stay with me
1
その日はいつもと変わらない休日の朝だった。
ミトもいつもと変わらない休日の朝を過ごし、自宅を後にした。全く同じかといえば、些細な違いはあった。朝食の味付けが少し濃かったこと、母親がテレビを食い入るように見ていたこと、父親がまだ帰宅していなかったこと。珍しいことではあったが、すべて時々あることであり、ミトがさして気にすることではなかった。
今日は結婚を約束している恋人ウィルとのデートであった。
自動車やバイクが土煙を上げて通りを行き交う脇をなれた足取りで歩き、通りの突き当たりにある市場に沿って左に進んだ交差点に面した異国風のカフェが、いつもウィルとの待ち合わせにしている場所だった。
市場の入り口にある時計を見た。8時46分、予定通り遅れずにいつものカフェに着く時間だ。ミトは少し安堵した。
その次の瞬間、彼女の日常は一変した。
「っ!」
先ほどまでの青い空が真っ赤に染まっていた。
激しい爆発音と悲鳴、立ち上がる炎と黒煙、そして土煙が彼女の認識できたすべてであった。
その日、彼女の暮らす中東の小国では、シン国王を始めとした高官が次々に暗殺された。それは彼女の父も例外ではなかった。
それ以降、王制国家が崩壊したこの国は旧政府と新政府、そしてレジスタンスによる紛争状態となり、出口の見えない混沌の闇をさまよい続けることとなった。
――――――――――――――――――
――――――――――――――
一年後、2018年9月。一台のジープが国境を越えて山岳部を走行していた。
「草木が少なく、岩肌が剥き出しなんだな?」
「この辺りは標高も高く寒暖差も激しいんだ。アルプスの方とはまた違う景色だろう?」
後部座席に座る青年の言葉に運転手は言った。青年は布を被っており顔はわからない。一方、運転手は片手でハンドルを操作させながら、帽子や布を剥ぎ取り、開放感を味わうかの様に大きく息をした。
「あっちとは違うな? ……どこで降ろしてくれるんだ?」
「この山岳部は盗賊も隠れ蓑にしてる。外国人なら旧政府や国連に行った方が待遇がいいだろうが、運が悪かったな。郊外で降ろす。そこからは市街地へ向かえ」
「ということは、あなたは旧政府側と戦っているレジスタンス側なんだな?」
「……そうだ」
運転手の青年はそれ以降口を噤んだ。乗客もそれ以上は聴かなかった。
そもそも青年にとってこの乗客は昨夜、隣国で仲介人から物資と共に、僅かながらの代金で任された言わばおまけであった。多少今朝までに話をしていたが、日本人の旅人という以外に詮索はしなかった。
乗客もまたこの手の必要以上のことは語らず聴かずのルールを心得ているらしい。
そのまましばらく会話なく走ると、車はやがて山岳部を越えて、小さな集落に到着した。
「ここまでだ。……それと、釣り銭代わりに持って行け」
久しぶりに口を開いた運転手は、車から降りる乗客に拳銃と銃弾を渡す。
しかし、彼はそれを両手を押し出して断った。
「受け取っておけ。この国じゃ下手な偽善は通用しない。お前の国とは違って、ここでこれを持つことは当たり前だ」
「それなら、俺は食い物を貰った方が嬉しいな? その小銃一丁はバナナ一本とほぼ同じ価値だろ?」
「日本人ってのは噂以上にアレルギーがあるらしいな」
運転手が苦笑する一方、乗客は何も答えず周囲を見回す。
郊外の集落らしく、通りに面して建物は立ち並ぶが、空爆により壁や天井の崩れた家屋、装甲車が衝突したまま放置された商店など、無事な建物などそこに存在していなかった。
改修も生活する為の最小限に留めている印象で、落ちた天井の代わりにビニールシートをそのまま被せただけの家屋も中には見受けられる。
人通りはまばらだ。
「最近この界隈にも国連の治安維持部隊が巡回に来ているらしい。紛争に国連は直接介入しないのがルールらしいが、今の情勢に目を付けて隠れ蓑にしている国際テロ組織がいるという噂と、実質無政府状態になっている以上、無視もできないらしい」
