遺恨

1


「立烏帽子、現る……か」

 五月雨が窓の外で立てているノイズに近い雨音を背景音にして、時期柄一層に埃とカビの匂いが充満した蔵で地方新聞を広げた彼はポツリと一面記事の題を言った。
 五井吾郎は机に置いた参考書に向けていた視線を彼に移した。相変わらずの節目がちな目はその記事の文字を目で追っていた。

「今年に入って県内で暗躍している窃盗団だよね。うちの駐在所にも県警からチラシが届いたよ」

 吾郎が告げると、彼は視線を記事に向けたまま答える。

「あぁ。丁度新聞が南極について騒いでいた時期だったから正確なところは俺もわからないけど、今年の初めから県内で宝石、美術品を主に盗んでいて、多分被害額は億の桁を超えてるかもな? 彼らの印として必ず同じ紙で作られた立烏帽子を現場に残すが、その他の物証同様に足の付かない量販品で犯人一味に辿り着く手がかりにはなっていない。唯一、人質となった者の証言から首領は女だとはわかっているみたいだな? もっともそれがより一層にマスコミは、現場の立烏帽子と三重県ということからこの女首領を窃盗団「立烏帽子」の鈴鹿御前と呼んで盛り上げているみたいだけどな?」
「だけど、一部でその鈴鹿御前が「G」じゃないか? って、煽っているみたいだよ」

 吾郎が不安げに言うと、彼は笑った。

「んなの、気にすることはないぜ? 今は何でもかんでもわからないことがあれば、「G」で片付けているだけのことだろう? 別にそれで俺が鈴鹿御前にされる訳でもないさ。俺は男だからな?」
「そういう意味じゃないよ。このまま「G」がすべて悪者だと人々が思うようになってしまったら……」
「ありがとう。でも心配はないさ。仮に世界中がすべての「G」を悪と決め付けたとしても、少なくとも俺には俺を信じてくれるお前らがいるからな?」

 吾郎に笑って告げる彼は、かつてこの村を救った「G」であった。
 「G」の存在が白昼の元に晒され、世界中が衝撃と混乱に包まれた2010年の、彼がこの村を旅立つ少し前の会話であった。




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 警視庁捜査二課の瀬上浩介巡査部長が春の警部補昇進に合わせ、他県警交換研修プログラムに選出され、三重県警捜査二課に出向したのは、年が明けたばかりの2020年1月のことであった。
 津駅に到着した列車から降り、プラットホームに立った彼を出迎えたのは、顔の皮膚を刺す冷たい風であった。その日は今冬一番の寒さだと、道中に眺めていた携帯電話端末のニュースが報じていたのを思い出した。
 瀬上は改札を出るとタクシーに乗り込み、三重県警警察本部へ向かった。運転手は、もうすぐ定年に手が届くだろう薄い頭髪に白髪の混ざった小太りの男であった。
 車内のエアコンを切っているにも関わらず、脂ぎった汗を額に浮ばせながら車を走らせながら、時折瀬上をバックミラーで伺いつつ、三重は初めてかなどと話しかけてきた。そうだと答えると、彼は県庁舎がアレだの福祉会館がコレだのと簡単な説明をした。恐らく、瀬上の身なりや目的地から警察官僚だと考え、薀蓄染みた観光案内ではなく実際的な情報を選んだのだろう。
 確かに、その時の瀬上は情報を資料でしか得ていなかった為、運転手の判断は的確だったといえる。
 しかし、誤りもある。瀬上は警察官僚でなく、一介の警察官に過ぎない。経歴上の彼は、大卒の26歳の地方公務員なのだ。
 仮に、運転手の目利きが本物であれば、それは警察官の瀬上浩介ではなく、爾落人として2000年近く生きている彼の本性を見抜いたのかもしれない。
 そんなことを考えていると、タクシーは三重県警警察本部の入口に到着した。瀬上は料金を支払い、つり銭と領収書を受け取り、運転手に別れを告げ、タクシーを降車した。
 そして、受付で身分と目的を告げると、すぐに刑事部長室へ通された。
 刑事部長は温厚ながらも堅実な印象の中年男であった。瀬上は以前写真で見たことがあったが、直接会うのはこれが初めてだった。相手も同様であったらしく、警視庁が送った瀬上の資料を机の上に出していた。
 彼は資料を片手に立ち上がり、机の前に備えられた応接ソファーに瀬上を促し、自身もその前に立つと簡単な挨拶と握手を交わした。
 その後、彼は資料と瀬上を交互に見ながら、やや形式的な面談を行った。
 やり取りをしながら、瀬上は彼こそ典型的な地方官僚だと思った。

