本編
風が冷たくなってきた。漢江の川原を歩く輝香は上着の前をとめながらそう思った。
土手を歩いている若いカップルが目に留まる。その二人が自分と正煥の姿に重なる。
思わず乾燥した下唇を噛んだ。そんな自分に過ぎった辛さという感情を振るう様に首を振ると、目に留まった売店へ向う。
「すみません?」
「………」
「……って、寝てる」
売店の番台に座る中年の男はいびきをかいて爆睡していた。輝香は呆れつつ、ホットのドリンクを手に取り、代金を彼の顔の横に置いた。
「お金、置いておきましたからぁ! ……ま、いっか」
輝香はドリンクを飲みながら、漢江を歩いていく。
丁度、彼女が橋の下に差し掛かった時、水際に人が集まって、なにやら騒いでいた。何となく、彼女はその人垣に近づいた。
「見たんだって! 動いたんだ!」
「暗くて見えない」
「コウモリとかじゃないか?」
「そんなんじゃない!」
一人の男性が橋桁の付根付近を指差して、数人の人々に対して主張していた。
輝香も彼が指をさしている方角を見るが、影になっており、何も見えない。
丁度橋に釣り船が近づいてきた。先ほどの男が声を張り上げる。
「おーい! 橋の下ぁ! 何かいないかぁ!」
「んー? なんだってぇ?」
船長が釣り船から顔を出し、大声で聞き返した。数人の釣り人客が橋の上を見上げてみる。
「橋の下だぁ! 何かいるかぁ?」
男は再度大声で橋を指差して主張した。
船は橋の下に近づいてゆき、船長を始め、釣り人達が橋の裏側を見上げた。
その時、橋の裏側から巨大な黒い影が雫が落ちるかの様に垂れ下がり、漢江の水面に落ちた。水柱が上がり、波紋は大きなうねりとなって釣り船を揺らす。
「……み、見たか?」
「見た……」
「……怪物」
人垣の中で、誰かが呟いた。グエムル、韓国語で怪物を意味する単語を呟いた。
そして、その言葉を聞いた誰もが、グエムルが何かを悟った。
「……「G」」
輝香は、その名を呟いた。皆、初めて目撃した「G」という存在、グエムルに衝撃を隠せず、呆然とする。
「逃げろぉー!」
立ち尽くしていた彼らを現実に引き戻したのは、釣り船の船長の声であった。釣り人客達も彼と共に、輝香達の近くの水面を指差す。
輝香達はゆっくりと足元を見下ろした。
「グゴゴゴゴゴ!」
「うわぁあああ!」
突然、川の中から巨大な口が現れ、大声を叫んでいた男性が続いて現れた前足によって川の中に叩きつけられた。その後、両生類の様なぬめりのある皮膚に日の光を反射させながら、巨体を水の中に戻し、失神して水面に浮かぶ男性に喰らい付いた。
グエムルは男性諸共、水底に姿を消した。濁った川の水に赤味が帯びたのを目撃した事で、切迫した危険を一同が悟った。
「きゃあぁー!」
「逃げろぉ!」
女性のあげた悲鳴と男性の声で叫ばれた、逃げろの一言で、淡々と事態を眺めていた人々は混乱に陥った。輝香もまた、同様であった。
次の瞬間には、人々は四方八方に、ただ逃げ惑っていた。
しかし、その不規則な混乱も、水面を切りながら川原に迫るグエムルの姿が現れた瞬間に、一つのベクトルに統一された。迫る危機とは逆の方角へと逃げる事に、生き残る為に逃げる事に、統一されたのだ。
「来たぞぉ!」
「うわぁー!」
「逃げろぉ!」
グエムルは悲鳴を上げる人々の行動を急き立てるかの様に、水中から前方宙返りをして、川原に逃げる人々を押しつぶして着地すると、逃げる獲物を追う肉食動物の本能赴くままに、輝香達を追いかけ始めた。
「グゴゴゴゴゴ…!」
グエムルの呻き声に似た咆哮が、彼女達に恐怖の鬼ごっこの開始を合図した。
グエムル出現の騒ぎは、警察や軍への連絡よりも早く近隣への広まった。
「漢江で怪獣が現れたぞー! グエムルが現れたぞー! 「G」が現れたぞー!」
川原からいち早く脱出した青年は、この情報を叫びながら逃げ去っていた。
「怪物が現れたんだと?」
「怖いわぁ」
「軍が何とかしてくれるだろうが、心配だな」
「離れた方がいいだろう。面倒に巻き込まれる」
「そうね」
人々はそんな話をしながら、漢江とは逆の方向へと歩いていった。
「………この地の人間も変わったな」
事なかれに歩いていく人々を見つめて、佐藤市は人の流れとは逆に、漢江へ向って歩いていく。
その一方で、青年は李の宿の前も叫びながら走っていく。
「おい! ちょっと待て!」
咄嗟に秀吉は青年の腕を掴んだ。青年は鬼気迫る形相で、彼を見た。しかし、秀吉は構わず聞く。
「今のは本当か? 漢江に怪物が現れたというのは?」
「本当だ! 俺は命からがら逃げてきたんだ! 今もグエムルは川原で暴れている!」
「漢江には輝香がいるんだ!」
「知るか! 俺は逃げるんだっ!」
青年は秀吉の手を振り払うと、再び叫びながら道を走り去った。
「……親父さん? 今のは?」
「漢江に「G」が出た。輝香が……」
「漢江にいるんですか?」
「あぁ……。助けに行かなければ!」
外へ出てきて聞いた銀河に、秀吉は鬼気迫った様相で答えると、漢江に向おうとした。慌てて銀河が彼を抑える。
