雲隠

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 約15年前、伊勢の御が中宮に仕える数年前、父の藤原継蔭が伊勢守の任を受け、伊勢の国へと下った。そこで彼女は、大中臣岡良の娘と出会った。
 当時、齢十三の少女であった伊勢の御は、周囲から伊勢守姫などと呼ばれていた。
 伊勢での暮らしに慣れてきた頃、神宮での祭祀に立ち会う機会を得た。

「姫、祭祀の邪魔にならぬように、私のそばを離れるでないぞ」

 神宮に向かう道中、父から幾度となく同じ言葉を云われ、釘を刺されていた。
 しかし、いざ実際に神宮に着くと大人達は慌ただしく祭祀の説明や準備などの諸々で動き回り、道中では伊勢守として座って祭祀を見物していればよいと言っていた父も祭祀の説明を受けながら、神宮の中を歩き回っていた。
 結果、彼女は一人神宮内の社に取り残されることになった。
 退屈しのぎに話しかけようにも、周囲の大人は皆忙しそうに動き、一切彼女に目をくれる者はいない。さしずめ神職の前では官職の伊勢守の娘は所詮ただの人の子ということらしい。

「あぁ、退屈」

 廊下を歩く女性達に向かって、思わず声に出してみた。

「ほんとねー」
「!」

 予想に反して、真横の襖から声が返ってきた。彼女と同じくらいの少女の声だ。
 思わず驚いて仰け反った彼女の前で、襖が開き、立派な袿袴(けいこ)を纏った少女が姿を現した。部屋の奥の鏡が光った為だと思うが、後光を纏ったその姿は天岩戸を開けた天照大神を彷彿とさせた。
 齢は彼女よりも少し上に思えるが、身の丈は彼女と大差ない小柄な少女だった。

「ほんと、退屈よね? おまけに誰に見せるでもないのに、こんな仰々しい服装だから、身動きも取りにくくて……」

 少女は袿袴の唐衣の裾をひらひらさせながら、落胆した表情で言った。心底嫌らしい。
 彼女が反応に困っていることに気づいたらしい。

「あ、ごめんなさい。いきなり話しかけて一方的に……。はじめまして、私は大中臣輔親の娘よ。伊勢守の姫様よね?」
「はい。はじめまして。……えぇっと、つまり祭祀に?」
「いいえ。こんな格好しているけど、私は祭祀で人前には出ないわ。そういうお役目なの」
「なんだか、大変ね?」
「でしょ? 大変で、退屈なのよ。渚様の許しがないと、一々社の外に出ることもできないんだから不自由なものよ」
「まぁ私も殆ど屋敷の外に出られないけどね」

 お互い苦笑し、次にはクスクスと笑い合っていた。

「お互いお飾りのお役目ってのも大変ね」
「ほんと、大変で退屈ね。……あら?」

 彼女は室内に文が書かれた紙が広がっていることに気づいた。

「あぁ、散らかってるでしょ? 退屈しのぎに書いてるとすぐこうなっちゃうのよね」
「書くというと、歌を詠むの?」
「うーん、詠めない訳じゃないんだけど、今は物語を創っているわ」
「物語? 唐の伝記の様なものですか?」
「貴女、漢字読めるの?」
「まさか。聞き覚えの程度よ。貴女は?」
「少しばかり」
「すごいわね」
「男の真似事みたいで嫌だけど、私の場合はあらゆる知識を得る術を身に付けておくように渚様に厳しく言いつけられているから」

 少女は苦笑した。
 先程からの話で気になっていることを彼女は問いかけた。

「その渚様ってどなた?」
「あぁ、そうよね。ごめんなさい。いつも神宮に仕える人と話すから、さも知ってて当然の様な言い方をしていたわ。渚様も私と同じで本来、神宮に仕える者以外は会うことのない方よ。……影の祭主。つまり、裏で祭祀を真に取り仕切る神宮の翁様よ」

 後半の声を潜めて少女は言った。

「そんな方が? どういうこと?」
「うーん、伊勢守の娘だし、教えても良いんだけど……。そうだ! 今日はここまで私の秘密を明かしたのだから、今度は貴女の秘密を教えて。そうしたら、次に会ったとき更なる秘密を明かします。……どう?」
「うーん……いいわ。じゃあ、耳を貸して」

