本編
「「「クマソガミ?」」」
蒲生家に戻った彼らは、源一郎の部屋にいた。三人は畳に正座をさせられ、向かいに源一郎と銀之助が座布団に座っている。
怪訝そうな顔で聞き返した三人に、源一郎は頷く。
「そう。漢字では、熊襲の神と書く。熊襲とは知っているか?」
源一郎が聞くと、三人は首をそれぞれ傾げる。
「名前は知っているが、という所か。熊襲とは、日本書紀などに書かれている大和朝廷に抵抗した国だ。有力説は九州らしいが、この蒲生村も一説で熊襲の国と考えられた地の一つなんだ」
「大和朝廷って、ヤマトタケルの?」
「名前は知っていたか。元紀、ヤマトタケルの話で知っているものがあるか?」
「確か……女装して敵陣に乗り込んだとか」
「古事記だな。その敵陣というのが、熊襲の国だ。以前、考古学者達が調べていた事の一つに、ここが熊襲の国であったという仮説の証拠が欲しかったというのもあるんだ」
「どういう事?」
「魏志倭人伝に出てくる狗奴国が後の熊襲の国であるという説があるらしい。残念だが、わしはそんな一部の学者の欲を満たす為に、先祖代々の最高機密を話す訳にはいかんのだ」
源一郎は鼻息を荒くして言った。
「じっちゃんは、どうして知ってたの?」
「ちょっと昔、偶然知ってしまったんじゃ。現在生きている人間で、能々管の存在を知るのは、わしらだけだ」
「それで、そのクマソガミがなんなの?」
元紀が聞くと、源一郎は頷いて、話し始めた。
「うむ。蒲生家の秘書によると、クマソガミは熊襲の地に住む土地神の類だったとされる。だが、熊襲が滅び、その怨念を受けた土地神は鬼神へと変貌した。以来、クマソガミは人々の恐怖と魂を糧とし、人々から恐れられていた。しかし、大陸からの旅人の持つ能々管により鬼神クマソガミは封じられ、その地を収める家にその封印を守るように言われたのだ。その家が、後の蒲生家だ」
「つまり、元紀は封印を解いたんじゃねぇか?」
「でも、何もなかったわよ! やっぱり、時代は21世紀よ!」
銀河に言われ、焦りと恐怖からか、強がる元紀。
「まぁ、わしも本当にクマソガミがいるとは思っていない。昔、能々管の封印を見たときも、お前達と同じように、ただの石にしか見えなかったからな。だが、昔からの伝承って奴は、侮っちゃいけない。何かこの村の地勢を封じる役割を持っていたかもしれないからな」
「わしも知り合いの地震学者に、二、三日中に南海地震が起こったら、真っ先に電話をしろと連絡しておいた」
銀之助は笑顔で言った。残念ながら、誰も笑えない。
「まぁ、いずれにしても、もう日が暮れる。クマソガミの石を確認しに行くのも、明日になってからの方がいいだろう」
「まぁ、結果は何あれ。一応、お前さん達もグループ課題ができたんだ。今晩はゆっくり休みなさい。そうだ、源さん。昨晩作った、フェジョアーダが残っておるんだ。食べんかね?」
「おぉ、フェジョアーダか! 久しぶりに食べたいの。なぁ、元紀?」
「………何それ?」
上機嫌になった源一郎とは反対に、元紀は怪訝そうな顔をする。吾郎も同じく、理解できていない顔をしていた。
「遅いね?」
元紀は時計を言った。しかし、銀河は対して気にも留めていない様子で、居間のテレビを見ながら答える。
「じっちゃんのことだ。大方、もう一度仕込みなおしとかしてんじゃないか?」
銀之助は夕飯のフェジョアーダを取りに、家に一人で戻っていた。彼の足でも、取りに言って戻ってくれば、30分とかからない。しかし、彼が蒲生家を出てからまもなく1時間が経とうとしていた。
「……ねぇ? 行ってみようよ? どうせ一本道だから、行き違う事もないし。もし、途中で怪我でもしてたら大変じゃん!」
「………そうだな」
流石に、元紀の言葉で心配になった銀河は、立ち上がった。
「ほら、吾郎も行くわよ!」
「えぇ~」
銀河の隣で同じくテレビを見ていた吾郎は、弱々しい声をあげる。しかし、元紀の言う事もあり、渋々立ち上がって身支度をする。
