本編
1995年春、当時斎藤は東京にある某企業でOLをしていた。
両親を10年前に事故で無くしたものの、多額の保険金により残された彼女と妹の亜沙美は無事に大学を卒業でき、国立大学の医学部へ入学した亜沙美に至っては卒業後、アメリカの大学へ研究生という形で渡米してしまい、それ以来、両親の命日以外には帰国すらしない。
そんな亜沙美から突然電話がかかった時、斎藤は喜びよりも驚きの方が先にこみ上がった。しかも、その内容が婚約者を紹介したいから、いつ帰国すれば都合がいいか、というものであったのだから、驚きはその数十倍に跳ね上がった。
「ごめんね。お姉ちゃん、もっと早い段階で紹介したかったんだけど」
「いいわよ。あなたの神出鬼没っぷりは今に始まったことじゃないもの。あ、楽にされて構いませんから……えぇーっと」
「あぁ、帝史と呼んで頂いて構いませんので」
斎藤が呼び方に悩むと、亜沙美の隣に正座する麻美帝史という男は微笑んで言った。伏し目がちの為、俯いていると暗い印象を与えるが、顔を上げて微笑むとその印象は払拭される好青年である。
すると、台所からヤカンの沸騰する音が聞こえ、斎藤は席を立った。
斎藤の家は、借家とはいえ6畳の和室があり、そこへ二人を通した。台所は和室に隣接したリビングルームと対面する構造になっており、すぐに彼女はお茶の用意をする。
「すみません」
「いえ、いいんですよ」
お茶とお茶請けをおぼんに載せて斎藤が持ってくると、麻美は恐縮した。
「堅苦しい挨拶は最初だけにして、帝史さんのことをお話して頂けませんか? お仕事は何を?」
「……そうですね、医学研究者と言ってご理解頂けますか?」
「お医者さんとは違うんですか?」
「一応、医師の資格も持っていますが、企業や国家などの研究機関で医療技術の研究をするのが僕の仕事です」
「はぁ……」
「ほらお姉ちゃん、人工心肺装置とか、義手とか、ペースメイカーとかあるでしょ? アレもすごいけど、それでもまだ本物の臓器とかに比べたら不完全じゃない。それをより完全に近く実現できるようにする方法を研究しているのよ」
「へぇ……」
経営や経済の分野で才能を発揮し、同世代と比較すると一回り良い給与を貰っている程のインテリとはいえ、医学などは全くの素人である斎藤は、間の抜けた反応しか返せなかった。
「そういう事は、大学で働いているんですか?」
「大学の研究室を貸してもらって実験をすることもありますが、その大学の職員というわけではありません。僕自身は、医療技術向上などの研究を推進する組織に所属する形をとっています」
「組織に、ですか」
「言っておくけど、新興宗教団体じゃないわよ? 医師会やWHOに近い存在だと思って」
「成程……」
亜沙美に図星を突かれつつも、彼女の例を聞いて斎藤なりに、消費者組合や同業界連合などの組織を思い浮かべ、麻美の説明を変換した。
「とりあえず、大変なお仕事をされているんですね」
「そういわれてしまうと恐縮してしましますが、一緒に仕事をしている仲間にはノーベル医学賞の候補もいるので、仲間に支えられているという感じはありますね」
「ノーベル賞ですか!」
「そんなに驚かないで下さい。先駆的な研究をやっているので、必然的にそういう人材が集められるんですよ」
「とか言っているけど、この人だって、世界的に権威のある私立ジョンズ・ホプキンス大学医学部に通っていたのよ」
「よしてくれ、中退した不良学生なんだから」
「それは、今の組織にスカウトされたからでしょ?」
「まぁそうだが……」
麻美と亜沙美のやりとりを見ていて、斎藤はつい微笑んでしまった。麻美の身なりもキチンとしており、妹自身も幸せそうである。斎藤にとって、妹が幸せであれば、それで十分であった。
「是非、ノーベル賞目指して頑張ってくださいね。そして、妹を幸せにしてやってください」
「お姉ちゃん!」
「ありがとうございます!」
