遺恨

3


「五井さんはこの事件、どう考えているんですか?」

 三重大学へ向かう車中で、助手席に座る瀬上がハンドルを握る吾郎に問いかけた。

「どう……とは?」
「ホシが爾落人か人間かということです」
「まだわからないよ。それに問題はそこじゃない。どんな人物が犯人であろうと、僕達は犯人を逮捕する。それだけだからね」

 運転に集中しながらも吾郎は明確な返答をした。

「しかし、ホシの逮捕にはあの映像の謎を明らかにしなければなりませんよ? 今の時代にホシを上げてから取調室だけで送検するというのは難しい話ですから」
「そうだろうね。僕としても、それは避けたいところだよ。確たるモノを掴んで、その上で動機、目的、方法、結果としての現状、そして当人の心中をその口から語ってもらう。事件の背景にあったそれらすべてを明らかにする。それが取調室の最大の目的であり、そのありのままを検事に伝える。後は僕らの仕事じゃないけどね」

 彼の言葉は間違いでないが、やや理想論とも感じられた。
 しかし、美術館を出る前に警官達から聞いた五井吾郎という刑事は、それを実際にやってのけるある種の奇人的な刑事だと聞いていた。
 帰宅する坂上とミラを見送った後、直ぐには美術館を出発しなかった。吾郎が幾つか連絡をしておきたいところがあると言ったのだ。
 そして、彼は携帯電話で鑑識課に犯行時の映像の詳細な調査を映像分析の専門に依頼するように連絡し始めた。

「すみません。トイレに行ってきます」

 電話で話している吾郎は瀬上に頷いた。
 やや彼の行動が慎重すぎると思いつつ、瀬上は用を足しながら彼の考えていることを考える。
 しかし、映像が細工されたものか否かならば、鑑識課の調べでもわかる。

「結局、人が信頼できないタイプなのか? あの五井って人は……」
「それは違いますよ!」

 瀬上が思わず愚痴気味に独り言を呟くと、語気の強い男性の声が彼の背中にかけられた。
 瀬上が振り返ると警官が二人、トイレの入口に立っていた。先ほど、美術館内で吾郎の指示を受けていた警官達だ。

「違う?」

 用を済ませた瀬上は、二人に近づき、傍にある洗面台で手を洗いながら問いかけた。

「はい。我々は五井警部補ほど、現場の警官を信じている方を知りません」
「しかし、あの人は映像の事をかなり気にしていたぞ。あなた達がすでに調べていたのだろう?」
「勿論、映像に関しては恐らく警部補が事件捜査において重大な何かがあると判断したのでしょう。だからこそ、専門家に依頼をする必要があると考えたのだと思います」
「確かに専門家にしかわからないことでは、私達では信頼の有無以前に力不足だな」

 瀬上もその点に関しては納得した。
 しかし、他の点でやはり疑問は浮ぶ。吾郎と瀬上は関係者への調べを行なっているが、所轄署の捜査員には周辺の聞き込みと外部犯の可能性を主に指示しているが、現段階で彼の捜査はむしろ内部犯を疑っているのだ。
 その点を瀬上が言うと、警官達は首を振った。

「むしろそれは逆です。先ほど、警部補から聞き込みをする者達に向けて、新たな指示が下りました」
「犯行後の映像から空へと逃走する黒い影が映っています。聞き込みの際に、それを見た人物がいないかを加えて行なってください、と。そして、口頭で伝えられた我々の上司にはこう続けられたそうです」
「現段階ではまだ外部犯とも内部犯とも確信をもって特定はできません。まずはその特定が重要です。外部犯であれば、早期の人海戦術に勝るものはありません、と」
「あと、もう一つ。聞き込みの際に美術館の近くを過去一週間以内に通った人には、美術館前を映した写真を提示して、どこか変わっているところはないか聞いて欲しい、と」

 その言葉を聞いて、瀬上は吾郎の考えていることがわかった。
 彼は先ほどの瀬上の問いに対して、わからないと答えていたが、犯人は爾落人か人間かにおいて、彼は人間である前提の下に捜査を行なっている。人間ならば、なんらかのトリックを用いなければ、あの様な芸当は不可能だ。
 吾郎の考えがある程度読めた瀬上は、ついでに警官達に彼の様子で気になったことについても聞いてみた。