 彼女が少女の耳元でこっそり秘密を教えた。
 それを聞いた少女は口許に笑みを浮かべ、彼女に向いて言った。

「じゃあ、また来てね! まだまだ秘密はいっぱいだから」
「うん」

 彼女は笑顔で答えた。
 そして、藤原温子に仕えるまでの数年間、彼女は神宮へ通い、少女と様々な話をし、親友と呼べる存在になった。
 そして、大中臣輔親の娘と渚の翁のことを知る数少ない人物の一人でもあった。




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 遡ること数代前。神祇伯などを世襲し、大中臣氏を賜った大中臣清麻呂の元に初老の男が訪ねてきた。

「突然この地に舞い降りたのは誠か?」
「はい。しかし、天上人ではありません。この世には理がございますが、その理を操る力を持ち、不死の体を持つ者達がおります。その者達を爾落人と申します。俺はその者達の力を借りて遥かな時を越えてこの地に、いやあなた様に会いに参りました」

 男は清麻呂を含む誰もが見たことのない衣を纏っていた。
 その身なりだけでも、彼らがこの男の言葉を信じるには足りるものだった。

「そち、名前はなんと申す?」
「渚と申します。身なりはこの通りの老人ながら、ただの老いぼれではございません。二千年に及ぶ知を持っております。約束さえ守って頂ければ、この知識、すべて大中臣氏に捧げましょう」
「約束か……で、その条件とは?」
「あなた様の子孫に、その爾落人が数代先に産まれます。約束はただ一つ。この俺を大中臣氏に入れていただき、その爾落人を貰い受けたい」
「数代先? そちはいくつまで生きるのだ?」
「あと百年は十分生きれます。嘘と思うならば、俺が朽ちるまで俺の知識を貪ればいい。悪い条件ではないと思うが?」

 渚は挑戦的な表情で清麻呂を見た。

「いいだろう。存分に働いて貰うが、約束は守ろう。我が子孫に爾落人が産まれた折には、お前がその子を養育する権限を与えよう」
「ありがとうございます」

 渚は清麻呂に恭しく礼をした。
 その後、渚は大中臣氏の中に入り、渚の翁や老人と呼ばれ、神宮の奥で様々な技術と知識を披露した。電気や薬剤の生成は朝廷や帝の権力を強めることに大きく貢献した。
 そして、歳月が過ぎ、大中臣岡良の娘が産まれた。

 


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 870年頃、大中臣岡良に娘が産まれた。名を百子と名付けた。
 産まれて間もなく、養育を大中臣氏の老人こと渚の翁が担うことになった。
 数代前より生き続け、神宮のある種の仙人や預言者として大中臣氏の中では一目置かれた渚の翁。その翁が大中臣清麻呂と約束をした童がその娘であると産まれる前より宣言していた為、生後間もない時点で養育の権限が誰になるのかと、大中臣氏内での娘の位置付けは決まった。
 物心着く頃には、渚の翁の後継者として娘は彼のもとで様々な指南を受けていた。

「渚様、爾落人はこの世にどれ程いるのでしょう?」

 齢十五を過ぎ、娘は女性としても成長しつつある頃には、渚の翁の知識を十分に学べるところにまで達していた。

「さてな、俺もすべての爾落人にあったわけではないから、本当のところはわからない。……だが、爾落人は長い歳月を名を変え、身分を変え、住む場所を変え、様々な人、国、文化に関わって生きている。まぁ、世捨て人の様に世界中を放浪している奴もいるが、そういう奴らは例外的だ。前にも話したが、特別な力を持つ爾落人はその力故に、策を重んじずとも結果を得られる。唐に伝わる三国志などに語られる兵法などは、爾落人が疎かになりやすい。うまくいけば、爾落人を凌駕する。……が、そうした策をも圧倒する力をもつ爾落人は確かに存在する。そうした突出して強力な能力を有する爾落人は、単独で生存することができる。そして、その神に匹敵する力を持つがゆえに、人間と共に社会の中で生きていくことは難しい。故に、世捨て人の様な生き方をしている」