「離せっ!」
「相手が「G」だとわかっていて親父さんを行かせるわけには行きません!」
「だが、輝香が!」
「俺が行きます! だから、親父さんはここで輝香さんが行き違いにならないように待っていてください!」
銀河は秀吉をロビーの中に引き戻し、カウンターへと連れて行きながら言った。
「携帯、借ります! 輝香さんが帰ってきたら、電話をしてください!」
「……わかった」
銀河に説得され、秀吉は了承した。それが、彼の力によるものなのか、それは今の銀河自身にとって、どうでもいいことであった。
銀河はカウンターの裏に置いていた自分の黒いマントを引っつかむと、それを羽織りながらロビーを出た。外に出た彼は、漢江に向って走った。黒いマントがはためいていた。
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「大統領! 王大統領!」
大韓民国大統領、王龍皇の執務室に国防相が入ってきた。
大柄な体格に彫りの深い口元の皺が印象的な王は、露骨に嫌な顔をしつつ、国防相に聞く。
「唐突に部屋に入るのではない。……それで、何があった? 北韓が攻めてきたのかい?」
王の笑えない冗談に、国防相は顔をしかめると、気ヲツケの姿勢を取り、王に報告をした。
「ソウル特別市内漢江にて、「G」が出現しました! 首都防衛司令部への緊急事態令、及び出動、統制を求めます!」
「………偶然とは恐ろしいな」
「ハッ!」
机に肘を突き、王は不敵な笑みを浮かべて呟いた。気ヲツケの姿勢を維持する国防相に、彼は令を伝えた。
「………国防相、発令する。漢江周辺への避難令を発する。首都防衛司令部には重要施設防衛、及び「G」への攻撃許可を下す。加えて、GUNHED開発部507試験部隊に遊撃出撃許可を出す」
「御意!」
「それから、口頭で伝令して欲しい。恐らく、これが世界最初のロボット兵器実戦投入だ。ガンヘッドに華を持たせろ」
「了解!」
国防相は敬礼をすると、素早く執務室を後にした。
王はイスに深く腰を埋めると、口に笑みを浮かべて呟いた。
「まさか、このタイミングとは……偶然とは恐ろしい」
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銀河が漢江に到着した時、既に川原は地獄絵図と化していた。
グエムルは駐車していた車両群を襲ったらしく、破壊された車とそれに巻き込まれた負傷者達が眼下に溢れていた。
「……クマソガミとは全く違うな。おい!」
「な、なんだよ!」
銀河は通りすがった中年の男の肩を掴むと、相手の当惑を気にせず、質問した。
「グエムルはどこだ?」
「あっちだよ! どけ!」
男は川原の先を指差すと、銀河を突き飛ばし、指した方角とは逆に向って走り去った。
「……よし!」
立ち上がった銀河は、川原で逃げ惑う人々と黒い巨大生物の姿を遠目で確認し、そこを目指して走り出した。
「輝香さーん!」
銀河は声を張り上げ、輝香を探しながら走る。
その最中、地面に頭を打ち付けて倒れる人や血で真っ赤に染まったライトバンなどが視界に入る。
仮に輝香が餌食になっていた場合、その判別は現状において不可能であろうと、銀河は思った。
「生きててください! ……輝香さーん!」
銀河は走った。人々を襲いながら暴れるグエムルは、動きの素早さに対して、移動距離自体はさして伸びてはおらず、その姿が銀河にもはっきりと見える距離に迫ってきた。
「うわぁあああ!」
男がグエムルの長い尾によって漢江へと投げ落とされた。水柱が立つ。
「くっ! 何人死ねば気が済むんだ?」
10m近くある黒い両生類の様な「G」に銀河は憤った。
その時、視界の中に見知った姿を捉えた。探していた輝香の姿であった。
輝香はグエムルの近くにいたが、今の隙に上手くグエムルの背後に回って逃げている所であった。
しかし、不運にもグエムルは反転し、輝香を含めた逃げ惑う人々の群れを追いかけ始めた。
「輝香さーん!」
「後藤さん?」
銀河は逃げ惑う人々の流れを逆走し、輝香のもとに駆け寄る。
そして、銀河はグエムルに向って身を翻し、驚く輝香を庇うように立った。
「早く、逃げて!」
「でも、貴方が……」
そうしている内に、グエムルは突進してきた。怪物は巨大な口を大きく広げ、銀河達に襲い掛かる。
銀河はマントの隠しから布で包まれた紙を取り出した。彼は素早くその紙を一枚抜き取ると、襲い掛かるグエムルの口先に叩きつけた。
「グォゴゴゴゴゴッ!」
刹那、グエムルは紙に弾き飛ばされる様に、苦しみながら後退した。
驚く輝香に銀河は冷静な声で言った。
「護符です。一応「G」を封じる方陣を書いておいているので多少の効果はありますが、倒す事はできません。俺がここを食い止めるので、今のうちに逃げてください」
「……貴方は、何者なの?」
銀河に促され、ゆっくりと逃げ始めた輝香が聞くと、彼は勇敢で優しい真っ直ぐな目をして答える。
「心理の爾落人。…いや、後藤銀河です」