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表裏






私が馬鹿な女だった時の話である。
確か、講堂でやった一番最初の授業の時に、はじめて見たのだったと思う。人混みは苦手な私は一番後ろの隅の方で一人小さくなっていて、友達らしい友達もろくにいなければ、居場所なんてあるはずもなく。大学に入ってから2年経つのに、誰かと一緒に居た思い出が殆ど無いままだ。上京した意味はあるのだろうか、と親に申し訳ないことを思うくらい、日々を無為に飲み下すだけ。学びたいことは十二分に得ているから、学業という目的は達成できているはずなのに、それで良しとできない、周りの楽しそうな人たちを羨む自分が、延々恨みがましい目で体操座りをしながらこっちを睨んでいた。昔からずっとそうだ。割り切れればいいのに、そうもできない。ばかみたい。
黙々と本を読みながら開始時間を待っていて、けれどどうしたって人目は気になるのでちらちらと周りを窺っている時に、頭ひとつ抜けて背の高い背中を見たのだ。ふ、と見えた横顔が整っていたことは覚えている。都会には可愛い女の子と格好良い男の子がいるものなのだなあ、と目を逸らしながら思った。私にはそうはなれないなあ、とも。
それからしばらくして、希望していた授業も取れて、少人数教室での初めての講義の時。この授業ではじめて話すようになった数少ない知り合いの一人と、潜めた声でぽそぽそと話しながら、授業がはじまるのを待っていた。それで扉が開く音がしたから、そっちを見て、目が合った。それが全ての始まりだったと思う。
「……、ここ空いてる?」
「ぁいっ、あい、てます」
「そう」
そもそも、十人ちょっとしかいなくて、座席の数が限られているから。前の三席はもう座られて埋まっていて、私の反対側の隣にはもう知り合い、まあ、友だちか、彼女が座っていて、後ろには時間を潰しに行ってしまった人が荷物を置いていた。だからそう聞かれるのは必然だった。裏返った声に、顔が真っ赤になったのが自分でもわかって手で頬を覆うと、友だちに揶揄われた。
あの、背が高くて横顔が綺麗な人。皺のないシャツを着て、ぴかぴかの靴を履いている。小綺麗な格好のせいなのか、同い年には見えなかった。隣にいる自分が急にちんちくりんない子どもに見えてくるくらい、彼は落ち着いていて、空気が穏やかだった。あんなに楽しみに、授業が取れた時からわくわくしていたはずなのに、教授が来て話が始まっても、全然身が入らないくらい。どきどきして、そわそわして、意識しすぎだって自分でも思った。友だちにもそれは伝わっていて、知り合い?と小さく聞かれた。知らない人だ。全くもって、面識のない相手。首を横に振って友だちにアピールしていると、一年間学んでいく仲間なので、と自己紹介を順繰りに回すことになって、言葉に詰まりながらなんとか名前と挨拶を言い終えた私の次に、隣の席の彼が立ち上がった。
「秋唯仁です。よろしくお願いします」
まばらな拍手と、とりあえず合わせただけの気のない「お願いします」。その中に必死で埋没しようとしながら、きっと呼ぶことのない名前を口の中で噛み殺した。

人付き合いはあまり得意ではない。けれど、上手に断ることも出来ないので、早く終われと内心で願いながら参加するしかなくなる。そんな自分のことは好きではない。楽しそうに喋っている人のことは羨ましいし、そうなれたらどんなにかと思う。そうやって僻むところも、好きではなくて。
