本編
「………何?」
「それはこっちの台詞よ。何、さっきから見ているのよ」
銀河に向かいに座る元紀が呆れ気味に言った。先ほどから護符の枚数を確認する途中で、ボーっと元紀を見ていたのは銀河の方だ。
食後、ルクソール郊外まで移動した銀河達を待っていたのは、ラクダではなくヘリコプターであった。無論、用意をしたのはムハンマドだ。
「近くなったから、低空で飛行する。かなり揺れるから覚悟しておいてくれ」
副操縦席に座るムハンマドが言った。機体は高度を落とし、振動音が更に増す。
「元紀はなんで、ここに来ているんだ? 死ぬかもしれないし、第一これはお前の本来の仕事じゃないだろ?」
「……未来の為よ」
「そうか」
「………銀河は? やっぱり旅人だから?」
「そうなのかもしれない。だけど、もっと具体的な理由があるかな? 私闘ってやつかな?」
そして銀河は歯を見せて笑った。その心中で、反芻するかのように私闘という言葉を繰り返す。
いまだにはっきりと旅人の記憶を取り戻したわけではない。しかし、彼はこの戦いが後藤銀河という存在が生み出した戦いであるとも思い出していた。クローンという本来生まれるはずのない命、しかし生まれなかったその命の姿を化した存在という、本来存在することすらありえない己の存在であることを思い出した。
旅人が何故後藤銀河になったか、その気持ちはまだ思い出せない。それを含めて思い出すこと、自分が何者か理解することが、彼にとってのこの戦いの理由であった。
そして、もう一つわかっていることは、これが人類の存亡をかけた戦いでもあることだ。
「私闘か……いいじゃない! 銀河の初恋、真理さんなんでしょ? 恋のライバル同士じゃない! 社長と人類の運命を賭けて喧嘩しちゃいなさいよ! 私闘も上等よ!」
「ふっ、そっかぁ。私闘も上等かっ」
語呂が良かったからか、それとも元紀の天真爛漫な言葉が良かったのか、銀河にはわからなかった。しかし、彼は今肩の力を抜いて笑うことができた。
「……素敵な笑顔で笑っているところ失礼ですが、そんな時代錯誤な青春ドラマの会話を聞かされているこっちの気にもなってくれませんか?」
「あっ」
騒音と振動が激しいヘリコプター内の会話は、すべてインカムを介して行われているのである。
不機嫌に言った榊原は溜息をつくと、窓の外を見た。
「ま、そんな会話ももう終わりの様ですね」
彼の言葉につられて、銀河と元紀も窓の外を見た。
「魔都、そして大コンドルとご対面の様です」
「あの丘を越えたところです」
砂漠移動用に用意されたバギーを運転するサーリムが言うと、麻美は静かに頷いた。
「イリス……」
「ほぅ」
「うむ。すまない、ここで止めてくれ。ここからは車から降りていこう」
「は、はい」
サーリムは麻美の指示の通り、バギーを止めた。そして、車椅子を後部座席に座る睦月の為に用意しようとしたサーリムを麻美は止め、ドアを開いた。
「ほぅ」
麻美に促されてバギーから出てくる睦月は、まるで蕾が花開くかの様に四枚の薄膜状の羽を広げ、同時に上着を脱ぎ捨てた。素肌が透けて見えてしまいそうな純白の衣を身に纏った姿が現れた。
「今日も素敵だよ、イリス」
「あ……嗚呼……」
天女の如く美しさと儚さを漂わせ、十数センチ程浮かぶ睦月に麻美は言った。
サーリムは、そんな睦月の姿に見とれていた。喉の奥から言葉が続かないが、心底から美しいと思った。
「………来たようだね。不死の鳥、ベンヌか? はたまた王に化す神、ホルスか? ……いや、ただの「G」で、イリスの餌だ」
「来た……!」
砂漠に一陣の風が舞った。
その瞬間、サーリムは全身が震えた。恐怖が、目の前で人が死に、自らも死を覚悟した極限の恐怖を与えた対象が、天空から現れた。
