澪標

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 翌日から仕事の合間も俺達は話をするようになった。
 初めは古典の話題が中心で、時折俺の海や生物などに関する雑学を交える会話であったが、一週間もすると漫画や映画、挙句はお互いのフェチズムに至るかなり踏み込んだ話題まで交わす様になっていた。そこで気付いた事実で、漫画は少し古い名作の中でもマイナーな類を知っていたようだが、何故か最近の連載誌などの漫画は同世代とは思えぬほど無知であった。
 しかし、宿舎の本棚に置かれていた最近の漫画を貪る様に読み始めてから彼女の嗜好が分かった。古典文学的な繊細なタッチで描かれた漫画が好きなのかと思えば、俗にジャンルを分ければ、熱血系。しかも、命がけで巨悪に立ち向かう青年誌寄りの作品が多い。
 映画もミステリーやSF、ファンタジーの題名が挙がってきていると思えば、不意打ちでアクション系洋画の題名が挙がってくる。
 残念ながら、彼女の趣味は俺の様な理系のもやしっ子ではなく、筋骨隆々とした漢のようだ。少し本気で技術系肉体労働を職にしようかと考えた。
 唯一嗜好で見込みがありそうなのは、受難で神経衰弱気味になる役を多く演じている俳優を熱っぽく語ること。しかし、受難で自滅の道を歩みそうだと言われる俺だが、ヤンデレとは程遠い性格をしているのは遥か以前から知っている。

「そういえば、関口さんは女性のどういうところが好みですか?」

 港で休憩中に俺がフェチズムの事について聞いたところ、先の様な漢の筋肉と回答をした後に彼女は言った。こっちが聞けば、当然聞かれるだろうと思っていたがやはり聞かれた。

「そうですね。……うなじ。くるぶし。指先。まつげ。……まつげは特に笑っている時に流れた目尻側。他にも色々ありますが、そんなところです」

 これを以前、好きな女に話したら思いっきり変態と罵倒された。まぁそう言われたら、「だけど普通の人間なんて存在しない。皆、何かしら変態な要素があるんだ。いるのは変態か、大変態だけだ!」と主張するのがいつもの流れだった。ちなみに、大抵俺は不本意ながら「大変態」の烙印が押される。

「笑ったときのまつげですか、なかなかですね。……私も人のことを言えませんけど」

 そう言って、苦笑混じりだが彼女は笑った。
 予想外にも肯定的な言葉が返され、思わず「あなたのまつげも素敵です」と言いそうになったが、それを飲み込んだ。俺自身も自分に驚いた。

「あ……あぁ………」

 俺が口をパクパクとさせていると、社長さんが船を出すと俺を呼んだ。俺は逃げるようにその場を後にした。




 
 

「村崎さんって、社長のお知り合いなんですか?」

 俺は船を操る社長さんに聞いた。彼は視線を水平線に向けたまま答えた。

「いや、あの子に会ったのは今回が初めてだ。言っただろ、母の知り合いのお孫さんだと」
「まぁそうですけど。……どういうご関係なのかと」
「なんだ。惚れたか?」

 社長さんはニヤニヤ笑いながら聞いてきた。

「あー……えぇっと……そういうわけではないですが……少し気になったので」
「若いな、ボウズ。………あの子が来る前にその知り合いから手紙が届いたんだ。孫をしばらく働かせてもらえないかと。うちは母の親の代から店を構えているから、ここの仕事のことは知っていたのだろう。とはいえ、俺の代からは観光用の目的で船を出しているが」

 俺は村崎さんがここの作業の要領を知っていたことを思い出した。あれは予めその人に教わっていたのかもしれない。

「母ともこっちに来た時に一度会ってきたのだが、どうやらよく似ているらしい。母は昔に戻った様だと喜んでいた」
「そうですか」

 前に祖母の名前を村崎さんは村崎光と呼んでいたな。うちの祖父母と同じ70代後半から80歳くらいの人なのだろう。

「そういえば、明ちゃんも同じなのかな?」

 社長さんが不意に聞いてきた。

「え?」
「母が言うには、彼女の祖母には少し不思議な力があったらしい。力と言えるのかは若干疑問だが」
「いいえ。……どんな力ですか?」
「見尽」
「みをつくし?」