これから一緒に学んでいく上で懇親を深めるため、と尤もらしい理由をつけられて、先輩方の主催でご飯を食べに来た。お酒を飲んでいる人もいる。早く帰れるなら帰りたいな、と思いながら、隅っこの端の方で小さくなって、いづらくないように何となく目の前にある食べ物をつまむ。盛り上がってる人たちの方は、見ないようにする。話しかけられても困るし、話しかけられなくても自分の劣等感が浮き彫りになるだけだから。店の方で決められているらしい時間がそろそろ、と店員さんが話しているのが聞こえてきて、少しほっとしたのは事実だった。次のお店、なんて言葉も聞こえてきたけれど、それは辞退させてもらおう。私がいてもいなくても、何も変わらないわけだし。お金を置いて帰ろうと、そそくさと準備をして立ち上がって、挨拶をして頭を下げた。早く帰ろう。早く帰ったらそれだけ、今頃みんなは何をしているんだろう、やっぱり一緒にいたら良かったな、と思うことは目に見えていても。
「真角さん?」
「ひ、っはい、っ」
「落とし物」
下げた視界の中に突き出されているハンカチに、思考が止まった。これは私のだ。だから落とし物、たしかにそうなんだろう。名前も、私の名前だし。恐る恐る目線を上げて、ハンカチをこちらに差し出している人の顔を見た。私よりもずっと背の高い、今日はいつもよりラフな格好をした人。そんなことがわかるくらい見ている事実が、自分でも恥ずかしいくらい。
「……あ!っあり、ありがとうございます、あの、すみません……」
「はい。帰るの」
「かえっ、帰ります、ごめんなさい、あの、明日は用事が」
「そっか。また今度」
震える手でハンカチを受け取って。顔はもう見れなかった。名前を、呼ばれた。自己紹介した時にきっと、覚えていてくれたんだ。私も相手の名前を、絶対に呼ぶことはないだろうと思いながらちゃんと覚えていたけれど、でも私のそれと彼が呼んでくれた事実は大きく違う。心臓が破裂しそうだった。ふらふらしながら店を出て、友だちから「だいじょぶ?後で写真送るね!」と連絡が来ているのに目を通したっきり返事はせずに、駅のホームで呆然と立ち尽くした。これは私の希望的観測が大いに入っているけれど。「また今度」とわざわざ声をかけてくれるということと、帰ろうとしている人に「帰るの?」と意思確認をすることは、要するに私のことを嫌っていたり邪魔だと思っていたりはしないということなのではないだろうか。わたしだったらその二つは、相手が行ってしまうのが名残惜しい時に使う。そうであるとは限らないけれど、そこまで思い上がるつもりはないけれど、他の人たちは私が帰ろうとしていても特に声はかけなかったし、挨拶しても返事もしなかった人もいたし、せいぜい「うん。じゃあね」くらいのものだった。友だちは少し引き留めてくれた、けれど、そんなもの。
残ればよかったかなあ。もしかしたら、もっと話せたかも。もしも勇気が出たら、仲良くなれたのかも。ハンカチをぎゅうっと握りしめながら、自分のつま先を見下ろした。私なんか、可愛くもなんともない、あかぬけてもいなければ面白みもない、喋っていてもつまらない相手だろうけれど。それでも、講義の時間には必ず顔は合わせられる。それが一年間、もしかしたらその先も、そうしたらきっと一回くらいは、普通におしゃべりできる日がくるかもしれない。
だくだくと鳴り響く心臓の音で、眩暈がしそうだった。

まず、お礼くらいはしたいと思った。ハンカチを拾ってくれてありがとう、と。「とても大切なものだったから助かった」と言おうと決めたのが先だったか、本当に元々あのハンカチは無くなったら途方に暮れるレベルで掛け替えの無い宝物だったのか、よく分からなくなってしまった。どちらでもいい。そんなことは瑣末なことだ。話しかけようと思って、無理で、日数だけを無為に重ねていくうち、そんなことを今更言われてもきっと困るだろうな、とは思った。けれど会話のきっかけはそれぐらいしか思いつかなかったし、後から言われたところで違和感は残るかもしれないが、全くなにもない真っ新な状態から話しかけることなんて到底できそうになかったから。縋るものなんて他にない。社交性もなければ話は下手、相談できる相手もいないわけで。
