにも彼女のことを良い子だなって思ってもらわなくっちゃ。『どうしておれに会わせたいんですか?』って当然の疑問が含まれたメッセージには、その子も本が好きでとか、太一くんが作った曲を聞いたことがあるらしくてとか、とにかく興味があるからっていうのを押し出して無理やり切り抜けた。納得してもらえたかはわからない。

結論から言って。年上の女にぐいぐい来られてたじたじになる太一くんははちゃめちゃにかわいかったし、相手側もかわいい〜!とテンションがぶち上がっていたので、上手くやってくれるだろう。そうでなくちゃ困る。用事あるから先に、と席を立った時の、置いていかないでくれ!という助けを求める目だけはものすごく心残りだったが。まあなんとかなる。言いくるめて連れ込んで、なんかちょうどよく収まってくれ。そういう関係性を割とよく見てきたので、全く違和感は覚えなかった。
だからこんなことになるとは。
「……………」
「……………」
「なにか言うことないんですか」
「……ない……」
「は?」
片眉を跳ね上げて「不愉快」をあらわにした太一くんに、そんな怖い顔できるんだね、とこぼして半笑いのままそっと目線を外した。こっちを見なさい、と頬を掴まれて無駄に終わったけれど。
しばらく連絡が来なかったから、もしかして上手くいったのかなと思った。あの子がダメなら次の手を考えていたから、そうならずに済むなら万々歳だ。やっぱり女の子がいいんだな、当たり前だよ、一緒にいてかわいくて楽しい方がいいに決まってる。あたしはかわいくもなければ楽しくもない。楽しんでもらえるように努力はするけど、そういうのは下心を含んでいたらダメなのだ。太一くんが女の子と手を繋いで楽しそうにしている姿を想像すると、自分で仕組んだくせにちゃんと悲しくて、鼻の奥がつんとした。だから結果オーライのはずだった。
『ご飯食べに行きましょう!』『重大発表があるんです』と、腰に手を当てて威張っている猫が送られてきたから、もうこれは彼女ができましたでしょう、はいはい確定、と痛む胸を見なかったことにして返事をした。とんとん拍子で日時も決まり、にこにこしている太一くんにつられてにこにこしながらついていった先がどう見ても普通のアパートだったので、あれ?とは思った。
「……なにやさん?」
「おれの家です」
「……えっ……」
「帰りませんよね?上がっていってください」
すとんと笑顔を落として真顔になった太一くんに、ほら、と背中を押されて、いや、と首を横に振ったのは全く届いていなかった。古いアパートと言っていたのは嘘ではなく、階段は踏むたびにぎしぎしと軋んでいた。玄関扉にしては軽い板を閉めた太一くんが、鍵を閉めて、靴を脱いでください、と笑いもせず言う。
「……お、怒ってる……?」
「はい」
「あ、あたし今日帰るね」
「入ってください」
「じゃあ怒られ終わったら帰るね……」
「話が終わってから帰ってください」
ぐ、と手を掴まれて、有無を言わさない態度に靴を脱いだ。狭い三和土に、太一くんが丁寧に揃えた靴と、歩き癖のせいで踵の減ったあたしのスニーカーが並ぶ。外で逃げればよかった。怒られるのはまだいいけど、なんで怒られるのかがわかんない。彼女がなんかした?変な女紹介しやがってってこと?そんなはずはなかったのだけれど。太一くんに比べるとでかい身体を縮こまらせながら、ここ、と指さされた場所に座る。いい匂いがする。真面目な彼らしく、整理整頓されている。外から見るより広い部屋だなあ、と現実逃避のように思った。ただ前に彼が言っていたように、壁は薄いのだろう。外気が部屋にだいぶ入ってきている。そんなことを考えていたので、目の前に座り込まれて反応が遅れた。
「う、あう、なに……」
「……………」
「……………」
「なにか言うことないんですか」
「……ない……」
「は?」
「……そんな怖い顔できるんだね……」
「こっちを見なさい」
「むぐ、っ」
頬を掴まれて目を合わせられたまま、じっと見つめられる。今日は眼鏡かけてないから、綺麗な瞳がよく見える。茶色っぽくて、グレーや緑が混じってる、向日葵みたいな目。外国の血が混ざってるのかなって思って、でも離れなきゃいけない人にそんな突っ込んだことまで聞けなくって、悲しくなったっけ。ごめん、と小さくこぼせば、頬から手が離れた。
「……おれがどうして何回も淵田さんに会いたがってたか、分からないんですか」
「……奢ってくれるから……?」
「……っはあああ……」
「えっごめん……違うよね、ごめんね……」
めちゃくちゃでっかい溜息つかれたし、俯かれた。そんなわけない、太一くんがそんなこと考えるはずない。そう思われていると思わせてしまったことに罪悪感を覚えて、嘘だよ冗談、と顔を覗き込んだら、ぎろりと睨まれた。