二人は顔を見合わせ、すぐに斎藤に土下座した。
斎藤は笑顔で、二人の頭を上げさせた。
「そういえば、亜沙美。結婚したら、麻美亜沙美になるのね?」
「僕も話したんですよ。アメリカでは英字表示ですから、アサミ・アサミですぐに覚えられる名前だって」
「もう、その話はいいって! あ、お姉ちゃん、笑ってるし!」
少しムキになって言った亜沙美に思わず、斎藤は笑った。
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1996年夏、東京都内喫茶店。
「睦月ちゃんの調子、大丈夫?」
「……うん。ちょっと免疫力とかが他の赤ちゃんより弱いみたいなのよ。……だから、生まれて半年以上経っても、病院から出られないのも、仕方のないことだわ」
第一子の出産以来帰国した亜沙美は、斎藤が聞くと答えた。
亜沙美とその夫の帝史の娘、睦月は出産以来、健康状態が優れず、病院からまだ帰宅できていない。その為、亜沙美達夫婦も日本に帰国している。
「仕方のないって、あなた。帝史さんも、世界中の最新医療技術を日本でも使えるようにする為の体勢を整える為に奮闘しているんでしょ?」
「そうだけど………やっぱり生むべきじゃなかったのかな? 生まれるべき命じゃないんじゃないかな? …って最近思っちゃって」
「なにを馬鹿なことを言っているのよ! 生まれるべきじゃない命なんてないに決まっているでしょ! それこそ、あなた、カトリック系でしょ? 命の尊さは私よりずっとよく理解できているはずよ?」
「そうだけど……。ううん、それだから……怖いのよ」
「怖い?」
「うん。お姉ちゃん! どうしよう、私、神様を怒らせちゃうようなことをしたのかもしれない。……だから、あの子は!」
「落ち着きなさい! 大丈夫! 睦月はきっと健康になる! 今だけの辛抱よ! 大丈夫!」
尋常じゃない動揺を見せた亜沙美の両肩を掴むと、斎藤は彼女に言い聞かせた。
少しずつ落ち着く亜沙美の両肩を撫でてあげながら、彼女は優しい口調で言う。
「亜沙美、あなたの責任じゃないわ。あなたも、出産以降ゆっくりと休んでないでしょ? きっとマタニティーブルーが今頃になってきたのよ」
「うん。………でも、お姉ちゃん。これから先、あの子を愛せるか、自信がないの。……私の子どもなのに、そうじゃないあの子を」
「なに馬鹿なことを言っているの。あの子は、睦月はあなたがお腹を痛めて生んだ子でしょ?」
「うん……」
亜沙美は弱々しく返事をした。そして、斎藤はこの日、妹を励ましながら、一緒に病院に向った。
しかし、彼女は後に後悔することになる。この時、もう少し深く妹の言葉の意味を聞いていれば、或いは別の未来が存在したかもしれないと。
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2003年2月14日、東京都内麻美家。
「でもよかったわね。無事に小学校も通えて。一時はどうなるかと思ったわ」
斎藤は亜沙美が出した紅茶を飲むと、部屋でプロック遊びをしている睦月を見て言った。
「そうね……」
「どうかした?」
「……ん? ううん、別に。主婦は家事とかで忙しいのよ」
異物でも見るような、感情の篭っていない眼差しを娘に向けていた亜沙美に怪訝そうな顔で斎藤は聞いた。
しかし、彼女は笑って誤魔化してしまった。斎藤の脳裏に、夫婦仲が上手くいっていないのではないかなどと勝手な憶測が浮かんだ。
「帝史君と、上手く言ってないの?」
「そういう……訳でもないけど、それも少しあるかもしれないわね」
「彼、仕事忙しいの?」
「うん、気がかりな事があるみたいで。ちょっと日本やアメリカ、ヨーロッパとかを忙しく飛び回っているみたい」
「そうなの……」
「そうなのよ。折角のバレンタインデーなのに、残念ね。……お姉ちゃんは今年、渡す人はいるの?」
「さぁどうだったかしら……」