「おじいちゃん、ちょっと銀河の家まで様子を見に行ってくる」
「うむ。気をつけてな」
「元紀、もう暗いんだから、猪とかに気をつけて行くのよ?」
「わかったわ」
源一郎と母親に返事をすると、三人は蒲生家から出かけた。
「いかんいかん。つい仕込み直しをして、時間をかけてしまった」
台所で銀之助は風呂敷にフェジョアーダを入れた鍋を包む。
その時、縁側から音が聞こえた。
「ん? 銀河かい? すまぬな、つい仕込みをしてしまって………」
銀之助は雨戸を閉めた縁側に向って言いながら、近づく。しかし、雨戸を巨大で黒くゴツゴツした腕が突き破った時、その足は止まった。そして、ゆっくと後退りする。
しかし、銀之助の目の前で、雨戸は外へと引き剥がされ、庭に投げ飛ばされる。そして、2mを超える巨大な黒い鬼が縁側から室内に入ってきた。
「クマソガミ………」
「ググググ……」
鬼神、クマソガミはゆっくりと銀之助に近づいていく。銀之助は腰が抜け、その場に座り込んでしまう。彼の顔が恐怖に歪む。
「来るな…! 化け物め……!」
「グググ……オソレロ………ウマイ………」
クマソガミは銀之助に顔を近づけ、口を広げる。そして、銀之助から恐怖を吸い取るかの様に息を吸い込む。クマソガミの体が少しずつ大きくなる。
「じっちゃん! ………なっ!」
「ひぃ!」
「嘘っ!」
庭から駆けつけてきた銀河達は、室内にいる巨大な鬼神に驚いた。クマソガミは銀之助から離れ、室内から彼らのいる庭へと出てくる。
「オソレロ………オソレロ………」
「ひぃ!」
自分達よりも一回り以上も大きいクマソガミは、月明かりに照らされ、彼らに更に大きい印象を与える。吾郎は頭を抱えて震え上がる。クマソガミは吾郎に近づく。
「てめぇ! じっちゃんに何しやがった!」
「銀河!」
銀河は足元に落ちていた雨戸の破片である木の棒を掴むと、クマソガミを叩いた。吾郎はクマソガミの顔が近づき、涙を浮かべる。クマソガミは腕を払い、銀河を払い飛ばす。
「つぅっ!」
銀河は庭に転がる。痛みに顔を歪める。しかし、すぐに立ち上がった。
「吾郎! 怖がるな! 言ってただろ、コイツは恐怖と魂を喰らう!」
「だ、だって………」
銀河は叫ぶが、吾郎にその命令は無理な話であった。クマソガミは吾郎、そして元紀と銀河にも内在する恐怖を吸い取り、体を更に巨大化させる。
吾郎は意識が朦朧とし、目が虚ろになっている。銀河は吾郎とクマソガミの間に割り込んだ。銀河は震える足を踏みしめ、クマソガミを睨む。
「オソレロ………」
「誰が、誰が恐れるか! お前に、クマソガミに恐れはしない! 俺達は、お前に恐れはしない!」
「あ」
「あれ?」
「ググググ………」
突然、クマソガミは銀河、そして吾郎達から離れ、逃げ去るかの様に垣根を破り、庭から逃げ出した。
銀河は何が起こったのか理解できず、立ち尽くす。しかし、足の震えは嘘のようになくなっていた。
「銀河! やるじゃない! なんか、銀河の言葉を聞いたら、不思議と怖くなくなったわ」
「僕もだよ。きっと、銀河に勇気づけられたんだね!」
元紀と吾郎に言われて、銀河は素直に笑みを浮かべた。そして、視線を周囲に巡らせた銀河は居間で倒れる銀之助に気がついた。
「じっちゃん!」
室内に駆け込んだ銀河は、銀之助を抱き起こし、声をかける。
「う、うぅ………銀河か?」
「じっちゃん! よかった!」
銀之助は虚ろな目をしつつも、銀河に答えて、ぎこちなく笑みを浮かべた。
「クマソガミだか、歯磨き粉だか知りませんが、ご老人を襲う強盗など、お月様が黙っても、国家権力が黙っておりません! 月に代わってお仕置きしてやりましょう!」
通報を受けた駐在の五井號巡査部長は、銀之助達の話を聞き、拳を握り締めて言った。柔道と空手の有段者だという巡査部長は、息子の吾郎とは対照的にゴリラの様に体格のいい屈強な男である。共通点は、坊主頭である事であろう。
