澪標

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 周囲の人間が俺を評する際に、行動力の塊、異端者などという言い方を用いる。
 大いに結構だし、むしろ俺はそれを誇らしいとさえ思え、自らもそれを使う。
 しかし、学生時代の友人から俺の就職のことについて時々聞く言葉がある。

「関口が院ではなく企業に勤めたのはやっぱり意外だわ」

 この時も、俺の行きつけの居酒屋で久しぶりに飲み交わしていた旧友が口にした。
 答える言葉はいつも同じだ。

「バーカ! 俺は小さな研究室でチマチマと一つの事を研究できる程度の器じゃねぇんだよ! 俺には「G」と世界くらいの規模じゃねぇと器に納まらないのさ!」

 そして、グラスに入ったギムレットをグビッと煽る。これでいい。

「全く、あんたにはついていけん」

 俺の前で日本酒を煽りながら呆れた表情で同級生の女は言った。

「へへへ、ついてこなくて結構さ」
「関口がその言葉をコイツに言うとはね。まぁ、確かにJ.G.R.C.の開発部は関口に合っているよ」

 俺の隣に座る男友達が苦笑しつつ言う。彼らは俺とは違って院に進み、現在はそれぞれの分野で学者への道を歩んでいる。

「ふっ! アレは黒歴史、月光蝶が舞った今の俺をあの頃と同じにしてもらっては困るぜ!」
「それは他所で言えよ」

 目の前で相変わらずのチビ女がギロリと睨む。俺は煙草に火をつけ、煙に顔を隠す。
 この目の前にいる女性に俺は在学中に3度も告白して振られたという過去がある。それ故に、俺の印象は今でも決して良いものではない。だが、それが安心できたりもする。

「ま、特別に結婚式には呼んでやるけど」
「それはありがとうございやす」

 コイツは来月、現在の職場で知り合った相手と結婚する。
 多少なりとも嫉妬の類を胸に抱くかと思ったが、どうやらそんな感情すらも俺は人とは外れているらしい。

「それよりもお前、こんなところでのんびり酒を飲んでていいのか?」
「わざわざ誘っているんだから、いいんだよ!」

 隣の友人が言うのは、つい一週間前にうちの社長がエジプトで失踪したことだ。
 実はあまり良くはない。俺も気がつけば管理職の一端になっており、今回東京に沼津から出向いているのも、その事で本社から呼ばれていた為だ。とはいえ、既にその事後報告は現地にいた後輩から受け、社長の椅子も既に取締役の一人が座ることが決まっている。
 更に、後輩から聞いた話では、どうやら例のサンジューロー君が関わっていたことらしい。懐かしい顔を思い出し、俺は思わず笑みを浮かべた。

「キモイ! 何ニヤニヤ笑っているのぉ」
「ん? そうだな、お前の花嫁衣裳のうなじ」
「ギャァアアアア! キモイ!」

 叫ぶのはいいが、俺の顔面に本気でバックを投げないで欲しい。流石に痛い。
 その後もあれやこれやと酒は進み、終電間際に久しぶりの集りは解散した。
 俺は時計を確認し、実家へ向かう電車とは違う路線の最終電車に乗った。本当は明日、有給休暇を取る予定だったが、流石に無理だった。

「もうすぐ日付が変わるな……」

 電車の窓から暗い外を眺めながら、呟いた。
 今年は麻美社長の事もあり、いつも以上に心がさびしくなる。
 こんな時に蒲生の顔を見れば、俺は強気な先輩に戻れるだろうが、そうもいかない。
 蒲生元紀という会社の後輩は俺にとって、ただの世話を焼いている後輩ではない。麻美社長もどうやら同じだったようだ。
 自分の親友が爾落人だと胸を張って言える蒲生を羨ましいと思ったことがないと言えば嘘になる。しかし、俺も、恐らくは麻美社長も、そんな蒲生を放ってはおけなかったのだろう。ついついその気持ちを応援したくなるのだ。
 爾落人を愛してしまった俺達は。


 