彼の横で積み荷を下ろしながら運転手は語った。
「そんな場所なのに、レジスタンスのあなたがいつまでもここにいて大丈夫なのか?」
「心配には及ばない。この集落は中立としているが、内心は同じ志をもっている。こうしてここの暮らしを支えている物資の調達もあるしな」
「持ちつ持たれつ……いや、生き残る為の術か?」
「生き残ることまで考えているのかは甚だ疑問だ。今を生きているだけだ。人間として。……俺も、ここの住民もな」
彼は車から下ろした最後の積み荷に手をのせたまま呟き、鬱屈を身から落とすかのように腰を伸ばす。
そんな姿を見ながら乗客は徐にフードを取り、名前を名乗った。
「後藤銀河だ」
「ん? ……名前なんて、お互い必要のないことだろう。余計な面倒が増えるだけだ」
「そうかもな? ……多分、気まぐれさ」
後藤銀河と名乗った乗客は軽く笑った。その伏し目がちな目はレジスタンスとして生きてきた一年間で彼が出会った者達の中で、都合のいいものだけではなく、すべての現実を見て受け入れてきた者のものと同じであった。
「さて、お世話になりました」
銀河は頭を下げて礼を告げ、車から離れようとした。
「ウィルだ」
気づくと青年は銀河の後ろ姿に声を発していた。
「へ?」
不思議そうな顔で彼は振り向いた。それに対して再び言う。
「俺の名だ。ウィル」
「……面倒が増えるだけなんじゃないのか?」
「気まぐれだ。忘れてくれて構わない」
苦笑まじりに言う彼に銀河は首を振った。
「ウィルだな? 忘れないさ」
そして、互いに微かな笑みを浮かべて、二人は手を振って別れた。
銀河とウィルが別れたのと同じ頃、集落から少し離れた平地にある国連のキャンプに列をなした装甲車が帰還していた。
偵察を兼ねた巡回を終えたその一台からアメリカ陸軍服を着た女性士官、ライム・ギムレットが降りる。
それを見ていたらしい同じ制服を着た男の一人が大柄な体に似合わず素早く動きで彼女に駆け寄ってきた。
「本国より至急連絡がほしいとのことです」
「わかった」
彼女は頷くと、まっすぐアメリカ陸軍のテントに向かった。
テントに入ると既に通信が繋がれており、すぐに彼女の上官が応答した。
「ライム・ギムレットです」
『巡回、ご苦労。情報部からだ。奴がそっちに行ったようだ。慎重に事を進めてくれ』
「遂に……。御意!」
『うむ。健闘を祈る』
短いやり取りであったが、通信を終えて彼女は細く口元に笑みを浮かべ、呟いた。
「遂に、奴が現れた」
ライムの手元の机には二枚の写真が置かれていた。
一枚は彼女と男が笑顔で腕を組み合っている写真。そして、もう一枚はロシア系の男を望遠で盗撮したと思しき写真であった。
「……奴の動向に繋がる情報はあるか?」
彼女はそのままの体勢でテントの入口に控えていた先の兵士に問いかけた。
「まだ有力な情報はありませんが、昨夜隣国より日本人が入国したという情報がありました」
「日本人……旧政府側との関係は?」
「わかりません。現在素性を確認中ですが、NGOでも旧政府側でもない可能性が高そうです」
「なぜだ?」
「情報ではレジスタンスが関与していると見られます」
「なるほど。しかし、それならば尚のこと確認を急ぐ必要がある。レジスタンスも奴が来たことを掴んでいる筈だ。それに対してレジスタンスが対立している旧政府勢力と手を組んだとしたら、均衡が崩れて任務にも支障をきたす。警戒を続けてくれ」
「御意」
彼は敬礼をしてテントから出て行った。それを見送ったライムは再び険しい表情でロシア系の男の写真を手に取った。
「スタルカ・ザルロフ……」
彼女の呟いた写真の男の名前は、世界総体急進主義者の意を持つ国際テロ組織、General Radical Of World、通称GROWの最高指導者であり、この地で死んだ夫の仇の名前であった。