「さて……確認事項はこんなところだ。ここまでで何か聞くことはあるかね?」

 資料を束ね直しながら、刑事部長はやはり形式的な問いかけをした。

「いいえ。問題ありません」

 瀬上も形式的な返答をした。そもそも、このやり取り自体がただの資料情報の確認であり、彼がこれからここで行なう仕事とは全くといって関係ない。正直、彼はこの時間は退屈であった。
 もっとも、彼の経歴一切が警察官となる為に用意した偽りであるのだから、至極当然である。
 刑事部長は満足した様子で頷き、壁掛け時計の時刻を確認した。

「そろそろ来る頃なのだが……」

 視線を時計に向けたまま彼が呟いた。瀬上も時計を見た。時刻は丁度11時を指していた。
 と、それを待ち構えていたかのようにドアがノックされた。

「捜査二課の五井です」
「入れ」

 刑事部長の言葉を受け、一人の男が入室した。年の頃は30前後。痩せた肢体に気弱な眼差しは、相手の顔色を伺ういじめられっ子のガリ勉がそのまま成長した様な印象を受けた。

「瀬上君、捜査二課主任警部補の五井吾郎君だ。研修中は彼と組んでもらう」
「はじめまして。五井と申します」
「警視庁捜査二課巡査部長の瀬上浩介です。よろしくお願いします」

 刑事部長に紹介され、頭を下げた五井吾郎に瀬上も頭を下げた。
 しかし、その深さは彼よりも浅かった。それは瀬上が彼に抱いた印象の表れであった。
 それは、大したことのない小物というものであった。


 


 

「さて、瀬上君。行きましょうか?」

 刑事部長室の扉を閉めて廊下に出ると、吾郎は瀬上に言った。
 彼の示す方向は、捜査二課と逆にある外への出入り口であった。

「どちらへ?」

 当然の疑問を瀬上は口にした。
 吾郎はニコリと笑い、答えた。

「美術館です。先ほど管轄署から連絡がありました。史学的価値のあるものが盗まれたそうです」
「つまり、現場ですか?」
「はい。どうやら荷物も少ないようですし、このまま向かいましょう」

 吾郎は瀬上の荷物をちらりと見て言った。確かに、東京から宿舎へ着替えなどは郵送済みなので、今の手荷物は書類鞄一つだ。
 彼の穏やかな口調は現場へ急いでいるという印象でないが、断りにくい印象がある。

「初動捜査は既に所轄が行なっているのでしょう? 何か問題でも?」
「問題か……。確かに、問題かもしれない」

 吾郎は微かに表情を曇らせて呟いた。

「一体、どの様な窃盗事件なんですか?」
「うん。まだ僕も管轄署からの一報しか受けていないので、正確に把握していないけれど、難題が出ているそうだよ」
「難題?」
「目撃者達の証言から、犯人は「G」である可能性があるそうだ」

 そう告げた吾郎の目は、瀬上が視線を逸らすことのできない深く暗い何かがあった。



 

 

 車から降りた瀬上の肌に冷たい風が吹きつけた。思わずコートの襟を立て、前を合わせる。
 事件現場となった美術館は、市内の高台にあるレンガ造りの屋敷であった。辺りは雑木林に囲まれ、その先から微かに小川のせせらぎが聞こえる。