大きな影を大地に映し、大コンドルは彼らの前に舞い降りた。
「ほぅ」
刹那、睦月は宙に舞った。衣の両袖から複数本の触手が伸び、その全ての先端に閃光が迸る。
しかし、その光は大コンドルには放たれない。大コンドルは羽ばたき、睦月に襲い掛かる。
「っ! よけろ!」
慌てて叫んだ麻美の言葉に反応し、間一髪のところで睦月は攻撃を回避した。そして触手を袖に戻すと、大コンドルの追撃を、天女が舞を振舞うかの様にかわす。
「動きの早さではイリスが有利だが……やはりキミの話していた様に攻撃をさせることができないようにする能力を持っているんだね。さしずめ抑止の「G」なのだね、あの鳥は」
「抑止……」
「つまり、如何なる力を持ってしても自身を攻撃をさせる事のできない力、決して負けることのない戦いが出来る存在だ。それは不死身といわれるのも当然だね」
「どうするんだ?」
「決まっているだろ? 今のうちに王の力を手に入れる。……大丈夫、イリスは強い。経験や技術的なものを除いた単純な能力ならば、イリスのが上だよ」
「……!」
「さ、行こう。………どうやら、あまりのんびりもしていられないらしい」
麻美は空の彼方に見えるヘリコプターを見つけ、サーリムに言った。
そして、空中で二体の「G」の追撃劇が行われている下で、二人の男が魔都の四角錘シルエットに向かって歩き始めた。
ヘリコプターが着陸し、すばやく降りた銀河達は空中の睦月と大コンドルを見上げた。
「! 大コンドルと戦っているは、麻美睦月じゃないか?」
「本当に飛んでるわ! ……綺麗」
「……ってことは麻美帝史も着いてるってことだろ? 急ごうぜ?」
「あぁ」
空中での追撃劇を繰り広げる睦月達に驚く榊原と元紀に対して、銀河はムハンマドに言った。
そして、二人は魔都に向かって走り出した。
「ちょっと、待ちなさいよ!」
「課長! 危ない!」
元紀も後を追って走ろうとすると、慌てて榊原が彼女の手を掴んだ。
刹那、大コンドルの翼が彼女達の目の前を横切った。大量の砂を巻き込んだ突風が元紀達を吹き飛ばす。
「元紀!」
「バカ! 先に行きなさい……!」
砂塵の中、振り返った銀河が叫ぶと、元紀の声が返ってきた。
「今は構うな! 参るぞ!」
「……畜生ぉ!」
ムハンマドに言われ、銀河は叫んだ。そして、砂の坂を転げ落ちた。
「銀……」
「けっ! 坂がどうしたぁ?」
まるで坂を転がった球の様に、転げ落ちた銀河はそのまま勢いを殺すことなく、魔都までの平地を走った。目的地まで、あと少しだ。
「アレが、旅人の力か?」
思わず唖然とするムハンマドなど気にするはずもなく、銀河は走る事に決して向いてはいない砂の大地を駆けた。
「がはっ! ……砂が、なんだぁ?」
砂に足をとられて見事に転がりながら転倒した銀河。しかし、片手が体の下になり、手を捻ろうと、口に砂が入ろうと、彼は立ち上がる時間も惜しく、我武者羅に四つんばいで走りながら起き上がり、叫びで全てを吹き飛ばし、砂漠を駆ける。
再び足を砂にすくわれる。しかし、なおも走った。
息の限界などとっくに過ぎ、既に満身創痍だ。だが、銀河は諦めない。砂に足をすくわれて足を捻ろうと、走り出すまもなく吹き付ける突風と砂塵に襲われようと、彼は千切れそうな足を引きずり、走った。
狭まる視界の中、見えた。砂漠にそびえる幻のピラミッド、魔都の入り口だ。
「着いたぁああああ!」
銀河は狂ったような叫びを上げ、魔都内に転がり込んだ。
「はぁ……はぁ……はぁ……?」
ぼろぼろになった銀河は片膝を立てて、全身で呼吸をする。
「待っていたわ」
「はぁ……ひぃ……久しぶりだな? ガラテアぁ」
顔を上げた銀河は目の前に歩いてくるガラテアに言った。相変わらずの服装で、唯一の違いは金のカチューシャの代わりに黄色の髪留めで髪を束ねている事だけだ。
