本編




 銀河は宿のロビーに入った。日も大分傾き、彼の影が長く伸びる。

「只今戻りました」

 銀河の声がロビーに響いた。カウンターで音が立ち、秀吉の顔が現れた。

「すまん。待っている内に寝てしまった。……無事でよかった」

 秀吉はのそのそとロビーに出てくると銀河に近づいた。しかし、その足は止まり、露骨に顔をしかめる。

「うっ! 臭いぞ! 良く見れば、マントもドロドロに汚れているし………さっさと着替えろ!」
「は、はい!」

 銀河は慌てて奥に入ると、洗濯機に服をぶち込み、シャワーに駆け込んだ。
 帰宅道中、人々が自分を避けて歩いていた事をシャワーを浴びながら銀河は思い出した。

「……そういえば、大丈夫だったかなぁ?」

 髪を洗い流しながら銀河はふと呟いた。一度、軍関係者達に保護された銀河であったが、自分が違法就労者である可能性を知った時、色々な面倒が脳裏を駆け巡り、結果的に「G」の力を使って彼らから解放された。
 少し自分勝手な理由で「G」の力を使った事を後悔した。

「それで、輝香は?」
「え?」

 髪を拭きながらスタッフルームに戻った銀河に秀吉は聞いた。思わず、銀河は眉を寄せた。

「え、じゃない。輝香はどうした?」
「輝香さん、戻ってないんですか?」
「そうだ。あの子はどうした? 無事なのか?」
「無事なはずです。グエムルから輝香さんは逃がしているので」
「じゃあ、何故彼女は戻らない?」
「わかりません。……漢江から逃げる途中で何かがあったとしか」
「お前は何をしていたんだ」
「……グエムルと戦っていました」
「………」
「………」

 沈黙が二人に流れる。沈黙を破ったのは秀吉であった。

「この馬鹿者がぁ!」
「うがっ!」

 秀吉は思いっきり拳で銀河の頭を殴り飛ばした。ぶっ飛んだ銀河は頭をおさえながら、立ち上がる。

「グーで殴る事も……」
「黙れ! なんで怪物と戦ったお前が無事で、逃げた輝香が帰って来ないんだ!」
「そんなの知りませんよ?」
「知らんで済むか!」

 言い返した銀河を秀吉は更に殴る。今度は顎を殴られた。

「だから、グーは……」
「うるさい!」

 秀吉は顎をさすりながら、悲痛な声を上げる銀河に叫んだ。その瞳に涙が溜まっている。

「……グエムルはもう死んでいます。輝香さんは、きっと……帰ってくると思います」

 その銀河の言葉には確信めいたところはなく、全くとして秀吉の心理を動かす事はなかった。
 再び秀吉が拳を握り締めると、ロビーの扉が開く音が聞こえた。

「「!」」

 二人は顔を見合わせると、慌ててロビーに出た。
 期待に満ちた二人の表情は、ロビーに出た瞬間に落胆の表情に変わった。ロビーに浮かぶシルエットは、男性のものであった。

「その様子、輝香は帰っていないんですね?」
「え?」
「……その声、まさか?」

 逆光のかかる入口付近から二人に近づいて、来訪者の姿が見えた。
 彼は、金色の髪に黒いゴーグルをかけた男、イエローであった。

「貴方は、今朝のイエローさ……」
「正煥! 申正煥だな?」

 秀吉は目を見開いて驚いた表情のまま、言った。イエローは頷いた。

「お久しぶりです、お父上様。……確か、後藤銀河さんでしたね?」
「はい」
「イエローはコードネームです。本名は、申正煥と申します」
「わざわざ俺を連れ戻しに来た? いや、違う。輝香さんのお知り合いなんですね?」

 銀河が聞くと、申正煥は頷いた。

「俺は輝香の……元、恋人です」
「元って思っているのは、お前だけだ! 輝香は、今もお前の恋人でいるつもりだ!」
「はい。……手紙が届いて、知りました」

 正煥は辛い顔をする秀吉に、懐から取り出した手紙を差し出した。

「読んでください」

 秀吉は手紙に目を走らせる。そして、驚いた顔で正煥を見上げた。

「この手紙が、先程宿舎に戻ると残されていました。………本来は、ここに二度と来るつもりはなかったのですが」
「……この手紙に書かれているのは本当なのか?」
「わかりません。しかし、俺とあの男の顔が酷似しているのは事実です」