夕日が陽炎に沈む頃、銀河は集落唯一営業をしているホテルとは言い難い傷んだコンクリート造りの宿屋に併設された酒場で夕食を食べていた。
客はまばらでジャーナリストらしき白人男性が一人と大柄な黒人男性が一人離れたところにそれぞれ座っているだけで、店員も若い女性一人だけだ。そんな中、銀河は黙々と食事を口に運びながら今日一日のことを思い返していた。
ウィルと別れてからの半日、彼は集落を歩き巡った。銃撃の跡の残る校舎で授業を行う学校、商店街よりも闇市に近い露天の商店、壊された旧政府の看板、無作為に貼られた新政府と紛争反対を訴えるレジスタンスのポスターとそれを剥がした跡。それらはすべてこの地が紛争地帯であることを示すものであった。
しかし、そんな状況でも銃を携帯する新政府軍兵も、それを避けて警備巡回をするレジスタンス達も、露天商の者達や住民の大人達も、そして子ども達も、絶望の中でも今を必死に生きている者達の姿がそこにあった。
「お水です」
女性店員が食事を終えた銀河にコップを置いた。
彼がすぐに手をつけないのを見て、さらに言葉を足した。
「ご安心下さい。ミネラルウォーターです」
「ありがとうございます」
銀河は笑顔を彼女に向け、コップを手に取った。
「日本人ですね?」
水を飲む銀河に彼女は言った。その意味を日中に耳にした話を思い出しつつ、素知らぬ顔で問いかける。
「日本人は珍しいですか?」
「えぇ。ジャーナリストでも日本人は今のこの国に来るのを避けていますよ。何せ外国人の中でも今一番危険なのは日本人ですから」
「そうですか?」
銀河は更にとぼけてみせると、店員は声を潜めて彼の耳元で言う。
「ご存知ないのでしたらお伝えしておきます。この国は今、旧政府と新政府の紛争状態で、実質無政府状態です。ここの治安も実際維持しているのはレジスタンスと国連です。その旧政府側は昨年のオダカーンによるクーデターの際に大半が敗れ、もう軍としては機能できないはずだったのですが、半年程前から元々旧政府軍の傭兵だった男が指揮を取り始めてその勢力を盛り返したんです。その男がショーグンと呼ばれる日本人らしく、紛争の長期化を招いた人物として旧政府側以外の国民からは憎まれているんです」
「だから、日本人は危険なのですね?」
「はい」
彼女は頷くと空いた食器を片付けて奥に下がった。
話の内容は、銀河の聞き知っていることと大凡同じであった。
しかし、新旧政府問わず、どちらになっても大きな違いがない独裁に近い国家へ繋がるように思えたのが、彼の印象であった。旧政府側のショーグンも正体不明の人物であるが、オダカーンを代表とした新政府側の軍の実質的リーダーであるアーサーなる人物も、人前に顔を出さない正体不明であり、更に新政府側の軍事支援に国際テロ組織が関与しているという噂も耳にしていた。
「すみません! 何でもいいので安い酒を下さい」
酒をあまり嗜まない銀河であるが、今夜は飲まずにはいられなかった。
翌朝、銀河は爆撃の激しい音と振動で目が覚めた。
布団から飛び起き、窓から外を見ると目の前の通りで市街戦が繰り広げられていた。
昨夜の情報では全くこの話はなく、恐らくどちらかの勢力からの一方的なゲリラ戦が発端となったものだろう。
手榴弾や対車砲と思しき武器も使われている様子であり、いつ彼の部屋が巻き込まれるかわからない状況であった為、素早く荷物を纏めて部屋を飛び出した。
直後、彼の予想通り、部屋は爆撃に巻き込まれて吹き飛んだ。その衝撃と風圧で階段を転げ落ちる銀河。
「いてて……くっ!」
顔を上げた銀河の目に飛び込んだのは車が突っ込んで滅茶苦茶になった受付と、壁が崩れて吹き抜けになった酒場であった。
そして、車には血だらけになった昨夜の女性店員が後部座席のドアを開けようと必死に引っ張っている姿が土煙の中にあった。運転席は血で赤黒く染まっており、運転手は確認するまでもなく死亡しているとわかった。