 渚の翁は、一呼吸置き、娘を見た。

「だが、お前は違う。身尽の力は本当に救うべき者を救済する力ではあるが、戦う力にはならない。俺が死んだ後、俺の作り上げた大中臣氏の中の地位はそのままお前に引き継がれる。この神宮は千年以上の年月、存続し続け、為政者や戦乱にも絶やされるものではない。そして、その目で見るんだ。千年という長い歳月を、人を、世界を」
「はい。……でも、私は嫌です。渚様のいない世界で生きたくはありません」

 娘は本当に泣きそうな顔で、渚に抱きついた。

「泣かせるな。……百子よ。もしもお前が許すなら、歌を送りたい」
「はい。……お待ち申しております」

 顔を上げた百子は、渚に微笑んだ。
 まもなく、百子と渚は兄妹、つまり夫婦となった。
 そして、その頃百子は後の伊勢の御である伊勢守姫と出会い、親交を深めていくのだった。




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 月日は流れ、凡そ15年が過ぎた。
 百子は他の爾落人同様に、二十歳前後の身体から変化がなくなった。周囲も彼女が不老不死の存在であると理解しつつあった。
 渚の翁と共に神宮の奥にある社で細々としかし、仲睦まじく、平安な日々を過ごしていた。
 渚は、時折周辺の地域に赴き、お祓いの様なことをしていた。
 数年前には熊野に赴き、その地の豪族に太古の鬼を封じる力を維持する為の術を伝承した。
 そうした依頼はこれまでにも何度もあったと渚は彼女に話した。

「つまり、世の中は不思議なことばかりなのだよ。そうした怪奇、不可思議、魑魅魍魎という得体の知れぬ存在が現に生きる者達に、世に大きく影響を与える。滅することは出来なくても、浄めたり封じることをその地の文化、伝承となれば、営みの中で、奴らが悪さをすることもない。……悪さをするのは、いつだって思惑や意思を持つ奴らだ」

 そして、渚は幾度か諸国へ呼ばれ、旅立っていた。
 その時も、同じように神宮に縁のある者から持ち込まれた話だった。すべての話を受けて全国津々浦々駆けつけていたわけではない。
 しかし、今回の話は事情が異なった。
 怪火は、これまでにも何度かあり、彼はその度に取り逃がし、被害者を出し続けている因縁の相手であった。怪火とは神出鬼没な存在だった。
 しばらく話がなかったが、今回は神宮に近く、同じ伊勢の地に久しぶりに現れたのだ。
 話を聞くなり、身支度を素早く行う渚の翁。同じ伊勢の地ならば、取り逃がさないで捉えることができると思ったらしい。
 しかし、彼女には言い知れぬ不安が過った。嫌な予感がしたのだ。
 その為、彼女は珍しく出立する渚を引き留めた。
 それを渚は穏やかな表情を浮かべつつ、はっきりとした口調で歌を詠んだ。

『忘るなよ別れ路におふる葛くずの葉の 秋風吹かば今かへりこむ
(忘れるなよ。別れ道に生えるクズの葉が、秋風が吹けば裏返るように、私は秋になったらすぐに帰って来よう)』

 そして、彼は怪火、悪路神の火を倒す為に、神宮から旅立った。
 後に、彼女は追想する。渚の翁は既に自身の待つ運命を知っていたのだろう。爾落人の彼女に、彼は永劫の別れでなく、いつか再会できる時が来ることを告げていたのだと。





 

 渚の翁が神宮を旅立った数日後、彼女の元に恐れていた連絡が届いた。
 彼女は、その知らせを聞くなり、彼のもとに駆けつけた。
 そこは、神宮から数時間の距離だった。伊勢と京を結ぶ路の一つで、山間の川沿いにあるそこそこ栄えた集落であった。

「火は、翁様の力により封じられました。しかし、火は二つだったのです。火の呪に遇った翁様は、我々が救出した時には既にこのような状態になっていました」

 彼女の駆けつけた時には、全身に火傷を負った渚が床にあった。呻き声を上げ、息も絶え絶えになり、今にも事切れそうな状態であった。
 彼女は悟った。もう渚の命は残されていない。
 そして次の瞬間、彼女は渚の唇に自らの唇を重ねた。訳はわからなかった。ただ、彼女の内にある力が彼女に教えていた。