「そういえば、五井さんはあの映像を見て確かに一瞬驚いていたが、あまりにも冷静だった。私には少し不思議なのだが」
「それは瀬上さんも同じでしたよ」

 警官が笑って言う。それは瀬上自身が爾落人だからだ。

「警部補は、どんな事件でも冷静なんですよ。といっても機械や能面の様な意味ではなく、先入観を持たないという意味ですね。肝が据わっているというか、以前管内に「G」が現れたことがあったんです。その時、我々は得体の知れない怪物に当然ながら恐れをなしたものですが、偶然近くで別件の捜査にいた警部補は冷静に現場指揮をとっていた人に告げたんです」
「特別何をしたわけではありませんよ。里に下りてきた動物と同じです、と。確かに、その「G」は海から現れて、ただ港の近くにあったラーメン屋で凡そ30杯のラーメンを無銭飲食していただけなので、彼の言っていることは間違っていないのですが」

 ラーメン屋の主人はなぜ「G」にラーメンを30杯も提供したのかと疑問を感じつつも、瀬上は続きを促した。

「それで、結局その「G」は?」
「警部補が担当者とラーメン屋の主人を交えて「G」と交渉を行なったんです。機動隊が取り囲むラーメン屋の中で。その結果、人でないのだから刑事事件にはできないので、民事的に解決することになり、無銭飲食した代金分をラーメン屋で皿洗いのただ働きをすることになりました」
「は?」

 思わず瀬上は我が耳を疑った。爾落人でもない怪物がラーメン屋で皿洗いとはあまりにもシュールな光景ではないか。

「その警部補の提案が大当たりして、県内で話題になりまして、連日大行列。結果的に、返済は一ヶ月で終わり、「G」はラーメン払いで働くことになったそうです」

 話を聞いて瀬上は頭が痛くなってきた。その珍事の方が今回の事件よりも遥かに奇妙奇天烈な話だ。

「なんでしたら、警部補に案内して頂いたらどうでしょう? 警部補は店の常連ですから」
「まぁ……気が向いたら、お願いしてみます」

 頭に片手を当てながら、瀬上は彼らに答え、その場を後にした。
 そして、彼は納得した。五井吾郎は変人なのだと。





 

 三重大学に到着した吾郎達は、教務に来訪目的を告げ、まもなく鈴木通子准教授の研究室へと案内された。
 研究室は本棚が壁という壁に敷き詰められ、書物が詰め込まれており、入りきらないものは床にも山積みになっているが、彼女の机とゼミ等で使うのであろう折りたたみテーブルの上は片付いていた。応接用のスペースは、ソファーが部屋の隅に用意されていたが、資料の入ったダンボールやらプリンタやらが鎮座しており、二人はテーブルに促された。
 通子はロングヘアーの髪も肌も潤いに満ちており、口元にあるホクロが色気を醸し出し、妖艶とすら表現できる美しい女性だが、しかし軽々しいものでなく気品を感じさせるものであった。年齢は三十代後半と聞いていたがその容姿は三十前の二十代でも通用するのではないかと思えるほどに若々しい。

「悪路神の火を盗んだ犯人は見つかるかしら?」

 通子は開口一番に瀬上を見て問いかけた。既に話は所轄署から伝わっているらしい。
 瀬上は連れてきた若い女性警官達でも到底及ばない色気を纏った彼女に一瞬見惚れてしまうものの、すぐに問いかけに答える。

「現在全力を挙げて捜査中です。早期解決の為にもご協力をお願いします」
「わかりましたわ」

 彼女は自身で用意したインスタントコーヒーが入ったカップを片手に微笑んだ。
 改めて、瀬上と吾郎、連れてきた女性警官達がそれぞれ身分証を提示して挨拶を交わした。

「あら……失礼しました」

 恐らく瀬上を担当者だと思ったのだろう。彼女は恥ずかしそうにはにかむ。
 吾郎はその事を気にする様子もなく、本題に移った。

「では、まずは昨夜の美術館へ行った時のことについてお伺いします。何か変わったこと、以前と違っていたことというのはお気づきありませんでしたか?」
「いいえ。閉館後の夜であったので、もしあっても気づきませんでしたわ」
「わかりました」