彼女は微笑を浮かべた。
「間に合ってよかった」
「あ……あいつぅ……つぅ……ぎは?」
「剣は、もう間に合わない」
「!」
「でも、あなたは間に合った。銀河殿は、今の私に会えた。……私は『神々の王』の守護者。本来はあなたに仕えるはずの存在」
「でぇ……ぉ、日民……」
「日民殿に仕えたのは、確かに「G」の力で権力者になったこともある。でも、本来の目的は銀河殿の成長を見るためだ。私は『神々の王』の分身。だから、銀河殿がどこにいてもわかる。そして、今回も銀河殿を、……いや、『神々の王』を迎える準備をする為に動いた」
「でぇ……も、あいつがぁ……それに……」
「もうすぐ、彼は剣の間に達する。試練は、大コンドルで十分だから。彼はまっすぐ向かえる。そして、聖剣を、天叢雲剣を抜き、私の新しい主殿になる。そして、あなたはあの吸収の爾落の糧にされる。そうなっては、全てが終わる。本当に、新たな『神々の王』が生まれる。全てが手遅れになる。……だから、銀河殿」
「……んぁ?」
「全てを、あなたに賭けて、蛇韓鋤剣と……後藤銀河の死を与える」
「へ?」
銀河が声を上げ、立ち上がった瞬間、ガラテアは右手を彼の胸に当てた。
「銀河……! ガラテア様!」
「守人よ、任せたぞ」
魔都に到着したムハンマドが声を上げた時、ガラテアは頷いて、言った。
そして、彼女の目の前に立っていた銀河は倒れた。膝から、崩れる様に、倒れた。
「銀河ぁ!」
目の前で地面に倒れた銀河を無言で見下ろし、蛇韓鋤剣と呼ばれる十握剣と、黒い眼帯を彼の上に放った。
慌てて駆け寄るムハンマドと対称的に動くかの様に、ガラテアは身を翻し、魔都の奥へと歩いていった。
「銀河……なっ! ガラテア様! ……ガラテア様!」
「………それ以上、名を呼ぶな。殺すぞ? では、主殿が呼んでいるので、失礼する」
「……そんな」
ムハンマドは愕然とした表情で、銀河の傍らに膝をついた。
彼は、無力だった。ただ、去り行くガラテアを見送る事しか出来なかった。
「銀河ぁ!」
「………」
砂漠から元紀の声が聞こえ、ムハンマドはゆっくりと振り返った。
元紀が走ってきた。まもなく、彼女も、そして続く榊原も彼らのところへ来た。
「どうした……の?」
「課長、大コンドルが静まりましたよ。……課長?」
「銀……河?」
榊原が異変に気がついた時、既に元紀はそれを確信していた。しかし、信じがたい事を、信じることは難しいことだ。
彼女は、放心というべき様子で膝をつき、両手を銀河の体に当てた。
彼女がかつて上げた黒いマントを握り締め、揺すった。彼の体が揺れる。また揺すった。揺れる。
しかし、彼自身に変化はなかった。
「………何、してんの? 起きろよ? 銀河、喧嘩は? まだ、してないでしょ? 私闘は? 競争に負けたら、それで終わり? 喧嘩は、拳でしょ? それとも、やっぱりまだ喧嘩はわたし? ……あんた、それでも「G」? それでも、後藤銀河? いつもの生意気な銀河はどこにいったのよ? 捻くれた理屈こねて文句を言ってきなさいよ? じいちゃんを大切にしていて、お母さんに憧れてて、ウチの蔵で小難しい事ばっかり調べて、マイペースな自由気ままで、情に篤くて、争いが嫌いで、実はお人よしで……、わたしの大切な仲間の、銀河でしょ? こんなの、勝手よ! 死ぬなんて……勝手よ!」
これ以上は声にならなかった。いつの間にか、元紀の瞳には滝の様に流れる涙が溢れていた。嗚咽を上げる暇もない程に、喉の奥から込み上げる声と、涸れ果ててしまう勢いで止め処なく流れれる涙に身を任せ、彼女は泣き叫んだ。
そんな姿を、榊原とムハンマドは黙って見つめていた。彼らにも何もすることが思いつかなかった。わかっていることは、ただ一つだけであった。
後藤銀河は、死んだ。