「しかし、お前達! 悪党に立ち向かう勇気は褒めてやろう。だが、危険はよせ! この俺の拳で悪は成敗してやる!」
巡査部長は腕を振り上げると、筋肉を浮き上がらせる。制服の胸と背中から糸の切れる音が聞こえる。
「お父さん、それをやると服が破けて、またお母さんに怒られるよ?」
「ん! それはマズイな。後藤さん、ご安心して下さい! どんな者が犯人であろうと、国家権力の前に不可能などありません! あらゆる理由をつけて、社会的に抹殺してやりますよ!」
かなり問題のある発言をしながら、巡査部長は銀之助を安心させるように言う。違う意味で安心できないのだが、それを言えない優しい銀之助は、笑顔で頷いた。
「よし! 吾郎、俺は寝ずの番をする! 母さんには伝えておいたから、まもなく来る蒲生さんに送って貰いなさい」
「う、うん」
そして、巡査部長は腕を組んで、縁側に座り込んだ。最早、優しい銀之助に彼を迷惑という事はできない。
「まぁ、折角ですから。皆さん、夕食を召し上がって下さい」
「いやいや、助かります。夕飯を食べる前だったものですから」
「では少し待っていてください」
「俺も手伝う!」
「すまんの」
「して、メニューは?」
「フェジョアーダ」
「………何それ?」
台所へ向う銀河が答えると、巡査部長は吾郎に聞いた。当然ながら、彼も苦笑しながら、首を傾げた。
台所に入ると、銀河は机にもたれる銀之助に声をかけた。
「じっちゃん、大丈夫か?」
「やはり気付かれていたか」
「そりゃ、俺とじっちゃんだからな。何年もずっと見てりゃ、わかる」
「………どうやら、クマソガミが魂を喰らうというのは事実らしい。どうにも体が上手く動かん」
「全部喰われてたら、やっぱり死んじまってたのかな?」
「わしにもわからん。今は生きていただけでも、よかったと思わねばの。………銀河、お前さんこそ、大丈夫なのか?」
「あぁ。当たった場所が良かったみたいだ。血も出てない」
銀河は笑って、肩を捲くって見せる。肩に大きな切り傷があるが、血は出ていない。
銀之助は悲しげな目で、その傷を見つめる。
「大丈夫って。後で包帯でも巻いておくよ」
「……銀河、皆が帰った後、もう一度何があったか、話してくれ。わしも、お前に話せばならない事がありそうだ」
銀之助は鍋に火をかけると、静かに銀河に言った。
「では、本官は外におりますので!」
「すみませんね」
巡査部長が敬礼して、庭に仁王立ちした。それに笑顔でお礼を言うと、銀之助は壊れた雨戸を立てかけた。これでも、十分に音は聞こえないはずである。
更に、念の為、居間ではなく、仏壇のある隣の部屋で銀河は銀之助に話をした。
「………一応、さっき話した通りの事なんだけど、これが全てだ」
「うむ。………確認するが、銀河が怖くないと言ったら、クマソガミは逃げ出し、皆も怖くなくなったのだな?」
「あぁ。皆は俺の勇気を見て怖くなくなったって言ってた」
「正確には、違うの。銀河も、何となく感じておるのだろ? そうではないと」
「あぁ。………でもバカらしい」
「いや、言霊というのは昔からある。口で言った事は言わぬ事よりも遥かに力は強い」
「だけど、俺が恐れはしないって言ったから、皆も恐れなくなったって、変じゃないか? やっぱり」
「銀河自身がどう考えるかは、まだいい。………二つ、この機会にお前に話しておかねばならんことがある」
銀之助の顔から笑みが消えた。銀河も自然と座りなおす。
「銀河、もしお前がわしの孫ではないと言ったら、その言葉を信じられるか?」
「え? う、嘘だろ?」
「順を追って説明する。まずは話を聞いて欲しい。娘の真理、つまりお前の母親だが、彼女は20年前、一度この家を出ているんじゃ。わしがいけなかったんだ。あの子は、得意な語学力を生かすといって、アメリカに留学していた。元々在学していた大学の影響もあったのだろう、留学中に真理は厳格なカトリック信徒になった。今ではその気配はないが、この家は代々仏教に信心深い家系でな。当時のわしも、妻も父も、真理に反対した」