「元々は伊勢神宮や宮家に縁のあった人物が建てたものだという噂です。もっとも、詳しいことは戦火で失われて、戦後はこうして美術館としているそうですが」

 吾郎が二階建ての屋敷を見上げる瀬上に苦笑混じりに告げた。

「随分あやふやな情報ですね?」

 瀬上が呆れ気味に言うと、突然女性の声が答えた。

「しかし、それが事実です。盗まれた悪路神の火もまた同様に」

 洋館の前に警官と共に女性が立っていた。四十代前半の落ち着いた雰囲気の女性だ。

「失礼致しました。私がこの美術館の館長をしております。坂上静香と申します」

 女性は彼らの前に近づき、恭しく頭を下げた。
 吾郎もそれに習い、挨拶をする。

「県警捜査二課の五井です。こちらは瀬上です。本件の捜査担当をします」

 瀬上も頭を下げつつ、吾郎の言葉を頭の中で訂正した。彼は警部補であり、実際の捜査指揮権そのものは担当警部になる。つまり、厳密には彼の上司になる。
 しかし、その様な事情を知らない坂上静香は安堵した表情で、二人を館内へと促した。

「この館の縁が全くの不明という訳ではございません」

 館内を進みながら、坂上は二人に告げた。

「というと?」

 吾郎が促すと、彼女は話を続ける。

「戦火によって詳細を記す書物が失われたのは事実であると伝えられていますが、それで全てが闇の中という訳ではございません。はっきりとしている話では、戦後に半壊半焼したこの屋敷を直し、美術館として初代館長へ提供した人物がいます。その人物が元々この屋敷の所有者一族の末裔であるそうで、その一族というのが一説には宮家と縁の深い伊勢神宮の祭主をした者の末裔……と、つまりはそれが件の噂となったのでしょう。そして、その人物が初代館長へ屋敷と共に提供したのが、戦火を逃れた幾つかの品であり、その一つがこの度盗まれた悪路神の火なのです」

 坂上は一つの展示棚の前で立ち止まると、話を切った。
 展示棚のガラスは割られており、中には悪路神の火と書かれた札と上に何も置かれていない布、そして割れた無数のガラス片が残されていた。

「なるほど」

 吾郎は顎に手を当てて、しげしげと展示棚を眺める。
 一方、瀬上は坂上に話を聞いていて浮んだ最も基本的な質問をした。

「館長、その悪路神の火というのは宝石か何かですか?」
「いいえ。これくらいの赤色の石です」

 首を振ると彼女は両手でこぶし大の円をつくった。

「石……ですか?」
「はい。主成分等の地質学的な調査は行なわれる前でしたので、石としか表現ができませんが」
「つまり、それは……」
「学術的には価値があっても、一般的な換金ルートでは価値を見出し難いものと解釈してよろしいでしょうか?」

 瀬上の言おうとしていた事を吾郎は上手い言葉で問いかけた。

「はい。その様に考えて差し支えありません」
「でも、学術的価値は計り知れません! こんなところで管理していたから盗まれたのでしょう?」

 突然、彼らの背後から坂上を批難する女性の声が浴びせられた。
 一同が振り向くと、そこには毛皮のコートに身を包んだ白人女性が立っていた。年齢は外見から判断しにくい。フチなしの眼鏡が若さと聡明な印象を与えているのは確かだ。

「失礼ですが、あなたは?」

 吾郎が身分証を提示しながら問いかけた。

「私はミラ・ワイズ。信仰文化の研究を主とする国際考古学会永久会員です。ここへは悪路神の火を大英博物館で管理研究する為の交渉と契約に参りました」
「大英博物館ですか……。失礼ですが、悪路神の火は石と伺っていますが、それほどに学術的価値のある品なのでしょうか?」
「それを調べる為にも栄誉ある大英博物館へ運ぶのです」

 吾郎の問いにミラは流暢な日本語を操り、淡々と答えた。

「………」

 吾郎は何も言わずにじっと彼女の表情を見ていた。わざと無表情をつくって相手に心の内を悟らせない様にしていると瀬上は感じ、吾郎も恐らくは同じ様に感じているようだ。
 つまり、腹の内を探らせたくない何らかを彼女は持っている。
 しかし、瀬上には現状においてそれを探る為の情報が乏しい。
 吾郎も同じ結論に達したらしい。ミラから視線を外し、坂上に問いかける。