 正煥は俯いて言った。話を飲み込めていない銀河に、秀吉は手紙を渡した。
 手紙を受け取ると、銀河は文面を読む。韓国語で書かれているが、元々語学系が得意である銀河は、韓国語も一通り読め、内容の理解は難しいものではなかった。
 手紙に書かれている内容は、イエローの正体が申正煥だと差出人は知っているという事、正煥は隣国の朝鮮民主主義人民共和国最高指導者金日民の双子の兄である事、恋人である李輝香は現在共和国に向っている事、人質の輝香を返す代わりに、正煥に日民の影武者になれという要求が書かれていた。差出人の名前は、ガラテア・ステラとなっていた。

「このガラテア・ステラという人物は?」
「北の近衛に相当する護衛総局の護衛特別官という特別枠の役に就いている女性らしい。この人物は初夏に突然出現したらしく、情報が殆どないが、朝鮮人ではないらしい。聞いた話では中東系とも東洋系とも取れる顔立ちの美人で、相当な殺人技術を持ち、赤いスカートを愛用している為、赤い悪魔と言っていた」

 銀河が聞くと、正煥は知っている情報を話した。それを聞いた銀河は秀吉を見る。

「佐藤市という客は、今どこに?」
「まだ帰っていないが……、まさか! 赤いスカートをはく女性なんて幾らでもいるぞ?」
「タイミングがタイミングです! その人の宿泊カードを!」
「おぉ……」

 秀吉はカウンターの裏から宿泊カードを取り出した。正煥がそれを見て素早く電話をする。

「どちらへ?」
「外交通商部だ。佐藤市という人物が存在すれば、入国記録に必ず存在する」

 正煥は銀河に答えると、すぐさまイエローの名を名乗り、適当な理由をつけて佐藤市の入国記録を調べてもらった。

「ありがとう。………佐藤市という日系人は存在しない。偽名だ」
「パスポートには佐藤市と書かれていましたよね?」
「あぁ。間違いなく」

 秀吉の答えを聞くと、銀河と正煥は顔を見合わせた。

「どうやら、周到に計画されていたらしいな。……まさか、グエムルも?」
「いや、あれは偶然だろう? グエムルの混乱を用意できるなら、わざわざ偽造パスポートを用意してまで宿に潜入する必要がない」

 銀河は正煥に言った。彼も納得して頷く。
 秀吉が正煥を見上げて聞く。

「……正煥、お前はどうするつもりだ?」
「行きます」

 正煥は即答した。秀吉は頷いて、銀河を見た。

「後藤。すまないが、わしも正煥と一緒に北韓へ行く。少ないが渡せるだけの金を渡す。それで、次の地へ行ってくれ」

 秀吉が寂しげな目をして銀河に言った。黙って話を聞いていた銀河であったが、ゆっくりと顔を上げた。そして、首を横に振る。

「俺も行きます。どうやら俺も確かめなければいけないことができたみたいなので」

 銀河はカウンターに置かれた佐藤市と書かれた宿泊カードを見つめて言った。



 

 

「目隠しを外していいぞ」

 数時間もの間、目隠しをされて車の車内に座っていた輝香は、ガラテアの声に従って、目隠しを外した。
 周囲は日が落ちて、真っ暗になっていた。車は小さな港町に止まっているらしい。

「ここは?」
「詳しい場所は説明できない。一つだけいえるのは、ここは既に共和国であるという事かな」
「………そう」

 やがて車がゆっくりと動き出した。舗装されていない道路を走っているらしい。車内は激しく揺れる。

「明け方までに平壌へ到着する。どうせ夜間は星くらいしか見るものはないんだ。寝心地は悪いが、休んだ方がいい」
「………そうさせて頂くわ」

 窓枠に肘をついて、澄ました顔で星を眺めながらガラテアは言った。それは絵になる姿であり、輝香は思わず見とれた。
 目を瞑り、ポケットに手を突っ込むと、何かが手に触れた。ゆっくりと取り出すと、護符とお守りの人形であった。拾った護符をポケットに入れた際、人形を包んでいたらしい。輝香が紙を広げようとすると、ガラテアが彼女を見た。思わずポケットに仕舞い込む。

