雲隠

1


 1900年、大阪府内にある老舗の駄菓子屋で店番をする若い女性が、熱心に一筆箋へ筆を走らせていた。
 今、お客はいない。そして、奥の家にも人はいない。つまり、今この店は彼女にとって絶好の執筆機会なのだ。
 彼女の名は、鳳志よう。女学校で源氏物語などの古典に親しみ、店番をしつつ和歌を投稿するのを楽しむ22歳である。
 特に今回は熱の入りようが違う。最近浪華青年文学会に参加したということもあるが、来週には浜寺公園の旅館で歌会が催されるのだ。しかも、新進気鋭の歌人や昨年出版社を起こしたという与謝野鉄幹も参加するという。
 しかし、中々納得する歌ができない。自分の中の想いを注ぎ込めている気がしないのだ。
 癇癪を起こして結っていた髪を解き、掻き毟る。決して、他人には見せられない行動であったが。

「くすっ」
「!」

 笑い声に驚き、顔を上げると最近店に顔を見せる女性が口元に手を当てて笑いをこらえていた。どこの誰かまではしらないが、恥ずかしさから頬が熱くなる。

「ごめんなさい。熱心に筆を取っていらしたので、声をかけるのも悪いと思ったんです」

 彼女は噴き出すのを抑えると、志ように言った。

「いえ……お恥ずかしいところを見せてしまいまして」
「いいえ。昌子さんらしい、情熱が感じられる……その、乱れっぷりでしたよ」

 彼女は遂に噴き出した。しかし、志ようは不思議と馬鹿にされている気はせず、むしろ親しみを感じた。
 それ以上に、彼女が呼んだ名は最近投稿で使っているペンネームだった。出版関係の人間かと思ったが、むしろ彼女の雰囲気は歌人に近い。

「何故、私のペンネームを?」
「あぁ……会報詩を見せていただく機会が最近あって、あなたの歌とペンネームを拝見しました」
「貴女も歌を詠むんですか?」
「今はもう。遠い昔に少し嗜みましたけども」

 ということは、作家の娘なのかもしれない。志ようは気になったことをそのままにできない性分だった。

「失礼ですが、お名前は?」
「あぁ! 失礼しました。村崎といいます」

 歌人では聞き覚えのない苗字だった。同姓で覚えのあるのは、女性の社会運動を行なっている教育者か。そう考えるとむしろ偽名、よく言ってペンネームのような気がした。

「村崎さん。私の歌、どうでしたか?」

 相手の素性を詮索しても仕方ない。志ようは村崎に自分の歌について聞いてみた。

「自然の情景もそうですが、何よりも内面をとてもおおらかに詠える方なんだなぁと思いました。髪の事も、それを感じていたからとても納得できてしまって……。伊勢を久しぶりに思い出しました。今はまだ少し遠慮があるようですが、とても情熱的な歌を書くことができる気がします。……あ! すみません。偉そうなことを言ってしまって」

 恐縮する村崎だが、予想以上に忌憚のない感想であった。これには志ようも驚いた。
 しかも、伊勢という単語に彼女の記憶に思い当たるものがあった。

「いいえ。忌憚のないご意見をありがとうございます。……ところで、伊勢というのは、三十六歌仙の伊勢ですか?」
「えぇ。……お好きですか?」
「まぁ……伊勢集は読みました。源氏物語に影響を与えた作品としてという感じですが」
「あぁ! 源氏物語がお好きなんですね! 彼女や和泉もおおらかな歌が詠める方でした」

 村崎の目はやはり輝いた。彼女も好きなのだろう。
 しかし、まるで会ったことがあるような口ぶりだった。

「王朝文学にお詳しいのですね?」

 つい、志ようは彼女に鎌をかけてみた。すると、彼女は慌てた様子で答える。

「あっ! その……はい」

 そして、眼を泳がせた後に村崎は言った。

「彼女達と会ったことがあるというか……交流のあった伊勢大輔、中古三十六歌仙の一人の女性が……実は、不老不死でその100年前に竹取物語を書いた人物だった! ……という物語を以前考えたもので」