今日も今日とて、帰り支度をしているふりをしながら、話しかけるタイミングを測る。今日はきちっとしたシャツを着ていて、眼鏡をかけている。眼鏡の時は、乗る電車がいつもと反対方向。どこに向かっているのかはまだ知らない。それだって、後をつけようとか思ったわけじゃなくて、授業が終わって帰る時間が一緒だと向かう方向も被るわけで、お礼を、お礼、と思いながら背中を追いかけていて気づいたことだ。さっき鞄にしまっていた本には図書館のラベルがついていたから、寄ってから帰るのかもしれない。それならいつもより余裕があるから今日こそは、だってもうあの日から三ヶ月も経っているわけだし、あまり特定の人と一緒にいるところは見ないけれど女の子と歩いているところは見たことがあるから、もしかしたら彼女とかかもしれないし、そうじゃなくても彼のことを好きになってしまう女の子がいつ現れるかなんて分からないし、そうなったら私に勝ち目はないし。
「来れる?」
「うん」
「やったー。女の子呼ぶわ」
「何時?」
「7時!」
のろのろと、鞄の中のものを出したり入れたりまた出して入れ直したり準備をしている間に、知らない男の子が来て話しかけられてしまった。あの後にしよう、確かあの子は同じ授業で見たことがある顔だから、と髪の隙間からちらちらと窺う。何かに誘われているらしい。女の子、女の子。嫌だなあ。彼はそういうんじゃないのに。他の男の子みたいに、軽薄で、少し怖くて、目先のことにばかり飛びつくような、そういう上っ面な人じゃないのに。誘わないではしい。一緒にしないでほしい。かりかりと爪を弄りながらそう思っていると、前の扉から友だちが入ってきた。さっき別れて、もう帰るって言ってたのに。最悪。予定が狂った。最初の頃は私と変わらなかった癖に、最近あかぬけてかわいこぶってる友だちは、私に目を合わせて、忘れ物しちゃった、と困ったように笑った。返事はしなかった。
「あ!布都、今日の夜空いてる?」
「え?うん」
「7時から飲むんだけど、来ねえ?」
「いーけど。誰いるの?」
「俺」
「いや知ってるし……一人ならいかないわ……」
「はー!?」
「あーうるさいうるさい」
「芳村も声かけてる!から、相川も来るかも?あと原と、神田と秋と、8時からになるっつってたけど御園」
「何メンツ?あはは」
「俺が寂しいから呼んだ」
「なにそれえ?行ってもいいけど、」
ちら、と友だちがこっちを見た。値踏みをする目。私はどうせ、こういう時には誘われない。この場にいて声ひとつかからないのは可哀想だから一応呼んであげようかな、でもどうせ来ないだろうけど、の顔だ。むしろ、来られたら面倒だ、と思われているだろう。だったら最初から呼んでもらわなくて構わない。どうせ今日はもうあと帰るだけになってしまったんだし、
「真角さんも来る?」
その場にいた全員が、目を丸くして彼の方を見たと思う。自分の発言のせいで自分を見られていることに気づいていないらしく、「……え?なに?」と戸惑った声を上げていたけれど。

気持ち悪い。
「行きます」と、大学に通い始めてから今までで一番大きい声で咄嗟に返事をして、じゃあまあ、と言った感じで不思議そうな顔の輪に入れられ、浮かないように気を遣われ、まともな話ができるわけがなく、必死になって場に溶け込もうとするうちに、普段はほとんど飲まないお酒を恐らく自分の許容量以上に摂取して、体調が悪い。ごめん、大丈夫?と申し訳なさそうな顔の友だちに背中をさすられながら、返事もできなかった。来なければ良かった。きっと、他の人たちみたいに、明るい顔で他愛もない話ができるんじゃないかと思ったのだ。せっかく誘ってもらったから、それをきっかけにしたかった。気持ち悪くて頭が痛くて、ぼおっとして、泣きそうだった。送って行こうか、と心配する声色に、首を小さく横に振って応える。ほっといて。彼に、こんな姿は見せたくなかった。もっと、もっとちゃんと、他の女の子みたいに、楽しく笑って過ごせるはずだったのに。情けなくて、どうしようもなくて、膝を抱えたまま涙が滲んできた頃に、真っ暗な視界の外から声がして、身を凍らせた。