「何をしまったんだ? …あ、忘れていた。携帯電話などの通信機器は渡してもらおう。社会主義国家の特性上の理由なので、理解してもらう」
「……そうね。壊さないでね、写真のデータとか大切なんだから」
「ああ、わかった」

 輝香はポケットの中で、人形と携帯電話を持ち替え、それを渡した。
 ガラテアは電源が切れている事を確認すると、携帯電話を赤いスカートにしまった。そして、再び澄ました顔で窓の外を眺める。
 輝香は人形を握り締め、目を瞑った。
 彼らの上空には、満天の星が輝いていた。


 

――――――――――――――――――
――――――――――――――




 深々と雪が降る中、コートを着た女性が雪原の中を走っていく。

「正煥、日民。もう少しよ!」

 女性は振り返り、彼女の手に引かれ、必死に走る双子の子どもに言った。

「待ってよ、お母さん」
「もうヘトヘトだよ」
「あの木のところまでよ! 頑張って!」

 女性は気丈に言った。彼女自身も疲労は限界に達していた。食事も僅かしかない為、全て二人の子どもに与えてしまい、彼女は空腹になっていた。
 その時、子どもの一人が転んでしまった。雪原に突っ伏した。

「正煥!」

 彼女は慌てて振り返った。立ち止まったもう一人の子どもに彼女は木を指差す。

「日民、先に行きなさい。あの木の先で待ってて」
「うん」

 子どもは走っていった。そして、彼女は転んだ子どもを立ち上がらせる。

「もう疲れたよ……」
「頑張りなさい! 男の子でしょ?」
「でも……」

 愚図ってしまう子どもに女性は眉を下げて困ったという表情をする。

「そうだ。……正煥、はい」

 女性はポケットから人形を取り出すと、子どもに握らせた。手に握った人形を見て、子どもは聞く。

「この人形は?」
「プルガサリよ。悪い事を払ってくれる伝説の怪獣なの。……あの人が私を愛してくれていた時にくれた大切な宝物」
「?」

 女性は寂しげな目をして人形を見つめて言った。キョトンとする子どもに彼女は目を細めて言う。

「そのプルガサリが正煥を守ってくれるわ。だから、正煥も頑張って!」
「うん」

 人形を見て、元気が出てきた子どもは笑顔で頷いた。女性も微笑み、雪原を行こうとしたが、その足が止まった。

「お母さん?」
「黙ってて」

 彼女は子どもの口に手を当てると押し殺した声で言った。彼も理由はわからずも、黙った。
 彼女は姿勢を低くして、木の方角を見つめる。風が出てきて、吹雪始めた。はっきりとしない視界の中、木の下にいる小さな影の横に大きな影が立っていた。

「………」

 彼女は願った。影の主が自分の予想と違う人物であって欲しいと。
 しかし、小さな子どもの影と重なると、大きな影は叫んだ。

「大切な餓鬼はここだぞ! さっさと姿を現せ!」
「………正煥、ゆっくりと向こうへ行くわよ」
「? でも日民が……」

 子どもが聞き返すが、彼女は何も言わず、子どもと共にゆっくりと姿勢を低くしたまま後退する。

「餓鬼を見捨てる気か? 白状な母親だなぁ! おらっ、お前の母親はどこにいる?」

 男の叫び声と、続いて子どもの泣き声が雪原に響いた。
 彼女は振り返って、吹雪が完全に自分達の姿を隠した事を確認すると、子どもを抱きかかえ、全力で走った。
 その背後からは、子どもの泣き声がいつまでも聞こえていた。
 抱えられた子どもは母親の顔を見上げた。必死に走る彼女の顔は、泣き崩れていた。
 彼が知る限り、それが唯一の母親の涙であった。
6/15ページ
スキ