「冗談でも言っていいことといけないことがあります」
「うん……」
「……………」
「……………」
「……いけないことをしてる人のことは嫌いになりますか……?」
「はっ?」
怒ってるような、悲しんでるような、複雑な顔をした太一くんにそう言われて、まあ程度にはよるかな…って唖然としたまま返した。まずそもそも何に対して怒ってるのかまだ聞いてないし。あたしが原因でなにか太一くんが被害を被っているなら、ちゃんと謝るなりお詫びをするなりしなきゃいけないし。眉を寄せたまま口をつぐんでいた太一くんが、姿勢を正した。
「……どうしておれに女の人を紹介したんですか」
「……仲良くなってもらえたらなあと思って」
「知らない人と仲良くなれるわけないでしょ」
「でもあたしとは仲良くしてくれてるから、そういう感じでどうかなって」
「それはおれがあなたを好きだからです」
「うん……」
「……………」
「……………」
「……えっ?ごめん、なに?」
「……………」
「……えっ……とお……」
首から真っ赤になっている太一くんに、目を泳がせる。聞き違えてはいけないところで、聞こえちゃいけない幻覚が耳に飛び込んできた気がして。待って、待ってね、と自分が意味もない言葉を吐きながら、じりじり下がっていくのを感じる。話をちゃんと聞かなきゃいけないって思ってるのに、逃げ癖と諦め癖がついた体の方が正直に、そんなのは嘘だから早く話を終わりにしないと、もう二度と会わないようにしないと、と現実に即して動き出そうとする。
だってこんなのあるわけない。好きって言ったってきっと、恋愛感情の方じゃないでしょ?あたしと同じなはずがない。だって告白したら返ってくるのは大概、心底気持ち悪いって嫌悪とか、そういう目で見られてたんだっていう失望とか、体よく利用してやろうって打算とか、そういうものだ。だからあたしの好きと太一くんの好きは違う。逃げかけた身体を引き止めるように手首を掴まれながら、つらつらと上擦った声でそう告げた。目を見開いた太一くんの顔が、辛そうに歪む。
「……おれは、そういう人とは違います」
「い、ちがっ、いいんだよ、笑ってくれて。あたしいつもこうなんだから、ごめんね巻き込んで、あたしがいつも間違えるから」
「信じてもらえないんですか?」
「しんじる、も、なにも、勘違いだよ、太一くんの……半年も経ったら、馬鹿なこと考えてたなーって思うって……」
「……………」
「……帰るね……?」
「嫌です」
「あ、後で絶対後悔する、あたし信じないから!」
「……コーヒーとお酒、どっちがいいですか」
「はぇ……?」
決死で大声を出したのに、一つ目を閉じた太一くんが出した思ったより優しい声に、毒気が抜かれた。今お酒はダメでしょ。コーヒー、と震える声で告げれば、ぎゅっと手首を強く握られてから太一くんが立ち上がる。勝手にどこかに行かないで、が込められた力に、その場から動けなくなった。ポットに水を入れる太一くんの背中が、少し遠い。
「あったかいもの飲みながら、お話ししましょう。長い話になりますけど、昔の話。聞いてくれません?」
「……うん……」
「よかった。怖がらせてごめんなさい。信じられないなら待ちますから、今すぐどうにかしようって思ってたおれが焦り過ぎてましたね」
振り向いて笑顔を向けられて、どう見ても取り繕っているそれに、目を合わせられなくなる。あの顔は、あたしのせい。しばらく部屋は言葉がなくなって、ことこととお湯が沸く音、コーヒーを準備する微かな音、外から響く人の喋り声や車の走行音でいっぱいになった。手持ち無沙汰にきょろきょろしているうちに、部屋の端に置いてある机に、パソコンとかMIDIキーボードとかスピーカーとかがどさっと置いてあるのを見つけてしまった。それをぼうっと見ているうちに、湯気の立つマグカップが横から差し出された。お揃いでもなんでもないやつ。多分あたしに出したやつの方が新しいんだろう、使った跡は少しだった。太一くんの方は、よくここまで入れるんだろうなってラインに茶色い痕が残っている。小さな机を出した太一くんに正面に来られて、居心地悪い気がして座り直した。
「時間大丈夫ですか?」
「えっ?うん、太一くんと会うつもりの日に他に予定とか入れないし……」
「そうですか。嬉しい」
ようやく、本当に少し嬉しそうな目の色をした太一くんが、じゃあ長くなりますが、とマグカップに指を添えながら言った。


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