「お会計終わったって。……大丈夫?」
「ううん、あたし送って帰る」
「その後帰れる?」
「んー……タクる!」
「金欠なのに」
「でもほっとけないし。一人にできないじゃん?女の子だし」
「布都さんも女の子だよ」
「あはは……」
曖昧に笑った友だちと、いつものように穏やかな声。顔なんて上げられるはずもなかった。呼吸の音すら聞こえている気がして、浅い息を吐く。そう、と一つこぼした彼の声が、近くなった。耳を疑う言葉に釣られて、そっと髪の隙間から目を向けると、彼はわざわざしゃがみ込んで、上着の裾が地面についているのも気にせずに、私に目線をあわせてくれていた。
「じゃあ俺が家まで送るよ」

「こ、あの、ここで、ここでいいです」
まさか元気になんて聞こえないように、けれど緊張で震える声で、隣は見られないまま運転手に向かって告げる。ろくに確認しないまま適当にお札を出したら、細かい小銭が大量に返ってきて困った。駅の近くは家賃が高いので、ここから最寄り駅までは15分近く歩かないとならない。終電があるかどうかはもう分からない、こんな深夜では車通りも期待できない、だからこのタクシーが行ってしまったから彼は帰るのに苦労する、と予測を立てて頭ではわかっているくせになんの行動もできない私が鈍間なせいで、ばたんと扉を閉めた車は私と彼を置いて走り去ってしまった。しかも、ここでいいと運転手には告げたが、うちはこの大通りから裏道に入ってしばらく歩いたところだ。だくだくと心臓が鳴っている。しばらく無言だった彼が、こっちを見て、車酔った?と静かに問いかけてきた。首を横に振る。
「家まで帰れそう?」
「、ぃ、はい、あの、あり、ありがとうございました」
「そう」
「す、っごめんなさい、すみません、こんな、こんなところまで、あのお金、えっと、渡すのでそれで帰ってもらって」
「平気だよ」
「や、やっ、わたしが、私が困ります、帰れないですよね、この、こんな時間じゃ」
「うん」
「で、っすよね、あは、……」
「真角さん」
「はひ」
「……俺怖い?」
「……へ……?」
ずっと足元を見ていた目線を、そろそろと上げる。穏やかで落ち着いた声、の中に少し混ざった不安の色に、顔を見れば、普段より僅かに眉が下がっていた。いや、と低く漏らした彼が、言葉を続ける。
「……よく、こっち見てるのは気づいてたんだけど。でもあんまり、遠巻きだし、折角同じ授業受けてる同じ学年の人、あんまいないし……話しかけるのも迷惑かなと思って、もし怖がられてたら尚更嫌かなって。ごめん」
「ち、っちが!違います!あの、私が、私、じろじろ不躾に、ごめんなさい、っめ、迷惑でしたよね」
「ううん」
今日も無理やり布都さんといたの横入りしてごめん、家まで着いてこられるの嫌だよね。そう何でもない事のように続けた彼が、一歩足を引いた。私は咄嗟に詰めてしまって、足を出したら、止まれなくなった。
「こ、っこんな時間で、た、タクシー呼びましょうか、わたし」
「適当に始発まで時間潰すよ、駅の近くになにかある?」
「なっ、ないです、ないですド辺鄙なので、なんにもないです!」
「そ?……、ふは」
「……は……」
可笑しそうに目を細めて、口元に手をやった彼が、少し腰を折った。かわいい。嬉しい。私、今、ちゃんと喋れてる。高揚は止まらなくて、彼ととてつもなく仲良くなれた気になって、茹だった頭のまま口を開いた。
「ど、どこっ、どこかでお時間潰すなら、わた、っ私の家で、どうですか……?」
「……え。いいよ、迷惑でしょ」