「どいて!」
銀河は瓦礫から鉄の棒を掴むと、彼女のもとへ駆け寄り、彼女を車から離すと変形して半開きになったドアの隙間にそれを突き刺し、梃子の要領でこじ開ける。
後部座席を見ると若い女性が倒れていた。中に入り確認すると、車が衝動した衝撃による打撲は数ヶ所見受けられるが、脈も呼吸も問題ない。
銀河は安堵しつつも素早く彼女を外へと出そうとシートベルトを外す。
「すみません! そちらから支えて下さい!」
「はい!」
銀河が彼女の足を持ち、女性店員が外から彼女の肩を持ち、車外へ引っ張ろうとした。
その時、機関銃の音と共に、彼の目の前で店員は血飛沫を残して倒れた。
「っ!」
声にならなず、絶句をした。
しかし、銀河とてそれはすぐに自身の身に降りかかることであった。
機関銃を構えた新政府軍の兵士がドアの外に現れたのだ。
「……殺すなっ!」
「!」
咄嗟に銀河は声を発した。兵士は引き金を引くことが出来ずに硬直する。
そして、更に銀河は心理の爾落人として持つ力を使った。
「お前は俺達を殺せない! 俺達を助けろ! この車から助け出せ!」
「! …わかった!」
兵士は機関銃を棄てて、彼が殺した女性店員と同じように彼女の肩を引っ張った。
今度は男二人の力ということもあり、簡単に狭い車内から二人は脱出することに成功した。
「ふぅ、ありがっ! とぅ……」
車から出た直後、銀河の後頭部に衝撃が走った。何かで殴られたらしい。目眩が起こり、周囲の景色が回る。鈍い痛みが頭に響きながら彼はゆっくりと倒れた。
「何をしている?」
「いえ、それは……」
「ん? 東洋人? 日本人か! なるほど、生かして正解だ! ……ターゲットと共に連れて行くぞ!」
「はいっ!」
薄れいく意識の中でそんな会話が銀河の耳に届いていた。
そして、布を頭に被せられた瞬間、彼の意識は闇の中へと沈んでいった。
その日はいつもと変わらない休日の朝だった。
ミトもいつもと変わらない休日の朝を過ごし、自宅を後にした。全く同じかといえば、些細な違いはあった。朝食の味付けが少し濃かったこと、母親がテレビを食い入るように見ていたこと、父親がまだ帰宅していなかったこと。珍しいことではあったが、すべて時々あることであり、ミトがさして気にすることではなかった。
今日は結婚を約束している恋人ウィルとのデートであった。
自動車やバイクが土煙を上げて通りを行き交う脇をなれた足取りで歩き、通りの突き当たりにある市場に沿って左に進んだ交差点に面した異国風のカフェが、いつもウィルとの待ち合わせにしている場所だった。
市場の入り口にある時計を見た。8時46分、予定通り遅れずにいつものカフェに着く時間だ。ミトは少し安堵した。
その次の瞬間、彼女の日常は一変した。
「っ!」
先ほどまでの青い空が真っ赤に染まっていた。
激しい爆発音と悲鳴、立ち上がる炎と黒煙、そして土煙が彼女の認識できたすべてであった。
その日、彼女の暮らす中東の小国では、シン国王を始めとした高官が次々に暗殺された。それは彼女の父も例外ではなかった。
それ以降、王制国家が崩壊したこの国は旧政府と新政府、そしてレジスタンスによる紛争状態となり、出口の見えない混沌の闇をさまよい続けることとなった。
――――――――――――――――――
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一年後、2018年9月。一台のジープが国境を越えて山岳部を走行していた。
「草木が少なく、岩肌が剥き出しなんだな?」
「この辺りは標高も高く寒暖差も激しいんだ。アルプスの方とはまた違う景色だろう?」
後部座席に座る青年の言葉に運転手は言った。青年は布を被っており顔はわからない。一方、運転手は片手でハンドルを操作させながら、帽子や布を剥ぎ取り、開放感を味わうかの様に大きく息をした。