「館長。事件の関係者はあなた方お二人だけでしょうか?」

 すると、坂上は一瞬表情を曇らせた。それを瀬上達は見逃さなかった。

「いるのですね?」

 吾郎がすかさず問いかけた。

「……はい。三重大学人文学部の鈴木通子准教授と院生の田村凛の二人です」
「お二人ともあなたとは?」
「古くからの知り合いです。通子……鈴木さんは助手時代からの研究者仲間でもう二十年来の付き合いになります。凛ちゃんは、ここの先代館長、田村達磨先生の娘さんです。先生は丁度鈴木さんと出会った頃に私が師と仰いでいた方で、十年前に亡くなられました。以降、一人遺された凛ちゃんを……まぁ、姪の様に気にかけていました」

 姪と表現したことが少し気になった瀬上だが、考えてみれば院生というと二十代半ばだ。確かに彼女が娘というには少し抵抗があるのだろう。
 一方、吾郎はその点について気になった様子を見せず、頷いていた。

「なるほど。事件そのもの発覚は今朝ですね? つまり、犯行は昨夜に行なわれた……間違いはありませんね?」

 続いて吾郎は本題に移った。
 坂上は頷く。

「はい。昨夜は丁度12時を知らせる鐘を聞いて、仕事を切り上げて帰宅しました。その際に見回りと施錠も行なったので厳密には12時より少し回っていますが、確かに悪路神の火はここにありました」
「こちらでは警備員といった方は?」
「生憎、予算の都合で常駐の警備員というのは雇っていません。代わりに警備システムを強化していたのですが、この不始末……誠にお恥ずかしい話です」

 瀬上はミラをチラリと見たが、相変わらずのポーカーフェイスを貫いている。とはいえ、腹の内では坂上を批難しているに違いない。もっとも、それは彼女が犯人でなければの話であるが。

「では、朝の出勤時に盗まれたことに気づき、通報した」
「はい」
「発見した時間は?」
「8時半頃だと思います。事務所がこの先にあるので、そこへ向かう途中に気づいて慌てて警察へ連絡したので……」
「わかりました。その時間についてはこちらでも確認ができますので」

 吾郎が近くに立っている警官に耳打ちすると、彼は手帳を開き吾郎に説明した。
 瀬上も隣で確認する。通報時刻は8時35分。

「確認ですが、犯行推定時刻は0時過ぎから8時半までの間と考えていいでしょう。その間、ここへ侵入することは可能ですか? 言い方を変えれば、密室状態ということでしょうか?」
「はい。古い建物ですが、防犯上と保管環境の維持の為に窓は全てはめごろしにしています。出入り口は正面玄関と事務所にある勝手口の二箇所ですが、勝手口の鍵は紛失していまして、実質正面玄関のみです。警備体制としては、24時間稼働の防犯カメラが館内外の随所に設置していますし、常駐はいませんが、民間の警備会社の通報システムは設置しています」
「昨夜は警備会社の通報は」
「ありませんでした。といっても、窓が割られたり、扉を抉じ開けようとすると通報されるごく一般的なものですので、絶対と断言できる程のものではありませんが」
「その警備に関しては……既に警察で確認をしています」

 吾郎は先の警官から耳打ちされ、答えた。
 ここの所轄署は決して無能ではないらしい。迅速であり、正確だ。
 しかし、それならば何故県警に捜査を求めたのだろうか。密室状態とはいえ、聞く限りは瀬上にも爾落人としての能力を使わずとも侵入しようと思えば不可能ではないと思った。
 同じことを吾郎は警官に耳打ちした。すると、彼は突然青い顔をして、声を上げた。

「とんでもない! あんな犯人、人間ではありません!」
「どういうことですか?」

 吾郎が問いかけると、坂上が代わりに答えた。

「監視カメラの映像が残っているのです。恐らくは犯行時の」
「本当ですか! しかし、それならば何故それを先に言わないのですか?」

 思わず瀬上が声を上げた。
 しかし、何かを察したのか吾郎が瀬上を制した。

「瀬上君、どうやら監視カメラの映像を確認する方が早いみたいだよ」
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