決着の日~2028~


先日の襲撃から数週間が経過した。総指揮者は姿を眩ましたものの“機関“は実質的に崩壊し、束の間の平和が訪れた。襲撃を生き延びた者たちはそれぞれの生活に戻りつつあり、旅人は放浪の道へ。帰る場所がある者は復興作業へ取り組み始めている。そして防衛省の人間たちも元の日常に戻ろうと作業が始まったところだ。


「それそっちに運んで。首藤、それは捨てていいけどちゃんとシュレッダーにかけて」


あれだけのダメージを負えば省庁としての機能が回らなくなるかと思えばそうでもなく、出向していた官僚がすぐに呼び戻されたようだ。人員や警備も別の基地から召集された臨時編成となっており、短期で復旧させるべく全力を尽くしている。


「…なんだか嫌ですね。代わりなんていくらでもいるみたいで」


工事業者の出入りが多くなりセキュリティが強化される中、コンドウは天を仰いだ。コンドウもオブザーバーという立場上出入りの際は他のメンバーより厳しくチェックを受けているのだ。


「国防なんてそんなもんだ。代わりがいなきゃすぐに立ち行かなくなっちまうだろうよ」


破壊されたオフィス。窓ガラスに応急処置で施されたアクリル板に戦々恐々しながら、一同は無事だった資料や私物を回収していた。とは言っても爆風を免れた物はほぼなかったため殆どが処分だ。今日は専らゴミを担いでエレベーターを往復する一日だった。


「さぁ、今日はここまでにしましょう」


時刻は17時を回っていた。役所としては帰れる時には早く帰る。公務員として平時くらいはゆっくりしたいものだ。


「光さん、前からお願いしてた事だけどいいかしら?」


帰り支度を始める面々。引田はタイムカードを通したタイミングで蛍を呼び止めると鞄から茶封筒を取り出した。さらに引田は向こう側が透けて見えそうな薄い材質の用紙三枚を茶封筒から取り出す。


「いいけど本当に私でいいの?」
「是非お願いしたいわ」
「お…お願ぃします」


頭を下げる引田に追従するように岸田が噛みながら蛍に頭を下げる。その光景に何事かと他の面々が驚くと丈が用紙を覗き込んだ。鋭い目が見開かれる。


「婚姻届だ!?」
「「「「「なんだって!?」」」」


丈の素っ頓狂な叫びに皆が驚愕した。岸田のプロポーズは皆の中で共有されていたがその場で返事がぼかされたのもあり、その後の魂が抜けた岸田の様子から拒否されたのだと皆が感じていた。下手に触れるわけにもいかず静観しようと決めた矢先の承諾。驚かないわけがない。


「でも…」


婚姻届の証人は親に書いてもらうのが定番ではある。職場の上司に書いてもらう場合もあるがそれでもごく少数なのだ。蛍はそれでも腑に落ちない表情をしているとそれを察した引田は語り出した。


「覚えているかしら?私が防衛省に入る前は都立病院に勤務していたこと」
「えぇ」
「あの時私は孤立していたの」
「……」
「でも自分で言うのも何だけど患者さんからは慕われていたわ。でも術後のケアに気を遣っていたが故に時間の使い方が悪いと陰口を叩かれていたの。それを疎かにしてその分別な患者を捌けと上からは言われたわ。そこを譲るつもりはなかったのだけど」


引田は話を続ける。


「ある患者さんを担当する事になった時、その人に好意を持たれてしまってね。アプローチは躱していたつもりなんだけど同僚にそれを妬んだ人がいたらしくて医療ミスを誘発する事故を仕組まれたの」
「え!?」


岸田は初めて聞いた話だ。驚いたのが医療ミスの方なのかは置いといて。


「けどそれを切り抜けた。それをさらに妬んだ同僚がある事ない事を言いふらしたの。病院は閉塞的なコミュニティだから真偽はどうあれすぐ噂が広まるわ。それはもう第三者から嫌がらせも受けたわよ。優秀じゃない医者なんてあそこにはいなかったんだけれどやっぱり人間だから感情的になりやすいみたい。そのタイミングで光さんにGnosisへスカウトされた。環境はどうあれこれからも救える患者さんを残す事に罪悪感があったから承諾した後も正しかったのかは悩み続けたの。でも紀子さんを診続けてガメラが現れた時、巫子を救う事が大勢を救う事に繋がると実感したの。その時に私はここが居場所だったんだと答えを出せたわ」
「引田…」
「両親には未だに転職の件を疑問視されるけど後悔は全くしてない。だから光さんには恩人として私達を見届けてほしいの」
「…そういう事なら書かせてもらうわ」


蛍も忘れもしない。Gnosisを立ち上げた際は験司以外のメンバー選定を全て自分が行ったのだ。誘った側の蛍もだが、誘われた側の皆も蛍に対して思うところはある。恩人に証人を頼むのは引田にとっては当然の帰結だったようだ。


「て事でコンドウ、頼むわ。この証人欄に名前書いてくれへんか?」
「え!?俺?!」
「その驚きよう、コンドウさんに予め頼んでなかったわね?」
「ギクリ」


岸田は早速追い詰められた。当たり前だが岸田と引田なら主導権は後者にある。夫婦生活が前途多難だ。


「考えなおした方がいいぜ?今ならまだ引き返せる」


験司が冗談ぽく言う。どうやら婚姻届の件は知っていたようだ。意地悪そうに言い放つと岸田は青ざめ、すがりつくように引田を注視した。


「これからも伸びしろがあるし私を必要としてくれている。それだけで十分よ。改善してもらうところはたくさんあるけれど」


男らしく言い放つ引田。しかし岸田の耳は随分と都合が良いようで、最後の一言は聞いていないようだ。


「ほな深紗さんチューや!」
「調子に乗るとすぐ関西弁が出てる。時と場所、めっ!」


注意される岸田はそれすらも惚気と思えるようだ。それが目に見える引田はため息をつく。


「苦労は絶えなさそうだけど幸せならいいんじゃないかしら?」
「苦労するって自分で言ってるじゃねぇか…」


その間にも蛍は三枚ともサインと印鑑を押し、用紙はコンドウの手元へ渡る。まだ戸惑うコンドウ。


「副隊長はともかくあと一枠は本当にワイでええんか?」
「ったり前よ!親に頼むのも恥ずかしいしここは親友として頼むわ!」
「…そう?ほな…」


コンドウはいそいそとサインしていく。最後に自分の無事だった机の引き出しから印鑑を取り出し朱肉をつけるとふと我に帰った。捺印マットが噛み合っているか?印鑑の向きは合っているか?朱肉がちゃんと印鑑についていたか?


「……」


二度押しが許されないコンドウは不安に苛まれながら押印した。満遍なく印鑑の重心を変えながら離すとそこには自身の名字が暗赤色で浮かび上がる。そしてバトンは岸田へ渡った。


「あ…」


岸田は緊張のあまり一枚目の四文字目で手が力み、ペン先で盛大に破ってしまう。皆の落胆を背に受けながら二枚目は辛うじて誤字脱字は免れ、最後に引田の手へ。引田は名前のそれ以外の登記内容も達筆な手つきで誤字なく書き上げた。その瞬間皆の歓声がオフィス内に響いた。喧騒の中験司ボソりと呟く。


「まぁ、部下の門出を手放しで応援するのも上司の務めってか…おめでとう」


岸田と引田には聞こえなかっただろう。験司は治療中の右腕を庇いながら拍手を送った。
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