 作家志望だったということだろうか。妙な慌てぶりだが、作家志望であることを周囲に隠していると案外こんなものなのかもしれない。そういうことで、志ようは自分で納得した。
 それ以上に、彼女の話に対して志ようは興味を持った。

「竹取物語の作者は不明。そして、その最後に出てくる不老不死の薬が実在して、実はそれが後の時代に伊勢大輔として紫式部らと交流する。……そんな感じかしら?」
「は、はい!」
「面白いわね。……時間はあるかしら? もし差し支えなければ、私にそのお話聞かせて頂けない?」

 村崎は少し躊躇したが、やがてこくりと頷いた。
 志ようは、椅子を一つ差し出し、彼女を隣に座らせた。
 そして、思案しつつもゆっくりと村崎は物語を語り始めた。

「これは、竹取物語の作者とその育ての親、そして二つの時代で彼女が出会った歌人の物語です」




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 1008年頃、一条天皇の中宮である藤原彰子の女房として、大中臣輔親の娘が宮仕えした。
 父に当たる輔親は伊勢神宮の祭主を務めており、その妻は中宮彰子の父である藤原道長の五男(つまりは彰子の兄弟)の乳母であった縁で今回の宮仕えが決まり、彼女は伊勢大輔を名乗った。
 中宮彰子の女房は、紫式部、和泉式部らがいる華麗な文芸サロンとなっていた。
 表向きは実子としているものの、大中臣輔親が伊勢大輔を娘として宮仕えに出したのも彼女の類まれなる文芸の才能があった為だ。そして、彼女の強い希望があったからだ。
 それは、どうしても会いたい人物がそこにいたためである。

「伊勢大輔、宜しくね」

 その人物は少々含みを持たせつつも、彼女に挨拶をした。

「宜しくお願いいたします。紫式部様」
「同じ女房に敬称はつけなくていいわ。敬称は宮様と主である中宮様につけるべきものよ」
「はい」

 紫式部は素直に応じた伊勢大輔に好印象を抱いたらしい。丁度その場にいた中年の女房に彼女を紹介した。

「匡衝衛門、新しい女房を紹介致しますわ。……ん? またラブレターですの? まだ春先なのにお暑いこと」

 匡衝衛門と呼ばれた女性は頬を膨らませる。怒っているのだろうが、怖くない。むしろ、熊の子の様に丸くて可愛い。
 伊勢大輔は彼女のことを知っていた。紫式部や和泉式部と並び称される女房の一人、赤染衛門だ。夫婦仲が京で一ともいわれるおしどり夫婦である為、夫の名前から匡衝衛門と呼ばれてからかれている。

「紫ぃ、おばさんをからかうんやないでぇ! いつも旦那のことを考えているわけやないのよぉ」

 そういいながら扇子を仰ぐが、彼女は後にそれが夫からの贈り物だと教えられた。

「あら、じゃあどちら様から? まさか……いや、ないわね。子どもから?」
「なんや引っかかるわぁ。……ま、ええわ。うちの子でもありませんぇ。清さんよ」
「! まだ宮廷に手紙を寄こしているの?」

 紫式部がむっとする。

「ちゃうちゃう。今朝、旦那がうち宛に家に届いてたのを持ってきてくれはったのよ」
「結局、匡衝衛門な訳ね。……で?」
「で?」

 衛門が噂好きの近所のおばちゃんの目になる。

「内容ですよ! どうせまた利口ぶって、漢字ばかり無理して使って拙い文章になっているんでしょ?」
「むふふふ。残念ながら、今回は草子を完成させようと思っているって内容の至ってシンプルな手紙よ」
「!」

 刹那、紫式部が衛門から手紙を奪い、文章を読む。大輔も横から覗き見た。
 内容はこうだった。

『衛門さん、ご無沙汰しています。イズミンや皆さんはお元気でしょうか? 私は、生活も落ち着いたので、草子をぼちぼち完成させようと思っています。完成した時は、是非読んで下さい! またお手紙差し上げます。かしこ 清少納言より