 俺の頭の中で、「澪標」という字が浮ぶ。

「あぁ。他の生命に自分の命の一部を分ける力らしい。……人柱というと語弊はあるが、よく映画とかで見るだろう? 自分の体に怪我や病気を移す力。あれの自分にかかる負荷が軽くなったものだと思う。それで母は畑の植物や事故に遭った時に救われたと話していた」
「そうなんですか………」

 この時に俺は社長さんの言った言葉が身を尽くしの意味であると気がついた。
 それから操船中、俺は社長さんから知る限りの村崎光さんについての話を聞いた。
 王朝文学や歌を好んでいたというその像は、港に戻る頃には村崎さんと重なっていた。




 
 

 それから数日間、俺は聞こう聞こうと思いつつも村崎さんに身尽の力や光さんの話を聞くことができずに悶々と過ごしていた。
 そんなある日、団体客がやってきた。
 俺達はこの日に備えて、大型クルーザーの整備や清掃、器材や食材の準備を進めていた。素人の俺でも万全の準備であると思う。
 残る気がかりは、昨日島を通過した台風がまだ本土周辺で留まっている事と新たに南から発生した台風が迫っている事だが、社長さん達はプロだ。心配はない。

「関口、接客も上手いじゃないか。見直したぞ!」

 空港から店、そしてクルーザーまでの送迎を滞りなく済ませた俺の頭を叩き、いや撫でながら言った。
 今日から3日間、社長さん以下数名の社員達はこのクルーザーで周辺を航海する事になる。その間は、残りの社員と俺と村崎さんが店を任される。

「おい、関口! 俺達がいないからって、明ちゃんに手を出すなよー!」

 港で見送りをしていると、社長さんが大声で言った。

「んなっ! 俺はそういうことをしません!」
「はははっ! がんばれー!」

 全く、何をがんばれというのか。
 苦笑しつつ、俺は社員の人達と店に戻った。
 そんな会話をしていたとは知らない店番を任されていた村崎さんは、俺が枕代わりに持ち込んでいた分厚すぎて縦だか横だかわからない通称、辞書本と呼ばれている推理小説に没頭していた。
 これからの数日は、店の主力メンバーが留守ということもあり、ツアーの予約も少ない。
 故にアシスタントの俺達の仕事は、軽微になる。空き時間に素潜り程度ならいくらでもできるだろうし、いっそ給料天引きで器材を借りて潜りに行くか。それこそ村崎さんのライセンス取得をこの間にして貰って、一緒に潜るというのはどうだろう。
 俺が妄想と期待を膨らませていると、社員の一人が俺達に話しかけてきた。

「そういえば、関口君と明ちゃんの歓迎会をちゃんと開いてなかったな。もう残る日数も少ないけど、今晩にもやらないか?」
「いいですね! おとーりって奴ですか?」
「それをやると君じゃぶっ倒れるよ。まぁ、行きつけの飲み屋がそう遠くないところにあるから、連絡しておくよ。明ちゃんもいいよね?」
「はい。宜しくお願いします」
「よし決まりだ!」

 一瞬、先刻の社長さんの言葉が脳裏に過ぎった。いや、そんな度胸は俺にない。
 頭を切り替えようと、事務所のテレビを付けた。
 どうやら昨日の台風がブーメランの様に戻ってきて、今晩から明朝にかけて二つの台風がこの島の上で衝突するらしい。

「台風と台風がぶつかって相殺されるってないですよね?」
「………」

 隣に来て真顔で聞いてきた村崎さんに俺は答えの代わりに雨合羽を指差した。




 
 

 その夜、俺達は窓を打つ暴風雨など気せず、浴びる様に泡盛を飲んだ。
 宴もたけなわ頃であったが、翌日も朝から仕事があるので、お開きとなった。何事も最盛の折にしめるのがいい。
 千鳥足になりつつも、俺は村崎さんに介抱されながら宿舎への道を歩いていた。

「うはぁー! 風が気持ちいい!」
「でも暴風波浪警報が出たそうですよ?」

 雨合羽のフードをとって道の真ん中で踊る俺に村崎さんは笑いながら言った。
 完全に当初の予想と全く逆の状況になっているが、そんな細かいことを気にしない。
 酒が回った俺はかなり気が大きくなっていた。俺は、道の真ん中に立つと村崎さんに叫んだ。