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 2009年3月。俺、某大学海洋学部大学三年、関口亮は卒研が本格化する直前であるこの春休みを沖縄県の離島で過ごしていた。
 周囲はリーマンショックに伴う不況と就職難で、就職活動に走り回っていたが、俺はその波にせかされることなく、自分のペースで進路を考えていた。成績もそこそこで、学科唯一の外部卒研生という立場もあり、院進学も目の前に見えていたし、既に内定企業もあった。
 そんな中で、俺は海と真っ直ぐ向き合える時間が欲しくなった。
 この3年間で俺は、漠然としていたが確かに海を研究し、愛していた。
 しかし、その海で俺は人生をかけられるのか、その自信がなかった。
 悩むよりも行動しながら考える性格であった俺は、2月から知り合いのツテでこの離島の観光向け船舶ツアーショップの住み込みアルバイトをすることにした。ダイビングや船舶の免許もあり、この交渉はすんなりと受け入れられた。もともと春休みは夏ほどではないが、人手が欲しい季節らしい。
 仕事は基本的にベテランの社員が行い、俺はそのアシスタントをすればよいので、比較的楽なものだった。
 一仕事終えて店に戻ると、社長さんが一人の女性を俺に紹介した。

「わしの母が世話になった人のお孫さんで、今日からここで働くことになった村崎明さんだ。関口君と同い年で、しばらくはアシスタントの仕事をしてもらうから、君から色々と教えてあげてくれ。人に教える方が教わるよりも何倍も勉強になるだろう」
「はい。わかりました。……関口亮です。宜しくお願いします」

 俺が挨拶をすると、村崎明は丁寧に頭を下げた。

「宜しくお願いします」

 背の低い小柄な彼女は、可愛い少女というよりも優しい姉や母親といった印象であった。
 周りの社員は、初めの頃に俺の好みが小柄な女と言ったことを覚えていたらしく、その日の夜は散々はやし立てられた。俺の好みとは若干違うと否定したが、あまり信用されなかったようだ。
 しかし、事実として俺の好みと考えているイメージと落ち着いているイメージの彼女は当初あまり重ならなかったことを今でも覚えている。



 

 

 翌日から俺と彼女は一緒に仕事をすることになった。彼女は直ぐに仕事を覚え、その日の内に一ヶ月近く働いていた俺と殆ど同じ量の仕事をこなせるようになっていた。

「社長の知り合いの孫って紹介されたけど、前にこういう仕事をしてたの?」

 一段落した時、俺は何気なく聞いてみた。

「はい。実は昔に少し。……でも、私の知っている方法と違うところが多くて、思ったよりも戸惑いましたよ」

 彼女は口に手を当てて笑って答えた。控えめに笑っているが、結構俺と同じくらいに笑い上戸なのかもしれないなどと考えていると、向こうから話をふってきた。

「関口さんは海が好きなんですか?」
「勿論、好きですよ。こうして海を眺めるのもいいんですが、一番は潜って水と一体になっている時ですね! ゆらゆらと揺れながら全身の力を抜いて、まるで海草の如く身を任せる。あのひと時は何事にも変えがたいものがありますよ!」

 気がついたら、俺は敬語で答えていた。相手の口調にもまれたのかもしれない。

「潜るんですか? 羨ましいなぁ。……魚と一緒に泳いだり、さぞ楽しいんでしょうね」
「うん。素晴らしいですよ。今度ダイビングに挑戦してみたら如何です?」
「そうですね。考えておきます」
「………」
「………」

 やばい。会話が途切れた。

「そ、そういえば、村崎さんの名前って俺達の世代だと珍しいほうですよね? 明を女性の名前につかって、メイって読むのって!」
「あ……そうですか?」

 彼女は困った様子で聞いてきた。今のは失敗だった。そんなことを彼女に言っても彼女が自分で決めた名前じゃないのだから、どうしようもない。

「で、でも! 私、結構気に入っているんですよ? ほら、明って明るいって使う感じでしょ? それって紫と合うと思うんですよ!」

 彼女も彼女でテンパっているらしい。意味が一瞬、理解できなかった。
 村崎はイエローと相性が良いのか悪いのかわからないのなら、俺も理解できるが、そのネタを振るとまた墓穴を掘りそうなので黙る。
 代わりに、ふと彼女が言いたい意味がわかった。