「そんなことないですっ、迷惑かけてるのはこっちですし、あの、お茶、くらいしか出せませんけど、本当に狭いし、何にもないし、お布団くらいならお貸しできるかも、あ!私が使ってるのなんて嫌ですよね、ごめんなさい!」
「うん。……ん。ふふ、落ち着いて……」
「っご、ごめ、ごめんなさい、夜ですものね、声大きかったですよね……」
「……真角さんと話してみたかったから、嬉しいけど。大丈夫?」
「へ……?」
「俺、男だよ?」
「……ぅ、え……っ?」
くつくつと、お腹を片手で押さえながら笑われて、かっと顔が赤くなった。

「……真角さん、よく物落とすよね」
「……?」
「ウォークマンの落とし物を拾って。5月ごろに」
「……あ、はい、落としました」
「その時は誰のか分からなかったから、大学にそのまま預けたんだけど。しばらくしてから、あー俺拾ったやつだ、って気づいて」
とろとろと、緩い声だった。意図的になのか、無意識になのか、言葉と言葉の間がいつもより開いていて、少し眠たげな声色。するりと髪をなぞった手が擽ったくて首を竦めると、ああごめん、と柔らかく謝られた。
「それで、拾った時に、俺が好きな曲で止まってたから、誰のなのかなってずっと気になってた。今時の人じゃないし、代表的な曲でもないし」
「……………」
「……好き?」
「……す、すき、です……」
「そ?」
嬉しそうに笑われて、今この瞬間から好きになった。洋楽を好んで聞くわけではないけれど、親のお下がりのウォークマンには古い洋楽が詰め込まれていて、時間潰しにそれを使うことが多かった。から、一体彼が指しているのがどの曲だかも分からないけれど、とりあえず好きになった。嬉しそうな表情を、ぱっと止めて眉をしかめた彼が、「や、気持ち悪いな。しつこくて嫌でしょ」と言うので、首をぶんぶん横に振った。親に感謝している。大好きな曲です。どうやら本当に眠いらしく、しぱしぱとゆっくりまばたきした彼が、けど本当にずっと話してみたいと思ってたんだ、とこぼした。私が彼を見つめ続けていたのと同じだけ、彼も私のことを考えてくれていたということ、なのだろうか。それって。それは、俗に言う、いわゆる。
「……発音が、すごく綺麗だし……大人しくて丸っこいし……」
「ま、まるっこい」
「うん、いい意味で……ふあ」
「いい意味……」
「んー……先生にもよく、頼られてるし……よく例に挙げられてるし、課題の訳が丁寧なの、俺結構雑に意訳で終わらすから、すげーなーと思ってて……」
「……………」
「……ふは。あっつ」
「……はず、っはずかしい……」
「そうですか」
全身の温度が上がっていくのが分かって、笑いを含んだ声に何も返せなかった。あったかい、とくっつき直されて、ぎゅっと動けなくなる。しばらく黙った彼が、ぴくりと動いた。私は微動だにできないし、およそ寝るには一切適さない状況に追いやられているけれど、存外マイペースな彼はどうもうとうとしているらしい。顔が見えないからよく分からないけれど、恐らく今はちょっと寝ていたんだろう。
「……ふあ……」
「あ、あの、眠たいなら、私どきますから、お布団使ってください……」
「なんで」
「なんっ、狭いでしょ……?」
「あったかくてちょうどいい」
「えう……」
「……寝ててい?重かったら押して」
「は、っはい、あの、押したりはしませんけど、はい……」
「ん」
「ひえ、っ」
ナチュラルに、額にキスを落とされて、体を固くする。抱き寄せられたまま、静かになった彼の心臓の音が聞こえている。少しゆっくりになった呼吸に、眠ったことがわかって、邪魔しないようにそおっと少しだけ体勢を変えた。顔が見たくて。さらさらの髪がシーツに散らばっている。少しあどけない寝顔に、胸のどきどきが止まらなかった。かっこいい。なんでこんなことになったのか全然分かんないけどとにかくかっこいい。もぞもぞしていたので眠りを邪魔してしまったのか、んん、と唸った彼は私の後頭部に手をやって、むぎゅっとほっぺが鎖骨の下あたりに押しつけられる。くしゃりと髪の毛をゆるく掴まれて、ちょっと乱暴な扱いにもどきどきした。くあ、と寝ながらあくびをした彼が、むにゃむにゃした声で小さくもらした。