 吾郎は彼女の答える様子を見つめた後、彼女をチラチラと見ながらメモを取るそぶりをするが、瀬上はそこに何も書いていないことに気づいた。

「この来訪目的ですが、具体的には?」
「今度我々が行なう予定でした研究についてです」
「差し支えがないようでしたら、その研究というのを教えて頂けませんか?」
「盗まれた悪路神の火です」

 彼女の返答に一同は一瞬眉を上げた。

「具体的には?」
「悪路神の火というのは、県内に古くから伝わる怪火の名前ですわ。火の玉と言った方がわかりやすいかしら? 典拠としては江戸時代後期の戯作者、為永春水こと佐々木貞高の随筆『閑窓瑣談』に記されているものと、採薬使であった植村政勝の『諸州採薬記抄録』に記されているものです」

 通子は一度立ち上がり、机の上からそれぞれの写本を取ると、彼らの前に広げた。
 閑窓瑣談には霧の様な霞みの立ちこむ中、枝葉の間にゆらめく火の玉の挿絵が描かれていた。

「これが閑窓瑣談の現代語訳になります。諸州採薬記抄録にもほぼ同一の内容が書かれていますわ」

 通子は以下の様な文章が打ち出されたA4用紙を差し出した。

『この辺り(猪草が淵周辺)において悪路神の火と呼ばれ、雨の夜には特に多く現われ、提灯の様に往来する。この火に出会った者は、速やかに地面にうつ伏せになり、身を縮める。その時、火はその人の上を通るだろう。火が通り過ぎるのを待って、逃げ出す。もしそのようにしないで、この火に近づいてしまえば、たちまち病を発して患う事はなはだしいという』

 彼女が文章を補足するように告げる。

「この猪草が淵という場所は幅十間…今でいう約18メートルばかりの川に、水際まで十間を越える高さに丸木橋を渡しているところで、伊勢のうち田丸領間弓村、現在の三重県度会郡玉城町とされています。閑窓瑣談における悪路神の火は、諸州採薬記抄録と同時期に採薬使として諸国を巡った阿部友之進が眼前に見聞したものと記し、時期は1716年から1735年までの享保年間とされていますわ。もっともこう云った怪火にあって病になる例は他にもありまして、古くは『日本書紀』でも斉明天皇7年に宮中で怪火が現れて大舎人や諸近侍が多数病死したとあります。この年……661年の夏にこの斉明天皇自身も崩御なされているので、或いは彼女の死もこの怪火によるものではないかしら。他にも怪火なら妖怪の類として日本各地の伝承、書物で見られますわ」
「しかし、今回の盗まれた悪路神の火は実在する石です」
「あら? でも、今となっては怪火や妖怪もあながち作り話と一蹴もできませんわ」

 吾郎が言うと、彼女は愉快そうに答えた。

「確かに、その類のものが実在していたという可能性は全く否定できないことです。例えば、鬼神と伝えられて封印されていたモノが実は「G」であった、という様なことが実際に各地で明らかになっているのですからね」
「懐かしいわね。それ、以前に熊野地方で起きたという事件の話でしょう?」
「はい、僕の出身地の話です」
「あら、そうなの」

 通子は瞳を大きくした。瀬上も同様に驚いた。
 しかし、同時に先ほど警官達から聞いた吾郎の話が、この事件が「G」に対してある種の耐性となった為なのだろうと納得した。

「なら、想像がしやすいかしら? もしも悪路神の火が「G」であるとしたら、それと非常に関わりの深い石に対し、いつしか混同されて悪路神の火と呼ばれるようになったのかもしれない。そう、例えば退治などに用いたものだとしたら……如何かしら?」
「確かに考えられる話ではありますね。しかし、やはり疑問ですね。なぜ、その様な石をあなたが……」
「研究しようとしたのか、ね? 実はそれが「G」であったか否かはあまり関係のない話なの。問題は、あの石が悪路神の火と呼ばれることとなった理由、そしてその伝来です」
「つまり、いつから悪路神の火と呼ばれ、どのような経緯を経て美術館に寄贈されたか、ということでしょうか?」
「ご名答。素晴らしいわ」