「村崎さーん! 好………」
「関口さん!」

 何かが思いっきり背中を突き飛ばした。
 視界が回る。違う。俺が、回っているんだ。
 そして、俺は頭を地面に強打した。
 鈍い音とゆっくりに進む時間の中で、俺は自分が車に轢かれた事に気がついた。
 慌てて駆け寄ってきた村崎さんの顔は、雨に濡れて、とても綺麗だった。



 

 

「! ここは?」

 事務所のソファーだった。外は相変わらずの暴風雨で、稲光が事務所の中を照らす。
 俺は時計を見た。事故に遭った時間がいつなのかはっきりしないが、小一時間ほど経過している様だ。
 頭を触ったが、痛みもコブもなかった。酔いも醒めている。

「村崎さん!」

 事務所を見回したが、彼女の姿はない。
 何故か胸騒ぎがした俺は、事務所の無線機を見た。
 無線機の電源が入ったままになっており、その前には航海図と文具が散らばっている。
 すぐにそれがクルーザーの予定航路を書き記したものだと気づいた。
 更に周囲に散らばっているメモに目を向けると、状況が読み込めてきた。
 事務所の玄関を見ると、俺の靴が置かれ、雨合羽が二つかけられていた。俺が寝ていたソファーの周りに水溜りができている。床に雑巾と泥の付いた二人分の靴の跡。
 小説の名探偵でなくても状況は想像が付く。
 俺を連れてきた村崎さんはソファーに寝かせ、俺に危険がないことで安心した彼女は雨合羽と靴を玄関に戻し、汚れた床を拭こうと雑巾を持ってきた。そこで問題が起こったのだろう。
 恐らく、クルーザーが嵐で遭難、またはそれに近い海難事故に遭っていた。村崎さんと俺はどこか似た性格をしている。俺なら、船を救う何らかの方法を講じる。
 そして、事務所に村崎さんと靴がない。

「つまり、港だ!」

 この間、凡そ0.3秒。防災救援支援サークル代表としてはそこそこだ。

「村崎さん! うわっ!」

 扉を開けた途端に俺の体は風に巻かれる。

「台風二つに負けて、東海地震に勝てるかっ!」

 全身が一瞬にして濡れた。風速もかなりある。風や雷で周囲の音が聞こえず、雨で前も見えやしない。
 しかし、一ヶ月半往復し続けた道は体が覚えている。眼鏡を外し、ポケットに仕舞い、俺は港に向かって走った。

「村崎さーん!」

 声を上げても、嵐にかき消されてしまう。
 それでも俺は叫び続けた。

「村崎さぁぁぁぁん!」

 やがて俺は港に着いた。
 想像以上に海は荒れ狂い、防波堤を波が越えていた。
 周囲を見渡すと、防波堤近くのやぐらの上に人影を見つけた。
 俺はやぐらに駆け寄って、それを見上げた。やはり人影は村崎さんだった。

「村崎さん!」

 声をかけるが、彼女は俺に気づかない。真っ直ぐ荒れる海を見つめていた。
 俺は風に揉まれながらも必死に梯子にしがみ付きながら、やぐらを登った。
 村崎さんはまるで祈りを唱えるかのように両手を組んだ。

「村崎さん!」
「っ!」

 俺が梯子を登りきり、村崎さんに歩み寄ろうとした瞬間、彼女の体は光った。

「えっ……うわっ!」

 刹那、彼女の全身は眩い光に包まれ、その光は漆黒の天に向かって伸びたのだった。
 その光に俺も巻き込まれ、眼が眩む。
 何が起こっているのか、俺にはさっぱりわからなかったが、それでも本能的に前へ両手をのばした。

「関口さん!」
「………」

 正直、何を言えばいいのかもわからなかった。ただ、俺は驚く彼女に頷いた。
 次の瞬間、俺の全身に何かが流れ込んできた。やぐらに雷が落ち、俺達を巻き込む。

「うわぁぁぁぁあああああ!」
「くぅぅぅぅぅっ!」

 そこで俺の記憶は途切れた。





 

 俺はいつの間にか防波堤の上で寝転んでいた。
 空には星々の河が流れ、海は先程の荒れ模様と打って変わって穏やかにさざ波を立てていた。
 周囲を見渡すと、嵐の傷跡に紛れて、やぐらが真っ黒に煤けていた。