「そろそろ、見つけなよ? 私が幸せかって聞かれたら、そうじゃないかもしれないけど、やっぱりそれを信じてみる価値はあると思うわよ」
「なにを言っているのよ。十分に幸せな家庭を築いているじゃないの」
「……そう、見える?」
亜沙美の表情が曇った。斎藤は夫婦仲以外の、何か大きな悩みを彼女が抱えているのだとわかった。
「一体、何を悩んでいるの?」
「………ねぇ」
「ん?」
「睦月ってさ、私に似てないわよね?」
「そうかしら?」
「そうよ」
「まぁ、女の子って母親に似ることの方がすくないっていうしね」
「でも、帝史さんに似ているわけでもないでしょ?」
「そう……かしら?」
「そうよ。………年々、似てきているのよ」
「誰に?」
「後藤真理」
「? 誰?」
「………ごめん、変な事を話しちゃったわね。やっぱり疲れているみたい。……お姉ちゃん、少し休みたいから、悪いんだけど」
「そうね。おいとまさせてもらうわ」
「ごめんね」
「いいわよ、気にしないで。ゆっくり休むのよ!」
玄関に歩いていきながら、斎藤は亜沙美に言った。
「うん」
「じゃあね」
「あ!」
彼女が玄関を開けようとした時、亜沙美は声を上げた。彼女の動きが止まる。
「………人は「神」になれないのかもね。あの子の未来も、アレと同じように………」
「え?」
「……ううん。やっぱり疲れているみたい。じゃあね」
「しっかり休みなさいよ! じゃあね」
斎藤は亜沙美に手を振ると、麻美家を後にした。
そして、この別れが妹との永遠の別れとなるのであった。
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「その日は、クローン羊のドリーが死んだ日で、亜沙美が事故で死んだ日よ」
「え、じゃあ……」
元紀が驚いて声を出すと、斎藤は頷いた。
「私が彼女と別れた3時間後、彼女は交通事故で、ひき逃げで死亡したわ。ちなみに、今も犯人は捕まっていないわ」
「………それは偶然の事件なんですか?」
「さあ、わからないわ。でも、少なくとも当初の私は、不幸な事件だと思った」
「当初?」
「妹の葬儀の為に、私が彼女の遺品整理をやったのよ。帝史さんも含めて、彼女達はアメリカでの事を話してくれなかったから、向こうでの暮らしの様子がわかったらいい。そんな気持ちでアルバムも整理していたんだけど、不思議な事にアメリカの写真は殆どみつからなかった。見つけたのは、他愛もない渡米当初のホームパーティーの写真や風景の写真。帝史さんとの写真は、観光地で撮られた記念写真だけ」
「写真を撮るのがあまり好きじゃないのでは?」
「はじめはそう思ったわ。でも、アルバムには故意に写真が抜き取られた後が沢山あったのよ。不審に思わない? それで、少し念入りに調べてみたのよ。すると、二枚重ねて入れてあった写真を見つけた」
「「………」」
「記念写真か何かだったわ。三人の男女が写っていた。妹と帝史さん、そしてどこかで見覚えのある女性。帝史さんは妹ではなく、彼女と仲睦まじげに腕を組んでいた」
「………」
「すぐにはその女性をどこで見たのか、わからなかった。でも、意外に写真や絵で見るとわかるものね。遺影用の写真を選ぶ為に、睦月の小学校入学の写真を見た時、気がついたわ。写真の女性は睦月に似ている」
「わかります」
同様に似顔絵で彼女達の関係に気がついた元紀は頷いた。
「でも、始めはその意味が全くわからなかった。偶然なのか、必然なのか。必然ならば、何故似ているのか。……当然でしょ? 男なら親が違うということが考えられるけど、睦月は間違いなく妹が産んだ子どもだった」
「それで、どうやって後藤真理のことを?」
「ナカムラさんが葬儀に来ていたのよ。帝史さんと話している様子で、アメリカでの知り合いだとわかったわ。そして、睦月を見た時、彼は目を見開いた。それで、彼は写真の女性を知っていると確信し、軽くカマをかけたのよ」
「カマですか?」
