女神
紀元前1300年頃、エジプトは第19王朝初代ファラオ、ラムセス1世による統治の時代であった。
しかし、かつての偉大な軍人も老化には勝てず、国内外の状勢も次第に暗雲が立ち込みだしていた。
元々高齢であった彼は、自身のよき理解者にして親友の先代ファラオ、ホルエムヘブを失った悲しみと、腐敗しきっていた王朝の復興への苦労が追い風となり、王位継承から1年と経たぬ内に著しく老化した。やがて彼は自制心もなく、口からよだれを垂らし、独り言をいう老人になった。
人々は彼に払うべき敬意を怠り、再び王朝は腐敗し始め、陰謀が渦巻き始めた。
彼が祭事に現れた際にも、人々はその姿に嘲いながら言う。
「陛下を見ろよ。年老いて、骨は銀の様に柔らかく、肉は金の様に軟らかく、髪の毛ときたらラピス・ラズリの様に脆いぞ」
しかし、耳も遠くなっていた彼にはその言葉も聞こえない。
この醜態に神官達は心穏やかではなかった。ファラオの権威の喪失は、自分達の地位を危うくさせる為だ。
若き息子、セティ1世は老いた父に代わり、領地を狙う他国への軍事的対処を行った。
しかし、国内の情勢は悪化の一途を辿っていた。大地は衰え、人々は苦しみ、上下エジプトの各地で反乱が起こり始めた。
そして、遂に彼も反乱の鎮圧に奮い立ち、神官や部下達に助言を求めた。だが、誰一人として意見を出せる者はいなかった。事態はそれほどまでに絶望的であった。
その時、神殿に一人の男が現れた。男は髭を携え、両腕で血を流した娘を抱えていた。
「おお、神々の祖よ!」
ラムセス1世は男に言った。男は遠い昔にこの地に現れ、王位継承時にファラオへ神の称号を与える役割を担う人ならず者であった。そして、かつての偉大な軍人ラムセス1世は、この男に育てられた息子の一人だった。
「我が息子よ。この世界全体の秩序の為には、尚偉大であり、父よりも偉大であり、恐怖を与える存在である必要がある」
男は神殿中に朗々と響く低い声で彼に言った。
「だが、我が命は長くない。この老体では権威を奮うことはできません!」
「その心配は及ばぬ。その王座はなおも安泰だ。我が力、真理を持ってすれば、その眼を反乱者へ向けることもできる!」
男は彼に言った。男もまた、彼と同じ様に人々への怒り、憎しみ、そして失望を抱いていた。両腕に抱く娘は、男が拾い育てていた愛娘であった。しかし、この反乱に巻き込まれ、彼女は死んでしまったのだ。
ラムセス1世は男に賛同した。そして、男の力によって、男とラムセス1世は融合し、人ならざる者、『神々の王』となった。
『神々の王』は王座へと上がり、神官達の目の前で自らの左目を抉り取った。激痛に悲鳴を上げ、憤怒の情念を燃え上がらせながら、王はその恐ろしい情念を抉った眼に込め、娘の亡骸へ埋め込んだ。
刹那、娘は再生し、立ち上がった。空ろとなった左目を押さえ、『神々の王』は叫んだ。
「怖れるもののない力のパ・セヘメティ! 燃え立つ火炎のネルセト! お前の名は、セクメトだ!」
彼女はライオンの女神、セクメトの名前と、『神々の王』の力を与えられた。
セクメトはあたりに響き渡る、恐ろしい吠え声を上げた。
「人間共よ、私から逃げるがよい。しかし、何の役にもたたない。砂漠に、山に隠れるがいい。そして、怯えるがいい。私は復讐神にして、破壊神、血に飢えた死神だ」
怒髪天を衝く如き迫力でセクメトは言うと、上下エジプト全土へその力を揮った。
出くわした人間は片っ端から鋭利な爪で裂いて殺し、編成された反乱軍が差し向けられようと、瞬く間に一人残らず全滅させられてしまう。
彼女の荒れ狂う激情がもたらした破壊の跡が広がり、人々は逃げ惑うばかりであった。
毎日、彼女は盲目的な殺戮を続け、骨を断ち、肉を裂き、腹がはち切れる程の生き血を喉を鳴らして飲み、その味と自らの力に酔いしれた。
セクメトは毎晩『神々の王』の許へ帰り、血で染められた着衣を揺らして踊りながら、自身の勝利を誇らしげに語った。
「今日も向うところ敵なしで、皆殺しにした。血の海の中を泳ぎ、恍惚とした気分でその血を飲む。お父上殿、私にとって人間を殺す事は最高の幸せです」
神官達はその恐ろしい話を聞かされて表情を歪めるが、彼女は一切それを意に介さない。既に彼女の復讐心は制御不能となり、殺戮の虜となっていたのだ。
