+++ガラス越しの恋+++




「ただいまー」
『おかえりー♪』

 2週間後、ケンがドアを開けて帰宅すると、部屋から明るい女の子の声が返ってきた。正直な感想として、彼はその瞬間が嬉しい。

『仕事、ご苦労様。ご飯にする? お風呂にする? それとも、わ・た・し?』
「コンセント抜くか?」
『やめてぇー!』
「まぁ、冗談はさておき。実際、まずお前からだ。ちょっと、メールをチェックしなきゃいけない」
『はい。このメールでしょ? 取引先との会合時間とかの』

 ムツキは勝手にデスクトップ内を動きまわり、メールボックスを開く。

「勝手に開封したのか?」
『まだ未開封よ。タイトルに書かれてたし、会社の同僚の人からのメールでしょ? 簡単な推理よ、ワトソン君』
「はいはい。じゃあ、開封して印刷してくれ」
『はーい』

 ムツキの元気のいい返事を背に受けつつ、ケンは台所で手早く着替える。ムツキとの不可思議な同居生活が始まってから、彼は着替えをモニターからは見えない台所で行うようになった。風呂上りもちゃんと服を着てから部屋に戻るようにしている。1Kの部屋ではしかたない。

『印刷終わったわよ』
「ありがと」

 部屋に戻ると、ムツキは汗を流して言った。印刷などの外部機器への作業は運動になるらしい。プリンタを見ると、確りとA4用紙にメールが印刷されていた。彼が最近頭を悩ませているミスの多い新人女子社員よりも
よっぽど優秀である。

『ご飯は?』
「外で食べてきた。………別にお前が作るわけじゃないだろ?」
『体調管理よ。今日見たブログにのってたんだけど、偏食による高血圧で死んじゃう人って多いみたいよ。貴方も気をつけてね』
「………お前、いくつだよ」
『ぴちぴちの16歳よっ』
「だが、発言は三十代の主婦だ」
『だって、日中ケンは仕事で家にいないし、退屈なんだもん。それにパソコンの使い方も結構わかってきて、面白いんだもん』
「……もしかして、ネットってブラウザを使っているのか?」
『当然よ』

 ムツキは画面の中で胸を張る。

「ネットに潜む幽霊が、パソコンのブラウザ使ってブログ巡りするなよ! 所帯臭ぇ!」
『だって、迷子になって帰れなくなると嫌だし……。変なウィルスとかにかかるのも嫌だし』
「ネット内ってそんなに危ないのか?」
『まぁ、インフラ整備だっけ? あれも完全じゃないからね。……縦横無尽にデータが行きかってるところとかもあるから。データを壊すウィルスにでもぶつかったら服のデータとか壊されちゃうかもしれないわ。そんなのうら若き乙女に………ケンの変態!』
「こら! 俺はそこまで細かい質問はしてないぞ」
『………ケホっ!』
「なんだよ、今の。咳か?」
『咳よ。悪い?』
「変な咳だから」
『うるさい! 変な事言うから、アレルギーが出たのよ』
「死んでもアレルギーに悩まされる事ってあるのか?」
『知らない! もう、明日も仕事あるんでしょ! 寝なさい。私はもう寝るから! おやすみ!』

 どうやら機嫌を損ねたらしい。ムツキはパソコンを休止モードにしてしまった。

「完全に俺のパソコンを部屋にしているな………」

 休止モードにされてしまっては仕方ないので、彼もシャワーを浴びた後、就寝する事にした。



 

 

 翌朝、ケンが家を出るまでムツキは遂に起きてこなかった。その為、彼の機嫌は出社しても、悪いままであった。

「おい。彼女、泣いてたらしいぞ」

 昨晩メールを送った同僚が、机で仕事をするケンの元にやってきた。彼女というのは、新人の女子社員の事だ。今朝は、機嫌が悪かった事もあり、いつもよりも注意が厳しいものになってしまった。

「そうか。泣いてたか……」
「お前も頭冷やせよ。一応、彼女、人気あるんだから。無駄に敵を作る事ないぞ」
「そう……だな」

 ケンは反省して、小さく頷いた。後で謝ろう。

「それで。お前、わざわざそれを言いにきたのか?」
「あ、そうだった。お前んちのパソコン、確か性能のいいセキュリティー入れてたよな?」
「あぁ」
「それならよかった。……実は、うちにパソコンにウィルスが入ってて。今朝パソコンがクラッシュしちゃったんだよ。調べたら、お前のセキュリティーソフトなら大丈夫みたいなんだが、念のためな。………どうした?」

 ケンは同僚の言葉が頭の中で何度もリピート再生されていた。そして、メール開封をしてからのムツキの様子が脳裏に浮かぶ。

「ど、どうした?」

 突然立ち上がったケンに同僚は驚く。ケンは彼に静かな声で言った。

「セキュリティー、解除していたんだ。そのウィルス、どうすれば退治できる?」
「え? あぁ、確か普通にスキャンして隔離ないし削除すれば大丈夫。……ただ、気がつく頃には殆どOSまで壊されるから性質が悪いらしい」
「ありがとう。……俺、早退する。課長に伝えておいてくれ! 家族が危篤になった!」
「え? おい、ちょっ……!」