「えぇ。私が知っているのは、睦月と似た女性がいる事と、アメリカで帝史さんが組織で研究をしていた事、そしてその関係で亜沙美は帝史さんと知り合った事だけだった。でも、それだけでも一言、似てるでしょ? って聞いたら、後は彼が勝手に話してくれたわ」
「如何にも、部長ですね」
「ほんとに」
「まぁね。私は適当に話を合わせているだけで、次々に衝撃的な話を断片的ながらも知る事ができたわ。彼の名前は、マリオ・カルロス・ナカムラという日系ブラジル人で、ヒトゲノムプロジェクトにも関わっていた程の人物だった。そして、ある組織にも所属していた。固有名がその組織に存在するわけじゃないみたいだった、組織というよりもコミュニティーやネットワークと表現した方が近いイメージだった」
「目的などが同じで、各分野の知識人なんかが連携をとっている。大学のサークルとかみたいなもんでしょうね」
「えぇ。その都度、委員会や機構などを組織させて巧みに財源やメンバーの確保をしていたみたい」
榊原が解釈を言うと、斎藤は頷いた。そして、彼女は話を続ける。
「写真の女性の名前は後藤真理で、1990年に他界しているという事もわかった。その名前には、聞き覚えがあったわ。妹が死ぬ前に私に言いかけた女性の名前だったとはすぐに思い出したわ。そして、ナカムラさんは一度だけ、ボソリとクローンという単語を発した」
「「!」」
「妹の死でまともにニュースを見る暇もなかったけど、流石に耳にしてたわ。クローン羊ドリーが死亡したニュースをね。それで、すぐに理解できたわ。睦月はその後藤真理のクローンで、妹はそのクローンを生み出す器にしか過ぎなかったのだと」
「……むしろ、専門的な知識による先入観がなかったからこそ、すぐにその可能性を考えることができたんですね」
「えぇ。お陰で、その場で妹が時折睦月に向けていた冷たい視線の意味が理解できたわ。自分のお腹を痛めて生んだ子どもでも、自分とは血の繋がらない他人。妹は、ノイローゼになっていたんだと思うわ」
「同感です。……それに、さっきの写真の話、それと社長のクローンの話を知っている俺達からすると、社長の心にあった女性はずっと後藤真理であったと考える方が必然的ですからね」
榊原の意見に斎藤は頷いた。
「そうね。私も思ったわ。帝史さんは、愛する女性を失った悲しみから、その女性のクローンを妹という器に生ませた。そう理解した。それと、この葬儀の時に帝史さんが次に考えている事のヒントも存在していた。でも、私は気がつく事ができなかった」
「ヒント?」
「参列者の中に、考古学者の桐生篤之がいたのよ」
「え……」
「南極の「G」の発見者じゃないですか!」
「私も理系人間だった妹の参列者に考古学者ってことで違和感を感じたのよ。どうやら、帝史さんは大学で彼が研究している事に出資していたみたい。でも、「G」なんて知るわけもなかった当時、私はそれ以上深くは疑問に思わなかった」
「………課長、もしかして社長は初めから「G」という存在を知っていたんじゃないですか? 例えば、爾落人に会っていたとか」
「ありえる話ね」
「今なら、私も榊原君の意見に賛成よ。クローン動物は先天的な異常がある。睦月もその例外ではなかった。数年後の小学6年生の時に結核で生死を彷徨ったこともあるわ。それと、中学生の時には初期段階の癌が2度見つかっていて、入退院を繰り返しているわ。帝史さんが愛する人の面影を求めて睦月を生み出しのなら、当然救う方法を探す」
「そこで「G」の力か。……確かに、既に「G」と現代で呼ばれている存在を知っていたとすると、その存在に一番近い位置にいた桐生氏の研究に出資もするだろうし、すぐさま「G」研究の専門であるJ.G.R.C.の看板を掲げられるでしょうね」
納得したという様子で榊原は何度も頷きながら言った。
「……その組織というのは今?」
「随分と淘汰されて、必要な人材だけを残した形にはなっているけど、今も残っているわよ」