「!」

 彼女の皮膚に、内に痛みがじわりじわりと広がる。そして、自らの命が減る感覚を理解する。
 しかし、彼女は渚から唇を離さない。苦しい胸の痛みを感じる。肺の痛みだけではない、この人を失ってしまうことへの苦しみ、一人になる不安が胸の痛みになる。

「……よせ」
「!」

 唇を引き離された。火傷の痛みの広がりが収まる。呼吸をした瞬間、咳き込んだ。
 そんな彼女を渚は切ない表情で見ていた。

「すまない。……すべてが、今、繋がった。俺のせいだったのか。……悪路神の火の力を受けた俺に身尽の力を使い、その後死にかけた俺に力を使った。お前の身体には俺への悪路神の火の死の呪いが宿っている。それが、時を超えて、俺に力を使ったことでお前の命を燃やし尽くしてしまったのか。……因果応報としては、辛すぎる」

 渚は涙を流しながら語った。自らが将来、彼女と出会い、その命を受けて巫師として生き、時間を遡り、再び彼女に会いにきたことを。

「貴方のせいではございません。貴方が私に逢いに来てくださったから、私は貴方に逢えたのです」
「だが、それもこれまでだ。……俺の命は、もうない」
「そんなことを言わないで下さい。私はまだ貴方に教えていただきたいことが沢山ございます」
「いや、もうお前に伝えるべきことはすべて伝えた。百子、お前はもう一人で生きていける。悠久の時を爾落人として、生きてゆける。……唯一の悔いは、お前に死の運命を与えてしまったことだ。お前には辛いことを告げてしまった」
「それは違います。私が辛いのは、千年以上も先の死ではございません。渚様のいない日々をこれから永きに渡り過ごさねばならないことが、私は辛いのです」

 彼女は涙を流しながら、渚に訴えた。
 その言葉を受け止めながら、渚は彼女に歌を詠んだ。

『かぎりなき雲居のよそに別わかるとも 人を心におくらさむやは
(果てしなく遠い雲の彼方へ旅立つように、俺は貴女の姿の見えないところへと逝く。だが、別れても心の中では常に貴女に付き添っている)』

 これが、渚の翁の辞世の歌となった。
 数日と経たぬうちに、彼は死んだ。


 

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「……そうして、一人残された彼女は、不老不死故にその力を手放したい願望と永劫の別れとなった渚の翁と自身の姿を投影した竹取物語を創作した。そして、彼女は今でも渚の翁が命がけで封じた悪路神の火を持ち続け、彼との再会の日を待ち続けている。……という、お話です」
「………」

 呆然と話を聴いていた志ように、村崎は、退屈な内容でしたか、と眉を下げて聞いてきたが、むしろ逆であった。
 破天荒な内容ではあったが、妙な現実味を彼女の言葉の端々から感じていた。
 そして、村崎と名乗るその女の持つ巾着の中身が志ようは気になっていた。何かこぶし大の石のような重みのある物が入っていることが形状からわかった。

「……もし、その女性が今も生きているなら、彼女は何を今しようとしているのでしょう?」

 志ようが村崎に問いかけられたのは、それが精一杯であった。
 それに対して、村崎は優しく微笑んだ。その表情は、先程まで感じていた同年代のあどけなさが残る女性のものではなく、幾つもの人との出会いと別れを経験した老婦人のようなとても暖かみのあるものであった。

「縁を繋ぐのでしょうね。渚様、伊勢、紫式部さん、そしていつか逢う若き日の渚様との出会いに備えて、彼女は縁を繋ぐのでしょう」

 それ以降、志ようは村崎と時折、手紙を交換するようになった。
 彼女の語った話の真偽を志ようが知ることはなかったが、事実として伊勢神宮と彼女は何らかの繋がりがあり、三重県内に私設の美術館を建て、悪路神の火という名の石を展示した。
 そして、志ようは与謝野氏と波瀾に逢いながらも結婚した。生活苦ではあったが、歌人、作家としても著名となり、『源氏物語』の現代語訳も執筆した。
 村崎と志ようとの縁は、代を超えて繋がり続け、後に村崎を看取った一人の男に引き継がれることになる。

「この縁を大切にしますね、百子様」

 店を出る村崎を見送りながら、志ようは独り呟いた。



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