「……ゆう、ねむい……」
「……えっ……?」

私の名前は真角悠華だ。彼は、秋くんは、私の苗字しか呼ばない。そうやってしか呼ばれたことがない。なのにああやって名前で、しかもちょっと渾名みたいに略して呼んでくれた。それはきっと、普段からそう思ってないと出ないと思うし、ずっと喋りたかったって言ってくれてたし、はじめてなのに優しかったし、そもそも私のことをずっと気にかけてくれている。もしかしたら、秋くんも私のことが、私と同じ気持ちなのかもしれない。それならそうと言ってくれればいいのに。でももし断られちゃったらって思うと怖いし、今ちょっと仲良くなれただけでも嬉しいし、この関係を壊すのは嫌だから、言えない気持ちもよく分かる。冷やかされたら恥ずかしいから、あんまり仲良さそうにするのも嫌なのかもしれない。だってあれからあんまり話しかけてくれないし、でも目は合うし、目が合ったら薄く笑ってくれる。私は秋くんのこと分かってる。本当は行きたくないけど優しいから、頭数に入れられたら断れないってこと。女の子には冷たくできないから、優しくされたのを勘違いしてる子が周りに近づきやすいってこと。分かってる。全部分かってる。
けど、ちょっとだけ不安になった。もし押しが強い女の子とかがいたら、秋くん困っちゃうんじゃないかなって。そういうのは止めてあげないといけない。本人が言いにくいことなら、周りが助けてあげないと。だから、私が守ってあげるんだ。どきどきするけど、見ていてあげよう。困っていたら、助けてあげなくちゃ。見ていたら、二人きりになれるチャンスも掴めるかもしれないし。二人きりになったら、きっと前みたいに話してくれるはずだ。
ただ、秋くんの周りにはやっぱり人が多くて、ついていくのは大変だった。少し目を離すといなくなってしまう。待ちぼうけを喰らったことも何度もあった。けど、諦めちゃだめだって、頑張らなくちゃって、自分で自分を励ました。それからしばらくすると、眼鏡の日は反対方向、みたいな感じで、ちょっとだけルートが掴めてきた。ライブハウス?みたいなところに入っていったのを追いかけたこともあったけれど、出てくる人たちが怖くて、見つかって捕まったら何をされるかわからなくて、逃げてしまった。秋くんも怖い目に遭ってないといいけど。次の日から、怪我がないかとか痛がってないかとか、すごくよく観察したんだけど、分からなかった。ということは大丈夫なのかもしれない。けど、ああいう怖いところにはあんまり行かない方がいいよって、教えてあげよう。それから、バイト先らしい古本屋さんの場所もわかった。そこは少し奥まったところにあって、外の道でじっと待っているとさすがに不審なので、本屋さんが見えるようにって探した店に入ったりしてみたらまたいつのまにかいなくなってしまって、そのあとどこに行ったかが分からなかった。お家の場所が分かったら、お土産持って訪ねることができるから、そうしたいんだけど。毎日、毎日毎日、迷惑はかけたくないから話しかけずに、秋くんの後を追いかけて、何ヶ月も経った頃だった。
いつもと違う駅で降りるんだなあ、と思いながら、ひとつ隣の車両から目で追う。扉が閉まる寸前で滑り降りて、人混みの中に紛れながら背の高い背中をまばたきもせず凝視した。すぐにいなくなっちゃうから、ちゃんと見ててあげないと。大通りを歩いて、コンビニに一回立ち寄って、人の少ない方へ歩いていく。もしかしてついに、お家に帰るところ、なのかも。ビニール袋を片手に下げたまま、誰かと電話していた秋くんが、古いアパートの方へ入っていった。曲がり角から見ているから、遠いけれど、あの部屋に入ったっていうのは確実だ。なんか、セキュリティ薄そうだし、思ったよりもこう、貧乏そう。見た目はきちんとしてるけどあれでいて割と抜けてるところあるからなあ、とちょっと可笑しくなりながら、地図アプリで場所を確認した。うん。