「本当ですか!」
「えぇ。その組織は今、J.G.R.C.と呼ばれているわ」
「「なっ!」」
「帝史さんは、組織を事実上乗っ取っていたのよ。もっとも、その組織の目的はどうやら「神」にも匹敵する存在に人類の文明を昇華させることにあったみたいだから、「G」はまさに適材とも言えたのだと思うけど。……そして、2010年の年明け、「G」と呼ばれているアレが発見され、帝史さんはナカムラさんをはじめとした組織のメンバーを引き入れて、J.G.R.C.を創設した。そして、私も経理関係の担当として入った。理由は当然、帝史さんが何をしようとしているのかを知り、それを阻止する為」
「………」
「J.G.R.C.創設までで私が知っている事はここまでよ。正直、組織に関しては私よりもナカムラさんの方が詳しいわ。それと、設立当初の帝史さんは、睦月の救う方法をサンプルを調べて探していたみたいよ」
「サンプルって……まさか!」
「なんて名前だったかしら、南極での調査に参加していた中国人の青年の姿をした「G」よ」
「噂は本当だったんですね?」
「でも、勘違いしないで、私が知る限りのことだけど、昨年に彼が行方不明になるまで、注射器一本すら刺してないわ」
「それは刺せなかっただけでしょ? ヒト「G」の中には、不変の存在と形容できるものもいるみたいですから」
「そうね」
榊原に指摘されると、斎藤は苦笑した。
「………さて、もう聞きたいことはない?」
一度思考の整理も含めて、料理に手をつけることになり、一通り皿を空にすると斎藤は二人に聞いた。
「まだ肝心な疑問が解決されていない事に気がつきました。現在、麻美睦月さんは「G」なのですか?」
「………そうよ」
わずかに沈黙をおき、斎藤は元紀の質問を肯定した。
「あれは2011年12月25日、クリスマスね。睦月はJ.G.R.C.の研究機関がある医療施設に入院したわ。……例の中国人が入院していたところよ」
「既に肉体が限界に達していたんですね?」
「えぇ。帝史さんも、最後の手段にかけるしかなかった」
「最後の手段?」
「偶然にも、同じ施設にその例が存在した。それで、彼も踏ん切りがついたみたい」
「それって……」
「人間の「G」化。能力者よりも爾落人に近い存在にする……いや、まだ俺達は爾落人誕生のメカニズムがわかっていない。或いは、それこそ爾落人なのかもしれませんね」
「えぇ。危険はあった。しかし、彼は少なくとも睦月を死なさない確信があったみたいだった。用いた「G」も、彼が用意したものだったわ」
「何を用いたんですか?」
「巻き貝の殻みたいな物で、その口から光帯がもれていたわ。とても美しいもので、名前も天羽衣と呼んでいたわ」
「あまのはごろも……」
「天女伝説や竹取物語で登場する天上人が空を飛ぶ道具ですね。静岡の羽衣伝説だと、松の枝に引っかかっていた羽衣を漁師の白龍が、羽衣から放たれる香りに誘われて見つけるんでしたね。そこへ天女が現れて返して欲しいと言ってきて、それで返す代わりに舞を踊って欲しいと交渉する話でしたね? 中々黒い話ですよ」
「榊原、詳しいな」
「高校時代まで静岡に暮らしていたんですよ。羽衣伝説のある清水の隣にある草薙って地域なんです。草薙の剣が奉納されているという草薙神社が近くにあるんです。だから、十握剣の話もすぐにわかったんですよ」
「成程ね」
「でも、今回の話に出てくる羽衣は竹取物語の羽衣に近いですね? 竹取物語では、月へ帰るかぐや姫が別れの際に、帝へ不死の霊薬と天の羽衣、帝を慕う心を綴った文を贈るんですよ。まぁ結局、帝はそれを駿河国の日本で一番高い山、つまり富士山で燃やしてしまうんですがね。愛する人のいないところで不老不死になっても意味がないと考えるんですから、彼も中々のロマンティストですよ。ちなみに、富士山の語源の一つにこの霊薬から不死の山となったという説もあるんですよ」