「……光と紫は相性がいいのはわかりますが、明石と紫は……どうなんですかね?」

 すると、彼女の目が輝いた。

「そうですよ! 私のおばあちゃんは村崎光って言いますが、そっちの方が光源氏と紫の上の組み合わせで羨ましいんですよ! 失敗したなぁって」

 失敗? とつっこむべきかと一瞬思ったが、俺はそれ以上に源氏物語と自分の名前の関係についてで、ここまでテンションが上がった彼女に意外性を感じた。

「まぁ俺は紫式部よりも清少納言派なんで、口ほど源氏物語は詳しくないんですがね」
「そうなんですか? 是非読んでください! 第14帖で明石の上に一女を生んだ時の紫の上の嫉妬とか、とっても可愛いんですよ! あれです。萌えです!」

 萌えとまで言うか! というか、この人は流行言葉を使い慣れていないらしく、たどたどしい。いや、単に俺達とは違うだけか。

「第14帖っていうと……駄目だ。忘れた」
「澪標です」
「そう! 海や船が好きな為、巻名だけで興味をそそられて流し読みしたことだけはありますよ」
「次は流し読みではなく、しっかりと読んで下さい。初めての方でも読みやすい与謝野晶子さんの現代語訳も出版されていますから!」

 与謝野晶子訳はかなり有名で俺の読んだものもその児童書版だが、今の時世で初心者向けと言えるかいささか疑問だ。
 そう思うと同時に、原作の良さを現代語でしっかりと伝えている与謝野訳を選択する彼女に好感が持てた。

「そうさせてもらいます。……古典が好きなんですか?」
「そうですね。短歌や俳句も好きなんですが、物語になっているとやはり感情移入がしやすいですからね。関口さんも詳しいですよね?」

 そういえば、与謝野晶子も歌人だ。

「まぁ堅苦しい純文学よりは好きですね。でも基本的には受験勉強で触れた作品と親の趣味ですね」
「親御さんの?」
「母が書道家だったんですよ。今は専業主婦ですが。それで家に結構色々と歌集や古典の本が転がっていたので。枕草子が好きになったのもその為です。……あぁ、あれは読んでて面白かったな」

 少し話しすぎたかと思ったが、村崎さんは食いついてきた。

「何という作品ですか?」
「えぇーっと……何て読むんだったかな。鬼嫁日記じゃなくて……トンボ日記!」
「トンボ?」
「そう。漢字で蜻蛉と書いて……」
「それ、「かげろうにっき」と読むんですよ」
「えっ! ……マジですか?」
「はい。確かに、トンボもカゲロウも似ていますし、どちらでも読めますからね」
「そんな! 今まで知らずにトンボ日記って読んでましたよ!」

 そして、恥を通り越して俺は笑い始めた。はじめは当惑していた村崎さんであったが、つられて笑い始めた。
 嗚呼、笑顔は可愛い人なんだな。不意に思ってしまった自分にまた笑った。

「あぁ、すみません。笑ってしまいまして」
「いえ、いいですよ。……そういえば、和歌ですとどういうのが?」
「そうですね。有名な百人一首からですと、文屋朝康の

 白露に 風の吹きしく 秋の野は つらぬきとめぬ 玉ぞ散りける

 とかが好きです」

 彼女の言った歌は俺も好きな歌の一つで、葉にたまった白露に風が吹きつけている秋の野原は糸の通していない真珠が散って落ちこぼれているかの様だ、という解釈だったはずだ。

「もしかして、村崎さんは自然を表現した描写が好きなのですか?」

 たった一つ和歌でなぜそう思ったのだろうか。もしかしたら、俺自身が自然の美しさを表現した描写やそこに心情を含ませた描写が好みであったからかもしれない。
 そして、彼女も同じであったら良いなという思いが、俺の口から散りける言葉となったのかもしれない。

「あぁー。言われてみれば、そうかもしれませんね。気付きませんでした」

 村崎さんは納得した様子で何度も頷いている。この人は俺に近い感性を持っているのかもしれない。それだけではない。話していて気付いた。
 一見すると落ち着いた大和撫子というか、民放よりも国営放送を見ていそうな感じの彼女であるが、その内面に潜ませたモチベーションは俺に匹敵するかそれ以上の行動力を持っている。
 俺は僅か一日共に過ごし、短時間会話を交わしただけの彼女にすっかり心を奪われていた。
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