秋くんは忙しいから、大学から直接お家に帰ることは少ない。スタジオ、って調べたら書いてあったところに行くことも多くて、そこから出てくる時に男の子のお友だちと一緒に家に帰ったりする。きっと一番の仲良しなんだろうな。一人の時は直接家に帰ることはなくて、どこかに寄り道してご飯食べたりとか、女の子に呼び出されて困ってたりする。やめてほしいなあ。困ってるの、分からないのかなあ。でも私が直接あの場に出て行って「やめてください」って言ったら秋くんにも迷惑がかかってしまうと思うから、言うなら直接女の子だけに言うしかない。基本、いつも違う子。時々、前も見たなって子がいる。厚かましい。抜け抜けと、恥ずかしげもなく。憎らしい。私は我慢してるのに。
クリスマス。クッキーを作ったからプレゼントしたくて、お家の前で待っていることにした。家の前で待っているのは初めてで、なんだかどきどきした。なんでいるの、ってびっくりしちゃうかな。全部説明したら、安心してくれるかな。それできっと、また優しく髪を撫でて、私の頬に手を当てて、あったかい、って笑いながら抱き寄せてくれる。クッキーも頑張って作ったから、おいしいって食べてもらえたら嬉しいな。古いアパートの前は照明も薄暗くて、夜になっても秋くんは帰ってこなかった。ちょっと寂しいけど、忙しいのかも。バイトとか、あと、スタジオっていうのは楽器の練習をするために行ってるみたいだから、そういうのとか。折角可愛い格好もしてきたから、見てほしいな。待ち始めてから数時間が経過していて、もうすっかり指先どころか全身が冷え切ってしまった頃、かつん、とハイヒールの音がした。
「……?」
こつかつ、とまっすぐこっちに近づいてくる女の人は、一瞬私を見たけれど、すぐに目を前に戻した。ケーキの箱を片手に持っていて、あとはとっても小さな鞄だけ。どこに行くにもいろいろ準備しないと不安な私からは、考えられない。何にも入ってない、すっからかんなんだろうな。見下すように、ふう、と息を吐いて、がちゃりと背後で聞こえた音に勢いよく振り向いた。
「はあ!?」
「……は?」
女の人が鍵をさしているのは、秋くんの家だった。目を丸くして、唇を戦慄かせて彼女の頭のてっぺんから爪先までじろじろと見る。家族?まさか。全く似てない。姉も妹もいるなんて聞いたことがないし母親という歳にも見えない。じゃあストーカー?合鍵まで作って?気持ち悪い、犯罪者、信じられない。かっと頭に血が上ったまま、金切り声を上げた。
「あんた誰!?」
「誰って……え、あんたのが誰」
「秋くんに何の用!?」
「誰?うん?人違いじゃない?お姉さん」
「そこっ、そこは、秋くんの家でしょ!?」
「ユウの家だけど」
「ゆうは私です!何言ってるの!?頭おかしいんじゃないの!?」
「んー。ちょっとお姉さん落ち着きなー?ね、お話聞くから」
「触んないでよ!あんた誰!?」
「ユウのお姉ちゃんですけど?」



「あん時の悠華には殺されるかと思ったよね」
「……ごめんなさい……ごめんなさいほんとに……」
「あははっ、嘘だってー。かわいいなーもー、何でも信じちゃうんだからこの子はー」
うりうりー、と抱き寄せられて、あったかくてふわふわしていい匂いがした。泣きたい。
