本編











「じゃあ明日も来るから、ここで大人しくしてて。」




夕方、名残惜しそうにそう言いながら樹は姫神島を去って行った。




ギャァオォォォォ・・・




そして、その背中をギャオスは訝しげに見ていた。







「ただいま。」




姫神島から逸見家はそう離れておらず、数十分で樹は自宅に到着した。
しかし、ふと玄関の靴を見た樹の目が瞬時に鋭いものに変わる。
よく知っている、黒い革靴があったからだ。




ーーこの靴、間違いない。
あの人が、帰って来てる。




「おお、お帰り。樹。」




居間で樹を迎え入れたのは、典型的な河童禿げの頭と穏やかさを感じさせる垂れ目が特徴である祖父の元治。
それから、もう1人は・・・




「久しぶりだな、樹。」
「・・・やっぱり、あんたか。」




父・亨平であった。
革靴の存在から帰宅を予想していた樹は、なるべく目を合わせないようにしながら居間に入って椅子に座る。




「いやぁ、いきなり亨平が帰って来た時はびっくりしたが、これで、えっと・・・二年振りに逸見家がめでたく揃ったわけじゃな。」
「めでたくないって、じいちゃん。と言うか連絡も無しに、帰って来ないでよ。」
「急の用事があって、連絡をし損ねただけだ。それより『あんた』とは何だ?しばらく見ない間に反抗期か?」
「いつもいない父親なんて、いないも同然だからさ。反論でもある?」
「お前と言う奴は・・・!俺がお前や親父の為に働きながら、どれだけお前を心配しているかも知らず・・・!」
「まぁまぁ、2人共落ち着くんじゃ。折角親子3人水入らずだというに。ほれ、そんなキツイ顔をせずにちっとは笑わんか。い~つ~き~?」
「いや、いい加減止めてよ。その変なの。」




早速険悪になった居間の空気を和らげようと、元治は両人差し指を頬に当てながら口を横へと広げるように開き、樹の笑いを誘おうとする。
このアクションは樹の幼少の頃からやってきたものであり、その頃の樹は笑ってくれたのだが、学年で言えば中学生である今の樹が同じ反応をしてくれるわけがなく、冷たい一言で返されてしまった。
ただ、そのリアクションを予想していた元治はすぐにアクションを解き、何事も無かったかのように椅子に座る。




「まぁ、今のお前が歪んでしまったのも「G」の悪影響なのは知っている。だが待っていろ、俺がお前を「G」から開放してやる。」
「「G」から、開放?」
「その時まで、好きなだけ減らず口を叩くがいい・・・」
「・・・?」
「「G」だか痔だか分からんが、ワシは早く持病から開放されたいのぅ・・・さて!そんな事より樹、今日の花嫁修業の時間じゃぞ!」
「うん、分かった。」
「亨平は座っとれ。料理下手なお前の手伝いがない方がいいからの。」
「分かっている。」






亨平を居間に残したまま樹と元治は台所に向かうと、手洗いを行ってからエプロンを着てシンクにまな板・包丁・皿・幾つかのキュウリを用意し、これまた丁寧に洗浄すると樹は包丁でまな板のキュウリを細かく切り始める。
これこそが元治が言っていた「花嫁修業」で、表向きは「家事の出来る男はいつの時代もモテる」のお題目で、本当は樹が1人になっても大丈夫なようにと、家事が得意な元治が1年前から始めた家事全般の訓練の事であり、樹も名前こそ難色を示しているものの、1人で生きていくスキルや経験が欲しかった事もあり、訓練自体は欠かさずやっている。
その成果もあって、最近では1人だけで何品か料理が出来る程の腕前に成長し、炊事洗濯も主に樹が行うようになった。




ーー・・・何が、反抗期だ。
反抗期じゃなくても、あんたなんか慕われる筈が無い。
そんな事するの、階級や上っ面の経験だけで自衛隊員だけだ。
まぁだから、最近家に帰って来なくなったんだろうな。帰って来て欲しくも無いけど。
そうさ、そんな奴は父親、いや人間失格だ。
法律さえなければ、この包丁でいくらでも刺してやるのに・・・!


「樹!ストップじゃ!」
「えっ・・・っつ!痛った・・・」




キュウリを切りながら、沸々と湧き上がる憎悪を脳裏で言葉にして吐き捨てる樹だったが、元治の静止の言葉にすかさず手を止める。
だが、流れ作業状態になっていた手を唐突に止めようとした為、勢いが付いていた右手が左手の人差し指を少々切ってしまった。
樹は突然に痛みについ声を出してしまい、直ぐ様切れた箇所を水で洗い流す。




「もう、いきなりなんだよおじいちゃん!手切っちゃったじゃんか・・・」
「当然じゃ。ほれ、キュウリを見てみい。」



ある程度の止血を確認し、絆創膏で傷を塞いだ樹は自分が切ったキュウリを見てみる。
キュウリは大小混じった大きさで切られており、これは包丁に慣れない初心者が必ず通る不完全な切り方であった。
無論、樹はとっくの昔にキュウリを均等に切れる腕は持っている。




「こんな酷い切られ方をしたキュウリを、また見る事になるなんてのう。もしかしなくても何か考え事、しかもやましい事を考えておったな?」
「う、うん。やっぱりバレたか。」
「年寄りの経験と近眼を、なめたらいかんぞ?キュウリの千切りなんて、お前さんが一番最初に習得した技術だのうに・・・これは、免許皆伝はまだやれんの。」
「ほ、ほっといてよ!ボクだって、調子が悪い時くらいあるんだ。」
「ならいつもより集中せい。何故上手くいかんかったかは分かっておるし、亨平からうるさく言われんように『花嫁修業』と言っておるのに。」
「そうなの?それは初耳なんだけど。」
「ワシが言わんかったからのう。ほっほっほっ・・・まっ、お前さんが面倒くさがらずに最後までやると決めたのじゃから、免許皆伝を貰えるまでやってみい。亨平を見返すのは、それからでも遅くはなかろうて。」
「・・・分かった。」




師匠に向けて深く頷き、樹は二本目のキュウリを切り始めた。
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