「本当に詳しいな」
「自由課題やグループ課題でよく扱ったので」
関心する元紀に榊原は誇らしげになる事もなく答えた。そして、続ける。
「作中の羽衣は、羽衣を着てしまうと、人の心が消えてしまうとかぐや姫は語っていたはずです。考えてみれば、皇室も天の羽衣を着る儀式がありますからね。天の羽衣には、人を人でないモノにしてしまう力があったと考えられていたのかもしれませんね」
「そうね。そして、帝史さんが用意した天羽衣はまさにその不死の霊薬と天の羽衣を一つにしたような存在だった」
一度斎藤は水を飲み、乾いた喉を潤すと、続ける。
「年が明けた2012年の正月。睦月の容態は急変して、一刻を争う事態になった。私も急いで向ったわ。私が到着した時には、睦月に天羽衣を身につける……融合させる事が決った後だった。既に反対もできない段階になっていて、私はただ見守ることしか出来なかった」
「「……」」
「まもなく、処置が始まったわ。外は天気予報通りに豪雨が降り始めた。雷も鳴っていたわ。そして、様々な計器類で慎重に睦月の容態を見ている中、天羽衣が睦月の背中に差し込まれた。……その瞬間、眩い光が睦月を包み込んだ。パソコンなどの測定計器類はその瞬間にショートして、処置室も停電した!」
「「………」」
「私は失敗したと思ったわ。睦月は死んだと思った。……でも、補助電源に切り替わって、部屋の明かりがつくと、睦月は生きていた。背中に天羽衣が融合した状態で、あの子は「G」として生きることできたの。……でも、それは本当の意味で生きている事ではなかった。それを知ったのは数日後」
「睦月さんの心が、なくなっていたんですね?」
「えぇ。時折見せる笑顔は睦月そのものだけど、笑顔以外の感情が睦月の表情から消え、発する言葉はなくなり、ほぅという声を発するだけになった。皆、絶望的な心境になったわ。……でも、一番最初に立ち直ったのは、意外にも帝史さんだった。彼は睦月の心を取り戻そうと独自に動き始めた。彼は何か希望があったみたいだった」
「……もしかして、ガラテア・ステラという爾落人に関連しているのではないですか?」
元紀が聞くと、斎藤は残念そうに首を振った。
「ごめんなさい。私はそこまでわからないの。でも、2月に入ると、突然今まで渋っていたアメリカに要請されていたガンヘッド実用化に同意したり、世界各地の伝説などを調べたりと変化があったわ」
「その年の夏に、北朝鮮にガラテア・ステラという女性が現れ、その後に韓国へ社長が向っているんです」
「……ガンヘッドとマイクロウェーブ照射システムに関することね。アレは突然彼が行くと言い出したのよ。目的がその人物かはわからないけど、彼は彼女が現れたとは確かに言っていたから、その可能性は高いわ」
「でも、なんでガラテア・ステラを知っていたのかしら」
「わからないですね。……社長は当時、他に気にしていた事はありませんか?」
「あるわ。一つは、蒲生さん、あなたよ」
「わたしですか?」
「あなたが言った、友人の名前」
「後藤銀河……あっ」
「そうよ。否応なしに後藤真理を彷彿される条件で、帝史さんが興味を抱かないはずがない。あなたの採用に関してはさっきも言ったように既にあの段階で決っていたけど、そんな事は彼にとっては関係がないことだったんだと思うわ」
「……自分のクローンが存在している事に気がついたのでしょうか?」
「そこまではわからないわ。でも、私が思ったのは、クローンとは違う可能性を考えていたみたいよ」
「違う可能性?」
「……俺が思うに、それは核心を突いていると思います」
「え?」
榊原の言葉に元紀は驚いて彼を見た。
「当時、社長は少なくとも、もう一人気にしていた人物がいたんじゃないですか?」
「そうよ。名前もわからないけど……、帝史さんは旅人呼ぶ人物の行方を追っていた」
「旅人?」
「多分、北朝鮮の革命に加担した人物として噂されている人物よ」