紗耶ちゃんは、横峯さんのお姉さん。横峯さんが誰だか最近まで知らなかったけれど、狂った私を引きずり戻してくれた人。カチ切れておかしくなった私をどうどうと宥めながら、まあこっちでゆっくり話聞くからね、と黒塗りの車に案内し、乗っていた怖そうなスーツの人を見てもう全部終わったと思って真っ青になって震えている私にあったかいペットボトルを渡して、落ち着いたら話してね、と隣でずっと手を握ってくれて、どうもこのままじゃ口がきけないらしいと踏んで車を発進させ、見たこともないきらきらした部屋に通して美味しいお菓子といい匂いで私のことをいっぱいにしながら、とんとんと背中を叩いてくれた。怖くないよ、どうしたの、と柔らかい声で言われて、くしゃくしゃになったクリスマスのラッピングを見て、もう全部我慢できなくなって吐き出した。知らない人なのに、紗耶ちゃんにはそうさせるだけの力があった。途中から泣きながら、もう一人で待つのは嫌だ、こっちを向いて欲しい、と嗚咽した私に、背中をさすりながら聞いていた紗耶ちゃんはばっさり、「そんな男やめな」と吐き捨てた。
「遊ばれてるよ。悠華、酷いこと言うようだけど、その人悪い人だよ。のめり込んだあんたも悪いかもしれないけどさ、のめり込ませた方にも悪意がある。やるだけやってポイじゃ、信じたあんたが可哀想だよ。もう追っかけんのやめな。ね、約束。はい指出して」
「ゔ、うっ、や、やです、や」
「出す!ほら!」
「や″ーっ」
「指切った!ゆびきったかんね!忘れな!」
それでぱちんと手を叩いて、クリスマスにそんな顔してんのほっとけないじゃん、ケーキ食べる?とにっこり笑った。べしょべしょの顔のまま食べるケーキは、今まで食べたどれよりおいしかった。最近ずっと何食べても味しなかったから。
二人で小さなケーキを食べ切った後、あの家は紗耶ちゃんの弟の家だってこと、きっと秋さんは私がついてきていることを知っていてわざと撒いていること、だから本当の家には辿り着けずに誘導されていること、を私に納得させてくれた。ユウにも聞いといたげる!と電話されて、また泣きながら縋りついた。やめて。もうこれ以上惨めにしないで。そう泣き叫ぶ私に、しょうがないとばかりに鼻を鳴らした紗耶ちゃんは、電話先に向かって「ねえごめんケーキ食べちゃった」とかわいく伝えて、電話の向こうから「えええ!?」って男の人の裏返った声がした。ごめんなさい。私のせいで。みんなに迷惑をかけて、ごめんなさい。
泣き喚きすぎて疲れ果てた私に、紗耶ちゃんは、お仕事あるから寝ててもいいよ、とふわふわのブランケットをかけてくれた。部屋の扉を開けてから閉めるまでの間に、あの子どうしたんですか?という不思議そうな問いかけと、かわいいから持って帰ってきたの、という紗耶ちゃんの笑う声と、またそうやって…と呆れたような男の人の声がした。疲れた。全部、全部疲れた。すとんと意識を手放す寸前、どろりと涙が頬を滑り落ちた。それと一緒に、私がおかしかったんだ、とあるべきところにあるべきものがはまった気がした。
それから紗耶ちゃんとは連絡先を交換して、しばらくおきに会っている。もう変な男に引っかかってなーい?と頬をふくらまして疑われるのが恒例で、私は何も言い返せない。この前紗耶ちゃんが嬉しそうに、弟がデビューしたと動画を見せてくれて、そこにトラウマが映っていたので私が飛び退いて勢いで舌の横を噛みちぎってしまったので、紗耶ちゃんが全ての関係性を把握した。血はなかなか止まらなかった。
「お。今のユウかっこよかったぞ」
「……頭痛いです……」
「見てよお」
「……紗耶ちゃんって、スパルタですよね……」
「優しいでしょ」
「見たくないです」
「そうだ、仕事で海外行くって話どうなったの?」
「行きますよ。来週」
「いつ帰ってくるの?」
「さあ……」
「えー!?なにそれ!?なんでもっとちゃんと言わないわけ!?」
「だ、なんでって、なんでですか」
「友達じゃん!淋しい!」
「さ……」
真剣な顔。本気で言っている紗耶ちゃんに、思わず笑って、笑って、涙が止まらなかった。

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