「………一応、聞くけど、20年前の話なんだよな?」
「日本が、バブルに沸いていた頃だ」
銀之助は遠い目をして言った。
「………続けてくれ。」
「そして、一度は娘を勘当したんだ。しかし、15年前、真理は突然帰ってきた。この数年間で、わしの父が他界した。勘当した事を後悔していたわしら夫婦は、娘の帰りを素直に喜んだ。……しかし、あの子は妊娠しておった。臨月だった」
「………」
「わしらは父親が誰かと訪ねた。しかし、父親はいないと、言った。捨てられたのか、既に他界したのだとわしらは思った。だが、真理の言っている意味は違った。……お前さん、もう性教育は受け取るか?」
「まぁ一通りは」
「娘、真理は処女だったんじゃ。もっとも、当人の口から聞いた限りだが」
「……え? 母さんは妊娠していたんだろ? あれか? 対外受精とか?」
当惑しながら聞く銀河に銀之助はゆっくりと首を振った。
「ある日、突然妊娠している事がわかったらしい。真理は自分が聖母になれると言っていた」
「聖母?」
「聖母マリア、聖書を読んだ事ないのか?」
「分厚いし、英語の勉強みたいでダルくて読んでない」
「まぁ、端的に言ってしまえば、キリストの母親だ。彼女もまた、処女懐胎でイエスズを宿している。考えようによっては、釈迦もその表現に当たるから、それ自体を宗教的にみたら、結局崇高な事ではあるんだ」
「そんな宗教云々はいいよ。……じっちゃんは、信じたのか?」
「信じた。完全にでは勿論ない。しかし、娘のいう事を信じないで親を名乗る資格はない。一度は勘当された親を頼ったんだ。全ての疑問を飲み込んで、わしら夫婦は真理を家へあげた」
「……その子どもが、俺?」
銀河が聞くと、銀之助は曖昧な表情をした。
「それはわからん。というのも、この家に住む事になってまもなく、流産したんじゃ」
「え? 死んだの?」
「恐らく。少なくとも、血を流し、腹を抱える娘の足元には、血溜まりの中に胎児がいた。思えば、流産ではなく、死産というべき事だったのかもしれない。いずれにしても、娘は動かない胎児を抱きかかえ、三日三晩泣き通しだった」
「………」
「わしが供養した方がいいと言い出そうと思い、庭に立つ真理に声をかけようとした。その時、真理は笑っていた」
「え?」
「わしも、遂に気が狂ったと思った。だが、違った。死んだはずの……いや、もっと具体的にいうと、腐敗が始まっていた完全な死体であった胎児が、生きた赤子になっていた。当然、腐敗などしてはいない。元気に笑う、赤子が娘の腕の中にいた」
「それが……俺?」
「そうじゃ。娘ではないが、一度はお前さんを本当にイエスズの生まれ変わりと思った。彼は人類史上唯一、肉体を持って生き返った人物といわれているからの………」
そして、銀之助は余韻を残して、黙る。銀河は彼に言う。
「………何か、あったんだな? ここまで話したんだ。言ってくれ」
「あぁ。娘がその時に何が起きたか、しばらくして話したんだ。光が落ちたそうだ。雷とかではなく、光だったらしい。その光が胎児の死体に当たり、死体は一瞬で燃え、その光が赤子の姿になったと。わしも、流石にこの話は信じられなかった。しかし、見つけてしまったんじゃ」
銀之助はゆっくりと立ち上がると、仏壇の置くから小さな木箱を取り出した。それを、銀河に渡した。
「開けてみなさい」
「………!」
「黒く焦げているが、右腕に間違いない。大きさや形からしても、あの胎児の右腕じゃ」
「……俺に、右腕は、あるな?」
「あぁ。勿論、その赤子も五体満足だった。それで確信した。娘の言葉は真実で、この赤子は娘の子どもではない」
「………じゃあ、俺は? 俺は何だ?」