 追伸:あら? 人の手紙を奪うのは関心しませんね、むらさ……あはは、忘れちゃったわ。ごめんなさぁ~い♪(アカンべーをする女性の絵が描かれている)』

 プルプルと手を震わせている紫式部。そして、ボソリと言った。

「絶対に後世まで残る悪口書き残しやる……!」

 ガキだ! 二人ともガキだ! ガキがいる! 大輔は心の中で叫んだ。
 そこに衛門がこっそり耳打ちする。

「この子ら、一度も会ったことあらへんのにいつもこうやって喧嘩してんのよ」
「あぁ……そうなんですかぁ」

 そうしていると、そこに鼻歌混じりに戻ってきた女房が話しかけてきた。

「清ちゃんからメール? あら、上手なアカンベーの絵ね!」

 紫式部の持つ手紙を見て、彼女は笑顔で言う。仄かに香に混ざって酒の臭いがする。
 紫式部が呆れる。

「また男のところ?」
「あ、わかる? そりゃわかるわね。なにせ今度こそ、私は運命の人に出会えたのですもの!」

 瞳にハートマークを浮かべて言う女性。確かに色気を感じる。絶世の美女でないが、男性受けの良さそうな印象だ。
 すぐに大輔は彼女が誰だかわかった。と、大輔に気づいた彼女が聞く。

「……で、この小さい娘さんは?」
「始めまして、本日からお仕えすることなりました。伊勢大輔です。宜しくお願いいたします、和泉式部さん」
「あら、よく私のことを和泉式部とわかったわね? 可愛いわ。よろしくね!」
「「「……」」」

 三人とも「そりゃわかるさ」と思いつつも、笑顔で誤魔化した。
 ちなみに、和泉はしばらくしてこの時の交際相手にフラれ、自棄酒をしていた。そして、その翌日、前夫の一回忌の為に暇を貰っていた。
 紫式部は反省させようと、『和歌は素晴らしいが、素行は感心できない』と書に記していた。





 

 大輔が宮仕えをして少し経った頃、奈良の都から例年通り宮廷に八重桜が献上されることになった。八重桜は中宮に奉ることになるが、その受け取り奉る役目がある。
 当初、藤原道長と中宮彰子は紫式部を指名したが、彼女は新人の大輔に役目を譲ると言った。それを受けた道長は大輔に言った。

「では、役目は伊勢大輔に言い渡す。……ただ受け取るだけってのはつまらんなぁ。お前、中々良い歌を詠むそうだな。受け取る時に歌を詠め」
「あ、はい! ありがとうございます! お受けいたします!」

 それを聞いた彼女をよく知らぬ他の女房達は、新人に対する嫌がらせだと受け取り噂話をしていた。

「大輔、噂は気にするんやないえ? 紫は新参のあんたの実力を見込んで譲ったんや」

 衛門が言った。勿論、大輔もわかっていた。

「えぇ。紫さんの期待に答えますよ」

 大輔が笑顔で答えた。
 そして、当日大輔は以下の歌を詠んだ。

『いにしへの奈良の都の八重桜 けふ九重に匂ひぬるかな
(昔平城京で咲いていた八重桜が、今日は平安京の宮中で美しく咲いております)』

 これは、上の句と下の句で対比させ、桜、そして今日と京の掛詞であるけふで新旧の都を繋ぎ、さらに7代70年続いた奈良の平城京から連想される七、八、九と続く語呂と縁起の良い数を混ぜたものであった。
 これにより、伊勢大輔も中宮彰子の女房を代表する一人に数えられるようになった。
 そして、彼女は源氏物語の作者、紫式部らと交流をしながら、歳月を過ごしていった。
 しかし、大輔が紫式部に興味を持ったのは単に源氏物語が素晴らしい作品というだけではなかった。紫式部がある作品に影響を受けて源氏物語の書き出しを記したからだ。
 大輔もまたその作品が好きであり、何よりもその作品の作者は、彼女の親友だった。
 その作品の名は、伊勢集。
 時代は凡そ1世紀前に遡る。