「サンジューロー?」
「そういう名前だったわね」
「その……旅人という人物を探したのが先なんですか?」
「もう随分前だからはっきりとはいえないけど、多分そうだった気がするわ。サンジューローの噂が出た時に、彼は旅人と呟いたのを覚えているから」
「……どういう事? 何で社長が彼を、サンジューローの名前よりも先に知っていたの?」
「どうしたの?」
混乱する元紀に怪訝そうな顔で斎藤は聞いた。代わりに榊原が答える。
「例の社長のクローンの姿をした「G」、後藤銀河という課長の友達こそ、そのサンジューローなんですよ。どうです? 混乱しませんか?」
「た、確かにそうね。なんで、その人物の存在を事前に知っていたのかしら。……蒲生さんがその方の名前を言ったのは、北朝鮮での一件の後よね?」
「そうです」
「……じゃあ、なんで帝史さんは事前に知っていたの? それとも後藤銀河って子のことを知っていたの?」
「多分、知らないと思います。下手をすれば、今も彼を自分のクローンだと認識していないかもしれません」
「榊原、何故あなたはそう平然としているの? それに、言ったわよね? もう一人、気にしていた人物がいたって」
「えぇ。課長は情報を持ちすぎているんです。そして、専務は客観的な情報に乏しい。……状況を整理していると、違和感を感じるんですよ」
「違和感?」
「まず、社長は蒲生村のクマソガミや南明日香村の十握剣で何を調べているのか。睦月の心を取り戻す方法とは何か。ガラテア・ステラとは何者なのか。そして、何よりも今の後藤銀河は何者なのか?」
「あ……」
「そうか。クローンは死んでいる。それなのに銀河は存在している」
「どういう経緯かはわかりませんが、今までの話で、後藤銀河という人物は突然蒲生村に現れている。勿論、「G」ですから、自然発生的に生まれた可能性もありますが、ちょっとここでそれはご都合過ぎませんか? それならば、この一連の話には後藤銀河という存在にかき消された別の人物が存在すると考える方が構図はわかりやすい。恐らく、ガラテア・ステラはその人物の意思で動き、社長はその人物に関する何らかを狙って動いている。どうです? それなら、構図が結構スマートになりませんか?」
「確かに……」
「榊原、その人物は旅人なのか?」
「えぇ。課長、この前お話を伺ってから、クマソガミについても念入りに調べさせて頂きましたよ。どうやら、太古の昔、クマソガミを封印したのは旅人と名乗った男だそうですね?」
「そうよ。でも、まさかその旅人が銀河なんて……」
「本当にそう言いきれますか? その人の持つ「G」の力、どんな能力なんですか?」
「心理よ」
「つまり、可視化できる力ではない。こうは考えられませんか? 太古の昔、クマソガミは強力な力を持つ「G」だった。しかし、旅人の力によって力を失い、封印された。そして、2005年に復活したが、力は殆どなく、同じ力を持つ後藤銀河によって消滅された」
「でも、銀河がそんな昔から生きていたなんて……」
「別に肉体だけが同じというだけかもしれあせんよ? いわば記憶喪失の状態になっていると仮定すれば納得できます。争いを鎮めるサンジューローとクマソガミを封じた旅人、その像は重なると思いますが?」
「………」
榊原に指摘され、元紀は押し黙るしか出来なかった。
「なんにしても、これでお話を伺えることは全て聞いたと思います。多分、言い逃れのない証拠を押さえて部長を追及すれば、社長が旅人やガラテアを追っているのかの理由もわかるでしょう。……専務、ありがとうございました」
席から立ち上がりながら榊原は言った。元紀もやや放心状態気味ながらも立ち上がる。
「待って! 蒲生さん、榊原君。帝史さんを、J.G.R.C.の未来をお願い!」
斎藤が言った言葉に、二人は振り返ると、黙って、しかし力強く頷いた。
2日後、榊原と付き添いという名目で部長のナカムラはアメリカへ渡った。