「わしにもわからん。一つ、ただ一つだけ言えるのは、娘は例え自分の息子でなくても、息子として育てようと思い、わしらも孫として育てようと決めたんじゃ。………少し、お茶でも飲もう」
銀之助は呆然とする銀河に告げると、台所へと向った。
「チャイだ。美味いぞ」
「ありがとう。……チャイって、インドのミルクティーだよね?」
銀河がカップを受け取って聞くと、銀之助は笑顔で頷いた。
「さて、どこまで話したかな?」
「俺が孫じゃない。……というか、最早人間かも怪しい話を聞いたところ」
「あぁ。そうだった。結論から言うと、銀河と名づけられた赤子は他の赤子となんら変わりなく、成長した。妊娠は事実だったこともあり、授乳も十分に出来ていた。しかし、元々丈夫なほうではなかった娘は、やはり精神的にも肉体的にも無理があったのだろう。銀河が生まれて、一年が過ぎようとした頃、倒れてしまった。医者に診てもらった所、子宮癌だった。改めて考えると、死産の原因もその癌だったのやもしれん。真理は、それから僅か半年で死んでしまった」
「………」
「銀河、その胸のペンダントの写真は、癌の宣告を受けた頃の写真で、あの子が入院する前の最後の一枚なんじゃ」
「そうだったのか……」
「娘の死後も、お前さんはすくすくと成長した。……おばあちゃんの記憶は残っているかい?」
「いや。………というか、小学校より前の記憶は全くない」
「やはりな。丁度、小学校へ入学する3ヶ月前、わしの妻、つまりおばあちゃんが死んだんじゃ。その際も、仏教にそった葬式を行った。娘の際は、葬式は仏教だったが、戒名は仏教ではなく、カトリック式に行った。墓も、十字架で作った。……話を戻そう。葬儀の後、お前さんは泣きじゃくった。やっと、おばあちゃんが死んだという事を実感したんだと思う。……そして、ある時、わしに言ったんだ」
「なんて?」
「わしは、おばあちゃんはずっとお前の傍にいると言った。そして、お前は言った。死んだらもう何も残らない。仏なんていない。死んだ人はもういないんだ」
「………」
「その言葉を聞いた瞬間、わしの中で何かが消えた。次の日には仏壇にあった邪魔なものは全部捨てた。必要なのは、長年自分の習慣でやっていた、朝の線香を上げることだけだった。後は死者の顔を忘れない為に、写真を飾っておいた。わしは、銀河の言葉を聞いた瞬間に、その言葉を確信したんだ。同時に、今まで信じていた仏教も意味をなくしていた」
「あの約束、俺に確信を持った言い方をするなっていうのは……」
「銀河のもつ力を無闇に使わせない為」
「………そんな。じゃあ、さっきのも!」
「お前さんが、クマソガミを恐れないと言ったから、皆から恐怖が消えたんじゃ」
「人の心をそんなに簡単に……? そんな奇跡みたいな事を……?」
「そうじゃな、奇跡だ。水の上を歩けずとも、水をワインに変えられぬとも、紛れもなくアレは奇跡の力だ。しかし、思うにそれは、信仰の対象者となってきた人物達とは全く違う存在じゃ。信仰は不確定なことを信じて救いを与えるものだが、お前さんのそれは、確信させてしまう。神をいないと言ってしまえば、神の存在を消してしまう力だ」
「……神殺しって言ってもいいかもな? 歴史でもわかるよ、宗教の歴史って戦争の歴史なんでしょ?」
「確かに。否定はしない。が、その信仰心が人の心を救っているのも事実。無闇にその力を使ってはいかん」
「………わかった。あと、聞いてもいい?」
「何だ?」
「俺は、怪我をした事も病気をした事もないのか?」
「わしが知る限り、ない!」
「わかった。でも、とりあえず生きているのは事実だよ。健康診断でも心拍数がちゃんと取れたから。………血があるのかはわからないけど?」
銀河は笑った。銀之助も安心した優しい笑みを浮かべた。
「わしの知っている事は全て話した。後の事は、銀河。自分で決めなさい」
「あぁ」
「よし、寝よう。おやすみなさい」
「おやすみなさい」
静寂の夜は、更けていく。