「あっちとは違うな? ……どこで降ろしてくれるんだ?」
「この山岳部は盗賊も隠れ蓑にしてる。外国人なら旧政府や国連に行った方が待遇がいいだろうが、運が悪かったな。郊外で降ろす。そこからは市街地へ向かえ」
「ということは、あなたは旧政府側と戦っているレジスタンス側なんだな?」
「……そうだ」
運転手の青年はそれ以降口を噤んだ。乗客もそれ以上は聴かなかった。
そもそも青年にとってこの乗客は昨夜、隣国で仲介人から物資と共に、僅かながらの代金で任された言わばおまけであった。多少今朝までに話をしていたが、日本人の旅人という以外に詮索はしなかった。
乗客もまたこの手の必要以上のことは語らず聴かずのルールを心得ているらしい。
そのまましばらく会話なく走ると、車はやがて山岳部を越えて、小さな集落に到着した。
「ここまでだ。……それと、釣り銭代わりに持って行け」
久しぶりに口を開いた運転手は、車から降りる乗客に拳銃と銃弾を渡す。
しかし、彼はそれを両手を押し出して断った。
「受け取っておけ。この国じゃ下手な偽善は通用しない。お前の国とは違って、ここでこれを持つことは当たり前だ」
「それなら、俺は食い物を貰った方が嬉しいな? その小銃一丁はバナナ一本とほぼ同じ価値だろ?」
「日本人ってのは噂以上にアレルギーがあるらしいな」
運転手が苦笑する一方、乗客は何も答えず周囲を見回す。
郊外の集落らしく、通りに面して建物は立ち並ぶが、空爆により壁や天井の崩れた家屋、装甲車が衝突したまま放置された商店など、無事な建物などそこに存在していなかった。
改修も生活する為の最小限に留めている印象で、落ちた天井の代わりにビニールシートをそのまま被せただけの家屋も中には見受けられる。
人通りはまばらだ。
「最近この界隈にも国連の治安維持部隊が巡回に来ているらしい。紛争に国連は直接介入しないのがルールらしいが、今の情勢に目を付けて隠れ蓑にしている国際テロ組織がいるという噂と、実質無政府状態になっている以上、無視もできないらしい」
彼の横で積み荷を下ろしながら運転手は語った。
「そんな場所なのに、レジスタンスのあなたがいつまでもここにいて大丈夫なのか?」
「心配には及ばない。この集落は中立としているが、内心は同じ志をもっている。こうしてここの暮らしを支えている物資の調達もあるしな」
「持ちつ持たれつ……いや、生き残る為の術か?」
「生き残ることまで考えているのかは甚だ疑問だ。今を生きているだけだ。人間として。……俺も、ここの住民もな」
彼は車から下ろした最後の積み荷に手をのせたまま呟き、鬱屈を身から落とすかのように腰を伸ばす。
そんな姿を見ながら乗客は徐にフードを取り、名前を名乗った。
「後藤銀河だ」
「ん? ……名前なんて、お互い必要のないことだろう。余計な面倒が増えるだけだ」
「そうかもな? ……多分、気まぐれさ」
後藤銀河と名乗った乗客は軽く笑った。その伏し目がちな目はレジスタンスとして生きてきた一年間で彼が出会った者達の中で、都合のいいものだけではなく、すべての現実を見て受け入れてきた者のものと同じであった。
「さて、お世話になりました」
銀河は頭を下げて礼を告げ、車から離れようとした。
「ウィルだ」
気づくと青年は銀河の後ろ姿に声を発していた。
「へ?」
不思議そうな顔で彼は振り向いた。それに対して再び言う。
「俺の名だ。ウィル」
「……面倒が増えるだけなんじゃないのか?」
「気まぐれだ。忘れてくれて構わない」
苦笑まじりに言う彼に銀河は首を振った。
「ウィルだな? 忘れないさ」
そして、互いに微かな笑みを浮かべて、二人は手を振って別れた。
銀河とウィルが別れたのと同じ頃、集落から少し離れた平地にある国連のキャンプに列をなした装甲車が帰還していた。
偵察を兼ねた巡回を終えたその一台からアメリカ陸軍服を着た女性士官、ライム・ギムレットが降りる。