「……うわっ!」

 見ると、俺の服も焦げている。
 殆ど炭化した服を捲ると、不思議な事に皮膚に火傷らしきものはない。
 しばらく呆けてしまったものの、彼女の存在が頭に浮び、慌てて立ち上がった。

「村崎さん!」

 俺はやぐらに駆け寄った。辛うじて原形を留めているやぐらの梯子を慎重に登ると、倒れている村崎さんを見つけた。
 やはり彼女の服も真っ黒に炭化し、その肌も重度の火傷を負っていた。下手に触ると、皮膚を剥がしてしまう。
 俺は奇跡的に無事な彼女の顔に手を当てて声をかけた。

「村崎さん! 関口です! 聞こえますか! 聞こえますか!」
「うぅ……よかった。無事で……」

 幸い、彼女は意識があった。
 俺は眼鏡をかけようとポケットに手を入れた。

「あ……」

 中にあったのは細かく割れたレンズと折れ曲がったフレームであった。
 携帯電話は事務所だ。

「村崎さん、今救急車を呼んできます!」

 立ち上がろうとした俺の袖を彼女は掴んだ。
 振り返る俺に彼女はゆっくりと首を振る。

「いいです。もう私は十分に生きたので」
「何を、何を言ってるんですか! まだたったの二十数年じゃないですか!」
「ううん。もう、千年以上も私は生きました。そろそろ彼女達の元へ行きます」
「千年って……一体、あなたは?」
「爾落人。かつて宮中で彼女達に出合った時に私はそう自らを名乗りました。あれから悠久の時を生きた。……晶子さんに出合ったのも、つい昨日の様に覚えています」
「まさか、与謝野晶子?」

 俺が驚いて聞くと、彼女は微笑んだ。
 しかし、俺を見つめて、その笑みは哀しげなものとなった。

「貴方は二度も私の力に触れてしまいました。それに二度目は、貴方にあまりにも多くの力が注がれてしまったわ。……ごめんなさい」
「なぜ謝るんですか?」
「関口さん、貴方はこのやぐらから落ちたのです。火に包まれて」
「え?」
「今まで、私は力を使っても、傷ついてもすぐにそれらは癒えていました。でも、今回はそうもいかないみたい。……代わりに貴方が無事だった」
「まさか、その力が俺に移ったとでも?」
「私の力は有限なものです。その全てを使っても、あの嵐を鎮めたかった。多分、貴方はその力を受けてしまったのです」
「なら、俺もあなたの怪我を治せるはずだ!」

 俺が言い、彼女の火傷に手を翳してみるが、どう念じても、力を込めても変化はない。

「無理です。私の力が移ったとはいえ、貴方は元々ただの人間。私の力の全てが使える訳ではありません」
「そんな………」

 うな垂れる俺の手に彼女の爛れた手が置かれた。
 見ると、彼女は微笑んでいた。

「関口さん、無事でよかった。……あの時の言葉、もう一度言って下さい。最期のお願いです」
「………」

 彼女がいつの言葉について言っているのか、わからないほど俺はバカじゃなかった。
 俺は、震える唇で呟いた。

「好きです……」
「ありがとぅ」

 最期に彼女は満面の笑みを浮かべた。

 


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 東京での仕事を終えて沼津の開発部へ戻った俺は、久しぶりに冷凍保管庫の扉を開けた。
 右端二段目の棚のサンプル瓶。

「結局、俺も社長と同じ、弱い人間なんですね」

 サンプル瓶の中に凍った小さな肉片へ囁いた。
 あの後、クルーザーは無事に帰港を果たした。
 村崎さんは、警察の調べで身元が確認できず、最終的に沖縄の地で眠る事となった。
 葬儀を済ませ、帰宅した俺はすぐさまこのサンプル瓶を凍結させた。実際に麻美社長の様な行動をするつもりはない。
 それでも、俺に後悔や罪の念を抱いたことはなかった。
 それに、こんな形のあるもの以上に、俺の中で彼女が息づいている。
 サンプル瓶を戻し、俺の個人研究室に入ると開発中の「G」センサーの電源を入れた。
 部屋の中で確かに示されるヒト「G」の反応。
 後でこの俺の反応は除外させるつもりだ。人として「G」と向き合いたいから。
 あの日から俺の人生は決まった。
 迷う事など決して無い。
 俺には澪漂が見えているのだから。



【終】
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