 通子は吾郎に笑顔で頷いた。そして、一冊のノートを広げる。

「申し遅れましたが、私の研究は伊勢神宮と古来の日本との関わりです。それを長年古文書や現存する品々から調べているのですが、現在は悪路神の火との関わりがその対象となっているのですわ」
「確かに同じ三重県内ですが、そうそう関わるものなのでしょうか?」
「勿論、ただの勘だけではありませんわ。ここからは全くもって未だ研究中であり、推測、妄想の域を出ていない段階の仮説ですが、古代の伊勢には仙人と呼ばれる人物がいた可能性があるのです。既に老人として記述されている人物の存在は掴めていますが、同一人物かはまだ調査段階です。しかし、2010年の「G」発見後に行なわれた大規模な調査で発見された古文書に、その仙人と思しき人物とその娘が永劫の命を持つある意味生き神的な存在として、伊勢の最重要機密として扱われていた可能性があるのです。私は、その人物が爾落人と称される存在だったのではないかと考えています」

 恐らくその通りだと瀬上は思った。
 通子はそのまま話を続ける。

「そして、別の古文書には仙人が怪火を封じて死亡したことが記されています。永劫の命という表現に矛盾がありますが、いくつかの点から二つの古文書の原本が記された時期は数世代のひらきがあると推測しています」
「つまり、永劫の命を封じられた怪火が奪った?」
「はい。そう考えています」

 通子が吾郎の問いかけに頷いている一方で、瀬上はかつて百年戦争の際に出会った旅人という爾落人のことを思い出していた。
 最近中東で連鎖的な民主化の革命が起きている報道がなされており、インターネットなどではその影にサンジューローなる謎の革命家がいるらしいと囁かれている。瀬上はその人物を旅人だと思っていたが、或いは既に死んでいるのかもしれない。

「ところで、その仙人がいた時代というのはいつ頃なのですか?」
「平安時代であろうと考えていますわ。少なくとも室町時代にはその存在がほとんど確認できず、仙人でなくある種の聖女や巫女として示されているので、娘の方であろうと考えられます」

 瀬上は彼女の返答を聞いて、仙人が死亡した後に旅人と出会っていることに気づき、別人だと判断した。そうなると、彼には心当たりのある爾落人はいない。

「つまり、あなたの研究というのは、その仙人なる人物と悪路神の火の関わりから伊勢神宮と古来日本の関わりを紐解こうとしておられる。……それでよろしいですか?」
「ご理解が早くて助かりますわ」

 吾郎の言葉に通子は微笑んだ。それはお世辞というわけでもなさそうであったが、吾郎はそれに対して特に答えず、次の質問に移る。

「悪路神の火については我々にとってもとても参考になりました。……では、今度はそれが盗まれた昨夜についてお聞かせいただきます。来訪にはもう一人お連れの方がいたそうですが?」
「私が指導教諭をしている院生の田村凛です。今回の研究は彼女の修士論文も兼ねていますので」
「なるほど。その田村凛さんは、先代館長の娘さんとお聞きしておりますが、やはり今回の研究と関係があるのでしょうか?」
「勿論、死んだ父親が守った悪路神の火を研究することに彼女としては特別な想いもあるでしょうね。しかし、私が彼女の研究に悪路神の火を提案する上でその点は深く加味した訳ではございませんわ。偶然。もう少し浪漫のあるいい方をすれば、運命でしょうね。自然とこの研究が彼女の修士論文の選択時期に決まった背景がございます」
「わかりました。後程、彼女自身からお話を伺っても構いませんか?」
「私の決めることではありませんわ。彼女にご確認くださいな」
「わかりました。……では、昨夜の来訪は何時から何時でしょうか?」
「授業後に向かったので、着いたのは18時頃ですね。出たのは19時半ってところかしら」

 坂上の証言と同じだ。勿論、犯行自体はそれとあまり関連性がないかもしれないと考えつつも瀬上はそれをメモに書く。
 一方、吾郎は続いて核心部分に触れる。

「なるほど。では、その後は?」
「ここへ戻りましたわ。田村さんも一緒です。それから研究についての話や作業をしていまして、帰宅は明け方頃になってしまいましたわ。守衛さんも見回りに来ていますから、アリバイは立証できると思いますよ?」
「その様な大層なものではありませんよ。しかし、それが確認されればお二人についての、まさにアリバイが証明され、我々の捜査としても一歩前進致します」
「宜しくお願いします」

 吾郎と通子は不敵に笑い合った。
 そして、女性警官の護衛について承諾を貰い、田村凛の所在を伺うと二人は彼女の研究室を後にした。
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