それを見ていたらしい同じ制服を着た男の一人が大柄な体に似合わず素早く動きで彼女に駆け寄ってきた。
「本国より至急連絡がほしいとのことです」
「わかった」
彼女は頷くと、まっすぐアメリカ陸軍のテントに向かった。
テントに入ると既に通信が繋がれており、すぐに彼女の上官が応答した。
「ライム・ギムレットです」
『巡回、ご苦労。情報部からだ。奴がそっちに行ったようだ。慎重に事を進めてくれ』
「遂に……。御意!」
『うむ。健闘を祈る』
短いやり取りであったが、通信を終えて彼女は細く口元に笑みを浮かべ、呟いた。
「遂に、奴が現れた」
ライムの手元の机には二枚の写真が置かれていた。
一枚は彼女と男が笑顔で腕を組み合っている写真。そして、もう一枚はロシア系の男を望遠で盗撮したと思しき写真であった。
「……奴の動向に繋がる情報はあるか?」
彼女はそのままの体勢でテントの入口に控えていた先の兵士に問いかけた。
「まだ有力な情報はありませんが、昨夜隣国より日本人が入国したという情報がありました」
「日本人……旧政府側との関係は?」
「わかりません。現在素性を確認中ですが、NGOでも旧政府側でもない可能性が高そうです」
「なぜだ?」
「情報ではレジスタンスが関与していると見られます」
「なるほど。しかし、それならば尚のこと確認を急ぐ必要がある。レジスタンスも奴が来たことを掴んでいる筈だ。それに対してレジスタンスが対立している旧政府勢力と手を組んだとしたら、均衡が崩れて任務にも支障をきたす。警戒を続けてくれ」
「御意」
彼は敬礼をしてテントから出て行った。それを見送ったライムは再び険しい表情でロシア系の男の写真を手に取った。
「スタルカ・ザルロフ……」
彼女の呟いた写真の男の名前は、世界総体急進主義者の意を持つ国際テロ組織、General Radical Of World、通称GROWの最高指導者であり、この地で死んだ夫の仇の名前であった。
夕日が陽炎に沈む頃、銀河は集落唯一営業をしているホテルとは言い難い傷んだコンクリート造りの宿屋に併設された酒場で夕食を食べていた。
客はまばらでジャーナリストらしき白人男性が一人と大柄な黒人男性が一人離れたところにそれぞれ座っているだけで、店員も若い女性一人だけだ。そんな中、銀河は黙々と食事を口に運びながら今日一日のことを思い返していた。
ウィルと別れてからの半日、彼は集落を歩き巡った。銃撃の跡の残る校舎で授業を行う学校、商店街よりも闇市に近い露天の商店、壊された旧政府の看板、無作為に貼られた新政府と紛争反対を訴えるレジスタンスのポスターとそれを剥がした跡。それらはすべてこの地が紛争地帯であることを示すものであった。
しかし、そんな状況でも銃を携帯する新政府軍兵も、それを避けて警備巡回をするレジスタンス達も、露天商の者達や住民の大人達も、そして子ども達も、絶望の中でも今を必死に生きている者達の姿がそこにあった。
「お水です」
女性店員が食事を終えた銀河にコップを置いた。
彼がすぐに手をつけないのを見て、さらに言葉を足した。
「ご安心下さい。ミネラルウォーターです」
「ありがとうございます」
銀河は笑顔を彼女に向け、コップを手に取った。
「日本人ですね?」
水を飲む銀河に彼女は言った。その意味を日中に耳にした話を思い出しつつ、素知らぬ顔で問いかける。
「日本人は珍しいですか?」
「えぇ。ジャーナリストでも日本人は今のこの国に来るのを避けていますよ。何せ外国人の中でも今一番危険なのは日本人ですから」
「そうですか?」
銀河は更にとぼけてみせると、店員は声を潜めて彼の耳元で言う。
