Hurt Locker
「…何をしている?」
4021年秋、日本丸船内。日中と夜間の寒暖差が激しくなってきた季節の変わり目。就寝用のルームウェアという無防備な格好の八重樫。食堂からミネラルウォーターを片手に自室へ戻る最中、船員の自室が集合する通路にて不審な動きをするハイダと遭遇した。彼女は八重樫の接近に気づいていたが臆せず、顔から後頭部にかけて素手で何かを拭っていた。
「大した事ではありませんが…」
そう言うわりには前髪を手櫛で何かを取ろうと奮闘していた。手袋を外し、指の間隔が僅かな事から細かいもの。しかし顔の半分を覆うほどの前髪が細い指から流れていくだけ。手入れの届いた銀髪がサラリと流れる。
「うーん…」
手応えがないのかハイダは手櫛を繰り返す。数回パターンを変えて髪を流すも解決せず、どうしたものかと逡巡した。その様子は先程の言葉とは矛盾しすぎていた。
「大した事あるだろう」
「…さっき顔に蜘蛛の糸が引っかかったような気がして…」
「払いたかったわけか。本当に引っかかっているかは分からないが、蜘蛛はそこにいる」
八重樫は顎と目線でハイダの後方を指すと、ハイダは鋭く振り向いた。膝裏まで伸びる髪の毛先が八重樫へ叩きつけられるほどの勢いに、余程の感情が出ている。憎悪とかではないが、恐れの類い。
「蜘蛛は苦手か?」
「サイズによります!」
「そうだな」
「虫は大抵が繁殖と捕食しか考えません」
「蜘蛛は…」
節足動物だ、そう言おうとした八重樫の発言はハイダの掌で遮られた。そんな事は言われずとも分かっていると。だがあんなもの、あの嫌悪を誘うビジュアルは虫と比喩しても許されるはずだ。
「糸が気になるならシャワーでも浴びておけ。俺は寝る」
立ち去る八重樫は蜘蛛は見逃す形だ。これ以上付き合っても不毛でしかない。残されたハイダは、天井の角に巣を張り始めている蜘蛛と二人きりになった。蜘蛛を少しだけ睨みつけたハイダだったが、すぐに視線を逸らすと俯いた。
「……」
蜘蛛は益獣。彼らは図らずも人類に貢献しているのもまた事実。ハイダは駆除するか熟考するも、この無用な殺生により船内で害虫が跋扈する未来を考えると思念を使うわけにもいかなかった。蜘蛛は蚊やハエと違って伝染病の媒体になるわけでもない。毒蜘蛛は別として、不快である以外に蜘蛛を殺生する理由が人類にはないのだ。それならもう少し可愛げのある姿を与えられればよかったのにと、ハイダはため息をつくとその場を後にした。夜更けの事だった。