遂に、セティ1世は『神々の王』となった父に懇願した。
「父上、ここまでやれば民に嘲われたことへの仕返しは、十分にすんだのではありませんか? もうセクメトにやめるように言ってください。このままでは、父上の国が、この世界が滅ぼされてしまいます」
暫らくの沈黙を置いて、『神々の王』は口を開いた。
「賢明で優しき我が息子よ。我もこの様な血に飢えた行いはもう十分だ。王は慈悲深く、憐れみ、秩序を守るのが勤めだ。我が間違っていた。セクメトが来たら、もうやめるように言おう」
『神々の王』の答えにセティ1世や神官達は安堵した。
その夜、セクメトは体中を血に染めて神殿に帰ってきた。彼女は今夜も戦いの報告を幸せそうな表情で語った。
しかし、『神々の王』は眉をすぼめたまま、口を開いた。
「娘よ。我は怒りと痛みからお前を生み出した。しかし既にその怒りも痛みも鎮まってしまい、今は自らの軽はずみな行いを悔いている。どうかもう人殺しはやめて、我と共にいてはくれぬか?」
「偉大なるお父上殿、あなたはそのように意気地がなかったのですか? 雑魚共の弱腰で、お目が曇ったのではありますまい。もしそうならば、そろそろその玉座を降りた方がいい」
セクメトは予想外の父の言葉に驚き、口を開けた呆然とした表情のまま言った。今度は『神々の王』が驚いた。
「まさか! お前はそんな野心を抱いているのではないか?」
「お父上殿、違います。私は敵の血で喉の乾きを癒す方が性にあっている。お父上殿にご理解頂けなくとも、私は自分の振る舞いの正しい事がちゃんとわかってる。人間共を殺すのが目的でお父上殿は私を生み出した。だから、私は人間を殺すまでの事。お父上殿が弱気になられても、私を留めることは留めることはできません。なぜなら、それが私の生まれた意味だから」
セクメトはそう言い残すと、自らの姿を大蛇の姿に変えて神殿を後にした。
神殿に残された『神々の王』は娘の言葉に傷つき、そして娘を倒す決意を固めた。セティ1世や神官達に彼は言った。
「我が娘が始めたこの殺戮を止めるには、人間の娘達に協力してもらうしかない。生き残った人々をここへ集めるのだ!」
『神々の王』の命令はすぐさま実行され、神殿に沢山の娘が集められた。
集まった娘達に『神々の王』は命じた。七千杯ものビールを国中から集め、真っ赤な薬草から煮出した成分、柘榴の果汁、そして犠牲者達の血を加えさせた。こうして深紅に染まったビールは、本物の血とそっくりになり、朝日が空に満ちる前に七千杯のビールを神殿の前に置くように命じた。
荒れ狂った女神はその怒りと狂気を大蛇の姿に変え、上下エジプトは愚か、世界の全てを滅ぼす勢いで破壊の限りを尽した。
しかし、朝になるとセクメトは再び父の許、神殿へと戻ってきた。彼女は父の理解を得たかったのだ。その彼女の目に映ったのは、血の海の様に赤いビールが広がった光景であった。
セクメトは血の海に映った自身の気高くも美しい姿に見惚れ、やがてその酔いしれる様な香りに誘われて、ビールを飲み始めた。
あまりの美味しさに陶然となったセクメトは瞬く間に七千杯ものビールを飲みつくし、酔いつぶれて地面に倒れると、眠りについた。
神殿から現れた『神々の王』は、セクメトの胸に手を当てると、彼女を生み出した時と同じ様に力を使った。すると、彼が手をゆっくりと持ち上げるにしたがって、彼女の胸から剣が現れ、最後には剣を彼女の胸から抜き取った。
『神々の王』はセクメトに宿る怒りや復讐心、破壊神の姿、大蛇の姿を、剣にして封じ込めたのである。
目を覚ましたセクメトは、復讐の女神から王の守護神になった。
自らの行いに後悔した『神々の王』はファラオの地位を息子セティ1世に譲った。セティ1世の即位名は、『永遠なるはラーの正義』の意味であるメンマアトラー。
そして、『神々の王』はラムセス1世の身体を彼に返し、同時にその力も一部を残して別の剣と永遠回帰の象徴であるフェニックスに封じると、エジプトの地から旅立った。
そして、二本の剣は世界のどこかへ封印され、セクメトから抜かれた剣は手にする者に不滅の王の力を与えると伝えられ、その剣はいつしか呪われた聖剣と呼ばれる様になった。
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