 



「ムツキ!」

 ケンは部屋に駆け込むと、靴も脱がずにパソコンにかじりついた。相変わらず、休止モードのままだ。ケンはキーボードを叩いた。
 パソコンのモニターにOSのマークが浮かぶ。休止モードが解除され、デスクトップ画面が現れた。既にムツキの影響が殆どなくなっているのだ。
 ポインタは元の矢じり型になっており、デスクトップアイコンの中に、弱々しく倒れたムツキの姿を見つけた。本当に服がボロボロになっており、半裸状態になっていた。

「ムツキ!」
『うぅ……ケン。何か、体の調子が悪い。また、病気になったのかな? 一度死んだのに……』
「大丈夫だ! お前は死なない!」
『本当?』
「ウソついてどうする? すぐにまた元気になるさ」
『そう……かな? じゃあ、元気になったら、モニター買って。今のよりも大きいの』
「あぁ! 買ってやる! だから頑張れ!」
『約束、だよ? ………』
「しっかりしろ、ムツキ! …待ってろ! 今助ける!」

 ケンは素早くパソコンを操作し、セキュリティーソフトを起動させる。スキャンが始まる。ウィルスを削除するかの質問が表示される。ケンはエンターキーを叩いた。
 パソコンが再起動の為に、電源が落ちる。すでに2週間も電源がつきっぱなしになっていたパソコンは久しぶりに、電源が切れた。
 再びパソコンが唸りを上げ、バイオスの画面が現れ、OSのマーク、そしてデスクトップ画面が表示された。

「ムツキ、もう大丈夫だ。………ムツキ? おい、ムツキ! どこだ? 返事をしろ!」

 しかし、ムツキの声は返って来ない。

「もしかして、セキュリティーソフトが、ムツキをウィルスと一緒に削除したんじゃ……」

 ケンはその場に崩れた。視界が涙で揺らめく。嗚咽と共に、声が自然と漏れてくる。

「む……ムツキ。………こんな、こんな別れってあるかよ! ………バカ。………ムツキ、ムツキ、ムツキ、…ムツキィー!」

 しかし、いくら叫んでも、ムツキの声は聞こえて来なかった。
 


 

 

 いつの間にか、ケンは泣きつかれて眠ってしまった。日は落ち、部屋の中も暗くなっていた。
 ケンは赤くなった目を擦った。痛い。

『……ン………』
「え?」

 彼はパソコンのモニターを慌ててみた。しかし、デスクトップ画面の中にムツキの姿はない。幻聴を聞いてしまったらしい。

「全部、夢や幻だったのかもな。………パソコンの画面の中に、女の子の幽霊がいるなんてな」
『………幽霊じゃないって、何回言えば気が済むの!』
「ム、ムツキ?」

 突然のムツキの声に驚きつつも、ケンは画面の中を見回す。しかし、ムツキの姿はない。

『ケンのバカ! 勝手に電源落とすし、セキュリティーレベルは元に戻すし! お陰で、ネットの中に投げ出されて、迷子になっちゃったじゃない。10件よ、10件。そんなに、空振りしたんだから。しかも、その内6件は家に人がいて、大騒ぎになったんだから! 早く、元に戻しなさいよ!』
「あ、あぁ。ちょっと待ってろ。」

 ケンは素早くセキュリティーを解除する。すぐさま、画面上一杯にムツキの顔が現れた。

『フー。全く。………こっちの苦労も考えなさいよね』
「ムツキ……、よかった」
『あぁ……。その、ありがとう。助けてくれなかったら、多分あのまま削除されてたわ。私も、これからはメールの開封とか気をつけるようにする』
「ムツキ!」

 感極まったケンはモニターを抱きしめた。

『ちょっ! 離れなさいよ、変態! 貴方、パソコンの画面を抱きしめてるのよ?』
「あぁ、そうだ! 変態で構いはしない! ムツキがいてくれれば、俺は構わない! ムツキ、好きだ。愛してる!」
『………ケン』

 モニターを元に戻すと、ケンは画面に指を当てる。ムツキもそこに手を当てる。

「俺達は触れる事すら叶わない。……このガラスが憎い」
『仕方ないわ。……でも、貴方はそれでも構わないんでしょ?』
「あぁ。ガラス越しの恋でも構わない。俺は、ムツキが好きだ。ずっと、一緒にいよう」
『うん。私も好きよ、ケン』

 画面を挟んで、二人の唇が重なった。

『……平らだね』
「そりゃ、歪んじゃ役に立たないからな」
『約束。守ってね』
「あぁ。窮屈な思いはさせない。この壁一杯の大きさの画面を買ってやる」
『嬉しい』

 ムツキは22インチの画面の中で、最上級の笑顔をした。
 その時、ケンは不意に居酒屋で思い出せなかった単語を思い出した。幽霊と言うと起こる恋人。彼は、彼女に愛情を込めてこう言った。

「我が愛し、電送の爾落人」




【FIN】
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