「ご存知ないのでしたらお伝えしておきます。この国は今、旧政府と新政府の紛争状態で、実質無政府状態です。ここの治安も実際維持しているのはレジスタンスと国連です。その旧政府側は昨年のオダカーンによるクーデターの際に大半が敗れ、もう軍としては機能できないはずだったのですが、半年程前から元々旧政府軍の傭兵だった男が指揮を取り始めてその勢力を盛り返したんです。その男がショーグンと呼ばれる日本人らしく、紛争の長期化を招いた人物として旧政府側以外の国民からは憎まれているんです」
「だから、日本人は危険なのですね?」
「はい」
彼女は頷くと空いた食器を片付けて奥に下がった。
話の内容は、銀河の聞き知っていることと大凡同じであった。
しかし、新旧政府問わず、どちらになっても大きな違いがない独裁に近い国家へ繋がるように思えたのが、彼の印象であった。旧政府側のショーグンも正体不明の人物であるが、オダカーンを代表とした新政府側の軍の実質的リーダーであるアーサーなる人物も、人前に顔を出さない正体不明であり、更に新政府側の軍事支援に国際テロ組織が関与しているという噂も耳にしていた。
「すみません! 何でもいいので安い酒を下さい」
酒をあまり嗜まない銀河であるが、今夜は飲まずにはいられなかった。
翌朝、銀河は爆撃の激しい音と振動で目が覚めた。
布団から飛び起き、窓から外を見ると目の前の通りで市街戦が繰り広げられていた。
昨夜の情報では全くこの話はなく、恐らくどちらかの勢力からの一方的なゲリラ戦が発端となったものだろう。
手榴弾や対車砲と思しき武器も使われている様子であり、いつ彼の部屋が巻き込まれるかわからない状況であった為、素早く荷物を纏めて部屋を飛び出した。
直後、彼の予想通り、部屋は爆撃に巻き込まれて吹き飛んだ。その衝撃と風圧で階段を転げ落ちる銀河。
「いてて……くっ!」
顔を上げた銀河の目に飛び込んだのは車が突っ込んで滅茶苦茶になった受付と、壁が崩れて吹き抜けになった酒場であった。
そして、車には血だらけになった昨夜の女性店員が後部座席のドアを開けようと必死に引っ張っている姿が土煙の中にあった。運転席は血で赤黒く染まっており、運転手は確認するまでもなく死亡しているとわかった。
「どいて!」
銀河は瓦礫から鉄の棒を掴むと、彼女のもとへ駆け寄り、彼女を車から離すと変形して半開きになったドアの隙間にそれを突き刺し、梃子の要領でこじ開ける。
後部座席を見ると若い女性が倒れていた。中に入り確認すると、車が衝動した衝撃による打撲は数ヶ所見受けられるが、脈も呼吸も問題ない。
銀河は安堵しつつも素早く彼女を外へと出そうとシートベルトを外す。
「すみません! そちらから支えて下さい!」
「はい!」
銀河が彼女の足を持ち、女性店員が外から彼女の肩を持ち、車外へ引っ張ろうとした。
その時、機関銃の音と共に、彼の目の前で店員は血飛沫を残して倒れた。
「っ!」
声にならなず、絶句をした。
しかし、銀河とてそれはすぐに自身の身に降りかかることであった。
機関銃を構えた新政府軍の兵士がドアの外に現れたのだ。
「……殺すなっ!」
「!」
咄嗟に銀河は声を発した。兵士は引き金を引くことが出来ずに硬直する。
そして、更に銀河は心理の爾落人として持つ力を使った。
「お前は俺達を殺せない! 俺達を助けろ! この車から助け出せ!」
「! …わかった!」
兵士は機関銃を棄てて、彼が殺した女性店員と同じように彼女の肩を引っ張った。
今度は男二人の力ということもあり、簡単に狭い車内から二人は脱出することに成功した。
「ふぅ、ありがっ! とぅ……」
車から出た直後、銀河の後頭部に衝撃が走った。何かで殴られたらしい。目眩が起こり、周囲の景色が回る。鈍い痛みが頭に響きながら彼はゆっくりと倒れた。
「何をしている?」
「いえ、それは……」
「ん? 東洋人? 日本人か! なるほど、生かして正解だ! ……ターゲットと共に連れて行くぞ!」
「はいっ!」
薄れいく意識の中でそんな会話が銀河の耳に届いていた。
そして、布を頭に被せられた瞬間、彼の意識は闇の中へと沈んでいった。