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 900年頃、宇多法皇の皇子が早世した。齢五つとの話だった。
 数年前に、宇多天皇が出家なされた折に、後の醍醐天皇となる敦仁親王に譲位された。その際、母親は御息所を解消され、亡くなった皇子は桂の宮に預けられた為、我が子の死に顔は見ることなく、喪に伏すことになった。形式上は、今上天皇の異母子の葬儀という扱いとなったのだ。
 しかしながら、その日は朝から哀傷歌を届ける使いがまばらであるものの、遺児の母である彼女の元へと来ていた。宮中の事情を知る者は、心情をもっとも痛めている母親に哀傷歌を届けたのだ。
 特に彼女と親しい者は足を運んで、追悼の意を伝えていった。遺児の異母兄にあたる敦慶親王もその一人であった。御息所を解消後、男女としての交流を始めていたが、本日に限っては異母と異兄弟としての言葉を交わし、帰っていった。

『しでの山こえてきつらむほととぎ すこひしき人のうへかたらなむ
(死出の山を越えてやって来たのだろうか。ほととぎすよ。恋しい我が子の身の上を語ってほしい)』

 そして日の沈む頃、庭先にて鳴くホトトギスを探しつつ、彼女は亡き我が子への哀傷歌を詠んだ。

「あっ……」

 そうして彼女が庭を見ると、ホトトギスではなく、女性の姿があった。
 本日最後の来訪だった。
 女性は、哀傷歌を静かに詠み、哀しみに暮れる彼女にそっと話しかけた。

「伊勢、私にはこうやって歌い、貴女に寄り添うことしかできません」

 来訪者は、幼少時代と変わらぬ柔かな笑みを浮かべた。
 既に、日は落ちて戸を閉めた室内、幼馴染みの同性同士の面会に簾は無用。蝋の仄かな灯りが二人の女性の顔を照していた。
 彼女、伊勢の御と来訪者、 大中臣岡良の娘と呼ばれるその女性は、共に伊勢の国で育った幼馴染みであった。
 京の中では、娘の身分を正しく認識できるものは限られるが、伊勢の御はそれを十二分に知っていた。
 それは数ヵ月前、突如現れ、宮中は勿論、各府中の文芸好きを虜にした恐らく、史上初の作家による創作物語『竹取物語』を生み出した本人であることも含めて、彼女は目の前の老いぬ女の神秘な存在を認識していた。

「ありがとう。貴女が、伊勢の国からこの京の都まで来てくれただけで、私には十分よ。貴女は、何があっても世に姿を見せることはないと思っていたから」
「何言ってるの! 他ならない貴女の一大事に何もせず社の奥に籠っていられますか!」
「流石ね。……ありがとう。本当に、少し元気が出たわ。今日は泊まっていただけるわよね? 喪に伏す女に寄り添うは男でなく、気心知れた同性の幼馴染みです」

 伊勢の御は、我が子の死後、初めて心から笑みを浮かべることができた。
 それを知ってか、 岡良の娘も微笑んだ。

「喪に伏しているのは私も同じ。今宵は、共に朝まで哀しみの涙を流しましょう」

 そして、朝まで泣きあった後、伊勢の国へ帰る岡良の娘を伊勢の御は恭しく礼をして見送った。
 竹取物語の作者は歴史上不詳となるが、伊勢の御は知っていた。
 齢三十も関わらず、若き肌、容姿を保つ、それはまるで竹取物語に出る不死の力を得たかの様に老いぬ体を持つ女。爾落人なる存在として、まことしやかに伝えられ、伊勢の社の奥に籠り、翁の後を継いで、代々の伊勢祭主の裏で神宮の祭祀を真に取り仕切っている。
 伊勢の御は、その爾落人こそ、竹取物語の作者にして、幼馴染みの女であることを知っていた。
 後に、伊勢の御は敦慶親王と結ばれ、伊勢の御と共に三十六歌仙と女房三十六歌仙の一人として数えられる女流歌人の中務を生む。彼女自身も家集『伊勢集』を世に残すことになる。
 そして、歳月を経て、岡良の娘は『源氏物語』の『桐壺』を読み、『伊勢集』を彷彿させるその文に作者、紫式部への興味を抱き、永らく隠っていた社から出て、自らを子孫の大中臣輔親の娘として宮仕えするに至ったのだ。
 一方、誰にも聞かれることのない簾の中に戻った伊勢の御は一人、呟いた。

「ありがとう。私の親友」

 彼女の瞼には、かつての伊勢の日々が浮かんでいた。
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